目を覚ました途端、脳みその奥から突き上げるような、ズキンズキンという痛みが私の頭を襲った。
「イタぁ……」
思わず額を押さえた私の視界に、ちょっと怒った表情をした彼が入ってきて言う。
「自業自得やろ」
「……起きていきなしそれ?」
「今日はお仕事が休みで良かったですね」
チクリと皮肉をこめた言葉を放って、彼は視界から消えた。にべもない。二日酔いの頭痛がさらに増しそうだ。
それにしても、この二日酔いはひどい。相当飲んだのは間違いないのだろうが、記憶の半分以上が飛んでいる。
ズキズキ痛む頭を、隣で寝ている彼に向けた。
「私、なんかした?」
「なんも」
「ウソ」
「ウソ言うてもしゃあないやろ。ヒナと比べたら、お行儀のいい酔っぱらいやで」
「村上君が比較の対象だなんてショック……」
「どこまで覚えてるん?」
「うーん……」
「俺が店に来たんは?」
「なんとなく。一緒に店を出たのもなんとなく」
「何話したとか、そうゆうのんは?」
「タカヒロと話したことは覚えてるんだけど……」
そう。彼が店に来る前、私はタカヒロ、つまり美奈子と話をしていた。その時の記憶だけは鮮明だ。
**********************************
「なぜ、黙ってたの?」
琥珀色のグラスが私の前に置かれた。グラスの中の氷がカランと音を立てて揺れる。私はそのグラスを手にして、上目遣いに相手を見て答えた。
「言わなきゃいけなかったかな?」
「知ってたわけでしょ。本人からいきなり聞かされた時の私の気持ち、わかる?」
「偶然なんだから、気にする方がおかしいわよ」
「そうかもしれないけれど、彼だって、あれ?聞いてないのって顔をしてたわよ」
一方的に責められるのは好きではない。だいたい責められるようなことじゃないのに。
「でも私には、あなたはずーっと『タカヒロ」なんだもん。『美奈子』じゃなくて」
タカヒロ、もとい今の名前は美奈子だが…は、私の前に置いたおつまみの皿にアーモンドを追加しながら、ため息をついた。
「なるほど。だから気づかなかった、と言いたいわけね」
「気づかなかったわけじゃないけど、彼と会う前からその名前にしてたわけだし、別に恐縮するようなことじゃないと思うんだけど」
私はアーモンドを口の中に放り込んで聞いた。
「彼、何て言ってた?」
「あのぉ、すみません」彼の口調を真似て言う。「美奈子さんって、僕のお母さんとおんなじ名前なんですよね。最初にお会いした時に聞いてびっくりしましたよ。あいつから聞いてました?」
美奈子は恨めしそうな表情で私を見た。
「私、聞いてませんけど、何か?」
「って言ったの?」
「そうは言わない。でも、あなたのことだから話した気になってたのかもって言ったわよ。そうしたら『ああ、あいつ、そういう所ありますよね』ですって。あなたったら、大学の時から全然成長してないのね」
「しょうがないじゃない。あれはもう話したなって思っちゃうんだもん」
勝手に自己完結しないでよね、と美奈子はカクテルを作り始めた。
バー『ポワゾン』。美奈子が3年前にオープンした店だ。アルコールを出す店としてどうかと思う名前だが、毒気を含んだセンスはいかにも美奈子らしい。タカヒロだった時から、彼の言葉は私にとって『良薬は口に苦し』を地でいくものだった。
いつもなら常連で賑わう店内には、今は私たち2人しかいない。後から彼が来るので、気を利かせた美奈子が開店前から『closed』の看板を出してくれたのだ。他人の視線を気にせず、彼と2人で会える貴重な店の一つだ。
「私、思うんだけど」
と、私はカクテルを器用に作る美奈子のほっそりした手を見つめた。女性よりも女性らしい手。細い指の先にある爪は、マニキュアをしていなくても桜貝のように綺麗な色をしている。
「人一倍人見知りなはずの彼が、あなたにはすぐに懐いたじゃない。お母様と同じ名前だからかなって思ってたんだけど、最近、あなたのキャラもあるんじゃないかなって思ってる」
「どういう意味?」
「タカ…美奈子って昔っから、お母さんみたいだったもん。私なんて全然頭が上がんなくて」
「私、そんなに家庭臭を漂わせてる?」
「そういう意味じゃなくて。一緒にいて安心するっていうのかな」
「使い古されたプロポーズの言葉みたい」
「そうだね。タカヒロが本当に女だったら、彼、プロポーズしてるんじゃないかな」
「あら、残念」
本気とも嘘とも取れない口調だった。そして、出来たカクテルを私の前にスッと出した。頼んだ覚えはない。私の怪訝そうな顔を見て
「新作。ブランデーベースに南国の果実をアレンジしてみたの」と説明してくれた。
オレンジカラーのカクテルは少しとろみがあった。口に近づけた途端、ブランデーの香りと共に立ち上ってきた甘い香りに圧倒されそうになる。
「これ、マンゴー?」
「宮崎県産。ブランデーが負けてるでしょ」
口に含むと甘さをさらに強く感じる。その圧倒的なまでの甘さを、ブランデーが必死で追いかけている。そして微かに喉を通り抜ける爽やかな酸味。これは何だろう。
「マンゴーとパッションフルーツを使ってるの。どう?」
「悪酔いしそう」
「失礼な感想ね」
「口当たりが良すぎて、飲みすぎちゃいそうってこと。美味しいよ」
私はさらにひと口飲んだ。「この感じ、クセになるかも」
「恋愛みたいにね」
なるほど。甘さと酸いの先にある酔うほどの悦楽。一杯飲み干した頃には、胸の内にモヤモヤと渦巻いていた感情は、いつの間にか薄れていた。その代わり早く彼に会いたかった。
「もう一杯、もらえる?」
**********************************
ウイスキーボトルから最後の一滴をグラスに落とした時、木製のドアが軋んだ音を立てたのを耳にして、私はゆっくり振り返った。
恐る恐るといった感じで開いたドアから彼が顔を覗かせて、私を見ると安堵の表情を浮かべて、中に入ってきた。
「びっくりした。ドアに『closed』ってあったから、俺、日にち間違えたかな思て焦ったわ」
私の隣に腰掛けて、店内を見回す。
「貸切やん」
「前にも、あったよ」
「前?いつ?」
いつだっけ?たしか……
「去年の……秋ぐらい?」
「えっ!そんな前?」
「2人でここに来るのは、うん、たぶん、そう」
「そん時も貸切にしてくれてたんや」
そこでようやく「あれ?美奈子さんは?」とキョロキョロした。
「帰った」
「帰った?」
「ついさっき。追いかける?」
酔った勢いで、思わず口をついて出た。私って最低。男を相手にヤキモチを妬くなんて。
彼は笑って、追いかけへんよ、と言った。
「でも、そしたら俺らも帰った方がええんちゃう?」
「なんで?」
「なんでて、ここは美奈子さんのお店なんやから、俺らが勝手に使ったらアカンやろ」
「タカヒロ、いいって言ったよ。2人で好きにしていいって」
あえて「タカヒロ」と彼の本名で言った。そんな自分の姑息さに心の中で自嘲しながら。そして、カウンターの後ろにあるドアを指さした。
「ベッドも使っていいって。あっでも、ソファーベッドだからエッチするにはちょっと狭いかもぉ」
反応を見たくて、彼の顔を覗き込んだ私の頬を、彼の手が軽く叩く。
「おまえ、飲みすぎや」
「そう?」
私は、オレンジ色の液体が半分残ったカクテルグラスを彼の前に滑らせた。
「なに?」
「新作」
口をつけた彼は目を丸くした。
「なんやこれ、ウマいけどめっちゃ甘い」
「宮崎のマンゴーだって」
「マンゴーはわかる。あと何?このお酒」
「ブランデー」
「うわ、パンチ効きすぎや」
あのね、と彼の耳元に口を近づけて囁いた。「『愛の媚薬』」
「これ?」
「そう」
「名前。考えたのおまえやろ」
「うん。なんで分かったん?」
「美奈子さんやったら、そんなセンス悪い名前つけへんもん。おまえがべろんべろんに酔っぱらったアタマで考えそうなダッサイ名前や」
「ヒドーい」
彼の頬をつねろうとして、だけどしっかりブロックされて、手首を掴まれた。
「おまえ、言うけどな、ホンマ酒臭いで。もうええやろ。うちに帰ろ」
