昨日、古都奈良に一人で行ってきました。
青春18きっぷの最後の一コマを消化するので普通電車での奈良行きです。
6時1分浜松の始発電車で出かけましたが、浜松の始発って遅いんですね。乗る人はまずまず多めでした。
米原行でしたので乗ってすぐ睡眠の時間になりましたが名古屋付近まで寝ていました。米原から姫路行に乗り換え京都で奈良線に乗り換えです。この奈良線のうんちくを一つ言わせていただきますと、奈良線と言う名前がついていますが奈良線は奈良県を通っていません。(電車は殆ど奈良まで行きます)奈良県境の京都の木津までが奈良線でその先は関西本線になります。従って奈良の方に行くというのが正しいのでしょうか。
奈良に10時48分到着。もう少し早く着きたかったです。
奈良駅到着。高架された現代風な駅舎です。
その隣に先代の奈良駅舎。観光案内所になっていました。
観光案内所で資料を仕入れて出発します。
三条通りを歩いて行きますが、中学の修学旅行でこの道沿いにあった旅館に泊まったと思います。名前は忘れてしまいましたがもうなかったような気がします。
猿沢の池の畔にでてお決まりの興福寺参拝コースの始まりです。
興福寺
猿沢の池の向うに興福寺五重塔。お決まりのシチュエーションです。
猿沢の池の周りを約半周して興福寺に向かいます。奈良には何回も来ていますので興福寺もかなりの回数来ています。五十二段の階段を登ると目の前に国宝の五重塔が現れます。
この興福寺ですが法相宗の大本山で、藤原鎌足の死後の幸福のために建てられた山階寺が、飛鳥に移されて厩坂寺となり、平城遷都で移建されたと伝えられていますが、実は鎌足の子不比等の発願で氏寺として創建されたものです。
今は特別公開という事で五重塔と三重塔の中を公開しています。せっかくですので入ってみました。
五重塔は各方向に釈迦三尊像(東)阿弥陀三尊像(西)釈迦三尊像(南)弥勒三尊像(北)が配置されていました。
興福寺のシンボル的存在の五重塔です。国宝
南大門跡。
南円堂。(重要文化財)
西国三十三所観音霊場の第9番札所です。
三重塔。国宝
こちらも特別公開で中の弁才天坐像を見てきました。
興福寺に何回も来ているのですが、三重塔を見たのは初めてでした。北円堂と共に興福寺内で最古の建物です。
北円堂。国宝
日本に現存する八角円堂で最も美しいとされています。
東金堂。国宝
堂内に薬師如来に日光・月光菩薩(いずれも重文)文殊菩薩像、維摩居士像、四天王像、十二神将象(国宝)が安置されていました。
東金堂と五重塔を一緒に仰ぎ見るといい絵になります。
国宝館
ここには数えきれないほどの貴重な文化財が保存されています。
有名な像としては千手観音像や阿修羅像など誰でも知っている絵画や像が安置されていました。
鹿も散策のアクセントになってくれていました。
さて、この後は東大寺方面に向かう訳ですがその前に奈良県庁に寄ってみます。
県庁の庁舎の屋上が解放されていますので、ちょっと高い所から奈良の町を見渡す事が出来ます。
奈良県庁屋上
南側 興福寺五重塔は目立ちますね。
東側には東大寺大仏殿が見えます。
西側には生駒山系
平城宮跡、第一大極殿も確認できました。
ちょっとした隠れたスポットですね。
さて、これから東大寺に向かいます。
東大寺
修学旅行生の数が目立ってきました。ここは修学旅行のメッカですからね。コヤチンも中学の修学旅行は京都奈良でした。
定番の南大門から入って行きます。
南大門 国宝
天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊して、現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構であると言えます。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣工。入母屋造、五間三戸二重門で、ただ下層は天井がなく腰屋根構造となっています。
金剛力士像 国宝
阿形像は大仏師運慶・快慶が小仏師13人を率いて造立し、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人を率いて造立したものです。
中門とその回廊 重文
さて何年振りかで大仏殿の中に入って行きます。
大仏殿 国宝
いつもながらこの大きさに驚かされます。創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建され江戸期には柱とする材が調達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱としたので、創建時に11間(けん、86m)あったが7間(57m)となったという事ですので創建時の大きさって凄かったんですね。
八角灯籠 国宝
盧舎那仏像 国宝
いわゆる奈良の大仏様です。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部であるようです。
ここも何回か来ていますが、子供が小さかった頃柱のくぐり抜けを喜んでやったのを覚えています。何カットも写真を撮って行列が長くなったのでしょう「写真は一人1枚」って書いてありました。
恥ずかしながら今まで東大寺ってここまでしか来ていませんでした。これからはコヤチンにとってディープな東大寺に入って行きます。
戒壇堂 奈良県重文
754年(天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立しました。
大仏殿の裏手に池越しに大仏殿を望めるところがあります。人ごみが無くて何か落ち着きます。
ちょっと歩いて行って離れた所にある国宝を見に行きました。
転害門 国宝
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門で、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構です。鎌倉時代の修理で改変されていますが、基本的には奈良時代の建物です。

