もともと温暖な鎌倉では秋が遅く12月末まで紅葉が残るほどで、暦の上では立冬後の11月からが最も秋らしい景となる。
京都や各地の名所のような派手な紅葉は無いが、やや沈んだいかにも中世を想わせる寂光の秋色は隠者好みだ。
平安末から中世にかけては社会全般に末法の世の無常感が強く影響していて、無常感から閑寂の美へ、閑寂から幽玄の美への深化は必然の流れだった。
(秋篠月清集 玉吟集 桃山〜江戸初期写本 瑪瑙製癖邪 明時代)
定家と共に新古今集の撰者だった藤原良経の家集「秋篠月清集」と藤原家隆の「玉吟集(壬二集)」は、中世幽玄体の先駆けと言えるだろう。
淋しい悲しいと想いを直接歌っていた万葉集古今集に比べ、叙景の奥深くに想いを託した歌風となっている。
「雲はみな払ひ果てたる秋風を 松に残して月を見るかな」良経
「古郷は浅茅が末になり果てて 月に残れる人の面影」良経
「志賀の浦や遠ざかりゆく波間より 氷りて出づる有明の月」家隆
「逢坂や明ぼのしるき花の色に おのれ夜ぶかき関の杉むら」家隆
最後の家隆の一首なども、明方の桜色に染まる光の中に暗緑色の杉木立だけがまだ夜闇を纏っていると言う、伝統の古今調の詞を使いながら繊細な写生眼の行き届いた歌風が新鮮だ。
「広沢の池に宿れる月影や 昔を照らす鏡なるらむ」後鳥羽院
幽玄体の歌風は後鳥羽院が主導した新古今和歌集の時代から増えて来る。
そしてその新古今集や後に続く玉葉集風雅集を誰よりも高く評価しているのが本居宣長だ。
(美濃の家苞 本居宣長 江戸時代 色絵香合 明時代)
この「美濃の家苞」は宣長による新古今集の評釈書で、現代でもこれ以上の評論は無いほどの名著だと思う。
その宣長も絶賛する中世和歌界の最大のスターは、斎宮の巫女の式子内親王と鎌倉六代将軍だった宗尊親王だ。
「夢のうちも移ろふ花に風吹きて しづ心なき春のうたた寝」式子内親王
「日かげ(光)さす枯野の真葛霜とけて 過ぎにし秋に帰る露かな」宗尊親王
さらに忘れてはならないのが京から東下し鎌倉幕府の和歌と蹴鞠の指南役となった飛鳥井家初代の雅経で、源実朝はじめ我々東夷の和歌の祖師でもある。
「影とめし露のやどりを思ひいで 霜に跡とふ浅茅生の月」飛鳥井雅経
これらの玲瓏夢幻なる古歌に良き茶菓でもあれば、秋深む我が茅舎も自ずと離俗の歌仙境となってくれる。
ーーー末の世の雅の友を灯に呼ばひ 笛に呼ばひて野風狂ほしーーー
無常なる中世の秋の風情にはバロックのリコーダーやオーボエのコンチェルトなどがこよなく似合う。
古楽と共に近所の夕暮れの秋野を逍遥すれば、風間深くに旧き歌友の声さえ聞こえて来よう。
戦乱の終わった江戸初期には後水尾院を中心に華々しく王朝文化が復興される中で、わかる者にしかわからない幽玄体和歌は次第に忘れ去られて行った。
幾つかの中世歌学書にも、幽玄体は難しいので初学者は手を出すなとある。
幽玄体和歌が残ったのは意外にも「水月伝」「月之抄」などの兵法書や諸芸の奥義秘伝の中だった。
「吾とわが心の月を曇らせて よその光を求めぬるかな」上泉秀綱
柳生一門は沢庵和尚を師と仰ぎその兵法書にも古歌や沢庵の道歌を使っている。
「萩に露つゆには月を宿しつつ 風吹かぬ間を夢の世と知れ」沢庵
上記の「玉吟集」にもこの歌に近い作がある。
「露や花はなや露なる秋くれば 野原にさきて風にちるらむ」家隆
私も古人達に習い、本歌取りで中世風の夢幻歌を詠んでみた。
ーーー花に露宿れば露に花の香の 宿りて一夜夢を一つにーーー
戦後昭和の物質主義下では中世人の幽玄美も夢幻性も絵空事だと否定されたが、21世紀のエンターテイメントではどの分野でもファンタジーが一番人気となっているのだ。
アメリカでエミー賞18冠の大記録を作った真田広之監督のドラマ「将軍」は、全編に流れる幽玄な様式美が圧倒的に評価され、物語中のオリジナルの連歌(作者はベルギー人)もまた好評だったと聞き、この隠者も心から嬉しく思う。
©️甲士三郎