「やだ」
「店の鍵は?預かってる?」
「やあだって言ってるじゃん」
相当めんどくさい女になってるなと酔った頭でも自覚しながら、私は彼の首に両腕を回した。
「ここで、して」
彼は頑として首を横に振った。
「ここで、したいの」
粘る私の腕を振り払うように、彼はスツールから降りて、私の手を握った。
「うちに帰ろ、な」
ぎゅっと私の手を押さえつける彼の指の感触に、不意に泣き出したくなった。私、いったい何を意固地になってるんだろう。
その時、「女性」として完璧なタカヒロの、いや、美奈子の顔が脳裏にチラついた。
ヤダ、と小さな声で主張した。その声が震えていることに、私自身が驚いた。
「もう、なんやねん」
なだめるような彼の声がして、気づいた時は彼の胸の鼓動を耳にしていた。私の背にまわされた彼の腕の力強さが、気持ちを静めていく。彼はまるで、駄々っ子をあやすように、私の頭を撫でながら、低い声で諭すように言った。
「あのな、どんなに美人でも美奈子さんは男や。おまえと比べるわけないやろ」
そんなことわかってるよ。わかってる。そう。私が本当に気にしている相手は、男の『美奈子』じゃない。
同じ名前を持つその人は、彼の心の中で、たくさんの思い出の中で、生涯忘れられることはない唯一人の……
零れ落ちそうな涙を堪えた。ここで泣いても、彼に涙の意味はわからないだろうし、繊細な彼の気持ちを動揺させてしまうだけ。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼が言う。
「それにな、いっくらストライクゾーンが広い俺でも男はないで。ぜったいない」
それはたしかに、あまりに当たり前すぎて、私は思わず笑いだした。笑って、彼の背中に腕を回した。
たとえどんなに強く抱き合っても、互いの気持ちは繋がっていると信じても、それでも、不安と常に背中合わせなのが、恋なのかもしれない。
帰ろうか、その言葉にようやく素直に頷いた。歩き出そうとすると、足がふらつく。かなり酔ってるんだな、と自覚した時、目に見える景色が急下降した。思わず自分が小さく縮んだのかと錯覚するほどに。
彼が私の名前を呼びながら、床に崩れ落ちた私の腕を掴んで引き上げようとしているのを、私は朦朧とした頭でぼんやりと見つめていた。
**********************************
「店で俺と話したこととか、ひとっつも覚えてないんか」
私は彼と何を話したんだろう。彼が店に来た時と、彼に抱えられるようにして店を出た時の記憶はあるのに、店の中で2人きりでいた時の記憶だけが、ゴッソリ抜けている。まるで、不思議の国から戻ってきたアリスが、そこで体験したことを覚えていなかったように。
「家に帰ってきてからは?自分で風呂入ったことも覚えてないとか?」
私は首を振った。酔って帰ると、自分でも知らないうちに風呂に入り、パジャマに着替えてベッドで寝ていた、という状況は時々ある。
「たぶん、体が習慣で覚えてて無意識にやってるんだと思う……家に着いたら風呂入る、それからベッドに入る。誰かさんの教育のおかげだね」
彼の手が無言で私の頭をトンと軽く叩いた。
「痛いって」
痛いのは彼の手じゃなく、二日酔いの自分の頭の方だが。
「狭すぎなんやな」
「何が」
「ベッド。まあソファーベットよりマシやけど」
いったいどこのソファーベットと比較してるんだろ。
「だって、これシングルなんだから狭いに決まってるじゃん。一人用ベッドに二人だなんて」
「そやな」
もちろん、ダブルベッドに買い換えることを今までに考えなかったわけじゃない。でも、彼がいない夜、そのベッドで一人過ごすのは、とても耐られそうになかった。それは、一人旅で広いダブルベッドを悠々使うのとは訳が違う。
ふと気づくと、彼が私の髪に触れているのがわかった。
お互いに仕事が忙しくなってきて、やっと2人で過ごせる貴重な夜だったというのに、私が台無しにしてしまった。今度、彼とこうして会えるのはいつになるんだろう。
「アホやね、私」
後悔が自虐の言葉になって口をついて出た。
「そんなんわかっとるし」
隣をちらっと見て、さっきのお返しに、彼の頭をトンと小突いてみた。
彼がため息混じりにつぶやく。
「やっぱり狭いな。このベッド」
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ラフティングではしゃぐ横山さん、ヨシダソースに感激の嵐の横山さん、舞妓さんの登場にあげぽよ~な横山さん
もうなんでもいい。彼がやることなすことすべてが大好きでたまらない管理人です
さて。今回の短編。
母の入院・手術の合間に、気晴らしにコツコツ書きためていたものです。
書いている間は、現実をちょっと忘れられる。自分が自分の作品に助けられるとは思ってもいませんでした。
今回で2度目の登場となる「美奈子」ですが、初めて登場させた時、読者の方からどんな反応が返ってくるかなあと少々不安に思っていました。
でも、「不謹慎だ」と非難するようなコメントもなく、なんだか自然に受け入れてもらったので、胸をなでおろしていたのですが、一応、言いわけはしておいた方がいいかなと。
オマージュというわけではないのですが、考えた末に、中性的なキャラクターの彼女(彼?)ならと、お名前をお借りしました。
でも、個人的に、昔からこの名前が好きで憧れてたというのもあるんですけどね。名前に「美」ってついてるだけで、なんかちょっと得した気がしませんか?
私の本名って、特に漢字で書くと、全体的に角張っていて、色気も可愛げもない。つい最近まで、本当に嫌いな名前でした。
でも、親が一生懸命考えてつけてくれた名前なので、大切にしたいとは思うのです。
とはいえ、もう少し柔らかい感じを出したくて、最近は名前だけひらがなで書くようにしてます。
さて。サブタイトルのエロさはほとんどない今回の作品ですけども、いつも彼に気をつかってばかりな「私」をちょっと遊ばせてあげました。これくらいの甘えとわがまま、酔った時くらいしたっていいんじゃない?と。
ところで、自分でもいつも書いてて思うんだけど、この短編、いつまで続けるのかなあ?
まあ、彼もいい歳なので、いきなし『熱愛』とか『結婚
か』が出てきてもおかしくはないわけで。
でも、今はまだまだ続けますよ。
だって書いてるのが楽しいんだもん(笑)
美容院を出てすぐに時計を見た。午後1時を少し過ぎていたが、ほぼ予定通り。それでも少し早足で、私は次の目的地に向かった。
雨雲ではないが、薄鼠色の雲が空全体を覆っていて、五月晴れらしい抜けるような青空はどこにも見当たらない。3連休最後のこどもの日だというのに惜しい天気だった。
でも、久しぶりに髪全体にストレートパーマをかけて、仕上げに毛先を緩く内側に巻いてもらったヘアスタイルが気に入って、私の気持ちは弾んでいた。もちろん、気持ちがフワフワと浮き立っているのは、微風をはらんで揺れる髪だけが理由ではないけれど。
途中、お気に入りのセレクトショップの前を通り掛かった。店のウィンドウに映る自分の姿をちらりと見る。去年の秋口にバッサリ短く切った髪は、ようやく肩先まで伸びて、最近はシュシュで結ぶことが出来るまでになった。ショップには夏物の新作が並んでいたが、あいにく今は立ち寄って買い物を楽しむ余裕はない。今日は、その先の信号を渡った所のスーパーマーケットに用がある。
信号が青に変わるのを待ちながら、私は今日のメニューに必要なものを、頭の中でもう一度リストアップした。
彼から電話がかかってきたのは、実家から戻ってきたばかりの昨日の夜中だった。
―おまえ、いま実家?
「ううん、さっき帰ってきた。金曜日、仕事だし」
―そっか。明日は何するん?
「明日?特に予定ないから家にいると思うけど……」
言ってから思い出した。
「あっ、お昼は『ヒルナンデス』見るよ」
―その『ヒルナンデス』終わった後なんやけど、そっち行ってもかまへん?
