おはようございます、ジニーです。
先日マサさんからリクエストいただきましたkinki Kidsの
「陽炎 〜Kagiroi」の歌詞について、今回は考えてみました。
この曲は、2016年に発売された彼らのアルバム「N album」に収録されている曲で。
作詞を堂本剛さん、作曲を堂本剛さんと堂島孝平さんの共作で制作されています。
歌詞はこちらからご確認ください。
「陽炎 ~Kagiroi/KinKi Kids」の歌詞
まず歌詞を読み始めて思ったのが、タイトルの読み方。
この字は「かげろう」と読んでいましたが、「かぎろい」とも読むんですね。
知らなかった。
意味を調べると、『局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象』
とあります。
夏場とかに見られる遠くでゆらゆらするアレですね。
歌詞を読み進めて、ライブの音源も聴きながら、感じました。
なんと難解な歌詞だろうと。
剛君の独特な世界観に溢れていますね。
こうやって歌詞を考えると書き始めましたが、まだ考えながら書いてるところがあります。
自分なりにある程度納得感が感じられる考えがまとまったので、書きながら
うまくまとめていけたらなと思います。
歌詞を読んで感じたことを、仮説を交えて描いていきますので、
少し偏った見方になっているかもしれませんが、例によって、ある一人の人間の
感じ方ということで読んでいただけると幸いです。
1)SNS、ネット社会をテーマにした曲ではないかな?
とても抽象的な表現の多い歌詞。
読みながらも、なかなか情景を浮かべるというのが上手にできませんでした。
一つ一つの言葉に、立ち止まって、どういう意味だろう?
なんてかんじの繰り返し、メロディーやアレンジから伝わる曲の雰囲気と
相まって、何か切なさを感じる歌詞でした。
なんだろう、見えないものに怯えている印象。
今回、仮説として考察を進めるのは、そのほうが理由付けと情景を
自分の感覚で持ちやすいなと思ったからです。
ではなぜSNS、ネット社会をテーマとしていると感じたか?
1番のAメロ部分の歌詞がそう感じさせました。
「時代があげるスピードに カラダを捨てた 日づけを綴る」
カラダを捨てたという意味をどうとるかというのが、一番最初のステップでした。
その後の歌詞も読み進める中で、「自分が自分でなくなる」「実体がない」という
ことを「カラダを捨てた」という表現にしているのかなと考え、
現代、その感覚に一番近いのが、SNSやネットかな、と感じたのです。
例えると、ツイッターやラインなどのアカウントとかですね。
実体のある自分が、ある意味自分から隔離されるようなものじゃないですか。
正規アカウントもあれば、裏アカウントもある。
まるで人間の心をそのまま映し出したかのよう。
どこかに、自分から隔離されている意識もあるから、発言や対応もどこか大胆に
なったり攻撃的になったりする場面もあります。
その仮定で歌詞を捉えてみると、今まで抽象的だった言葉の羅列に
ある程度具体的な情景を浮かべることができそうな感じがしたのです。
「未来へと伸びている道標(ライン)のうえ」
⇒タイムラインやこれまでのやり取りが時系列で履歴としてのこる。履歴が残る
ことで伸びているイメージもリンクする。
「犇めき合った言葉と想い」
⇒SNSそのものの比喩的表現として捉えられる。
みたいな感じで。
こう捉えて読むと、「新しい 愛しているを 見上げて 探す 哀」という
ところもどことなく情景が浮かぶような気がしていて。
Aメロでは画面(ぼくは携帯のイメージ)をみて「犇めきあった言葉と想い」を
見ています。他人から見たら、うつむいて見えるのでないでしょうか?
