この世には不運ということがある。
また、断念ということをしなければならぬ時もある。
ところが、これらのことも社会では認められにくい。
社会の側からは不運の結果を残すようにし、
断念しなくても済むように制度をつくるべきなのだが、
個人の側からは不運と断念を避けて通ってはならない。
なぜなら不運を認めることと、断念を承認することは、
人間完成の上に不可欠のものだからである。
不運を認めない人は、自分の人生を本当に手に入れられない。
断念を承認しない人は、人生を完結させられない。
曽野綾子(辛うじて「私」である日々)より抜粋
若い頃、曽野綾子さんの本をよく読んだ。
生き方や彼女の感性に惹かれた。
今も、時々曽野綾子さんの本を開く時がある。
また、断念ということをしなければならぬ時もある。
ところが、これらのことも社会では認められにくい。
社会の側からは不運の結果を残すようにし、
断念しなくても済むように制度をつくるべきなのだが、
個人の側からは不運と断念を避けて通ってはならない。
なぜなら不運を認めることと、断念を承認することは、
人間完成の上に不可欠のものだからである。
不運を認めない人は、自分の人生を本当に手に入れられない。
断念を承認しない人は、人生を完結させられない。
曽野綾子(辛うじて「私」である日々)より抜粋
若い頃、曽野綾子さんの本をよく読んだ。
生き方や彼女の感性に惹かれた。
今も、時々曽野綾子さんの本を開く時がある。