錯乱坊の彷徨える日々

フィールドでの出会いに癒しを求めて…

今なお残る戦の惨禍

2022年02月09日 | 歴史探訪
戦争と言えば先の世界大戦を上げられることでしょう。
しかし、この爺さんは明治10年(1877年)の1月29日に始まった西南戦争の方が身近に感じられるのです。
その理由は・・・・
ここ福岡県南部の三池と熊本を結ぶ三池往還と吉次峠ルートする吉次往還で政府軍と薩摩軍が激しい戦を繰り返し、先の記事でも少し述べていましたが母方の実家が西南戦争の激戦地である田原坂に近かったことと物心がつく頃まで過ごした場所が熊本県玉東町で官軍の病院跡である正念寺で良く遊んだものでした。
そして、そんな正念寺の山門には今もなお36か所の銃弾跡を見ることができるだけでなく、中には当時の鉛弾が今も残されいる。
が!
話はこれだけでは終わらない。
その官軍病院跡がある玉東町から戻った爺さんは征討総督本営が置かれた熊本県北の繁根木八幡宮の近くで過ごすことになるのです・・・
余談ですが、この石垣にも弾痕が残っている。


そして、その繁根木八幡宮の横を流れる繁根木川では薩軍第一大隊第一小隊と政府軍が撃ち合い、その対岸で旗を持って指揮をとっていた西郷隆盛の末弟である小兵衛が銃弾を左胸部に受け戦死した。
※撮影している川塘から放たれたとものと推測される。
そして黄色の指で示した川土手の裏に『西郷小兵衛戦死の地』の碑が設けられているのだが・・・・
この爺さんが子供の頃には白い矢印で示した場所に1尺ほどの石があり、その石には小兵衛戦死と刻まれ永徳寺に住まわれている方だろうか何時も花が手向けられていた。
しかし、この小さな石碑は後の法面工事によって無くなった。


ちなみに、こちらが今も残る小兵衛戦死と刻まれた石碑。
で、この戦いで亡くなった西郷小兵衛の遺体は永徳寺にあった橋本鶴松家から雨戸1枚を貰い受け兄の隆盛が菊池川を自ら渡り連れ帰ったとも云われている。
しかし、これが薩軍の兵によるものなのか、或いは隆盛らによるものなのかは今となってしは定かではない。


ただ、ここで一つ言える事は・・・・
この場所は加藤清正によって始められた治水及び新田開発事業によって“石はね”なるものが川塘に幾つも設けられていて、その後方は水流により3~4mほどの深さと流れの速さから簡単には渡れない。
また、公には菊池川を渡って百田へと運び出したと云われいるが、そのルートは加藤清正の新田開発事業によって旧菊池川は大きく曲げられて当時は深さもさることながら水量も多く百田へと遺体を雨戸に乗せて泳いで渡るなんて無理!無理!
何故知ってるかって?
それは私自身が経験者だからです。
だから・・・


もし、小兵衛の遺体を乗せて渡ったとすれば、この画像に写る小島(小島河原)から永徳寺側(津留の河原)へと渡り、そこから同じルートで戻って百田方面へと運んだのではないでしょうか。
何故かと言うと・・・
その前後は深くて渡れないし、間違って画像に写る白い建物側へと渡ると政府軍が陣を敷くど真ん中に飛び込むとことになりますからね。
ちなみに・・・・
この爺さんが子供のころには、この塘には渡し舟を生業とした人たちが住んでいた。
おーい!と呼ぶと酔っぱらったオヤジが船で迎えにきてくれる。
確か大人が50円で子供は10円だったかなぁ?
で、自転車を乗せると更に50円。
ここで話を本題へと戻そう・・・・
そんなこんなで、これらの地域では至るところで銃弾の痕が残されているのです。


