オーストラリア ヒロシのリタイヤ日記

1994年からメルボルン在住のヒロシです。留学後に現地で就職、国際結婚、2020年、55歳からリタイヤ生活。

子供達もコロナに感染 及び オーストラリア留学

2022年06月05日 15時48分04秒 | 留学

今日のメルボルンは朝から雨模様で、最高気温は13度程寒い冬の天気が続いています。2,3日前から喉の痛みを訴えていた21歳の娘と17歳の息子は今朝のコロナ簡易検査キット(RATテスト)で陽性反応が出ました。これで、今日現在、我が家では感染者が僕を含めて3人になりました。幸い妻は今の所、感染していないので、買い物や料理や後片付けは妻がしてくれています。

症状は僕が時々咳とくしゃみ、子供達は喉の痛みと鼻水です。検査キットがなかったら、普通の風邪だと思ってしまったでしょう。

今日は僕と子供達は朝から薪ストーブの前で、過ごし、このブログを書いたり、ニュースを読んだりしていました。妻はちょっと離れて、リビングの反対側で過ごしました。では、昨日の続きアメリカ留学のその後をお話していきます。

 

日本に帰ってきて、直ぐに近くの工場でアルバイトを始めました。米国の大学も卒業して帰ってきたのに、まともな就職先がないのは、両親にとって悪夢だったと思います。週末に、特に行く場所もなく家でゴロゴロしている僕を見かねた両親は「これからどうするの?折角アメリカで4年も留学して帰ってきたのに、何で日本で就職しんの?」と、とても不安げに聞いてきました。

以前ブラック企業で働いた経験から、「日本で就職するのはまっぴらだ。」と日本脱出を決意していました。日本で沢山の外国人が英語を教えている。その反対に、外国で日本語を教えられるのでは?と考え調べてみると、オーストラリアでは日本語教育を含めた外国語教育が盛んだということを知りました。

その頃、日本の大学時代のアメリカ人の恩師からの紹介で、日本語教育学会に来日中のオーストラリア人の教授と話す機会に恵まれ、「努力次第でオーストラリアで教育の仕事に携わることは可能。」と聞いて、メルボルンのモナシュ大学で応用日本語言語学の修士課程に応募をすることを決めました。

当時1990年代半ばの授業料は年に1万ドル(100万円)、プラス下宿代や食費が50万円程でした。幸い、貯金はまだかなり残っていて、翌年の2月の大学の授業が始まる前までアルバイトをすれば、2年程留学することができました。

翌年の2月、メルボルンで3度目となる留学生活を始めました。最初、戸惑ったのはオーストラリア訛の英語です。アメリカ英語にはない独特な言い回しや単語もあって、何を言っているのか分からないことがよくありました。それも、2、3か月でだんだん慣れてきましましたが。

このモナッシュ大学日本語応用言語学のコースは大学で日本語を教える講師の養成コースでした。ただその頃になると大学の日本語講師は飽和状態で、修士課程を終えたところで講師の空きがあるのかどうか不安な状態でした。しかも毎年10人程の日本人がそのコースをしています。講師として就職できる見込みは限りなくゼロに近い状態でした。それで、思い切って修士課程一年修了時に教員養成課程に編入することにしました。中高レベルなら教師の空きが多い(どうして空きが多いのかは後に仕事を始めて分かりましたが、、、。)し、当時大学院レベルのこのコースGraduate Diploma in Educationは一年で教員免許が貰えたのでした。

現地の中学高校(オーストラリアでは6年のセカンダリースクール)3校で合計10週間の教育実習を終えて、日本語及び数学の教員免許免許を取得し、翌年は念願が叶い田舎のセカンダリースクールで就職することができました。

赴任先の校長にビザのサポートをしてもらい、まず労働ビザ(Temporary resident visa)を取得、3年後には個人で永住ビザを申請して受理され、晴れてオーストラリアに永住権を取得しました。その直後に運よく友達のパーティーで今の妻となる人に出会い、今日に至ります。