「私はかまへんけど。時間あるの?」
―レコメンまでずっと空いてんねん。
それじゃあ来れば?待ってるからと電話を切ってから、もうすぐ彼の誕生日だということを思い出した。もちろん、プレゼントは用意してある。連休前、クライアントの仕事に付いて行ったロサンゼルスで買ってきたTシャツ。
現地滞在わずか2日間という強行スケジュールの中、仕事場所が目当てのショップに近かったことと、クライアントも興味を持っていたブランドだったことが幸いだった。
ちょっと早いけど、明日渡しちゃおうかな。今の彼の仕事のスケジュールだと、渡すタイミングを逃しちゃうかもしれないし。でも、家に来た彼にプレゼントを渡すだけというのも何だかなあ……
というわけで、ちょっと手間暇かけて、手料理を振る舞うことにしたのだ。
家に着くと、スーパーで買った食材をキッチンに置いて、私はテレビのスイッチをつけた。
番組は、ちょうどエンディングの真っ最中だった。彼のために番組が用意したバースデーケーキを横目に、スタジオからここに来るまでにかかる時間を気にしながら、私は調理に取りかかった。
まず、下ごしらえにアスパラガスの皮を削いで、ベーコン、じゃがいも、玉ねぎを細かく切りながら、小鍋に湯を沸かして、アスパラガスを軽く茹でる。
番組が終わったのをきっかけに、テレビからCDに切り替えた。コンポから流れるaikoの歌のリズムにのって、大きめのボールに豚の挽き肉、生卵、刻んだベーコンを入れ、そこに塩、胡椒、薄力粉を混ぜ合わせ、さらに牛乳を少量ずつ加えながら、ハンバーグのタネをせっせと作る。出来たタネを大きなスプーンですくって、熱したフライパンの上にふわりと落として形を整えた。
ハンバーグに焼き色がつくまでの間、パスタの準備を始める。ブラウンとホワイト、2つのマッシュルームを加えたスパゲティーニ・アッラ・ジェノヴェーゼ。スパゲティより細麺のスパゲティーニに絡めるバジルソースは、以前にイタリアの惣菜専門店で買った。自分で作るよりずっと美味しいし、これを混ぜるだけでプロの味に変わるので重宝している。
パスタを茹でる前にハンバーグの仕上げにかかった。ひっくり返したハンバーグを弱火でじっくり加熱している間に、じゃがいも、玉ねぎを炒め、玉ねぎが透き通ってきたタイミングで、茹でたアスパラガスを加えて、塩と胡椒で味付ける。
盛り付け用に、食器棚から備前焼の大きな皿を引っ張り出した。
あれは、去年のソロコンサートが終わった後だったか。
4月から始まったツアーの間、彼とは電話でよく話をしていたのだけれど、5月のあの日を境に彼との連絡が途絶えた。ツアーが終わった後も音沙汰がなく、誰もが知り得る情報しか入ってこない。
まだ電話で話す程度の付き合いしかしていない彼のプライベートにどこまで立ち入っていいのか迷いながら、気持ちだけは伝えたくてメールした。返事は来なかった。
頼りにもされない、心の支えにもなれない、彼にとって私はどういう存在なんだろう……まるで底無しの深淵を覗いている気分のまま、時間だけが淡々と過ぎていく。
ようやく彼から連絡がきたのは、梅雨入りの声を聞いた頃だった。梅雨の晴れ間に恵まれた休日の午後、久しぶりに彼と会った。
「ここ来る途中、骨董市やってたけど、ちょっと見に行かん?」
骨董なんかにまったく興味がなさそうな彼が珍しいことを言うと思ったけれど、もしかしたら気を使ってくれているのかもしれないと、二つ返事でいいよと答えた。
近所の商店街の空き店舗を利用して開かれていた骨董市には、日常で使えそうな食器から高価そうな掛け軸やインテリアまで所狭しと並んでいた。
店内をひやかしながら一回りした私たちは、食器が置かれた一角でなんとなく立ち止まった。彼が茶碗を一つ手にとって、その値段を見て目を丸くした。
「なにこれ、茶碗1コでこんな値段ついてるで」
「古伊万里だからじゃないの」
「骨董ってすごいな」と言いながら、彼はなぜか真剣に茶碗を物色し始めた。
私は周りを見回して、ふと目に付いた備前焼の大皿を手に取った。素朴な風合いになんとも言えない味わいがある。ただ、一人暮らしの身には不要な大きさだ。それでも迷って眺めていると、「なあ」と彼が横に立って、渋い焼き色の大ぶりの茶碗を差し出した。
「これ……」
「え?」
「おまえんとこ、置いといてええか、俺用に」
始めは彼が何を言っているのか、分からなかった。ぽかんと口を開けた私を見て、イエスと解釈したわけではないだろうが、彼は私の返事を待たずに、私が持っていた大皿を取り上げて
「これも一緒に買っとくわ。刺身とか乗せたら旨そうやもんな」
そう言って、皿の値段も確認しないで会計に行ってしまった。
私の部屋の食器棚に、彼の茶碗。
それは、私たちの関係を少し先に進めてもいいという彼の気持ちの表れなのか。彼がはっきりと言葉にして言わない分、私の心はまだ不安定に揺れていた。そこへ支払いを終えた彼がニコニコしながら戻ってきた。
「びっくりしたぁ、俺の茶碗の方が高かったわ」
「いくらしたの?」
彼は首を横に振った。「言わん」
「言ってよ。どれくらい取り扱いに気を使えばいいのか気になるじゃない」
「いや、言わん」
彼は笑うばかりで、結局、値段は教えてくれなかったけれど、そのあと刺身の盛り合わせを買って帰り、備前焼の大皿と、彼専用の茶碗をさっそく使った。
そして、最初から2人の間で決まっていたことのように、どちらから言い出すわけでもなく、いとも自然な流れで、私たちは初めて、一晩を一緒に過ごした。そこに確かな言葉はなくても、私の中で渦巻いていた不安のかけらは、彼を受け入れたことでいつしか消えていた。
あれから何度となく使った大皿は、ここ1年の間に少しずつ色目が変わり、さらに風合いを増している。付け合わせの野菜炒めを敷いてその上にハンバーグを盛った。
茹で上がったスパゲティーニにバジルソースを絡めて色づけし、それから炒めたマッシュルームを軽く混ぜ合わせて、パスタ皿にそれぞれ盛り付ける。
最後に、オーガニック野菜でサラダを作っている所に、「なんや美味しそうな匂いがするぅー」と言いながら彼がやって来た。
「うっわ、これハンバーグやん。てか、なんでaikoちゃんの曲流してんの?」
料理するのにちょうどリズムが合うのよ、と言い訳しながら冷蔵庫を開けた。
「ビール……じゃない方がいい?このあと仕事だし」
「ええよ。まだ時間あるし。もしアカンかったら全部ヒナにしゃべらせるから」
「もうすぐ30歳になる人の発言とは思えないなあ」
美奈子に教えてもらったオリジナルのフレンチドレッシングをサラダにかけて、缶ビールと一緒にテーブルに持っていった。
「おまえの料理、久しぶりやな。どしたん?」
「ああ……いちおう誕生日祝い、のつもり……」
「ホンマに?ありがとうな」
「ゴメン、ケーキは用意してないんだけど」
「ええって。ケーキばっか食ってたら、俺、ぽっちゃりしてまうで。おまえ、そんなん嫌やろ」
体型のことを言うなら、ビールもどうかと思うけどね、と私は心の中で苦笑しながら、缶ビールを開けて祝杯をあげた。
ヒルナンデス、見てる? 録画して見てるよ。 なあ、ハンバーグにはパスタじゃなくて、白いごはんが鉄板やで。ごはんじゃ誕生日って感じしないもん……たわいもない会話を交わしながら、私たちは1時間もしないうちに完食した。
「てか、なんでこんなハンパな時間にガッツリ食うてんねん、俺ら」
ソファーの上で猫のようにゴロゴロ横になっている彼のお腹の上に、私はプレゼントの包みを置いた。
「え?プレゼント?」
こういう時、彼は抱きしめたくなるほど可愛い笑顔になる。起き上がって、ニコニコしながら包みを開ける彼の隣に座って言った。
「ロサンゼルスで買ってきたんだけど、気に入ってくれたら嬉しいな」
Tシャツを取り出しながら、彼は驚いた顔で私を見た。
「ロサンゼルス?アメリカの?」
アメリカ以外のロサンゼルスってあるのかな?
