鎌倉の隠者

日本画家、詩人、鎌倉の鬼門守護職、甲士三郎の隠者生活

121 聖域への落葉道

2019-12-26 13:09:00 | 日記

人影の途絶える年末の北鎌倉は、中世鎌倉の幽玄さを味わうのに良い。
お薦めのルートは北鎌倉駅〜東慶寺〜浄智寺〜巨袋坂切通〜海蔵寺〜寿福寺〜鎌倉駅のコースで、落葉積む山中の苔むした石造物ややぐらに無骨な中世の幻影を見る事が出来る。
ただし正月になるとこの道も観光客で溢れるので避けたい。

今回はまず東慶寺近辺の遺跡を紹介しよう。

北鎌倉山中の東慶寺は陽当たりの悪い北斜面にあるので、紅葉も落葉も遅く12月の後半が見頃だ。
駈込寺として有名なので常時混み合っているが、年末はさすがに観光客は少ない。
また我が探神院の直ぐ前山が大塔宮護良親王の首塚で、その宮の供養の為に後醍醐天皇の皇女が東慶寺庵主となったので、我家とも多少の縁がある気がして毎年今頃に詣でている。

私はたいてい本堂と宝物館は素通りで、奥山の小径をゆっくり楽しむ。
ここまで来ると大観光地として俗に塗れた八幡宮や鎌倉大仏とは全く違う、宗教の霊地としての清浄さが漂っている。

木立が深くなる所から奥津城となっていて、名を知る鎌倉文士達の墓も多い。

山中の落葉に埋もれた石段をしばらく登ると、大銀杏の立つ開けた高台に辿り着く。
そこは歴代庵主であった姫皇女(ひめみこ)達の供養塔が並ぶ聖域で、取分けこの時期は銀杏落葉の散り敷く静寂の別天地となっている。

誰も来ないこの聖域でぼーっと夢幻に浸っていると、銀杏落葉が仄かに明るんで黄金の寂光を放ち、周囲の石造物や岩倉の武骨さと相まって中世鎌倉へ移転した雰囲気になる。
隠者はしばし此処に座して持参の茶を飲み古い宗教曲でも聴きながら、師走の俗世の慌ただしさとは隔絶した別世界の冬を堪能するのだ。

ここのように周囲の風景や環境が良いと、誰でも精神世界に自然に入って行き易いだろう。
我が楽園の中には所々こんな遺跡が散らばっていて、好きな時に現世と過去世を往還できるのが嬉しい。

©️甲士三郎

120 静謐の冬紅葉

2019-12-19 14:11:00 | 日記

鎌倉は避寒避暑の地で温暖なので、紅葉は12月に入ってからだ。
山は植林されていない自然の雑木山で、古い大和絵に見るような木々の色になる。
有名寺社でも極月は観光客も途絶え、静謐な紅葉を楽しめるのでお薦めだ。
立冬後ひと月以上もたっているので紅葉も今更の感があるが、歳時記には冬紅葉と言う都合の良い季語がある。

語感としては錦秋の絢爛たる紅葉と違って、季節の名残の寂しさを含む冷めた色合いの紅葉だ。
薄れ陽を纏いひっそりと佇む冬紅葉には、何かしら宗教的荘厳さが感じられる。

散り敷く落葉にも華麗な色合いは無く、山河も乾いた冬色の中に僅かに残る葉がぽつぽつと暖色を点じる。
オールドネガカラーのようにやや色褪せたノスタルジックな空間色が、孤独な散歩道に深い情感を加えてくれるのだ。

晩秋から初冬の枯山河を薄日が照らす光景は楽園浄土の終末を暗示して、静寂かつドラマチックな実に隠者好みの世界となる。
これが完全に枯れ尽くして雪でも積もってしまうと返って鮮烈な美しさや春への期待感が出てきて、終末観とは違う感じになるのが不思議なところだ。

隠者生活の要諦は俗事を離れ、より深い精神生活を送る事にある。
世人はよく誤解するが、釈迦も言っているように苦行は何の役にも立たない上に害悪でさえある。
むしろ身辺に楽園浄土を見付け出し、人生をより楽しむ為に色々思索するのが正道なのだ。