しかしそこには求める愛はない。
だから携帯から目線を空に移して、もの悲しい感情を吐露しているのではないか。
たった一行ですが、主人公の視線や気持ち、表情などの動きがつぶさに
伝わってくる印象です。
この辺りは、剛君の行間を読ませる巧さかなと感じます。
(2)歌詞の主人公は何かに不安を感じているでのはないか
Bメロの歌詞がまた難解でした。
「もらい鳴きするよな 眩暈 起こしたよな
異例な息吹の風と廻る地球から」
ここはこの曲の主人公の心情を描いていると考えて読みました。
正直言って、何かをたとえているにしても、その何かを具体的にイメージでき
なかったんですよね。
だから、アプローチを変えて、この歌詞の心境に立ってみたほうが伝えたいことに
近づけるのかなと思いました。
もらい鳴き、眩暈、とにかく主人公には何かしらの負荷がかかるような
感覚を持っているようです。ストレスのようなものかもしれません。
「異例」と感じる、非日常的な感触。
廻る地球を感じるということは、実態は地球上にあるが、何かズレのようなものが
主人公の感覚の中には生まれていて、それが負荷になっているのでしょう。
僕はこれを、「未知への不安」と捉えました。
2番のBメロ部分にも「未知」という言葉がありますね。
「狭いはずの路地を飛来する1秒に
未体験な未知の入り口 築いてく」
「狭いはずの路地」というのを、自分自身の情報処理能力やキャパシティと受け取ると、
1秒で様々に入り込んでくる情報「犇めき合った言葉と想い」が目まぐるしく
新しい未来の入り口に繋がっているイメージ。
あまりにも情報のスピードが速く、気づけば通過してしまうものも多いでしょう。
一つ例を挙げるとラインのグループ。
最近耳にするのが、グループライン内で、返事が遅れた人や、何かの感情で特定的に
無視や暴言をぶつけるということもあるということ。
ちょっとした好きに通り過ぎてしまった言葉が発端で、仲の良かった人から
無視される、いじめられるという、これまでとは全く異なる未知の入り口が開かれて
しまうようなイメージを持つと、どことなくリンクしないでしょうか?
最近では、本来携帯の電源を切っておくような場所でも、携帯を見たり使用したりする
人が増えているそうですが、その理由の一つにこういった状況を防ぐため
タイムリーな情報収集をしなくてはいけないこともあるそうです。
たった一瞬、注意がそれることで、何もかもを失うリスクがあると感じているのかも
しれません。
「加害者にされるキミ・ボクがいるから 街は今日も眠らない気でいる」
という歌詞にも情景やイメージが繋がりますよね。
時代や流行に取り残される不安。
そして、その時代の流れに対して、これまで感じていたものとは違う「異例」な
ものを察知していることを表現したかったのが、Bメロの部分なのかなと思いました。
(3)サビで用いられるKagiroiの役割は?
「ぼくら色彩をもつ 命を持つKagiroi
煌めき舞う闇の下揺れるKagiroi
崩れだす胸の耳を塞ぐ手のひらに流れた熱の赤い脈の美を知ってるのに
忘れてKagiroi」
これまでのAメロとBメロの仮説から考察をベースとすると、
主人公は非常に自分自身の実体を曖昧なものにしてしまっています。
そんな自分自身を陽炎(Kagiroi)と置き換えて表現していると考えるのが
スムーズではないかと考えました。
心の叫び(ひょっとすると呟きかもしれない)のようなもので、
SNSやネットの中にある仮想の自分が本物ではなく、ここにある自分自身が
本物なのだという気持ちがあふれています。
それなのに、そういった実体のないものに吸い込まれ、不安を感じつつも
抜け出せずにいる。
どこまでも自分自身が心もとない存在に見えている。
色彩(個性)、命を持ちながらも、ユラユラぼやけてしまっている本当の
自分自身がまるで陽炎(Kagiroi)のようだと。
崩れだしてしまう胸、そんな物悲しさを遮断したく耳を塞ぐ手、
そのどれもに熱があり、赤い脈動がある。
生きているんです、この廻る地球に。
なのに、SNSやネットの中で縛られてしまっている自分。
生きていることも忘れてしまいそうな、今にも消えそうな陽炎(Kagiroi)。
そんな、自己存在の不確かさがサビからは伝わってきます。
また、サビではデュオとう特性を生かし、剛君と光一君が別々のメロディーを
歌っています。
上記のサビと一緒に歌われている歌詞が
「いつか 愛は なくなるかな いずれ ぼくら 消えるのかな」
「いつか 愛は なくなるから いずれ ぼくら 泣いてるから」
ここも、不安を吐露するかのような歌詞がつづられています。
曲としての表現という観点からすると、全く別のメロディーで
それぞれの言葉で同じテーマを歌にすることで、より自分自身の内なる声、
葛藤のようなものを表現しているのかなと感じました。
歌詞という観点だけではできない、曲としての表現方法ですね。
(4)Cメロがひょっとすると一番言いたいことだったのかな?
