ーーー凍窓は金色の陽を虹色にーーー
光は誰にでも見える物だがほとんどの人は日常の光に対しては無感覚なので、目の前に起る光の奇跡に感応出来る人と残念ながら感知も出来ない人がいるのは仕方の無い事実だ。
ましてや浄光は探求する者にしか見えない。
その要諦は大分以前に述べた止観(観るのを止める)と、観想(想い浮かべる)にある。
虚子の句「遠山に日の当たりたる枯野かな」では、文字通りの地味な寂しい景を思い浮かべる人が多いだろうが、暗鬱に沈む荒野の上で遠山の高みだけに浄光が差しているドラマチックな景を思う人もいる。
感応の次の段階の止観、観想とはそう言う事だ。
冬は陽光が希少なためにかえって光を感じ易くなる季節で、低い角度からの斜光は地の物を劇的に見せ、ただの枯草さえ神聖さを付与されたように輝く一瞬がある。
例えば末法の世の中世人がそんな荘厳な光に出会えば、移りゆく現世の儚さとこの景を永遠に留められる夢幻界の安寧がさぞ身に沁みただろう。
現代でも下の写真のような景は街中にありふれていると思うが、この光に観応するには10秒くらいは立ち止ってじっくりと眺める必要がある。
俗世では多忙で10秒さえ立ち止まれない人生の方が多いのだ。
こんな光景の前にぼーっと佇んで、世界の光と闇をじっくり観想できれば上等な人生だ。
光の探求者なら、この冷え枯れた景の中に荘厳な終末の光を見い出せるはずだ。
疫病禍に引籠るとも季節季節の中でささやかな喜びを見い出す暮しは変わらない。
光明は探せば常に身近にある。
大寒に入って朝の窓も凍りついているが、そこにも刹那に移ろう小さな光はある。
こんな日常の些細な光の美や浄らかさを深く味わえるなら、きっと豊かな人生を送れる気がする。
©️甲士三郎