鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

56 無月の苦吟

2018-09-27 14:58:27 | 日記
---光ごと月を抱きてうねる雲---(旧作)

(探神院の荒れた竹林)
昔から月は物語や詩の題材として沢山の名作を生んで来た。
遥かに想いを馳せる対象として、どこに居ても誰にでも見える月は格好の題材なのだ。
「雪月花の詩など、もう古い」と言う人達もいるが、人間の心は千年二千年くらいでそうそう進歩する物でも無い。
特に悠久の大自然に対しての感じ方は、唐の詩人も現代人も大差無いと思う。
二十世紀後半を振り返ると、芸術も科学技術と同じように進歩する物と言う驕りからか次々と新奇な物が出ては消えて行き、私の印象では全体的に二十世紀前半よりも収穫が少ない気がする。(二十世紀後半で圧倒的に良かったのはエンターテイメントやサブカルチャー方面だ)
結局芸術分野では高浜虚子の「新は深なり」「新より深」の言葉が正解なのだろう。
よって私の句も千年前と変らぬ古さだが御勘弁。
---滝裏の月の光に育つ苔---

鎌倉では十五夜の月が雲隠れだったので、代わりに什器で月夜を演出してみた。

(備前半月皿 黄瀬戸飯碗 古美濃花入)
無月の食卓に天地の造化を案じるのが、無為に生きる隠者らしくて良いだろう。
料理の方は上手な写真がネットにあふれているので私の出る幕は無いと思う。
まあ美食、温泉グルメ等にも飽きた者は、日常の簡素な茶飯事にこそ精神性を見出すしかない。

最近は星景写真と言って、綺麗な天の河や月星の写真がネットにも増えている。
私もちょっと行って試したのだが、湘南の海辺も光害が強くて大した物は撮れなかった。
仲秋の月もあいにくの天気で、私の写真も句歌も不出来でがっかりだ。
せめて十月の後の月に期待しよう。

©︎甲士三郎

55 半眼と機械眼

2018-09-20 14:22:38 | 日記
スマホのカメラのお陰か写真を撮る人が増え、SNSには世界中の素晴らしい作品が溢れている。
一方で実景には感動したのに自分で撮った写真にはがっかりと言う人も多いだろう。
そんな人はきっと眼は優秀なのに写真の技術が稚拙なところが原因だ。
技術は勉強すればすぐ身に付くが、心の眼やイメージを鍛えるのは難しい。

(半眼開唇のイメージデッサン 甲士三郎筆)
心眼と言うか世界を見据える眼を鍛えるには「半眼」から入ると良い。
半眼とは仏教で言う「半眼開唇」の半分閉じたような開いたような眼差しだ。
試しに薄眼で世界を見渡せば、ぼやけてディティールが見えない代わりに大まかな存在感がつかみ易く、現実に囚われずに想いも込めやすくなるだろう。
半眼で秋の灯の街角を滲ませて見ていると、若かりし頃の自分や親しかった人達まで現れる気がする。
こんな感じで世界の見え方が少しづつ違ってくる。

一方で現代のカメラはますます高精細になり、動画も4K画質が当たり前になった。
この秋カメラメーカー各社が競ってフルサイズの超高画質ミラーレスカメラを発売する。
そこに我が三美神から「機械眼を聖別せよ」との御告げが降った。
つまり「幻想を追うのは良いが、現実もしっかり把握しろ。その為には最新の高画質機を買うべきだ!」と、隠者の物欲が神懸かったのだ。
隠者の心の眼は世界を限りなく美しく捉え、カメラの機械の眼は濁世を克明に写し出す。
両者の眼を合せ持てば最強だ、と強弁しつつ今もネット上で各社カメラの聖別(性能比較)で楽しんでいる。

(二十世紀の名機、ハッセルブラッドとローライフレックス 著者蔵)
人間は全ての知覚の内、およそ七割を視覚情報に頼っているそうだ。
PCの操作で最もマシンパワーを必要とするのも、やはり画像情報の処理だ。
書類一枚分の文章と一枚の画像とを比べると含まれる情報量は桁違いで、文章よりはるかに膨大な視覚情報を人生の一瞬一瞬どう認識して処理してゆくか、といった能力はかなり重要なのだ。(念押しになるが単純な視力の話ではなく、視覚情報の処理能力の話)