正倉院。ここは宮内庁の管轄になっています。何故か土日休日は中に入れません。
ここから大仏殿の裏を通って二月堂方面に行きたいと思います。今日の天候はかなり暑いので、体に堪えます手持ちの水筒のお茶が枯渇して来ました最大のピンチ。
こんな風情のある土壁の通りを通りますがちょっとバテ気味。
二月堂が見えてきました。
二月堂 国宝
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名があるようです。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物であると言われています。

二月堂からは大仏殿越しに奈良市街が見渡せます。
二月堂前に四月堂もありました。
法華堂(三月堂) 国宝
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂です。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになったようです。
ここで10分程仏像や建物の話を聞いていました。おかげでいい休憩になりました
再び歩けるようになりました。
法華堂を横から見てみました。
これで東大寺の見学を終わりにしまして春日大社に歩いて行きますが、途中で気になった所2か所お知らせします。
手向山八幡宮。紅葉の名所です。
若草山。
時間があったら登りたかったですが、時間と体力が無くなって来ましたので諦める事にしました。次回の課題です。
春日大社
何度も奈良に来ている割に立ち寄った事が無い有名なスポットでした。
式年造替が行われていますので本殿を拝む事が出来なかったのが残念でした。
特別参拝(500円)として入場しないと有名な中門まで行けませんのでせっかくでしたので入ってみました。
中門 重文

春日大社と言えばかなりの数の灯籠です。
万燈籠再現 藤浪之屋
万燈籠神事を感じていただこうと、江戸時代まで神職の詰所であった藤波之屋を開放しました。幽玄な雰囲気でした。
南門 重文
ここからは奈良公園から出て行きます。
住宅街の中を通って新薬師寺に向かいます。
新薬師寺
新薬師寺本堂 国宝
747年聖武天皇の病気平癒を祈って建てられました。
薬師如来(国宝)とそれを円形に囲むように十二神将(国宝)が立っています。神将の表情は実にリアルで感動でした。
小さいですが庭もあります。
ここからは市街地を目指して行きます。
途中志賀直哉旧宅もありました。
志賀直哉旧宅
市街地に入って来て話題になって来た「ならまち」に入った辺に元興寺があります。
元興寺
極楽堂 国宝
禅室 国宝
たしか五重塔(国宝)があると書いてあったのですがそれらしきものが見つかりません。法輪館と呼ばれる資料館のような所に入ってすぐ建っていました。
屋内にあるとは思ってもみませんでした。
ここは閉門近くに入りましたのでゆっくりできませんでしたが、コンパクトな感じのお寺ですが貴重な資料は詰まっていました。
この後は駅に向かいました。
話題の「ならまち」の一部を通りましたが、勉強不足で詳しくわかりませんでした。
一日中奈良の街を歩き回って疲れてしまいました。
帰りは奈良→加茂→(関西線)→亀山→名古屋→浜松の順で帰りました。
今日は早起きして更に歩き回るというハードな一日でしたので今日になっても眠たいです。でも何か充実感のある一日でした。