ちなみに見出し写真は今日の薪ストーブ。ミカンやオレンジの皮はストーブで乾かすと部屋中にいい香りがして、乾くとよく燃えるので焚き付けに使えます。お鍋で温めているのは今日の晩御飯。妻が昨日作ってくれたチキン・カチトリという鶏肉と野菜の煮込みスープです。では、また明日、このブログでお会いしましょう。

 

 

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もう一頭の馬と2度目の米国留学

2022年06月04日 15時56分49秒 | 留学

今日は午前中は天気が良かったのですが、午後からは雨が降って、風が強いです。

昨日は馬のオーナーのシェイレンさんから連絡があり、友達が保護馬を買い取ったので、預かってもらえる牧場を探しているのだけど、牧場使用料は払うのでもう一頭、こちらで預かってもらえる?と連絡があったので、シェイレンさんの頼みともなれば、と承諾しました。これで今日から馬とポニー、合わせて7頭を預かることになりました。(見出し画像参照)

まあ、牛が牧場でなくて牛舎で飼えるのと同様で、理論的には馬だって干し草や配合飼料を十分に与えれば、少ない面積で、多くの馬を飼うことは可能なのですが、干し草の値段も馬鹿にはなりませんし、やはり馬は新鮮な牧草が大好きですから馬の数が多すぎるのも良くないのです。

さて今日の、もう一枚の写真は家の直ぐ前の畑です。広さは4X6メートルで、今、冬野菜を栽培しています。キャベツやブロッコリーは青虫にやられたので、ネットをかけましたが、あまり生育は良くないようです。(写真手前はそら豆)

では今回も昨日に引き続き、オーストラリア移住までの経緯の続きをお話していきます。

 

兼業農家の長男として生まれ、後継ぎ息子として期待され大学まで出してもらったのに、折角、新卒で入社した会社を一年半で退社してしまい、再びアメリカへ留学したいなどと、両親は呆れて物が言えない状態でした。

ただ、自分で貯めたお金を使っての留学計画だったので、両親はしぶしぶ承諾してくれました。

小中学校の頃は理科や科学が大好きだったのですが、高校では数学などの理系の科目が苦手になってしまい理系の大学に進めませんでした。それで「アメリカでもう一度、物理などの理数系科目に本気で挑戦したい」と専攻は物理にしました。

アメリカと日本の大学の違いですが、アメリカの大学では、社会人が大学に戻って別の資格を取ったり、一旦社会に出た人が、再び大学に戻って興味のある専門分野が学べるように、大抵の学部では初歩のレベルから学ぶことが出来ます。例えば数学を例に挙げると、日本の大学で数学科に入るなら、高校では数3の数学を履修する必要があると思います。これに対してアメリカでは、入学前に学生の数学の知識が高校一年生、或いは中学生のレベルであっても、大学で数学の勉強を始めて、数学科を卒業することが可能です。(その代わり、在学年数が延びるでしょうが、、。)

最近、日本では社会人や有名人の大学入学がニュースになることから分かるように、一旦社会に出た大人が若い学生に混じって大学に入るのは、まだ一般的ではありません。それに対して、アメリカの大学は高校の後の進学先というよりは成人教育の場という位置づけのようです。そのため30代や40代の生徒も少なくなく、大学の教室で赤ちゃんに授乳していたり、乳母車を押して大学に来たり、小さな子供がいる学生のために大学構内に託児所があったりは普通です。

さてこのオレゴンの片田舎の大学には僕の様に、授業料の安さに誘われて入学してきた発展途上国からの留学生が多くいて、ずば抜けて頭がよい学生に会えて大変刺激になりました。

この大学は4年で無事卒業できました。この時までで合計8年間大学に行ったことになります。渡米の飛行機の中では、当時の映画「Secret of my success摩天楼はバラ色に」の主人公の様に、アメリカで成功して、「日本には自分のジェット機で帰るぞ。」などと夢を見ていましたが、卒業後の帰国の便は格安のエコノミーだったのは言うまでもありません。いくら地方の大学の物理学科を優秀な成績で卒業したと言っても、仕事に役立つ資格があるわけではなく、留学生はビザのハードルがあるので、アメリカでの就職活動はあっさりと諦め、卒業と同時に取り合えず日本に帰ってきました。