その一つが、この荻迫神社(荻迫天満宮)。
政府軍により制圧されて薩軍が荻迫台場にへ移動したころのことです。


この荻迫神社も戦渦に巻き込まれ数多くの弾丸が撃ち込まれました。
一つ・・・
二つ・・・
三つ・・・
数えれば限がない。
この神もを恐れぬ不届き者がぁ! なんちっやって
※オレンジ色の指印は銃弾が貫通せずに残っているところです。


そして、その社殿の柱にも二つの弾痕を見ることができます。
※オレンジと黄色の枠で囲った部分
で、そのオレンジで囲った部分を拡大すると・・・・


黄色い矢印の方から社殿の柱に弾が撃ち込まれ指で指示した部分には今もなお鉛の弾が残っているのが分かるかと思います。


また、こちらは山鹿市にある熊本県指定史跡のオブサン古墳。
ほらぁ、この爺さんが良く行く山鹿温泉の直ぐ近くですよ。
で、これもまた余談ですが山鹿の中心地近くには桐野利秋が率いた薩軍本陣の跡が残されている。


そんなこともあって、ここ山鹿市鍋田周辺では政府軍(官軍)と薩摩軍による激戦が繰り返されてオブサン古墳の入り口を閉じていた塞石にも多くの弾痕が残っています。
こんバチあたりモンがぁ! 👈熊本弁風にね
以上のことからも分かると思いますが、この爺さんが育った場所が西南戦争の激戦地ということもあり耕された畑を駆け回ると当時に使用された弾丸やら四斤砲弾の破断片などを拾うことができたんですよ。
まぁ、今も一日をかけて真剣に探せば昔ほどじゃなにしろ1個くらいは拾えるとは思うけど・・・
だから、このCherry坊の爺さんにとっては今から145年前の西南戦争戦の惨禍が身近に感じられるのですよね。

長々となりましたが、こんな記事に最後までお付き合いを頂きお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

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田原坂

2022年02月05日 | 歴史探訪

今日っていうか、日付が変わって昨日になりましたが西南戦争の激戦地の一つである田原坂へ行ってきました。
そして、ここ田原坂は熊本城への援軍として南下する政府軍と北上する薩摩軍が明治10年(1877年)の3月4日から17日間の攻防戦を繰り返した場所で約4000人の死傷者をだした場所であることは有名。


そして、ここ田原坂は『雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂』と民謡【田原坂】の歌詞にもあるように加藤清正が熊本城を築城した際に城攻めを想定して道幅を可能な限り細くし、両脇の切り通しとしたことで土手上から城へと進軍する兵を弓やら鉄砲で狙えるようになっている。
だから、熊本城を落城されせるであろう南下する敵兵だけを想定ていたものだから熊本経由で北進する薩摩軍が一時的に優位に立てってしまった。
ただ、この後に薩軍は敗走することになるのですが、この田原坂で薩軍が政府軍を制圧し熊本県境にある南関を越えて福岡入りを果たしていれば、今の歴史は大きく変わっていたと思う。


で、そんな田原坂ですが下から一の坂。


続いて二の坂。


そして最後に三の坂と3つの坂で構成されていて、その坂と坂の間と最上部は見下ろす形で陣を設けられるように平坦な土地になっている。
そんな田原坂ですが・・・
母方の実家が、この田原坂の近くと言うこともあって子供の頃は駆け回って遊んでいた。
特にクワガタやカブトムシなどの虫捕りね…w
しかーし!
ここで忘れてはならいのが、その昔に政府軍が薩摩軍が攻防を繰り返した激戦地であるということ・・・・
だから踏みつけた足の下に硬いものを感じたら、それは石くれではなく大人の親指ほどもある鉛でできた銃弾だったり中には四斤防弾などの破片なんてものもあった。
そして、時には真っ赤に錆びてはいるものの刀であったり銃剣を見つけたりすると『カッコえー』と有頂天になって持ち帰ると・・・
こんな『人を何人殺したか分からないモノを持って帰るんじゃない!』と、こっ酷く叱られたものでした。