©︎甲士三郎

54 聖獣達の任務

2018-09-13 13:31:21 | 日記
探神院は絵や古美術品があるために、残念ながらペットの猫や犬は飼えない。
代わりに古の聖獣達がいるので紹介しよう。
日夜鎌倉の鬼門から出て来る邪を祓ってくれている。

まずは一番若い江戸時代の猫神様から。

猫だから散歩が好きだが、外に出るとすぐに物陰や狭い所に潜り込むのでお供は苦労する。
つまり草葉や岩の陰に置いて、いろいろ撮影するのが面白い。
会津地方で江戸後期の木端仏と共に祀られていた可愛い木像だ。
---木の虚(うろ)に秋陽の溜まる猫の路---

次は明時代の文字通りの唐獅子で、当時の緻密な彩色がまだ残っている。

いつもは探神院の奥殿を護っているが、狛犬とかシーサーとか呼ぶと怒るので気をつけよう。
彼こそエリート中のエリート、中原の覇者、中華文明三千年の正統の守護者である。
要するにバリバリの大明帝国の中枢出身だから、狛犬(高麗)やシーサー(琉球)と一緒にするなと言う事らしい。
流石に姿形には気品がある。
台や段があると必ず上りたがる。
---段上に剥落の獅子天高し---

そして真打ちは最古参、漢時代の小さな辟邪(へきじゃ)。

二頭対で南門の隅に隠れて邪を見張っている。
元々は古代の度量衡の重りだった物で、二千年間を身を擦り減らしながらも生き延びて来た猛者だ。
---磨り減りて目鼻わからぬ聖獣よ 我去りし後の濁世を頼む---

常に何かと戦っている人にとって、父祖古人達の戦いにも参加して来た聖獣達は精神面で心強い先達となってくれるだろう。
この他に竜や鳳凰の模様が付いた器物は沢山あるが、単独で像になっていないと邪とは戦えないので省いた。
私の鬼門守護職の勤めも寄る年波なので、先行きを考えれば強そうな聖獣はもっと召喚しておきたい。
お勤めは彼らに任せて楽隠居だ。

©︎甲士三郎

53 楽園の惰眠

2018-09-06 14:00:33 | 日記
---秋風や行きし事なき隣谷---
幾分涼しくなった秋風の中、今日の昼餉は野辺でとろう。
近くの森や少し山に入った沢沿いなど、何箇所か隠者の秘密の庭がある。
文庫本と、パイプ椅子ではなく木椅子を持ち出すのが隠者の美学だ。

(お隣の永福寺跡の秋草)
と言っても目的地は近所に2〜300m行くだけだ。
やがて小径は以前にも話した仄暗い森にかかる。
古来から別天地への通過儀式には、魔の森や洞窟あるいは産道等の暗く困難な場所がなくてはならない。
ほんの数分で抜ける森だが、冒険気分を盛り上げるには欠かせない。

あるフォトグラファーが「色々な物を見るより、一つの物をどう見るかだ」と言っていた記憶がある。
上の写真の実景はどこにでもあるような平凡な場所だが、「仄暗い森」と言うイメージさえ見えているならこの写真にPCでもう少し青味を加えて幻想的にする事も、または明るい暖色系に仕上げる事も出来る。
そういった現実から幻視へ至るイメージ作りも、例の止観(観るのを止めて想え)の一技となる。
上級者なら空間色や木々のディティールまで、確固たるイメージで具現出来るだろう。

この森を抜けてちょっと登ると我が楽園に辿り着く。

秋の柔らかな陽射しが降り注ぐ高台は、持って来た木椅子の読書にうってつけだ。
隠者の清貧な食事の内容は省くが、樹下草上での昼餉に食後のお茶を飲みながらの読書は、旅の吟遊詩人にでもなったようで楽しい。
このミューズの園のような別世界に合う本は、中世騎士物語のパーシヴァルを選んだ。
BGMはネッラファンタジアで始まるサラ ブライトマンのプレイリストだ。
誰もいないのでイヤホンではなく、ミューズ達にも聴かせるべくiPadのスピーカーから出力。
サラの歌声と虫の音に、ついうとうとして来る。
こうして昼休みの小一時間、秋風に吹かれつつ安寧に浸ってきた。

夢うつつの中でも詩魂を忘れないのが隠者だが、楽園での惰眠は最優先事項なので歌詠みは夕方の買物がてらになってしまった。
---省みよ過ぎ来し路は鳴く虫の 声に埋まりて不帰(かへらじ)の闇---

©︎甲士三郎