100年前頃の古き良き時代の詩論歌論の書を読むと、如何にも生真面目な青年達が情熱を注ぎ込んでそれぞれの持論を闘わせているのが好ましい。
大正〜昭和初期は日本の詩の青春時代と言っても良いだろう。
隠者は口語自由詩はあまり好みではないが、詩論としては興味深い本が沢山ある。
(詩論と感想 純正詩論 日本への回帰 初版 萩原朔太郎)
詩論書の中ではこれらの萩原朔太郎の書が最も真っ当な論になっていると思う。
文芸論争をひとつのドラマとして眺めるならば、まずは朔太郎の口語自由詩論を基準点としてその周囲の諸論を読むのがわかり易い。
「月に吠える」「青猫」などの詩中の語り口とは全く違い、思考が整然と展開されているので理解し易い。
彼らを中心に繰り広げられた文語定形派との華麗なる詩論の闘いは、文芸論争など全く無くなってしまった現代から見れば羨ましいほどだ。
日夏耿之介は言葉の錬金術師と言われ、後の自由詩には大きな影響を与えた。
古の錬金術その物は何も生み出せなかったが、後の化学の発達には多大な影響を及ぼした所が良く似ている。
(黄眠文学 文学詩歌談義 初版 日夏耿之介)
耿之介の詩集「呪文」や「黒衣聖母」は、現代のラップミュージックの歌詞などにするなら最上の詩だと思う。
彼の詩論文芸論の方はその狷介さの極みのような言い方が痛快に思える人にはお薦めできる。
彼の自分以外の詩作品を見る眼にはまことに確かな物がある。
正統派の古典からオカルトまで古今東西の文学に通じていて、その博学ぶりには恐れ入るばかりだ。
朔太郎や西條八十らとも仲が良く、同人誌なども共にやっていた。
詩論はちょっと脇に置いて、先日の日曜はいわゆる後の月で満月だった。
9月の中秋の名月が熱帯夜だったので、今後は10月の満月で中秋の宴をやろうと決めた。
(月の句画讃 井上士郎)
井上士郎は江戸後期の俳人で、国文学をやっていた我が亡父が同時期の小林一茶より断然良いと評価していた。
私は士郎の書画の方も気に入っていて、池大雅の筆法にも似た芒洋とした大きさと強靭さがある。
「よろずよや山のうへよりけふの月」
未来永劫名月はこの山の上から出ると言う句だ。
この句も虚に居て実を成す風があり夢幻世界の月になっている。
気候変動でひと月ずれた中秋の宴にふさわしい軸だろう。
鎌倉は12月初旬までゆっくりと秋が深まって行くので、あと数週間分はこうした文芸論華やかなりし頃の本で深秋を楽しもうと思っている。
©️甲士三郎