鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

21 衣通姫の加護

2018-01-29 17:11:56 | 日記
我が探神院で衣通姫(そとおりひめ)をお祀りしているせいか、古語や和詞(やまとことば)がすんなり出て来てくれるようになった。
一応父が国文学者だったので若い頃から古典文学の史料は読んでいたが、歌の草案を練る時には現代語より古語の方が含みが多く、発想を深め易い。
古語和詞で詞の代案がすいすい浮かんでくれるのは、神話的な題材にとても助かる。
これはきっとうちの姫様の御加護に間違い無い。
なんと言っても和歌の女神、本朝三美人だ!
(前出 美神の祭壇 参照)

衣通姫絵姿 室町時代 探神院蔵

ところが。
古語は殆んどの人が読んでくれない。
和詞など、何と無く雰囲気はわかるよ、と言ってくれれば上出来だ。
そもそも現代語にしても、短詩を万人に理解してもらうのは不可能だ。
ならば作家にとって、ターゲットをどの層に絞るかが重要になる。
老、若、男、女、知識層、一般大衆、選者審査員。
いやいや、世俗の事はどうでも良い。
私には衣通姫ただ一人おわせば満足だ。
我、神と共にあり!
恐れるものは何も無い!
姫のお気に召す歌こそ至高である。

などと言いながら、一般に公開するブログではそうは行かない。

---紅を世から葬り去る雪が 天駆けて吹く山茶花の園---
この位なら一般の方々でもわかり易いと思うのだが。
姫様は………並の出来………はい。

古風な歌会では歌聖柿本人麿の像を掛けるのが通例で、衣通姫像は殆んど類を見ない。
玉津島神社からの画像流出も少なかったと思う。
姫の絵姿を当家にお迎え出来たのは僥倖であった。

©️甲士三郎

20 隠者の写真術

2018-01-24 06:14:01 | 日記
画家も文人も明治生まれの世代は皆和服だったので、肖像写真も様になっている。
かわって大正昭和初期生まれの世代は、敗戦で和服を捨てた。
私の父もその世代で国文学者だったが、どこに行くにもスーツにネクタイで貫禄がない。
遺影は身内の贔屓目で見ても、とても学者には見えない。
自分の遺影くらいは良い写真を撮っておいて欲しかった。
何でもネットに残る時代になって写真の重要性はかなり上がった。
以前、隠者装束の回で服装は取り上げたが、今回はその写真の撮り方をやろう。

隠者流は今の写真界でも比較的新しい、フィールドポートレートの手法だ。
スタジオポートレートは綺麗に装い、照明も凝ってポーズを決めて撮る。
フィールドポートレートはその人の家や仕事や散歩道など普段の自然体を撮る、海外のインスタグラムなどではお馴染みの手法だ。
始めに撮影場所を選ぼう。場所と言うより背景だ。
普段の行動範囲内でも探せばいろいろあるだろう。
色や光線、野外なら季節天候や昼夜などの時間帯に気を配ろう。
隠者流は光を最重要視している。
写真は同じ場所でも光線状態によって劇的に違ってくるのだ。
次にコスチュームの色などをを背景に合わせる。
最後に人物の位置や向き動きを考えて撮影だ。
機材は色々使うが自撮り棒は持っていない。
パソコンかタブレットで仕上げ、フォルダーに整理しておくのも忘れずに。

ファッションモデルの写真は、美しいがつまらない。
個性や人格が見えないからだ。
その点年寄りの肖像は、人格はともかく個性は出やすい。
また写真によって自己客観視でき、成るべき自分も見えて来る。
恥ずかしながら私の自画像には、まだ哀愁が足りない気がしている。
背景をより美しく人間をより哀しく撮れれば、自分の遺影に指定して心置き無く世を去れるだろう。

おまけで昨日の雪景 荏柄天神

一応私のブログ用機材を書いておく。
OLYMPUS PenF 12mm.25mm.45mm
Fuji. X70
PIXY
iPad Pro

病中に書き溜めた分が尽きたので、以後の更新は週一度程度の予定。

©️甲士三郎

19 猫と狐狸禅

2018-01-22 07:00:59 | 日記
---隙間から猫の手が出る遅日かな---

(猫の玩具 昭和三十年前後)
禅に壮絶な猫の公案があるので、簡単に紹介しよう。
師が弟子達に「山河や草木全てに仏性が有る。また山河草木に仏性など無い。これ如何に?」と問うた。
答えられなければ側にいた猫を斬ってしまうぞ、と弟子を脅す。
結局弟子達は答えられず、猫は殺されてしまう。
当時不在だった高弟が帰って来てそれを聞き、黙って草履を頭に被った。
師は「あの時お前がいれば、猫を斬らずに済んだのに。」と言った。
---冬深くカサコソ猫の紙袋---
答はいろいろある。
高弟が草履を頭に被ったのは、問いと猫は関係無い、ということを暗示している。
例えば弟子達で師を取押え、猫を逃して呵呵大笑すれば勝てた。
あるいは「問答無用!」と師を相手にせず、誰も居なくなってしまえば良い。
問い自体に価値は無いが、あえて答えるなら「有ると思う人には有る。無い時には無い。好きにしろ!」くらいだろう。
ただ、多分まともに答えようとした時点で不合格だ。
師が無理無体なら、弟子も無理無体で応じなくては。
禅は不立文字、決まった答は無いのだから臨機応変にやれと言う事だ。

