このように書くと驚くかと思いますが。私自身は思索した結果として書いています。
国債発行は市中に出た貨幣と交換させる目的で開発されたものということができます。
もし国債に交換することなく紙幣だけを市中に流出させれば、確実に労働と貨幣の関係から交換する労働量を超えたと解釈(心理的)され、手元に貨幣(現在では紙幣)を置くことに恐怖に近いものを感じ、活発な交換が行われます。つまり供給以上の需要が起こってしまいます。当然結果的には必要以上の貨幣と労働の交換が行われインフレという現象になります。
そこで社会がどうなるのかというと、物価が上がり、持たざるものはより持つことが制限され、持てる者は物価が上がることを予想し買占めをしていく。当然最終的には持てる者の間で活発な貨幣と商品(労働で作り出された物)の交換が頻繁に行われ(A・Eの関係参照)現在では紙幣をより多く持ったものがより多くの富みを得てしまうことになります。
だがそのような自体になったとき、恐れるのは誰なのかということになります。つまり持たざる者には失うものが無いというとき、当然のこと社会不安になります。つまり食うことができなくなったとき人々はその社会を不平等な社会として糾弾したいという欲求に変わります。
そこで持てる者により持たせる工夫、また持たざるものに幾ばくかの貨幣を持たせる形の工夫。それが国債発行という逃げ道でした。
持てる者から貨幣を国債に交換してもらい、当然そこには利息が付きカネがカネを生むという欲望を満足させられることになる。そして持たざるものには交換された貨幣を失業者救済もしくは内需拡大という名目で幾ばくかの貨幣が渡るような政策を採ることになります。
しかし国債と交換された貨幣が外国の労働者が作った商品と交換されたのでは、やがて国内の貨幣は国内の労働と交換されることなく外国へと渡ってしまうことになります。
これが現在の状況では無いでしょうか。
どこかが間違えている。ではどうすればよいのかということになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/36/7e/b0ad6a906e7b6d6c655edaa42a376234_s.jpg)
上記の写真は小さいときの愛犬です。
国債発行は市中に出た貨幣と交換させる目的で開発されたものということができます。
もし国債に交換することなく紙幣だけを市中に流出させれば、確実に労働と貨幣の関係から交換する労働量を超えたと解釈(心理的)され、手元に貨幣(現在では紙幣)を置くことに恐怖に近いものを感じ、活発な交換が行われます。つまり供給以上の需要が起こってしまいます。当然結果的には必要以上の貨幣と労働の交換が行われインフレという現象になります。
そこで社会がどうなるのかというと、物価が上がり、持たざるものはより持つことが制限され、持てる者は物価が上がることを予想し買占めをしていく。当然最終的には持てる者の間で活発な貨幣と商品(労働で作り出された物)の交換が頻繁に行われ(A・Eの関係参照)現在では紙幣をより多く持ったものがより多くの富みを得てしまうことになります。
だがそのような自体になったとき、恐れるのは誰なのかということになります。つまり持たざる者には失うものが無いというとき、当然のこと社会不安になります。つまり食うことができなくなったとき人々はその社会を不平等な社会として糾弾したいという欲求に変わります。
そこで持てる者により持たせる工夫、また持たざるものに幾ばくかの貨幣を持たせる形の工夫。それが国債発行という逃げ道でした。
持てる者から貨幣を国債に交換してもらい、当然そこには利息が付きカネがカネを生むという欲望を満足させられることになる。そして持たざるものには交換された貨幣を失業者救済もしくは内需拡大という名目で幾ばくかの貨幣が渡るような政策を採ることになります。
しかし国債と交換された貨幣が外国の労働者が作った商品と交換されたのでは、やがて国内の貨幣は国内の労働と交換されることなく外国へと渡ってしまうことになります。
これが現在の状況では無いでしょうか。
どこかが間違えている。ではどうすればよいのかということになります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/36/7e/b0ad6a906e7b6d6c655edaa42a376234_s.jpg)
上記の写真は小さいときの愛犬です。
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