冬枯れの散歩道、名残の紅葉、薄れた冬陽、こんな世界の地味なディティールまで味わい愛しめるようになったら一人前の隠者と言えよう。

帰り道にはもう鎌倉宮の灯籠に灯が入って、冬紅葉の冷めた感じの赤を照らしている。

---灯に寄りて色を温めよ冬紅葉---

©️甲士三郎

119 冬籠りの薔薇

2019-12-12 13:01:00 | 日記

我家の庭はこの時期の花は乏しく、花屋でもクリスマス飾りばかりで良い花が見当たらないので、前回の写真もドライフラワーを使った。
一方で薔薇は一年中売っているので取り敢えず飾るには重宝するが、季節感を考えれば同じ薔薇でも冬はドライフラワーが良い。
また乾燥ハーブや木の実を吊るして飾るのも、冬籠りの感興が深まる。
昔の収穫後の農家の趣きで、芋や根菜も飾になる。

ゲーム オブ スローンの「Winter is coming」には恐ろしい危機感が含まれているが、日本の季語の「冬深む」などには東洋哲学的な老成感がある。
現代人には冬仕度とか冬籠りなど縁遠い物になったが、隠者は断然冬籠りする。
本や映画や音楽を山ほど買い込んで、ぬくぬくと過ごすのだ。
ぬくぬくと言っても私の暖房設定は17度なので暖まる飲物が欠かせない。
人により好みの酒類や各種のお茶珈琲を溜め込んで並べるのも楽しいと思う。
そう言った季節に花だけは足りないので、年中同じような花屋の薔薇も大いに飾って楽しみまた乾燥させて更に楽しもう。

写真中央の瓶のピコンはナポレオン軍の薬用酒で、糖質制限の隠者は時々舐める程度に嗜んでいる。
主成分は苦竜胆の根だそうで、これは源氏の紋章の笹竜胆にも通じて親しみが持てる。
酒精が糖類ゼロの缶チューハイだけではあまりに情けないので、冬籠りに舐めるくらいは御勘怒頂きたい。

我家は幸いに冬でも鳥や栗鼠が訪れてくれて飽きない。
聖フランチェスコはいつも小鳥達と戯れていたと聞くが、清澄な花鳥達の楽園を心底愛しんでいたようだ。
日本人にも花鳥浄土のイメージが根付いていて、古来から綿々と冬でも花咲き鳥が歌う楽園を夢想して来た。

楽園や浄土への到達は言わば人類の究極の目標なのだが、真冬でも暖房の中で生き生きした薔薇がいくらでも飾れるようになった現代人の、真に目指すべき楽園はむしろドライフラワーの側にある気がする。
冬枯の今こそ理想の楽園を熟考するのに最も良い季節だ。
冬に現物の薔薇を咲かせるのでは無く、冬は夢幻の薔薇こそ咲かせるべきなのだ。

©️甲士三郎

118 夢窓の冬陽

2019-12-05 14:37:00 | 日記


(ピューター水差 オスマントルコ 17世紀)
冬枯れの庭から薄陽の差す窓辺には、ドライフラワーが似合う。
透過光が枯れた薔薇に今一度の輝きを与えてくれる。
そこでぬくぬくと珈琲に静かな音楽で中世の隠者の暮しなぞ想い起こしていると、現代人の精神生活に何が足りないのか良くわかってくる。
寒さと温もり、荒廃と美が交錯する中世の厳しい生活環境の中では、自然の恩寵に対しても今より遥かに敏感になれただろう。
現代生活の暖房の効いた窓の中と、中世と変わらぬ窓外の自然界の落差が夢幻を誘う。

今回の題の「夢窓」は我家の近所にある瑞泉寺の開山、夢窓国師から頂いている。
国師作と伝わる岩窟庭園(昨年既出)は私が鎌倉で最も好きな場所なのだが、近世の出鱈目な普請で庭園周囲を台無しにしてしまった。

(国師を祀る堂の窓)
国師もきっとここや京都の天竜寺庭園のような禅の理想郷や花鳥浄土の具現を、常々夢の窓から観想していたのだろう。
殊に厳しい現世の冬枯の景の中で夢見る、真冬でも花が絶えず鳥達が歌う浄土の景は美しかったろう。
---茎捩り葉を枯らし咲く寒菊に 薄き陽の差す浄土の跡地---

この夢幻界に開く窓の外には冬の菊が殆どの葉を枯らしながらも健気に咲いて、修行の慰みとなっている。

花屋では一年中瑞々しい仏花用の小菊を売っているが、夢幻の窓下に咲く事を許されるのはこの枯れかけた寒菊の方だ。
夢窓国師の抱いた浄土のイメージを全く理解出来ず庭園も伽藍配置もめちゃくちゃにしてしまった現代に、寒菊だけが枯浄土の夢を象徴している。

©️甲士三郎