(鼠大根図 室町時代 探神院蔵)
狐狸禅とはインチキな禅の事だが、正覚の禅より面白かったりする。
一休禅師より頓知の一休さんの方が親しめるようなものだ。
私の画業の出発点は、禅美術の障壁画に感動した所からだった。
我流の目での事だから、当然狐狸禅の類いだろう。
俳句でも昔は「俳禅一如」などと言っていた。
剣禅一如とか茶禅一如とか寄ってたかって有り難がった物だが、凡人が真面目にやればやるほど俗智に堕ちる。
上記の駄目弟子達と同じだ。
鎌倉は禅の都。
我が探神院は狐狸禅の巣窟。
猫と遊ぶには狐狸禅こそ相応しい。
---舌しまひ忘れて眠る仔猫かな---

©️甲士三郎

18 冬籠り夜話

2018-01-21 06:59:45 | 日記
---煌めいてもう動く物何も無き 聖属性の氷の社---

炬燵から外を眺めつつ思索に耽るって楽で良い。
元々鎌倉は避寒の地で比較的に温暖だが、病明けで皮下脂肪が薄く寒さに弱くなった。
生来の出不精に加え画業文筆業とも家に籠る仕事だから、冬に限らず年中引き籠りだ。
「引き籠り」より「冬籠り」と言えば何となく風流で、出不精の言い訳にはなる気がする。
寒くとも元気に寺社を巡る若い恋人達は見ていて微笑ましい。
同じ観光客でも、道いっぱい広がる団体の傍若無人さは………。
最近では鎌倉に雪が降るのは年に一度あるか無いかなので、降るとカメラと手帳を持って気合で家を出る。
雪の写真には明け方か夕暮が良いけれど、寒くて小一時間で根が尽きる。
画業としてはスケッチをしたいが、手が悴んで無理なのだ。

---年一度雪の夜にだけ現れる 我が少年の頃の街の灯---
こんな私でも純粋だった少年時代の記憶くらいある。
晩年になるほど尚更そんな暖かな思い出が無いと冬は越せない。
今の子供達にも詩嚢に残るような体験をして欲しいね。
「かくれんぼ三つ数へて冬となる」寺山修司
その時は分からなくても、大人になった時に詩的体験だったと思えるような。
大人になってしまうと感度がどうしても鈍る。

で、その少年が隠者にまで落ちぶれて詠んだ句がこれ。
---古き世の美人画掛けて冬籠り---

草紙洗い小町 冷泉為恭 江戸時代 探神院蔵
引き籠りには美少女フィギュア、冬籠りには美人画である。

©️甲士三郎

17 句歌錬金術

2018-01-20 06:41:46 | 日記
ご要望があったので、恥を忍んで我が句歌の草稿例を挙げてみよう。
私の場合、初案は殆どが稚拙なレベルで思い浮ぶ。
それを満足いくまで練り上げるのに、時には5分だが時には数年かかる。
それも失敗作の方がはるかに多い。
「錬金術は失敗しても楽しいよね!」 (ゲーム アトリエシリーズ)

(初案)---病みし眼に花みな潤む旅路かな---
花粉症や老眼でしょぼつく眼だが、ソフトフィルターがかかったように桜が綺麗に見える。
まあ、情感はあるが実体験そのままで誰にでも作れるレベル。
(次案)---老眼は夢の桜を探せる眼---
少しは面白くなって来たが、まだ語句に甘さが残る。
(完成)---老いし眼で夢幻の花を探す秘儀---
夢幻と秘儀の語調が響き、格が出て内容に不思議さも加わった。
現状の私の力量では一応完成。

こんな感じ。これで二年かかっているのが忸怩たる思いだ。
毎年花時になると思い出しては作り直していた。
初案で満足して活字に発表してしまうと、その句はそこで終わりだ。
何年でも練成を繰り返す気力と、より精妙な語彙の見通しが立たないと続かない。
こうなると案を練るより気を練ると言うべきだろう。
詩魂の錬金と言えば、ちょっとかっこいい。

詩句歌で、また作家個々でそれぞれの作風作法がある。
私の作法は意外と基本通りでつまらないかも知れない。
ことに短歌はずっと独吟独行なので、古今集時代の基本しか知らない。

(初案)---鎌倉の古き天地に咲き出でて 額紫陽花のうつつ無き色---
下の句が全然だめ。
私の歌は肝心の一語以外はすんなり出てくるが、その一語がなかなか。
(完成)---鎌倉の古き天地に咲き出でて 額紫陽花は仮の世の色---
仮の世なれば色に移ろふ。
これはぴたり嵌ったと思う。
最後の詰めの語句次第で、語順を入れ替えたり助詞を変えたりする事も多い。
この歌の結句は2~3時間後、忘れた頃にぽつっと浮かんでくれた。
短歌の入門書は中々お勧め出来る物が少ない。
殆んどが形式論と名作の列挙ばかりで、草稿や練成など実作の役には立たない。
ただ一つ古今集仮名序は是非読んでおきたい。
定家の歌論は現代でも自信を持って推奨できる。

ここまで読むと一見苦吟しているように見えるが、実は楽しく遊んでいるだけだ。
この弄くり回している過程こそが悦楽の時間なのだ。
どんな作品でも完成させる前までは、無限に良くなる可能性がある。
原稿の締め切り日さえ無ければいつまでも未完のまま弄っていたい。

©️甲士三郎