で!
今でこそ周辺はミカン畑と化して明るくはなったけど、この爺さんが子供のころは雑木が茂り薄暗くて帰りが遅くなるとマジで怖かったことを思い出す。
と、言うか・・・・
場所が場所だけに怪しげの話も多くありましたし、ここの官軍墓地や薩軍墓地で肝だめしをやって血の気が引く思いをした連中たちが少なからずいた事も確か。
いつかは、そんな話を『本当にあった怖い話』というカテで語ろうかと思いますが・・・ 今回は、これにてお終い。
次に行くときはタムシチンキ大作戦じゃぁ!👈ちょっと違うけど・・・

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桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕跡

2021年12月26日 | 歴史探訪
桜島爆発記念碑の後も話は続くよ何処までも・・・ なーんて感じで東桜島小学校を後にした爺さんは桜島港の前に広がる袴腰台地へと向かいました。
そして、そこには先の大戦において本土決戦に備え佐世保鎮守府部隊の第4海上護衛隊を改編して編成された桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕(海軍桜島基地跡)の跡地(坑口)を訪ねることにしました。


先ずこちらの坑口から左側へ2つ目までは魚雷調整室の出入り口で、大地を構成するシラス崩壊の危険性から現在は出入り口の全てが封鎖され坑内へ立ち入ることはできない。


ただ、小型レンズのコンデジで中を撮影すすると👆こんな感じで、坑口から数メートルはコンクリートで固められているが、その奥にある仕切りから先は、剥き出しのシラスのようで長い年月をかけて剥離崩落したと思われる土砂が足元に堆積していた。


また、2つの魚雷調整室の出入り口から更に右側へと進んだ3つ目の坑口はポンプ室への出入り口になります。
そんでもって、これは余談なのですが・・・
この爺さんが若かりし頃は坑口には厳重な鉄製の扉が取り付けてあって、これが桜島海軍第5特攻戦隊司令部壕跡と知らなかったものだから『避難豪に扉をつけたら意味があるんかい!』なんて思ってました・・・ 恥ず


そして上のポンプ室への坑口から更に先へと進むと藪に埋もれたように動力室への出入り口があるのですが、これら4つ(これらとは別に魚雷保管室の坑口があるらしい)の坑道は全て奥で繋がっていて飲料水槽・穀物庫・厨房・倉庫などの他、蒸留水タンク・臨時爆弾庫・魚雷保管室などがあったらしいのですが動力室の右側が崩落しているために坑内の全容が掴めていない・・・・ らしい。
そんな桜島海軍第5特攻戦隊ですが、当時は蚊龍や海龍の24隻の他に回天46隻、震洋725隻が在籍していたとされています。
ただ、先の戦争で戦死された方々には大変申し訳ないのですが、日本という国が負けたことで軍国主義から解放されたことは間違いがなく、こんなことを当時に書き記したり撮影したりしようものなら確実に身柄を拘束され、それなりの行為を受けていた事でしょう。
また、話は変わりますが・・・・
この海軍桜島基地に補給のために立ち寄られ沖縄運天基地を目指すも、薩摩半島沖合にて攻撃を受け戦死された沖縄蛟龍隊の皆さんのご冥福をお祈り致します。

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桜島爆発記念碑

2021年12月25日 | 歴史探訪
皆さん、こんにちは。
予告していた通り、昨日は15時30分に鹿児島北ICから九州自動車道を利用したルートで無事に帰宅しました。
そして、昨日の話に戻るのですが・・・・
ホテルをチェックアウトして車に乗り込んだものの鹿児島(大隅半島)は朝から雨。
それもお昼を過ぎた頃から本降りの雨に変わるという予報。
ならば、その前にと桜島の中にある桜島市立東桜島小学校へと出かけてきました。


で、その学校を訪れた目的はと言うと・・・
この桜島市立東桜島小学校のグランドの隅には大正噴火を教訓とした桜島爆発記念碑なるものが建てられているのです。
そう、別名を〖科学不信の碑〗と呼ばれている石碑です。
表には大きく『桜島爆発記念碑』と掘り込まれていますが、その裏には・・・・