明日に続きます。

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ブラック企業就職編

2022年06月03日 07時51分24秒 | 仕事

昨日は突然コロナ陽性になってしまい、読者の皆様にはご心配をお掛けしてすみませんでした。今日の病状は幸いにも相変わらず、時折痰を伴う咳がでるくらいで、熱もなく、この様にブログを書くことができます。普段、僕が買い物や食事、後片付けの担当なのですが、昨日に引き続き今日も妻は仕事を休んで、僕の代わりに息子を学校に送ったり食事の準備や後片付けを代わりにやってくれています。

このブログはまだ始めて一週間程で、読者の方は一日数人程度だったのですが、三日ほど前にブログ村とブログランキングに登録した途端、ページビュー数(PV)とユニークユーザー(UU)が大幅に増えて、毎日数十人の方々に読まれていて、嬉しさと驚きが混ざった複雑な気持ちです。これからも、ご期待に沿える様に、毎日更新を目指して頑張りますので、よろしくお願いいたします。

さて、3日程前から海外就職や海外移住に興味がある方の為に、普通の日本人(僕のような)にも十分可能であることをお伝えしたく、僕のオーストラリア移住までの道のりを書いています。

 

9か月の留学を終えて帰国したのは大学四年生の5月ごろで、1980年代後半の当時は丁度就職活動を始める時期でした。大きな会社に入って、その会社の小さな歯車になって働くより、どうせ働くなら、鶏口牛後の諺どおり、小さな会社に入って経営を学ぶのもいいかも、と内定を頂いた地元にある社員20人足らずのアパレル/繊維業の零細企業に就職を決めました。

この企業に就職した理由は3つで、まず、この業界にしては珍しく、ボーナスが多くて、中には11か月分貰った社員がいると企業説明の雑誌に載っていたこと(この社員は社長の息子の常務(当時32歳)であったことが後に判明)、

次に希に、外国(の零細企業)とも取引があって得意の英語が使えそうだったことと、

最後に勤務先が家から自転車で通える距離で、通勤の車が必要ないので、留学の費用が手っ取り早く貯められそうだったからです。同期は僕を含めた5名(男子4名、女子1名)でした。

就職して一番大変だったのは、退社時間の遅さで、仕事があってもなくても、毎晩夜の9時、10時になって、上司の許可が出るまで、退社することができませんでした。バブル真っただ中の当時の経営者は、「社員には出来るだけ長く働かせて、稼げるだけ稼ぐ。社員のライフバランスなんて要らない。奴隷と一緒。」という考えだったと思います。残業代がでないのに、夜遅くまで家に帰してもらえない(サービス残業)など理不尽な労働環境でした。今でいうブラックですが、当時はそれがどこでも当たり前だったので、そんな言葉はありませんでした。

一か月程の社内研修が終わってから、僕は業務統括部に配属されました。名前はカッコ良さそうですが、仕事の内容は社の雑用係といった部署で、花形の企画営業部(チェック柄など生地のデザイン)や生産部(外部の工場に委託生産)とは違い、中途採用の上司と僕だけの地味な部署でした。どちらかといえば社内余剰人員待合室といった方生産部の助っ人として原料である糸(ウール・羊毛)や製造した反物(毛織物)を委託工場や倉庫に配送、コンピューター入力、規格外で返品されてきた商品(高級婦人服)の修繕(ピンセットで糸に混ざった不純物を取り除く)などでした。仕事がなければ、コンピューターに向かって、忙しく働いているふりをして、時間が過ぎるのを待つという、何とも辛い部署でした。

当時はバブルの真っ最中、一着30万円もする婦人服(ワールド、樫山、三陽商会などの大手アパレルが顧客)のこの会社はこの頃が売り上げがピークだったと推測します。この後、日本経済のバブルがはじけると同時にこの会社は倒産してしまいましたが。以前、日本に帰国した時に、会社の同期の友達に会いに行こうと、会社の前まで行ってみてびっくり、その会社の建物は跡形もなく、その敷地は住宅地になっていました。

