今年の彼岸はふたつの台風に挟まれ、前後の連休が台無しになった人も多いのではないか。
それでも我が楽園では幾本か倒れつつも曼珠沙華の花盛りだ。
ーーー嵐また嵐の間の曼珠沙華ーーー
黒揚羽が曼珠沙華の赤との強い対比を見せながら花間を舞っていた。
良く見れば嵐でだいぶ翅が破れ痛々しい姿で、それゆえ一層秋蝶の生命が鮮烈に感じられる。
ローマか何処かの伝説に、「戦死した兵士の魂は蝶になって故郷の花野に帰って来る」と言うのがあった。
蝶の中でも秋に残された黒揚羽はひときわ霊的な存在だろう。
ーーー伝説はかく我が内に宿りけり 嵐の後の破翅の黒蝶ーーー
庭と近辺の倒れていた曼珠沙華を取って来て、隠者好みの割れた壺に投げ入れてみた。
(古信楽壺 古鉄燭台 江戸時代 旅塵 初版 吉井勇)
本は吉井勇が戦時中各地を放浪していた頃の歌集「旅塵」で、物資不足の国情の粗末な装丁が返って勇の心情に適っている。
花入に使う古壺は必ず何処か傷や割れがなくてはいけない。
無常、もののあわれ、侘び寂び、ひょうげ、日本の美の枢要は古花入ひとつにも込められていて、野の花を入れれば直ちに観応し合う。
また谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で言うように、古器を観るには蝋燭の灯に限る。
秋の夜は正にこういった古器を傍らに物を想うのに最適で、隠者流観想術の奥義を繰り出すまでも無く夢幻界に移転できよう。
ーーー破壺と座せる灯影の秋深むーーー
秋の花や草の穂が出揃って来れば、毎日でも散歩や吟行スケッチなどにふらつきたい。
幽陰の残生を花と戯れつつ過ごせるのは幸いだ。
(茜富士 リトグラフ 奥村土牛 宗全籠 大正〜昭和初期)
先師奥村土牛の富士が、リトグラフとは言え遂に四季揃った。
師の絵に更に花を添えるのは蛇足だとは想うものの、野の花の明るさは師も喜んでくれるだろう。
この絵もそんな秋野の光の中に座って写生された物かも知れない。
秋の好日を近くの山野でバッハのピアノ曲でも聴きながらスケッチしたり詩歌を詠むのは、大した時間も金もかからずに大きな愉悦を与えてくれる。
どんな世情下であろうと、隠者はその程度の暮しで満足だ。
©️甲士三郎