「いつ行ったん?俺聞いてへん」
「連休前。あ、でも仕事だよ。現地にいたのはたった2日間だし」
「じゃあ、これ仕事中に買うてくれたん?」
「仕事中というか仕事の合間ね。あのね、たまたまクライアントの社長も行こうと思ってたショップだったの。で、じゃあ一緒に行こうよって」
「社長?男?」
「うん」
「若いん?」
「さあ、そんなん聞いたことないけど、30代かなあ」
「独身?かっこいいん?」
私は彼の手からTシャツを取り上げた。
「もう、一生懸命探してきたのに、なんでヤキモチ妬く?」
「アホか、ヤキモチなんか妬いてへんわ」 と言って、私の手からTシャツを奪い返した。
「俺、そんなヤキモチとかめんどくさいことせえへんもん」
「じゃあ、変なこと聞かないでよ」
「それは。興味があるからちょっと聞いただけやろが……」
言葉尻がデクレッシェンドの見本みたいに弱くなっていく。手にしたTシャツに視線を落としている彼は、今にもシャツに頭だけ突っ込んで隠れようとしているみたいに見える。意地悪な質問を振ってみた。
「男の人が独身か、かっこいいか、そんなんに興味あるの?」
「ない」
ふてくされた口元が可愛いらしくて、その唇に触れたくなって、だけど唇じゃなくTシャツを手にして彼の前に当ててみた。
「似合ってる」
彼は私をちらっと見ると、いきなりTシャツを挟むようにして私を抱きしめた。彼の息づかい、彼の体温、彼の匂い、私を包み込んだ彼のすべてに、体の芯が燃えるように熱く沸騰する。夏でもないのに溶けてしまいそうな感覚に、めまいを起こしそうになった。あの日から、同じことを何度も繰り返しているのに、毎回新しい刺激を感じるのはなぜなんだろう。使い込むほど風合いを増し、表情を変えていく備前の焼き物のように、彼と体を合わせるたびに、私の体も変化をしているのだろうか。
「なあ、ええか」
「なにが」
「今から……抱いてもええか」
もう抱いてるじゃん、と思ったけど、彼が言っているのは違う意味だということくらいわかる。今まで一度だってダメだなんて言ったことないのに。
「なんで、聞くの」
「髪。だって、せっかく綺麗になっとんのに……くしゃくしゃになってもええのかなて」
つい数時間前のことなのに、自分でもすっかり忘れていた変化に、彼は気づかないふりをしながら、ちゃんと気がついてくれていた。彼の不器用な優しさは、いつも思いもしないサプライズを私にくれる。
私は、いいよという言葉の代わりに、精一杯の熱いキスで答えた。髪なんて。あなたに愛されて乱されるのならちっとも惜しくない。
レコメンに遅れんように起こしてな、と唇と唇が一瞬離れた隙に彼が言う。うん、と頷いた私の体は、柔らかいソファーの上で二人分の重みで沈み込んだ。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
久しぶりの短編という気がします。
というか、今までがかなりのハイペースで書いていたんですよね。続きものを書いていたから。
えーと、今回は、彼の誕生日という話なので、とにかく早くアップしないと、え?いまさら?みたいな感じになってしまう~と、少々焦りながら仕上げました
今までにない料理のシーンなど入れてみたりしてみましたが、いかがでしたでしょうか。
最近は、自分でも書きながら赤面してしまうようなことも書いておりますけども…電車の中で携帯で書いてる時とか、私、こんなとこで何書いてるんやろ?と思ったりするんですよね
とはいえ、基本、楽しんでますが、何か?(笑)
あとはですね、また、美奈子さんを登場させたいなあ……と、いま考えています。
次回作まで、少々お待ちくださいませ
全身にダルさを感じたのは、午後3時を回ったくらいだったろうか。外が薄暗くなり始めた頃には、熱っぽい悪寒が私の身体を襲いだしていた。
あの大震災の日を境に、自粛ムードに圧されて春先のイベントが次々と中止や延期になったこともあり、いま抱えている仕事に急ぎのものはない。
時計を見て、行きつけのクリニックの診察時間に間に合うことを確認した私は、パソコンを閉じて帰り支度を始めた。前の席の後輩が、私の動きを見て顔を上げる。
「あれ。今日は早いですね」
「ちょっと熱があるみたいなの。病院立ち寄って帰ろうと思って」
お大事に、という言葉を背中で受け流しながら手を振った。
医者の見立てはただの風邪だったが、熱が下がるまでは仕事を休むように言われた。
明日は夏のイベントの打ち合わせがある。朝までに熱は下がるかしら、と不安に駆られながらフラフラの状態で家に着いた私は、リビングのソファーにバッタリ倒れ込んだ。パジャマに着替えもしないでベッドに飛び込む、ということをしなくなったのは、そういうことを嫌う彼の1年に渡る「教育」の成果かもしれない。
だるい体を起こして、床に投げ出したバッグを引っ張り上げ、中から薬を取り出す。風邪薬も解熱剤も、即効性がなさそうな漢方薬を処方された。まあ、私が曖昧な言い方したのがいけないんだけど。
「妊娠はしてない?絶対にしてないと言える状態?」
2週間前に生理は来たし、Hの時にはちゃんと注意してる。けれど、確実に避妊しているかと問われたら、少々答えに困る。
ただ、近頃は彼が忙しすぎて、全然会っていない。だから全く問題ありませんと答えればいいのだけれど、それはそれで女としてのプライドが傷つくんだよね……そんなことを考えながら答えた。
「……たぶん」
とにかく、漢方薬を飲むにしても、何か口にしなくては。食欲はまったくないのだが。
冷蔵庫にあったリンゴを、皮を剥かずにかぶりついて、プレーンヨーグルトと一緒に胃袋に送る。そのあと、水で薬を流し入れた。
薬を飲んだことで、ちょっと気分がよくなったような気がした私は、シャワーを浴びてから寝ることにした。
それがアカンかった。バスルームから出る頃には、寒気が増して、ご丁寧に熱まで上がっていた。髪を乾かすのもそこそこに、ベッドに入って、冬眠中の熊のように丸くなって布団にくるまる。
明日までに治るとは到底思えなくなってきた。最悪だ……
「熱があるのにシャワー浴びた?うっわ、呆れた。あなたってホントにバカねえ」
「今日は何を言われても甘んじて受ける……」
「私と同じ大学出た人と思えないんだけど。母校の恥よ、恥」
「ちょっタカヒロ……」
「美・奈・子!なんで昔の名前で呼ぶの?いい加減に覚えてよね」
タカヒロ、否、美奈子に思いきり睨みつけられ、私は布団を頭まで引き上げた。
美奈子は大学の卒業式前までは、柏木孝弘というれっきとした男子だった。それが卒業式の日、彼は突然、女子の袴姿で現れたのだ。元々、女の子と見紛うほど可愛い顔をしていたので違和感はなかったが、それが一時的な気まぐれの女装などではなかったことは、その後の彼の人生の選択を見て分かった。
彼は内定していた大手の会社を何の未練もなく蹴ると、ニューハーフの世界に飛び込んだ。
そして3年前、目黒に念願だったショットバーの店を持った。その可憐な容姿ゆえに客受けが良くて、常連客もかなり付き、店の経営は順調にいっているようだった。時々、私も立ち寄っている。
昨日も行く予定であらかじめ連絡をしていたのだが、熱のせいで、すっかり忘れてしまっていた。その上、携帯の電源を切っていたので、連絡が取れないことを心配した彼が、わざわざ家まで様子を見にきてくれたというわけだ。
「お粥、作っておいたからね」
「ありがとう。助かる」
熱があるんだから、これくらい貼っときなさい、と美奈子が冷却シートを私の額にピシャリと音を立てて貼りつけた。
「そういえば一昨日だったかな。彼がお店に来たよ。メンバーと一緒に」
「えっ?よく来るの?」
まさか、私抜きで彼が美奈子の店に行くとは思ってもいなかった。
「よくは来ないけど、たまにね」
全然知らなかった。隠し事をされたような気がして、ちょっと凹んだ。
「一人でも来たりする?」
「それはない。必ず誰かと一緒」美奈子は私の手をポンと叩いた。「でも、あなた以外の女と来たことはないから大丈夫よ」
極度に人見知りな彼がそんなことをするはずはないが、もしも一人で美奈子の店に行ったりしていたら、私は男の美奈子に嫉妬してしまうかも。
「あっ。それと昨日話そうと思ってたんだけど、田宮が来たわよ。震災前の話だけど」
去年の夏のことが蘇る。熱が一段と上がりそうな気がした。
「田宮のプロポーズを断ったんだって?本人から話を聞いたけど、そういうことは先に言ってくれないと私が困るのよ」
「なんかあった?」
「付き合ってる男を知ってるかって聞かれた」
私はよほど焦った顔をしたに違いない。
「言ってないわよ。知らぬ存ぜぬで通したから。当たり前でしょ」と即座にフォローが入った。
「ほとんどパリに駐在してるらしいから大丈夫だと思うけど、これから彼と2人で店に来る時はあらかじめ連絡してくれる?」
「了解……」
水分不足にだけは気を付けるのよ、とお茶の入った携帯ボトルをベッドサイドに置いて、美奈子は帰った。途端、一気に部屋が暗くなったように感じた。窓からは春の明るい陽光が差し込んでいるというのに。