残業で帰宅するのが遅くなればなるほど、2度目の米国留学への思いは強くなりました。「こんな会社に自分の人生を売るつもりはない。この酷い状況から脱出するには留学しかない。」と、留学に必要なお金を貯める為、同僚から飲み会の誘いは殆ど断り、(ある時期から誘われなくなった。)月に1,2度は英語の勉強の為に名古屋の映画館に行く以外、給料やボーナスのすべてを貯金していました。

当時も今も、米国の大学に正規留学するためには、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)という英語能力試験で合格点(当時は530-550点)を得点しなければなりません。試験勉強の時間を確保する為、会社から夜十時半に帰ってきて、母が作っておいてくれた晩御飯を食べてから入浴をすませ、11時には就寝。朝の3時半に起床し、英字新聞のJapan Timesを読んだり、TOEFLの練習問題を解いたりして、英語を忘れないようにしました。

この時期は極度の疲労と睡眠不足で、会社から帰って布団に入って枕に頭をのせた瞬間に眠っていました。ただ仕事中に居眠りしたり、発注ミスをして上司に叱られたりしたので、TOEFL受験後には、起床時間をもう少し遅く5時半ごろにしましたが、、、。新入社員時代が、これまでの人生で精神的にも肉体的にも一番きつかったと思います。

入社一年目の冬ごろだったでしょうか。それまでの努力の甲斐あって、TOEFL で合格点が採れ、正規留学が可能となりました。今のようなインターネットがない時代は、情報を得られるのは図書館か本屋でした。アメリカの大学について調べるために名古屋の丸善書店の洋書コーナーで、5センチ程の分厚い全米の大学案内書のような本を買って来て、大学の候補を探しました。

米国はその昔、奴隷制のあった南部よりも北部の方が人種差別が少なそうだったので、北部に決定。東部よりは西部の方が日本に近く便利、だけどカリフォルニア州は日本人が多そうで、できれば避けたいということで、最終的に留学先に選んだ大学はアメリカ北西部に位置する東オレゴン州立大学という、ポートランドから車で5,6時間はかかる交通のとっても不便な、でも、のんびりした田舎町の小さな大学でした。

この大学を選んだ理由は授業料の安さ。アメリカの公立の大学では、留学生は現地の米国人学生と比べて、2倍から3倍の授業料がかかります。しかしながら、当時からその大学は、留学生も現地の米国人学生も学費が同じで、しかも一年に2,3千ドルという破格の学費でした。しかも、寮費と食費、保険料などを合わせても、年に7千ドル程(当時のレートで百万円ほど)だったのです。

当時の給料は手取りが十万円ちょっと、始めのボーナスが、十万円、冬のボーナスが52万円で、社員になって一年で、200万近くを貯金でき、2年目の9月までには、今まで貯めてきた小遣いやお年玉や大学時代のアルバイト代、親戚からの餞別をあわせて、350万円程になりました。(2022年の物価に換算すると500万円程でしょうか。)留学中の夏休み中にアルバイトをすれば、4年間の正規留学の費用は賄えそうな貯金ができたので、入社2年目の8月に退職し、9月から2度目の留学生活が始まりました。

新卒で入社した会社を一年数か月で退社、会社の売り上げにはあまり貢献できず、内定をくれた社長には申し訳ない気持ちと、サービス残業など、当時の理不尽な日本の中小企業の労働環境から取り合えず脱出できた解放感が入り混じり、今度の渡米はどうなるのか、期待と不安の夏が終わるころ、僕は航空券とパスポートを手にしたのでした。

では今日はこのぐらいにして、明日は2度目の留学について書きます。

 

今日も窓辺の餌箱にはひまわりの種を貰いに、野生の鳥たちが来てくれました。写真では見難いのですが、

レインボーロリキート(Rainbow Lorikeet)くちばしと胸がオレンジ色、頭は青、体は緑のインコ

 