2番のサビのあと、Cメロが存在します。
「separate 外したぼくらは 何時へ 行こうとしてるんだろう
このparede 続けるぼくらは なにに 生まれ変わりたいんだろう」
これまでの曲の流れのとおり、主人公は現実とネットの中との境界線が
あやふやになってきています。
生きていく中で便利だから利用しているネット(SNS)なのに、
生きた行くためにネット(SNS)のなかでうまくやろうとしている。
というイメージでしょうか。
当初切り分けていたものが曖昧になり、どこか同化・逆転しています。
separate外したというのは、そういうことかなと。
そうすると
必然的に、行き先が気になりますね。
ここで凄いのは、行き先が場所ではなく時間なんです。
この時点で、場所の感覚がなくなってしまっている(ネット依存)・・・という
解釈を最初持ちましたが、ここでは少し考えを改めました。
重要なのは、過去・現在・未来のどこに幸せがあるのかを言いたかったのかな、と。
自分自身がどこに幸せを感じてるのか(もしくはいたのか)、本来は未来で
あるべきなのでしょうが。
果たして、主人公が危惧する不安が蔓延する世の中の未来に、それを感じられる
ことはできるのだろうか?
という問題提起にも聞こえてきます。
そして、そんな風に生きている自分たちをparadeというメタファーで表現し
命の果てを問いかけてきています。
ひょっとすると、そんなにSNSやネットの中での自分ではない自分に
生まれ変わることに、どのような意味があるのか?
という問いかけなのかもしれません。
この問いかけをしたくて、Cメロを準備したのかなとも感じました。
それくらい、僕は曲全体の中で、ここがズシンと来たのです。
(5)救いのない曲なのか?決してそんなことはない
長々と書いてきましたが、最後にこの歌詞の考察の結びとして
剛君が何を伝えたかったのかを、僕なりの感想として書いていきます。
今回の歌詞の考察は仮説を立てながら、自分なりに一番情景が浮かび、
納得感のあるイメージが持てることを前提に進めました。
その中で、感じたのは、剛君の愛に生きるというスタンスでした。
ここまでの歌詞の考察だけを見ると、現在に悲観している、
愛を見失って絶望している、という形にもとれるのですが、
僕は逆に、愛に生きる剛君のスタンスが、もっと身近にある愛(自分や家族)に
目を向けてみようよというメッセージとしてこの曲の歌詞に染み込んでいる気がします。
だって、「愛」と「哀」をちゃんと使い分けていますから。
この曲が収録された「N album」には「 naked & natural 」というテーマが設けられて
いたそうです。(wikipediaで調べました)
ありのまま自然体という意味ですが、そういう意味では剛君のありのまま自然体が
この曲にも色濃く出ていると思います。
こういった情報化社会における、自分を見失ってしまうようなことがあるよ、と。
この流れがいつまでも変わらずに行くと、僕らは果たして自分自身として
ありのまま生きていけるのかという、内なる不安を、伝えたかったのかもしれません。
「いつか 愛は なくなるかな いずれ ぼくら 消えるのかな」
という歌詞にある通り、
剛君にとって、愛と存在は連動しているものなのでしょう。
それはとっても人間的で、どのような時代を迎えようとも変えることのできない
一つの答えのように剛君は考えているのではないでしょうか?
