―幼児期には利き手の確立を―
昨今では、左利きに対し、ひとつの個性として肯定的なイメージを持つ人が増えてきています。
ところが、いざ自分の子供が左利きとなると、子供さんの左利きに対し、右手使い/右利きに直す、と考える親御さんが少なくありません。
左利きに対するイメージは好転しているにもかかわらず、実際の子育ての場面では左利きを認める人が減ってしまうのです。
世の中は右利きが便利にできている右利き社会であり、その中で生きてゆくには左利きは不利である、子供にはそのような苦労はさせたくない、というのが主な理由のようです。
全部が全部直せなくても、せめて字を書くこととお箸ぐらいは右手で使えるようになって欲しい、と。
また、いまだに左手使いは「見た目が良くない」あるいは「無作法である」という考えを持ち、「矯正」すべきだ、という人もいます。
確かに、現実に左利きの人が生活していると左利きゆえに不便なことがあります。
しかしそれは、左利きの人の責任でしょうか。その人の生活の仕方に問題があるのでしょうか。
それは違います。本来、その人個人の責任ではないのです。
自分の意志で左利きを選んで生れた来たのではありません。
性別や血液型を選べないように、利き手というものも自分で選ぶことはできません。
では、個人の責任でないことにまで、個人が責任を取らなければいけないとすると、それはやはりおかしいのではないでしょうか。
左利きの子に右手使いを強制的に指導するのは、そういう個人の責任の及ばない領域にまで、個人に責任を取らせることではないでしょうか。
一方、左利きの有名人やスポーツ選手の活躍により、左利きに良いイメージを持ち、あこがれる人も増えています。そういう人の中には、わが子を左利きにしようと考える親御さんもいます。
このように、世の中は右利き用にできているからと右利きに、あるいは左利きはカッコイイといって左利きに、と子供の利き手を変えようとする親御さんがいますが、これはとんでもない間違いです。
なるほど訓練した特定の動作はできるようになるかもしれませんが、手の運動神経はそれで非利き手が利き手並みになるわけではありません。
逆に、利き手を使う機会が減ることによって、利き手の運動神経が十分発達せず、運動能力も鍛えられず、不器用な利き手になってしまいます。
こうして、結局、どちらの手も使えるけれど不器用だ、といった中途半端な結果になってしまうことになります。
これは以前から、利き手の変換(「矯正」)指導の弊害のひとつとして言われています。
先日(2.18)の記事「産経新聞1/24記事「こども大変時代・右利きと左利き」」にもありましたように、幼児期において最も大切なことは、右利きであれ左利きであれ、それぞれの子供の固有の利き手の運動能力を最大限に発揮できるように、利き手を確立することだと言われています。
これがすみやかに行われないと、先ほども申し上げましたように、一生その子の利き手は非利き手並みの運動能力しか獲得できないと言われています。どちらの手も不器用な人間になってしまうのです。
幼児期においては、右利きであれ左利きであれ、その子の利き手を十分に発達させられるように、干渉せず自然に任せ、伸びやかに育てて欲しいものです。
利き手が確立したのち、必要を感じたその時点で、意思の力で自分を変えてゆくことは可能です。それからでも遅すぎる事はありません。
※参照:タジのウェブサイトH. Taji's Website「利き手矯正の身体発達への影響」
※本稿は、ココログ版「レフティやすおのお茶でっせ」より転載して、テーマサロン◆左利き同盟◆に参加しています。
昨今では、左利きに対し、ひとつの個性として肯定的なイメージを持つ人が増えてきています。
ところが、いざ自分の子供が左利きとなると、子供さんの左利きに対し、右手使い/右利きに直す、と考える親御さんが少なくありません。
左利きに対するイメージは好転しているにもかかわらず、実際の子育ての場面では左利きを認める人が減ってしまうのです。
世の中は右利きが便利にできている右利き社会であり、その中で生きてゆくには左利きは不利である、子供にはそのような苦労はさせたくない、というのが主な理由のようです。
全部が全部直せなくても、せめて字を書くこととお箸ぐらいは右手で使えるようになって欲しい、と。
また、いまだに左手使いは「見た目が良くない」あるいは「無作法である」という考えを持ち、「矯正」すべきだ、という人もいます。
確かに、現実に左利きの人が生活していると左利きゆえに不便なことがあります。
しかしそれは、左利きの人の責任でしょうか。その人の生活の仕方に問題があるのでしょうか。
それは違います。本来、その人個人の責任ではないのです。
自分の意志で左利きを選んで生れた来たのではありません。
性別や血液型を選べないように、利き手というものも自分で選ぶことはできません。
では、個人の責任でないことにまで、個人が責任を取らなければいけないとすると、それはやはりおかしいのではないでしょうか。
左利きの子に右手使いを強制的に指導するのは、そういう個人の責任の及ばない領域にまで、個人に責任を取らせることではないでしょうか。
一方、左利きの有名人やスポーツ選手の活躍により、左利きに良いイメージを持ち、あこがれる人も増えています。そういう人の中には、わが子を左利きにしようと考える親御さんもいます。
このように、世の中は右利き用にできているからと右利きに、あるいは左利きはカッコイイといって左利きに、と子供の利き手を変えようとする親御さんがいますが、これはとんでもない間違いです。
なるほど訓練した特定の動作はできるようになるかもしれませんが、手の運動神経はそれで非利き手が利き手並みになるわけではありません。
逆に、利き手を使う機会が減ることによって、利き手の運動神経が十分発達せず、運動能力も鍛えられず、不器用な利き手になってしまいます。
こうして、結局、どちらの手も使えるけれど不器用だ、といった中途半端な結果になってしまうことになります。
これは以前から、利き手の変換(「矯正」)指導の弊害のひとつとして言われています。
先日(2.18)の記事「産経新聞1/24記事「こども大変時代・右利きと左利き」」にもありましたように、幼児期において最も大切なことは、右利きであれ左利きであれ、それぞれの子供の固有の利き手の運動能力を最大限に発揮できるように、利き手を確立することだと言われています。
これがすみやかに行われないと、先ほども申し上げましたように、一生その子の利き手は非利き手並みの運動能力しか獲得できないと言われています。どちらの手も不器用な人間になってしまうのです。
幼児期においては、右利きであれ左利きであれ、その子の利き手を十分に発達させられるように、干渉せず自然に任せ、伸びやかに育てて欲しいものです。
利き手が確立したのち、必要を感じたその時点で、意思の力で自分を変えてゆくことは可能です。それからでも遅すぎる事はありません。
※参照:タジのウェブサイトH. Taji's Website「利き手矯正の身体発達への影響」
※本稿は、ココログ版「レフティやすおのお茶でっせ」より転載して、テーマサロン◆左利き同盟◆に参加しています。