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コロナ感染

2022年06月02日 19時12分27秒 | 日記

昨日は時おり咳が出て、喉の調子もいつもと違ったので、夕飯の後で念のため簡易コロナ検査キット(RAT)を使って検査をしてみたら、何と、コロナ陽性でした。(見出し画像参照 赤い二本の線が陽性、一本だと陰性)

症状は軽い普通の風邪ぐらいで、今日はあまり咳もでず、ちょっと咳と鼻水が出て体がだるいかなというだけです。これぐらいならそれほど心配しなくても良さそうですし、今日もブログが書けそうです。

今の所、幸いにも僕以外の家族はコロナ陰性です。息子は2か月程前にコロナに感染して、(後遺症もなく一週間で復学)まだ抗体はあると思います。妻は昨日と今朝の簡易検査の結果は陰性でしたが、今日は仕事を休むことにしました。

多分、感染の原因は、退職以来、久しぶりに元の職場にアルバイトとして出勤し、多くの人に挨拶し、殆どの職員はマスクはしていなかったので、僕も気を許して時折マスクを外してしまったからかも知れません。その職場では既に半数近い職員がコロナに感染しているらしく、僕が呼ばれたのも、コロナで欠勤している職員の交代要員としてでした。

オーストラリアではウイズコロナ政策により、家族の一人が感染しても、最低一週間の自主隔離になるのは当事者だけで、他の家族に隔離義務はなく、学校や会社に行くことができます。学校や職場でのマスクの着用義務はなく、飲食店の店員さえ殆どマスクをしていません。ビクトリア州の人口は700万人弱、愛知県の人口よりちょっと少ないくらいですが、コロナの新規感染者は毎日一万人前後もいるのです。現在ビクトリア州のコロナ患者数の累計は約200万人弱ですが、この数は本人や医療機関が報告した数ですから、ただの風邪だと思って検査をしなかったり、自覚症状がなく、感染にさえ気づかない人もかなりの数でしょうから、ひょっとしたら、総人口の半分以上が既にコロナに感染した可能性が無きにしも非ずでしょう。

コロナ禍の収束がいつになるのかは誰にも分からないと思いますが、やはり、人口の8割ほどが感染して集団免疫ができるまで続くのかもしれません。

では、コロナの為、今日のブログは早めに切り上げます。明日は病状が安定していたら留学後について書きます。

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米国留学編

2022年06月01日 18時48分59秒 | 留学

今日は息子を学校に送った後、バニングスというホームセンターでウサギのくくり罠を作る材料の細いワイヤーを買ってきました。30メートルで5豪ドル(約450円)でした。その後、いつものショッピングセンターで食材の買い物。家の戻ってから薪ストーブに火をつけてブログを書き始めました。見出し画像はそのワイヤーです。

では昨日の続きを書いていきます。

米国留学プログラムに参加できるのは毎年5名の狭き門。その内、一人に留学費用が免除されます。英会話の練習の為にアメリカ人留学生と積極的に英語で話して留学の試験に備えました。

大学2年生の後期に受けた学内の留学選考試験は、アメリカ人の先生との英語の面接試験で、不安な面持ちの学生が一人ずつ面接室に通されていきました。質問の内容は自分の家族やサークル活動、留学したい理由などで、僕は落ち着いて英語で答えることができました。面接試験の結果は僕がトップだったので、奨学金が出て、渡航費や留学中の費用が月々千ドルほど支給され、無事に米国留学の切符を手にしたのでした。派遣先はアラスカ大学。厳冬期には気温が氷点下40度まで下がると言われたので、名古屋の登山具店で、一番分厚いダウンジャケットやウールの靴下を準備して、アラスカの厳しい冬に備えました。

海外に出るのも、飛行機に乗るのも初めての経験で多少心配でしたが、現地に着いて、アメリカ人の話す英語が殆ど理解できたので、安堵しました。同じ大学から一緒に行った他の4人の日本人は英語の準備不足で、話すことににあまり自信がなかったようです。留学初期の頃、寮で仲良くなったアメリカ人に「僕の英語って、どうよ?」と聞いたところ、「とてもいいよ。何を言っているか分かる。去年来ていた日本人の留学生たちは始めはあんまり会話ができなかったけど、、、。」と言われて、自信が付きました。

