鎌倉の端山も少し奥に入れば、深山幽谷とまでは言わないがそれなりに山気は横溢している。
そんな静謐な山中で一編の詩句でも高吟すれば、我が若き日のロックバンドのボーカルをしていた頃の気力が戻って来るようだ。
高浜虚子も山口青邨も謡などは結構やっていた。
近年の疫病禍で恒例だった年末カラオケに集まれなくなった代わりに、永福寺跡の谷奥の山茶花の園にひとり来ての吟詠が慣習となった。
今日の吟詠のために和漢朗詠集を選んで来た。
今年は花付きが良過ぎるほど咲いている冬花の精達をバックダンサーに、歌って踊る隠者としては今年1番の大舞台だ。
やってみれば元々詩歌は活字で読む物では無く、謡い吟ずる事により魂を浄化昂揚させる物だと実感出来る。
だからこそ格調と韻律やリズムの切れが重要なのだが、活字を目で追い意味を理解するだけで十分とする現代には不要な物かも知れない。
山茶花の園の脇には座って休むにお誂えの倒木もある。
朽木には茸まで生えていて、BGMを聴きながらの読書にも良い場所だ。
曲はグリーグのペールギュントかシベリウスのシンフォニーがファンタジックな冬の景に合っているだろう。
そんな別天地で気分良く詩と音楽に浸っていると、あっという間に日暮れ近くなってしまう。
寒さが身に沁みて来たところで、帰っての一服のお茶の温もりが至福をもたらしてくれる。
家に戻れば画室の置き床に蕪村筆の芭蕉像が掛けてある。
「旅寝して見るやうき世のすす払」芭蕉句 蕪村筆
昨年一度紹介したが、この芭蕉の煤払の句は世界を浄化してくれる効果がある。
蕪村もそんなつもりでこの俳画を描いたのだろう。
この句を声に出して唱えるように吟じれば、我が夢幻界もまた清澄となる気がしてくる。
これから寒明けまでこの聖像と共に夢幻界に引き籠り、世俗を断ち詩書画三昧に暮せれば幸いだ。
ーーー磨れば減る古墨大事に冬籠りーーー
©️甲士三郎