2005/02/16 wednesday
(虎ファンからの願い)
松井秀喜君が出発した。(ニューヨークを経由してキャンプ地のフロリダ、タンパへ)
松井君がプロ野球へ足を踏み入れたのは1993年からであった。’92のドラフト会議は8チームが競合するかと思われたが、最終的には中日、ダイエー、阪神、巨人の4球団であった。結果は巨人長島監督がクジを引き当て、阪神の夢は破れた。ドラフトの前に、阪神は「指名させてもらいます」の使者にスカウト2年目の佐野仙好(さのよしのり、後述)を送った。その時の松井君の喜びは大変なものであった。「佐野さんが来た!、佐野さんですよ!」と喜色満面であった。(松井は大の阪神ファンであった)そのシーンが頭を離れず、ず~と「松井秀喜」ファンであり続けています。タイトルは松井秀喜君が夢を追い叶えることが、ファンにも夢を与えてくれることなんです。(佐野仙好 ’74ドラフト1位で阪神が指名。三塁手であったが、不運は掛布雅之と同じポジションであったことです。’77年外野手転向。同年4月29日レフトフライを追って、外野フェンスに激突、頭蓋骨骨折の重傷を負った。それでも、以後3割3度。’89年現役引退。’90育成コーチ。’91~’93スカウト。’94~’97コーチ歴任。’98再びスカウト~現在。)
「猛虎たちの70年 阪神タイガース展」(2月23日~5月9日:大阪歴史博物館)に関連して、16日毎日新聞夕刊に「星野仙一」前監督の記事がある(記者 張智彦)野球少年、星野仙一の野球人生は街頭テレビの「藤村富美男」であった。ファイト溢れるプレーは心に焼きついたようだ。そして、星野少年の心を虜にした、最高のヒーローは「村山実」投手だ。打たれようが(本当は安心できるほどの防御率。0点台もあった。)なにがなんでも真っ向う勝負、悲壮感漂う姿にひかれた。永久欠番「11」は星野投手に大きな影響を与えた。中日の選手、監督の時代もずっと、阪神ファンであり続けた。
阪神ファンは本当に熱い。松井君がいつか阪神のユニフォームを!(勿論、選手としてではありません。老人になっても、最後には・・・)

松井秀喜君が出発した。(ニューヨークを経由してキャンプ地のフロリダ、タンパへ)
松井君がプロ野球へ足を踏み入れたのは1993年からであった。’92のドラフト会議は8チームが競合するかと思われたが、最終的には中日、ダイエー、阪神、巨人の4球団であった。結果は巨人長島監督がクジを引き当て、阪神の夢は破れた。ドラフトの前に、阪神は「指名させてもらいます」の使者にスカウト2年目の佐野仙好(さのよしのり、後述)を送った。その時の松井君の喜びは大変なものであった。「佐野さんが来た!、佐野さんですよ!」と喜色満面であった。(松井は大の阪神ファンであった)そのシーンが頭を離れず、ず~と「松井秀喜」ファンであり続けています。タイトルは松井秀喜君が夢を追い叶えることが、ファンにも夢を与えてくれることなんです。(佐野仙好 ’74ドラフト1位で阪神が指名。三塁手であったが、不運は掛布雅之と同じポジションであったことです。’77年外野手転向。同年4月29日レフトフライを追って、外野フェンスに激突、頭蓋骨骨折の重傷を負った。それでも、以後3割3度。’89年現役引退。’90育成コーチ。’91~’93スカウト。’94~’97コーチ歴任。’98再びスカウト~現在。)
「猛虎たちの70年 阪神タイガース展」(2月23日~5月9日:大阪歴史博物館)に関連して、16日毎日新聞夕刊に「星野仙一」前監督の記事がある(記者 張智彦)野球少年、星野仙一の野球人生は街頭テレビの「藤村富美男」であった。ファイト溢れるプレーは心に焼きついたようだ。そして、星野少年の心を虜にした、最高のヒーローは「村山実」投手だ。打たれようが(本当は安心できるほどの防御率。0点台もあった。)なにがなんでも真っ向う勝負、悲壮感漂う姿にひかれた。永久欠番「11」は星野投手に大きな影響を与えた。中日の選手、監督の時代もずっと、阪神ファンであり続けた。
阪神ファンは本当に熱い。松井君がいつか阪神のユニフォームを!(勿論、選手としてではありません。老人になっても、最後には・・・)