しんと静まりかえった部屋は、元気な時は何も感じないが、体調を崩して寝込んでる時は、気分が更に滅入りそうになる。
彼の声が聴きたくなって、私はiPodで歌を聴きながら、頭から布団を被って目を閉じた。
夢を見ていたような気がする。
ぼんやりと目を覚ました時、夢の残像を追いかけたが、記憶に留まる間もなく、かき消されてしまった。
眠っている間に日が沈んだのか、薄暗い夜の気配が室内を覆っている。
まだだるさの残る体をベッドから起こすと、芳醇なかぐわしい香りが鼻孔をついた。コーヒーサイフォンがコポコポいう音が、半開きのドアの向こう、リビングの方から聞こえてくる。
美奈子が戻ってきてコーヒーでも淹れているのかと思った次の瞬間、歌声が耳に飛び込んできた。それは、今の今までiPodで聴いていた彼の声だった。
なんで彼がいるのだろう。ハッキリ言って、こんな日に会いたくない。熱で湿気を帯びた髪の毛は、お世辞にも癖毛とは言い難いほどクシャクシャだし、寝汗をかいたパジャマは汗臭い。
冗談やめてよぉ……
私は布団の中に潜り込んで、狸寝入りを決めこむことにした。彼が様子を見に来ても、寝たふりをして、彼が帰るのを待とう。
彼の柔らかい声に乗って『イエローパンジーストリート』が、布団越しに聞こえてくる。
それにしても、いつから来てたんだろう。コーヒーを淹れているということは、その前に豆を挽いていたはずなのに、全然気づかなかった。
それより、彼は私が仕事を休んでここにいることに気づいているんだろうか……と、彼の歌声が近づいてきて、私は布団の中でギュッと固まった。
君が熱出てないか熱出てないか心配だ~♪
替え歌?しかも字余りだし。てか、私がいるのを知ってんの!?
「あれ?」
布団の真上から声が下りてきた。それを聞いて、私は中で布団を掴んで、アルマジロみたいにさらに丸くなった。
ポンポン。と、布団の上から彼が軽く叩く。
「熱、計ったんか」
「……」
私は気づかないふりをした。
ポンポンポンポン。叩く回数が増えた。しかも、ちょっと強くなってるし。
「なんも食ってないんやろ。おかゆ、あっためたるから食えって。栄養取らんと治らんから」
そっとだが、布団を引っ張られる感触に、私は焦って中から引っ張り戻した。
「ちょっ待て。おまえ、起きとんのか」
布団を引っ張る力が増した。ヤダーと思わず声が出る。
「何がイヤやねん。こっちは心配しとるのに」
布団の攻防はあっさり決着がついた。元気な男とまともに競うだけのパワーはない。私は布団から目だけ出した。
「ヤダって言ったじゃん」
「何が」
「だって頭モシャモシャやしスッピンやし……」
「アホか、おまえのスッピンなんかもう見慣れとるわ」
と、私の額にかろうじてついていた、カサカサに乾いた冷却シートを取った。
「まだ熱あんのかな」
彼は呟きながら、手を私の額に触れた。彼の掌から柔らかい冷たさが、熱を帯びた全身にすーっと伝わっていく。
「冷たくて気持ちいい……」
「そっか、気持ちええか」
彼は空いていた片方の手を、私の首筋にそっと当てた。熱なんて出してなければ、うっとりしてしまうようなシチュエーションなのに。こんな姿では気分は上がらない。
「ちょっとまだ熱っぽいな」
彼はサイドテーブルの上にあった体温計を私に手渡した。
「熱計ってて。おかゆ、持ってくるから」
「今日、仕事は?」
「たまたまやけど、お休み。弟が学校行っちゃってどうしよう思てたら、美奈子さんから電話もらってん」
もう、タカヒロったら余計なことを、と思った直後、いつの間に2人が互いの電話番号を交換したんだろうと疑問が湧く。たしかに、タカヒロに会わせた時から、ニューハーフで頑張って生きてきた彼にかなり興味を抱いてはいたけれど……まあ、男相手に妬いてもしょうがないか。
「おまえが熱出して寝てるから、ヒマなら様子見てきてって。ヒマならって、俺、別にヒマしてるわけやないのに。つかの間のお休みもらってただけやん」
「忙しい時なのにゴメンね」
3ヵ月連続の新曲ラッシュに、レギュラー番組も増えて、スケジュールがビッシリ入って、かなり忙しいのは知っている。だから、せっかくのお休みを私のために使わせてしまって申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
彼が驚いたような顔で振り返る。
「なんやえらい素直やな。おまえ、ずーっと熱出しとったらええんちゃう」
私が投げつけた枕を、彼は笑いながら悠々と避けた。
熱は微熱くらいには下がっていたが、身体のだるさは続いている。でも目の前のおかゆを見て、空腹感を覚えてきたので、体力は戻ってきたのかもしれない。
「美奈子さん、優しいな。俺じゃ作れへんもん」
「メンバーとお店に行ったんだって?」
私の隣に座りながら彼は頷いた。
「おん。行ったよ。アカンことないやろ?おまえの話は一切しとらんし」
彼の言葉にふと疑問がよぎる。メンバーは私のことを知ってるの?
喉元まで出掛かった質問を、しかし、私はお粥と一緒に飲み込んだ。
それは自分から知る必要のあることだろうか。メンバーが知っていようがいまいが、それを知ったところでどうだというのだろう。私たちの関係に何か変わりがあるのだろうか。
コーヒー飲む?と聞いてきた彼に、いらないと首を振った。お粥にコーヒーの組み合わせなんてありえない。可笑しくなって笑い出しそうになった。
「ねえ」
「ん?」
「もう大丈夫だから」
「何が?」
「花粉症なのに、風邪うつしたら悪いし、帰っていいよ」
「やっぱり、俺、花粉症なんかな」
彼は困ったような顔で自分の鼻先をつまんだ。
「ひのき花粉でしょ」
「おまえはちゃうの?」
「これは風邪だって医者が。だから、うつらんうちに帰って」
「ええよ。もう少しおるよ」
「いいって」
「ええって。なんも予定ないし」
「でも、ほんとにいいから」
「ええってゆうとるやろが」
「悪いし」
「ええし」
「気になるし」
「気にせんし」
彼が私の肩に手を回した。「大丈夫やって。俺、風邪なんかうつらんから」
それに、ホンマは俺にいてほしいんやろ?と、からかうように言い足した。
もちろん、それは冗談で言ったんだろうけど、私の本音はその通りだった。今、彼に帰られてしまったら、私は孤独感に押し潰されてしまう。
これ以上迷惑かけさせたくないから帰ってほしい、そう思う気持ちの裏に、寂しくなるからまだ傍にいてほしい、と願う想いがある。心の内にさえ存在する本音と建前。自分でも持て余してしまう厄介な二重の感情。
私はスプーンでお粥をゆっくりかき回した。中国粥のように、中に赤いクコの実が入っている。美奈子らしい気遣いだ。本当に、美奈子がタカヒロという男じゃなかったら、私はきっと気が気じゃないだろう。
「うつっても知らんから」
「そんなら、うつるかどうか試してみる?」
「なに試すの?」
「……チュウしよか」
お粥から隣にいる彼に視線を移す。自分で言った言葉に照れているのか、彼は私から顔を背けていた。
この人の心の中は、私と違って、シンプルではっきりしている。私に向けられる彼の言葉に建前は一切ない。だから、私は彼といて安心できるんだろうな、と思う。
私は、彼の肩に頭を乗せた。先ほどから少しずつ全身を伝う火照ったような感覚は、微熱のせいなのか、それとも、彼を求める私の渇望のせいなのか。
「……してくれる?」
「ええよ」
彼の指が私の頬に触れた。
― おまえがもうやめてて言いたくなるくらい、いっぱいチュウしたるから……
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
GWに入ってから、ブログの更新がサボり気味でスミマセン。
というか、3連休の後、1日仕事出て、それから3連休して、また1日仕事出て、土日休みって、なんだか調子が狂う…
さて。GWとはまったく関係ない話を書いてみました(笑)
しかも、こういうシチュエーションの話をただ書いてみたかっただけという、初期の妄想作品に近いので、中身はじつにペッラペラです。まあ、私の頭の中も連休中ということで、ご勘弁ください
まあ、こんな内容ですので、お気軽にご感想などお寄せください
ところで、今回、初登場の「美奈子」さんですけども、前々からいつかは登場させようと思っていたキャラクターです。「私」と「彼」の関係を、第三者の立場から見る人がいたら面白いやろうなと、ずっと思ってたので。
本当なら、メンバーの誰かがその立場に立ってほしいんですけども、書く側からすると、ちょっとそれはそれで制約があって難しい。なので、また架空の人にしてみました。
今日はですね、夜から舞台「たいこどんどん」です。
先日、オセロの時にもらったチラシの中に、しげさんの「ビターオレンジ」が入ってました
でも、一番テンション上がったのは、やはり新感線の「髑髏城の七人」のチラシ
公式サイトを見てみたら、超カッコイイ。ドクロブログでは、スチール写真撮影の様子が、小栗君と森山未来君の分が上がってますけども、す、す、素敵すぎる…
ああ、いつになったら、野波さんが撮影する加藤成亮の姿が見られるのかしら?
