コヤチン、さまよい日記

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長篠・設楽原の戦いの舞台を見てきました。

2023-08-07 23:50:26 | 日記
昨日、愛知県新城市の設楽原歴史資料館と長篠城を見てきました。
今年の大河ドラマ「どうする家康」でもここの戦いが放送されました。日本史の上でも戦国時代の戦い方の転機になる戦いだったかもしれません。

まず設楽原歴史資料館を訪れました。
資料館の前に立つ銅像は、幕末のころ日米修好通商条約調印の立役者として活躍したこの地の出身者「岩瀬忠震」です。資料館の中に岩瀬氏に関するコーナーもありました。

資料館の中は長篠・設楽原の戦いに関する資料や火縄銃の展示等があります。屋上からは古戦場を望めるようになっているのかもしれませんが、木々が生い茂って見渡すことができませんでした。残念です。

資料館を出て合戦場の馬防跡を見てきました。



馬防柵が再現されています。
織田・徳川連合軍が武田軍と戦ったのですが織田信長が3000挺(ちょう)の鉄砲を用意し、馬防柵で武田勝頼率いる武田騎馬隊を食い止め勝利したという戦いですが、この戦いの勝因の鉄砲三段撃ちについては近年見直しの説もあります。
しかし鉄砲が無敵武田騎馬隊を圧勝した事で戦の戦術を変えたと言ってもいいでしょう。

この屏風絵は日本史の教科書にも載っていましたのであまりにも有名ですね。

次にここから少し離れた「長篠城」に向かいました。
ここも長篠・設楽原の戦いの舞台です。
天正3年(1575)武田勝頼が1万5千の兵を率いて、この城を囲んだので、500人の兵とともに籠城した城主奥平貞昌は鳥居強右衛門をして岡崎城の徳川家康へ援軍を要請しました。この援軍の求めに応じ、織田信長・徳川家康の連合軍が連吾川で勝頼軍を破ったというのが概略です。
ここでのエピソードはを受け売りの資料で
居強右衛門が援軍を頼みに岡崎城に到着した際、そこには既に加勢する準備をした織田・徳川軍がいました。「明日には長篠城に援軍を送る」という言葉を聞いた鳥居強右衛門は、仲間に報告するために急いで長篠城に向かいますが、あえなく武田軍に捕まってしまいます。
武田に対し鳥居強右衛門は、織田・徳川の援軍があることを伝えました。そこで武田は「長篠城の前で『援軍は来ないから諦めて城を渡せ』と言ったら、お前を開放してやる」と言い渡します。
了承した鳥居強右衛門は長篠城の前で声高らかに「すぐに援軍が来るからあと少しだけ持ちこたえろ」と叫びます。武田の命令とは真逆のことを叫んだ鳥居強右衛門を、武田はその場で殺してしまいました。
鳥居強右衛門のおかげで援軍が来ることを知った長篠城はなんとか持ちこたえることができたのでした。
長篠の戦いの後、奥平貞昌は大出世をすることになり、鳥居強右衛門の一族はその忠臣として、子孫の代まで厚遇を受けることになります。
というのも大河ドラマで再現されていました。

戦の資料が集められています。


豊川と宇連川の合流する地点に立っていて城の背後を崖に守られた自然の要塞となっています。

大河ドラマ効果なのかどちらも来館者で賑わっていました。