2007.7.13(金)
鯉の思い出その1
鯉と言えば沢山の思い出がある。
父が鯉を飼うのを趣味としていたために、私が物心付いた頃から我が家の池に巨大な鯉が数十匹いた。
池は敷地の東側の庭にあった。この池も多い時は庭に3つくらいあったと思うが、家屋の増改築、敷地の収用などによりその都度位置を変えている。現在の庭は当時と比べると三分の一か四分の一程度の広さになっている。幼い時分には我が家の庭で、近所の幼友達とかくれんぼもやっていたのだから。最終的には池は1つになり、現在ではその池(2.5m×6m)が温室に変わっている。
それでも、私の娘たちが金魚やメダカを飼いたいと言った時には、父はすぐにその温室の一部を仕切って、深さ25cmで2m四方の小さな池を造った。やはり昔取った杵柄で小さいながらもしっかりした池が出来上った。今では娘たちもすっかり興味を失って、専ら父が金魚やメダカの世話をしている。
嘗て居た鯉たちは、今は米泉湖(末武川ダム)に棲んでいる。と言うのは、平成3年にロックフィル型の米泉湖が竣工した折、その竣工式のイベントの1つに我が家の鯉たちの放流が組み込まれたのである。
当時、水道局の幹部であった叔父(父の弟)と父との間で話が纏まったものと思われるが、その時随分寂しい思いをしたのを覚えている。その時の心境を父に確かめたことは無いが、父も私と同じ思いだったに違いないと思う。恐らく30年以上飼っていた鯉たちなのだから。
その日は、早朝から水道局の人たちが大勢遣って来て、ビニール袋に酸素を入れて、池の鯉たちを網ですくい上げては詰め込んでいた。鯉の姿が次第に池の中から消えて行くのは少々耐え難い光景であった。その一部始終を当時の重たいビデオデッキでテープに撮っていたのだが、そのテープも行方不明だ。探せば出て来ると思うのだが。
その鯉たちは今でも居るのだろうか。数年前に新聞の片隅に、1mくらいの鯉がダムで死んでいたとの報道があったそうであるが、恐らく我が家の鯉に違いない。鯉たちを放流したのが良かったのか悪かったのか、未だに判断出来ない。
父は現在、メダカを増やすことに精を出しているが、生まれたばかりの数ミリのメダカを先日の雨で流してしまった。子メダカを温室の池から外のプラスチック製の池に出していたためだ。それでもまだ小さいのが沢山泳いでいるのが見えた。あれから温室の池に移しただろうか。台風が接近しているので大雨になりそうなのに。
鯉の思い出その1
鯉と言えば沢山の思い出がある。
父が鯉を飼うのを趣味としていたために、私が物心付いた頃から我が家の池に巨大な鯉が数十匹いた。
池は敷地の東側の庭にあった。この池も多い時は庭に3つくらいあったと思うが、家屋の増改築、敷地の収用などによりその都度位置を変えている。現在の庭は当時と比べると三分の一か四分の一程度の広さになっている。幼い時分には我が家の庭で、近所の幼友達とかくれんぼもやっていたのだから。最終的には池は1つになり、現在ではその池(2.5m×6m)が温室に変わっている。
それでも、私の娘たちが金魚やメダカを飼いたいと言った時には、父はすぐにその温室の一部を仕切って、深さ25cmで2m四方の小さな池を造った。やはり昔取った杵柄で小さいながらもしっかりした池が出来上った。今では娘たちもすっかり興味を失って、専ら父が金魚やメダカの世話をしている。
嘗て居た鯉たちは、今は米泉湖(末武川ダム)に棲んでいる。と言うのは、平成3年にロックフィル型の米泉湖が竣工した折、その竣工式のイベントの1つに我が家の鯉たちの放流が組み込まれたのである。
当時、水道局の幹部であった叔父(父の弟)と父との間で話が纏まったものと思われるが、その時随分寂しい思いをしたのを覚えている。その時の心境を父に確かめたことは無いが、父も私と同じ思いだったに違いないと思う。恐らく30年以上飼っていた鯉たちなのだから。
その日は、早朝から水道局の人たちが大勢遣って来て、ビニール袋に酸素を入れて、池の鯉たちを網ですくい上げては詰め込んでいた。鯉の姿が次第に池の中から消えて行くのは少々耐え難い光景であった。その一部始終を当時の重たいビデオデッキでテープに撮っていたのだが、そのテープも行方不明だ。探せば出て来ると思うのだが。
その鯉たちは今でも居るのだろうか。数年前に新聞の片隅に、1mくらいの鯉がダムで死んでいたとの報道があったそうであるが、恐らく我が家の鯉に違いない。鯉たちを放流したのが良かったのか悪かったのか、未だに判断出来ない。
父は現在、メダカを増やすことに精を出しているが、生まれたばかりの数ミリのメダカを先日の雨で流してしまった。子メダカを温室の池から外のプラスチック製の池に出していたためだ。それでもまだ小さいのが沢山泳いでいるのが見えた。あれから温室の池に移しただろうか。台風が接近しているので大雨になりそうなのに。