あ、今、ちょっと思ったんだけど、関ジャニ∞で「七芒星」とかやってくんないかな。新感線メンバーは関西人ばかりだし、それにエイトが加わっただけで練習とか超楽しそう
てか、エイト勢ぞろいで、野波さんが撮影したらどうなるんやろ。まあ、そんなの見たら、間違いなく私、昇天しちゃうかも
そうだ、ライブのパンフ、今度、野波さんにお願いしてみてはいかがでしょう。
ちなみに「七芒星」、前に、しげさんで見てみたいと思ってた舞台なんだけどね
それにしても、今回の髑髏城は、捨之介に小栗君、無界屋蘭兵衛に早乙女太一だなんて、もう、チケット取るのめっちゃ苦労しそうです
捨之介と蘭兵衛の禁断のシーンはどうなるんやろ~
あっ
そういえば、明日の「ヒルナンデス」の観覧はハズれたんやなあ…
まあ、明日は何も予定ないので、テレビでゆっくり見ますわ
<summer time> <第1話> <第2話> <第3話> <第4話>
********************************
申告するものも特になく、私は税関検査を通過して、日本国内へ繋がる自動ドアの前に進んだ。扉が左右に開いて広々とした到着ロビーが目に入ると、やっと日本に帰ってきた、という気持ちになる。
パスポートだけが自分を証明する唯一の身分証という、ちょっと不便な世界からようやく解放され、次の旅まで使う必要がなくなったパスポートをバッグに入れた。
現地での出発が大幅に遅れ、中途半端な時間に到着したせいだろうか、あるいはこの時間に着く便自体がもともと少ないのか、出迎えの人も少なく、到着ロビーは普段と比べて閑散としている。
私はスーツケースを引きながら携帯をかけた。すると、1コール目が鳴り終わる前に電話が繋がったので、ちょっと驚いた。
「あ…ただいま」
― おかえり。
「今どこにいるの?」
― 2階の喫茶店。上がってきてすぐんとこの。一番奥の席。
私はエスカレーターで2階に上がると、目当ての喫茶店の入口から首を伸ばして奥の方を見やった。
こちらに背中を向けて、彼が座っている。
店員のいらっしゃいませという声を振り切るように、私は彼のいる席にまっすぐ向かった。後ろから彼の肩にそっと手を置いて、顔を覗き込む。
「あっ眼鏡…」
黒縁のフレームが、端正な彼の顔によく似合っている。私はフレームを指でちょんと突いてみた。
「もう、なにすんねん」
「素敵」
彼の白い顔にさっと朱がさして、照れくさそうに笑う。
「そんなんわかっとるわ」
行くぞ、と彼はレシートを手に立ち上がろうとしたが、私は彼の向かい側に座った。
「どしたん?」
訝しげに私を見下ろす彼を見上げて言った。
「お昼ご飯食べたい」
ちょうどランチタイムの時間ということもあって、店内で食事をしているのは空港関係者が多い。
私は1プレートのランチセット、彼はハンバーグとエビフライのセットをそれぞれ頼んだ。
「だから、ボロブドゥールって、元から黒かったんじゃないんだって」
「じゃあれや、保存のための調査に使った薬剤のせいで、元と違う色に変わったゆうことか」
「そう、それ聞くと複雑な気持ちになるでしょ」
「本末転倒やな」
「うん。ただね」
私はパスタに絡ませかけたフォークを途中で止めた。
「もし、元の赤茶色の遺跡だったら、世界遺産としてこれほど注目を浴びたかなあって思うんだよね」
「ふーん…まあ、俺は実物見とらんからな、ようわからん」
ハンバーグが彼の口の中に放り込まれる。
「あれ?それ、遠回しに私を責めてる?」
「別に責めてへんわ。事実をゆうただけやろが」
私はデジカメにボロブドゥールの全景を写した写真を出して、彼に見せた。
「ね、ほら、この重厚感と荘厳な雰囲気って、この色だからこそなんじゃないかな」
「黒」
「そう」
彼が私を見る。
私は彼を見た。
先に視線を外したのは彼の方だった。
「そやな」
「私、この色、好き」
言うと、彼はちょっと目を伏せて照れ笑いした。
私は伸び上がって、パスタとハンバーグの上で、彼の柔らかい唇にキスをした。
デミグラスソース味のキス。
照れるのを通り越して驚いている彼に、私はニッコリ微笑んで、フォークにパスタを絡ませた。
「…びっくりした。なんや、いきなし」
彼が口に手を当てながら、周りを気にするように伺う。
「おまえ、どしたん」
「何が?」
「なんか、あったんか」
「なんかって?」
「俺の知らん女かと思ったぞ。なにすんねん、こんな公共の面前で」
「誰も見てないよ」
「恥ずかしいやろが。リアクションに困るわ」
「私にキス返してくれたらいいじゃん」
「アホ。そんなん出来るか」
彼は耳まで真っ赤になりながら、私の頬を指でつまんだ。
「痛っ」
「おまえがアホなことゆうからや」と、頬を軽くつねって笑う。
彼の笑顔が眩しかった。頬をつねられながら、でも、胸の奥に温かい感情が広がっていくのを感じた。
「ごめんなさい言うたら放してやる」
「きみ君…」
名前を呼んだ途端、胸が詰まって、その後の言葉が続かない。
「ごめんなさいは?」無邪気な笑顔のまま、彼が言う。
不意に、彼を見つめる目の奥に熱いものがあふれてきた。
あの時、私はいったい何を迷っていたんだろう。
この笑顔を失うことと引き換えに得られるものなんて、そんなもの私にはいらない。
「…ただいま」
言葉と共に堪えていた涙が零れ落ちた。
彼がはっとした表情を見せた瞬間、その指がふっと緩んだ。
********************************
私は、赤いリングケースを彼の前に押し戻した。
ダイニングの灯りで出来た影とは明らかに違う陰が、彼の顔に浮かぶ。
「どういうこと?」
のどの奥で何かが詰まったような彼の声に胸が痛んだ。
「ごめんなさい。これは受け取れない」
彼が息をのむ音がはっきりと聞こえた。
「受け取れない?」
「本当にごめんなさい」
私はテーブルに額をつけるようにして頭を下げ続けた。
「意味がわからないな…もしかして俺、振られてる?」
私は顔を上げられなかった。
「…ごめんなさい…」
「はっきり言ってくれないか。ごめんなさいだけじゃわからないから」
私は心持ち頭を上げた。でも、顔は下を向いたままだ。彼の顔を見ることが出来ない。
「…あなたとは結婚できない」
「どうして?」
「…ごめんなさい」
「理由を聞いてるんだ。理由もわからなくて、はい分かりました、とは引き下がれないよ」
たしかに彼には知る権利がある。この高い投資が無駄に終わった理由を聞く権利が。
私は顔を上げて、彼の目をまっすぐに見て、静かに言い放った。
「あなたを愛していないから」
自分の言葉がどれほど残酷か、百も承知。でも、これが事実。
彼の覚悟に、私も覚悟を決めて正直に答えようと決めた。彼を酷く傷つけてしまうことも、そして返す刃で、自分もまた傷つくこともわかっていたけれど。私の一太刀を受けた彼は、されど、表情を一切変えることなく、黙って私を見つめ返していた。
いま、彼の中ではどんな葛藤が繰り広げられているのだろう。それとも、伝えきれないほど山ほど湧き出てきた怒りの言葉を整理しているのだろうか。
私は、これで何回目になるのだろう、ごめんなさいという言葉を、また口にした。
彼が静かに目を閉じた。「滑稽だな」
自嘲するような彼の声が、耳に、心に、痛かった。
「俺は、相手のいない土俵の上で、独り相撲を取ってたというわけか」
そう言って彼は目を開け、赤いリングケースを手にした。