大正噴火による島民避難の経緯と、それを教訓とした戒めが掘られています。
その全文が👇これです。

大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ
其爆發數日前ヨリ地震頻發シ岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ海岸ニハ熱湯湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ數回測候所ニ判定ヲ求メシモ櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ村長ハ残留ノ住民ニ狼狽シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ間モナク大爆發シテ測候所ヲ信頼セシ知識階級ノ人却テ災禍ニ罹リ村長一行ハ難ヲ避クル地ナク各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中山下収入役大山書記ノ如キハ終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
本島ノ爆發ハ古来歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値モ路途ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トス

大正十三年一月
東櫻島村



それでは、この碑文を現在の文字に直したものが👇こちら・・・

大正三年一月十二日の桜島の爆発は安永八年以来の大災害で全島が猛火に包まれ、噴石が落下し、降灰が天地をおおい、その光景は凄惨を極め、八つの部落を全滅させて百四十人の死傷者を出した。
この爆発の数日前より、地震が頻発し、山頂には多少の崩壊が認められ、海岸には熱湯が吹き出し、旧噴火口から白煙があがるなど、刻刻と容易ならざる現象があったため、村長は何度も測候所(※現在の鹿児島地方気象台)に判断を求めたものの桜島は噴火なしという回答であったため村長は残っていた住民に狼狽して避難するに及ばないと伝達した。
しかし間もなく大爆発が起き、測候所を信用した知識階級の人がかえって災難にかかり、村長一行は難を避ける場所もなく、各自海に飛び込み漂流する中で山下収入役や大山書記などはついに悲惨な最期を遂げるにいたった。 
本島の爆発は、古来の歴史にてらせば、後日また免れないことは必然である。
住民は理論を信頼せず異変を認知する時は未然に避難の用意をすることをもっとも肝要とし、平素から倹約・貯金し、いつ災害にあっても路頭に迷わない覚悟をしなくてはならない。
ここに碑を建て記録とする。 

大正十三年一月
東桜島村

そして原文の中で『理論ニ信頼セス』という一文は、これを執筆した当時の鹿児島新聞(現在の南日本新聞)の記者が忖度したのか測候所(鹿児島地方気象台)ではなく理論と変えたことで、この碑が『科学不信の碑』と呼ばれるようになった。
しかし、この文面の経緯は別にして・・・
昨今に頻発する自然災害に関しても、発令される避難の勧告などはあてにせず『日頃から災害に備え、少しでも危険と感じたら直ぐに自らの命を守る行動をとらなければならない』という警告として感じるのは私だけだろうか・・・

長文でありながら最後までお付き合いをいただき、ありがとうございました。

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カテゴリー追加のお知らせ

2021年10月05日 | 歴史探訪
タイトルで『カテゴリー追加のお知らせ』なんて言っても大した事ではありません。
ただ単に、これまで『雑記(ひまつぶし)』にまとめていた記事の一部を、これからは『歴史探訪』としてのカテゴリーでUPすることにしましたと言うだけのお話。
と言うことで・・・・
もし、これからお暇な時間があれば時々覗いてあげてください。


ちなみに👆上の画像は鹿児島県の沖永良部島にある『屋者琉球式墳墓』
西暦1400年ころに沖永良部島を統治していた世之主(真松千代)に仕えていた家臣の屋者真三郎(四天王の一人)の墓とされるが・・・・
世之主(真松千代)の墓にも厨子甕に収められた四天王の遺骨が四隅に世之主(真松千代)とその家族を囲むように安置されいるらしい。
と、言うことは・・・ 分骨?
それとも納められた厨子甕を移したとか?
まぁ、そんな話は置いといて・・・・
その昔に豊臣秀吉が行った対外戦争で負った薩摩藩の財政を補おうと、助けた一人の琉球人を盾に慶長14年(1609年)から慶長15年(1610年)にかけて島津家久が琉球王国に対して何をしたのかは、また別の機会にでも・・・・

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