アラスカ大学には僕達の大学からの留学生の他、地方の国立大学から3人が僕らと同じように9月から翌年の5月までの9か月間、派遣されて来ていました。海外留学の最大の罠は日本人同士つるんでしまうことです。日本人同士で集まって日本語で話していたら、留学に来た意味はありません。こうなると周りのアメリカ人とも交流できなくなってしまい残念な留学生活になってしまいます。そこで僕ともう一人の日本人留学生はNever Japanese Speaking Club (日本語は話さんクラブ) を作り、日本人同士でもお互い英語だけで話すようにしました。

アラスカ大学ではエスキモーの学生達も2、3割くらいはいて、僕のルームメイトもダニエルというエスキモーの中年のおじさん(当時40歳)で、教職課程をしている人でした。金曜日か土曜日の夜になると同じエスキモーの仲間が大勢僕らの部屋に出入りし、ビールを飲んで酔っ払ったり、噛みタバコを噛んで唾を空き缶にぺっぺと吐き出したりしながら、夜遅く迄パーティーをしたので、僕も時々仲間に入れてもらいました。(というか、この学生たちが帰るまで、うるさ過ぎて僕が寝られないので、仕方がなく仲間に入れてもらいました。)因みに、大学の寮や建物の中は完全暖房で真冬でもTシャツでいられます。ダニエルさんはいつも素っ裸で寝る人でしたが、、、。

アラスカ大学の授業は日本のそれとは全く異なり、生徒は積極的に発言していました。僕はミクロ経済学、マクロ経済学の他に、初級の軍事学や留学生の為の第二外国語を履修しました。留学中に履修した科目の中で一番面白かったのが軍事学(military science)で、士官候補生や予備軍のコースの科目で講義の他に実技ではライフル射撃や地図とコンパスを使ってのナビゲーション訓練、整列訓練(Attention! 気をつけー!)などの軍事教練が毎週一回午後からあり、アメリカ陸軍に入隊した気分で参加していました。

寮の一階にはピアノやテレビやコンピューター一台が備わった大きなリビングがあり、その寮に住んでいる60名程の男女学生が勉強が終わったころ入り浸って寛ぎ、また寮の隣の大きなカフェテリアではに寮に住んでいる人たちと食事を共にできたので、多くの学生と友達、知り合いになることができました。

週末の夜には大学対抗のアイスホッケーの試合を観戦したり、大学内で上映される入場無料の映画鑑賞会に行ったりしました。(当然、映画に字幕はありませんでしたが。)当時感動した映画は通訳者の視点からカンボジア内戦の実状を世界に知らしめてアカデミー賞を取ったKilling Fieldsやオーストラリアの砂漠地帯を舞台にしたデストピア映画のMad Max 2など、1980年代を代表する映画です。

アラスカ留学中に始めたスポーツはクロスカントリースキーです。雪が積もった針葉樹林の中にクロスカントリースキーのコースが寮の直ぐ近くから伸びていて、週末や大学の授業の後、寮に戻って着替えてから、友達と一緒にクロスカントリースキーを履いて、大学の裏のコースを1時間ほど歩いたり滑ったりしてきました。このスポーツは雪の中でハイキングとスキーが同時に楽しめるスポーツです。冬の寒さですが、氷点下20度か30度になると、外気に触れる顔の皮膚が痛くなり、息を吸い込む度に鼻毛が凍ります。因みにおしっこは出た瞬間には凍りませんのでご心配なく。

この様に、9か月の留学生活もあっという間に過ぎ、帰国の日が近づいてきました。その頃になると、英会話も自然にできるようになっていて、帰りの飛行機の中では「もっと、ここにいたい。でもお金はないから、帰るしかない。お金を貯めて、またいつかアメリカに来るぞ。」としぶしぶアラスカを後にしたのでした。

明日に続きます。

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