「俺を愛していない…それが答えのすべて?」
「………」
「俺を愛していないんじゃなくて、愛せないんだろ?」
彼はケースをジャケットのポケットの中に納めた。まるでその箱の色のごとく燃える熱情をも封じ込めるように。
「なぜなら。君には他に愛してる人がいるから。そうなんだろ?」
私は黙ったまま俯いた。
正直に答えたつもりでいたのは、自分だけだった。
私は彼を愛していない。私が答えたのはカードの表だ。表には裏がある。
愛していないのは愛せないから。愛せないのは他の誰かを愛しているから。
「その彼と…結婚するの?」
彼の声に、ほんの微かだが震えが混じった。この問いに対する答えは、さらに彼を傷つけるかもしれない。
私は肩をすくめて言った。「どうかな。わからない」
私の言葉に彼は苦笑した。
「なるほど。彼とは結婚しないかもしれない。だから迷った。そういうこと?」
迷う…そう、たしかに私は迷っていた。確かな未来と不確かな未来の狭間で。
「そう、だと思う」
今にも泣き出しそうな表情が彼の顔に浮かんだ。
「それで、君のその迷いを解いたのは何だったの?彼氏と話でもした?」
私は視線をゆっくりと外へ向けた。深い夜の闇の向こうへ。
「ボロブドゥール寺院から昇る朝日を、誰よりも彼と一緒に見たいって思ったの」
********************************
カーテンの隙間から部屋に差し込むオレンジ色の帯の中で、小さな塵がきらきら輝きながら舞っている。
僅かに離れた唇と唇の間で彼が呟いた。
「俺、何話そうとしたか忘れてもうたわ」
彼の首筋に流れる一筋の汗を、私は指先で拭った。少し汗ばんだシャツの肩口に頬をのせて、「ごめん」と囁く。
だって、不意にキスしたくなったんだもん…
彼は手にしたままの本を持ち上げた。
「これやな。思い出してきた」
歌人、茨木のり子のエッセイ本。
「これ、この詩、し…しゅくこん、うた、て言うんかな?」
彼は開いていたページを私に見せた。そこに書かれている漢字三文字のタイトル『祝婚歌』。
この詩を作った吉野弘のことを書いたエッセイの冒頭に、詩の全文が載っている。
「うた、じゃなくて、か、じゃないかな。『しゅくこんか』」
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気付いているほうがいい
「な、この詩、ええと思わん?」
意外だった。彼がこの詩に興味を持つとは思っていなかった。
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
「これ結婚式とかでめっちゃ使われてるんやって。俺、全然知らんかった。初めて見た」
「一度だけ友だちの式で聞いたことあるけど。最近はあんまり使われてないのかな」
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
「俺やったら知り合いとか友だちの結婚式で使ってみたいな。だってこれ聞いたら、みんなめっちゃ感動するやろ」
そうだね、と答えながら、彼の話はどこへ向かっているんだろうと訝しく思う。
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
「弟の時とか、俺がこれ読んだら『兄ちゃん、カッコええ』って絶対なるやろ」
自分の時、じゃなくて弟なんだ。
彼にとっては、自分のことよりも、2人の弟の人生が最優先なのだろう。
そんな彼の生き方が、私をますます彼に惹きつけてやまない。
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
「けどな、作った本人はこの詩はアカンって思ってんの、おもろいよなあ。だって周りはめっちゃ評価してるんやで」
彼は本のページを繰りながら続けた。
「エイトレンジャーかて、俺が意地通してやりたいもんやっただけやけど、めっちゃウケて、ライブの定番みたいになったしな」
祝婚歌とエイトレンジャー。
「だから、何が他人にウケるとか、おもろいって思ってもらえるんかは、結局は誰にもわからんもんなんやな。蓋あけてみて、初めてわかることなんやって。俺、これ読んで、そう思たわ」
思わず彼の顔を見た。また彼の新しい横顔を見た気がした。
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で 風に吹かれながら
「ねえ」
「うん?」
「私、あなたのそういう思考回路がほんとに大好き」
彼がチラと私を横目で見る。
「それ、誉めてんの?」
私は首を横に振った。「惚れてんの」
一瞬の間を置いて、彼が笑い出した。
「おまえ、いま自分巧いこと言うたって思ったやろ」
「なにそれ、そんなん思ってないよ。私、きみ君とちゃうもん」
「いや、いや、俺はそんなベタなことよう言わんわ」
「私だって狙って言ったわけじゃないし。惚れてんのはホンマのことやから…」
私は彼の首に両手を回した。
この日、2度目のキスは彼の方からだった。
生きていることのなつかしさに ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるのであってほしい
********************************
あの時、私の迷いを解いたのは、この詩だった。
この詩が、迷子になりかけていた私を、探し求めていた場所に導いてくれた。
目の前の彼の元に。
私の頬をつまんでいた彼の指が、頬に伝う私の涙をそっと拭っている。
何も言わず、何も聞かず、穏やかな笑みを口元に浮かべ、そして最後に、大きな手を私の頬に優しく押し当てた。
決してぶれない芯の強さ。
すべてを包み込む懐の深さ。
子供のような無邪気さの裏側に秘めた彼の度量に、私はいつも救われ、そして甘えてる。
私の頬に当てられた彼の手に、私も黙って自分の手を重ねて、微笑み返した。
Fin
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
最後までご愛読いただき、ありがとうございました。
えーと、今回のお話、いかがでしたでしょうか。
今まで「私」と「彼」の二人だけでまわる話が多かったのですが、もう一人の「彼」を出したことで、今までとはちょっと違う感じで、これはこれで楽しんでいただけたのかなと思うのですが・・・忌憚のないご感想をいただけたらと思います
さて。
その今回のもう一人の「彼」ですけども。私は誰をイメージしてたんでしょうか。
あー野立会に参加したいな~
はい、そうです
野立参事官ですもとい、竹野内豊さんです
「ビーチ・ボーイズ」の頃からの憧れです
そして今、見れば見るほど、昔よりも断然カッコよくなってるやーんと思うのです。
横山さんもそうですけども、歳を重ねるたびに素敵になっていく人っていいですよね~
まあ、これで、「私」が悩んだわけも、ご納得いただけるかと
今でも、「ホンマにこれでよかったのか、『私』!」と思わないでもない(笑)
一昨日の木曜日、ラジオでレコメンを聞きながら、テレビで「BOSS」を見るという、聖徳太子的なワザをやってました。
正直、キツイ
「BOSS」を録画して後から見ればいいんだけど、でも、リアルタイムで見たくてたまらんのです。
来週からはどうしようかなあ…
ところで、みなさんはもう一人の「彼」を、誰でイメージされていましたか?