だからもの悲しい想いを持ちつつも、「愛」を綴り、歌うのだと思います。
そして、この曲を歌う意味としては、
「僕にも、こういった不安はあるけど、ファンのみんながいる限り愛を歌うことで愛を与えていくよ」
という決意表明にもしているのかもしれません。
生きている以上、不安という感情もつきものですが、
ひとりでは乗り越えられないものも、誰かとなら乗り越えられる。
そこに愛があるんだと思います。
剛君にとって、そしてともにこの曲を歌う光一君にとって。
ファンという存在が、そして彼らを取り巻くかけがえのない人たちが、
同じように大切なんだよということを、「 naked & natural 」というテーマのもと
歌っているようにも、感じられました。
悲しみを共有することで、愛を確かめ合う。
最後に、僕はそういったポジティブな感想を持ちました。
同じものを共有したときの繋がりは固い結び目として強くなる。
きっとファンの方々にもこの曲が好きという方は多いと思うのですが、
意識的にも無意識にもそういった彼らの愛を感じ取っているからなのかもしれませんね。
そして、この曲が苦手という人にとっても、そういう気持ちが持てたときに、
彼らはずっと手を差し伸べてくれていたんだ、と感じられる曲になっているように思います。
陽炎は見る角度を変えると、見えたり消えたりするもののようです。
もし、いまなにか見失っているとしたら、その視線の角度を変えてみるのもいいのかもしれません。
そういうことも、教えてくれている曲にも感じられます。
ここまで読んでください、ありがとうございます。
あくまでも僕が感じた感想です。
もっと深く、別の意味が込められているのかもしれません。
この曲に対する、こういう捉え方もあるんだな、なんていう一つとして
読んでいただけると嬉しいです。
※よろしければ、他のKinki Kidsの歌詞の考察も書いているので、読んでみてください。
最新の画像[もっと見る]
- キャッチボール 4週間前
- 毎年恒例イルミネーション 1ヶ月前
- 毎年恒例イルミネーション 1ヶ月前
- 毎年恒例イルミネーション 1ヶ月前
- 毎年恒例イルミネーション 1ヶ月前
- 毎年恒例イルミネーション 1ヶ月前
- 毎年恒例のマラソン 2ヶ月前
- 毎年恒例のマラソン 2ヶ月前
- 毎年恒例のマラソン 2ヶ月前
- 長野でカブトムシ 2ヶ月前
毎日こちらへ訪れて待ちに待っていました。
めちゃくちゃ嬉しいです。
すごい、凄すぎる。感動しました。
何もヒントのないところから剛くんが感じ取っているかもしれない気持ちを紐解いてくださって本当にありがとうございます。
実際には本当の意味は剛くんの心の中ですけれど、ジニーさんの解釈もすごく納得できます。
剛くんはこの曲をもともと、ソロ用に作っていたようです。
ソロで作っていたけどこの曲はKinKi Kidsに回したほうがいいだろう、と言っていたようなことを聞きました。
剛くんのソロの中で「戻ることが未来」という歌詩がよく出てきます。
私の大好きな曲でアルバム「TU」に入っている「魂サイダー」(コンサイダーと読んでconsiderよく考える、熟考するという言葉と掛けています)という曲はジニーさんが陽炎〜kagiroi〜で説明してくださっている内容ととても共通しているところがあります。
人間が人間でなくなってしまう前によく考えて、というメッセージ。
人間がロボットや科学に飲み込まれてしまう前に心を持つ人間であれ、というような語り掛けが含まれています。
愛する気持ちは人だからこそ持つことができる、と。
剛くんが作る曲はいつも人の愛を中心に語り掛けてくれて、でも押し付けがましくない。
恥ずかしがることはない素直な気持ちで愛する人に愛していると伝えよう、そんな風に優しく強く歌ってくれているように思います。
KinKi Kidsが歌うこの陽炎〜kagiroi〜は剛くんだけではない光一くんの声が重なり、初めてライブで聴いたときの圧倒的なKinKi Kidsの世界観に胸が震えました。
ライブ全体が素晴らしいのは当然ながら、この曲が心を捉えて離れませんでした。
KinKi Kidsの名曲はたくさんありますが、陽炎〜kagiroi〜も多くの方に知っていただきたい未来へ残る名曲だと思っています。
ジニーさん、難解な曲を素晴らしい感性と視点で解説してくださりありがとうございました。
また解説していただきたい歌詩がありましたらお願いします。
本当にありがとうございました。
マサ