ぜひぜひお聞かせくださいませ
それと、ここしばらくはいろいろ思う所もあり…リアルタイムでお話を書くことを躊躇ってました。
現在進行形だと、どうしても、3月11日のあの日のことを避けては通れない。
でも、それについて、フィクションで書くことはどうしても出来ませんでした。
それもあって、約1か月の間、過去の話、ということで短編を書いていたのですけども、そろそろリアルタイムなネタで書きたいなと思ってます
だって、楽しいネタがいっぱいあるから
というわけで、みなさまに楽しんでいただけるものを近いうちにお披露目しますね
あ、マルちゃん、映画出演おめでとう
<第1話> <第2話> <第3話>
********************************
「仕事、夜からとちゃうの?」
私を空港まで送っていきたい、と彼が出発日のスケジュールをマネージャーに確認しているのを、私はその隣で片肘ついて頭を支えながら聞いていた。どうやら彼の思惑通りとはいかないようだ。
なんやねん、とぼやきながら携帯を切った彼は、抱えていた枕をバスンと叩いた。
八つ当たりされた枕もだが、今日の仕事は午後からなのに、早朝から電話を受ける羽目になったマネージャーも気の毒だと私は思った。
「悪い、この日、仕事あんねんて」
「だから、いいって言ってるじゃん。いつもバスで行ってるんだから。だいたい一週間程度の旅行でお見送りなんて逆に恥ずかしいし」
「そんなら帰りは?俺、迎えに行くわ」
「それもいいって。だって今忙しいんでしょ」
「マネージャーに確認しとく。成田、何時に着くん?」
また電話を掛けようとする彼の携帯を、私は慌てて押さえつけた。
「あのね、あなたが空港でウロウロしてたら目立つでしょ」
「俺な、こう見えて意外と気づかれないねん」
「意外とって…ねえ、それ喜んでいいの?」
「オーラがないとかとちゃうで。オーラを消すのが上手いねん」
どや顔で言う彼に思わず笑ってしまった。
「なんで笑うん。ホンマやって。おまえ、疑っとんのか?」
彼も笑いながら、私の上に体重をかけてきた。
不意に密着した体を通して、直に伝わってくる彼の体温と重さに、たちまち全身が溶ろけてしまいそうな感覚に私は落ちた。体中が潤うような甘美さの中で、私は首を小さく横に振る。
「なあ、成田に何時に着くん?ほんまになんも予定なかったら迎えに行くから」
私の体の中の深いどこかでくすぶりだした熱が、私の思考を蝕んでいく。すでに、彼の言葉は記号のように、私の中では意味をなさない。
「…何時だったかな…たしか朝なんだけど…ねえ、あとでも、いい?」
「ええけど、忘れんなよ」
うん、と答えようとした私の声は、キスで塞がれ行き場を失った。
携帯の呼び出し音で目が覚めた。
私はゆっくりと寝返りをうって、自分がいまどこにいるのか確かめた。
間接照明の灯りが、乳白色の部屋の壁に影を作っている。広々としたベッドの端で携帯は光っていた。その呼び出し音は、私が電話を待っている相手ではないことを、はっきりと教えてくれている。
電話を手に取り、相手を確かめると、はい、と一言だけで電話に出た。
― なかなか出てくれないから、避けられてるのかと思ったよ。
「ごめんなさい。うとうとしてて…」
― じゃあこっちが、ごめんなさいだな。…今、話せるかな?
「いいけど…」
― 帰国は明後日の夜だよね?
「ええ」
― 明日、そっちに行くよ。ディナーを一緒にしないか。
「え、なんで…」
まだ返事は決まっていない。中途半端な心の状態で会うことは躊躇われた。
電話の向こうで彼が笑う。
― またごめんなさいだな。この前の返事はまだいいよ。君が日本に帰る前にもう一度だけ会っておきたかったんだ。どうかな、会える?
「…別にいいけど…」
本音を言うとよくない。その時、思い出した。
「あ、でも、明日の夜はここの名物ディナーを予約しちゃったの」
― 名物?
「マカン・マラム。アマンジヲの最後のディナーはこれにしようと思って」
― ジャワの伝統料理か。
「今日の夜だったらまだ未定だったんだけど…」
― そしたら、マカン・マラムを二人分で予約変更すれば?俺は全然構わないよ。もともとアマンジヲのメインダイニングでディナーにしようと考えてたし。
「え、でも…」
会わなくて済む言い訳を考えたが、とっさに思いつかない。
― ああ、そうか。ごめん。
言って彼は笑った。
― 今日は謝ってばかりだな。大丈夫。食事代を君の部屋に全部つけたりなんてしないから。
そんなことを気にしていたわけではないが、彼の笑いに少し助けられた。
確かに、一人きりで食べるより、二人で食べる方が楽しいはず…
食事くらい、という私は考えが甘いだろうか。ただ断るだけの理由もない。
「そしたら…何時にこっちに来るの?」
翌日、私は午前中に周辺の仏教寺院を見て回った。
ムンドゥ寺院、パウォン寺院、どれもボロブドゥールのような壮大な規模の寺院ではないが、歴史的遺産価値を持つことから観光客の姿も多い。
同時にボロブドゥール寺院同様、この地に住む人々にとって、日常的な信仰の対象として今も根付いている。
この日も、パウォン寺院に家族、親類一同揃って祈りを捧げに来た所に遭遇した。
「インドネシア人が信仰深いのは知ってるけど、今のインドネシアはほとんどがイスラム教でしょ?それなのに仏教の寺院に参拝するのはなぜ?」
今日の寺院巡りをアレンジしてくれたホテルスタッフに、私は尋ねた。
「確かにイスラム教徒の数は一番多いけれど、バリ島にヒンズー教が多いように、インドネシアには仏教人口も少なくないんだよ」
「すると、彼らは仏教を信仰しているということ?」
「もともと仏教はここジャワ島とスマトラ島を中心に布教していったからね。その影響があるかもしれない」
「あなたは?」
「私はイスラム教徒だよ。妻もね」
「あなた結婚されてたのね。お子さんはいるの?」
「2人いるよ。男の子と女の子」
「それは素敵ね」
車に戻り、次の場所に向かいながら、日本の仏教について聞かれた私は、乏しい知識とうろ覚えの記憶を総動員して、わかる範囲で答えた。
「日本では日常的に参拝する習慣はないのよ」
「なぜ?日本には有名な寺院がたくさんあるのに。今の日本人は信仰心が薄いのかな?」
「そうじゃなくて、毎日の生活の中で参拝することがないだけ。新しい年の始まりとか、子供が生まれた時とか、何かの節目ごとに参拝することが多いの」
「結婚の時とか?」
「結婚…そうね、結婚前に参拝することはほとんどないし、結婚式を寺や神社で挙げる人はあまり多くないかな」
「どこで結婚式を挙げるの?自宅?」
私は笑って手を振った。
「日本の自宅でなんてぜったい無理。人気があるのは教会ね。ホテルや結婚式場には必ずオリジナルのチャペルがあるの」
「教会?今の日本人はクリスチャンが多いの?」
信仰心篤いインドネシアの人から見たら、クリスチャンでもないのに、教会で式を挙げる日本人は奇妙に見えることだろう。
「日本人の多くは仏教徒よ。でも今は、日本人の生活に宗教が深く結びついていないのよ。結婚式はイベントみたいなものになってるし」
「イベント?神聖な儀式ではなくて?」
私は慌ててNOと否定した。
「説明が下手でごめんなさい。結婚は神聖で厳かな式ではあるんだけど、そこで交わされる誓いに宗教観は介在しないの。クリスチャンの人以外は」
「それはどういうこと?」
― あなたは彼女を妻として永遠に愛することを誓いますか?
― はい、誓います。
― あなたは彼を夫として永遠に愛することを誓いますか?
― はい、誓います。
チャペルでは神の前で誓っていることになっているけれど、クリスチャンでもない人にとって、その誓いの言葉が持つ重みは、いったいどれほどのものなのだろう。
いや、突き詰めたら、祭壇の前に立つ2人は、いったい誰に対して誓っているのだろう。
「上手く説明出来ないかもしれないけど…」
私の言葉で、日本人は宗教に対して節操がないとか、結婚を軽視していると誤解されても困る。
「私が思うに、結婚する日本人のほとんどは、神様や仏様に誓うんじゃなくて、目の前の相手に対して誓っているんだと思うの。男性は妻となる人に、女性は夫となる人に。私はあなたに永遠に変わらない愛を誓います、って」
運転席から、感心したようなため息が聞こえた。
「それは素晴らしい。とても素敵なことだよ」
良かった。これが正解かどうかは分からないけれど、間違っているとも思わない。
「相手に永久の愛を誓うなんて、その相手に対して敬い、慈しむ心がなければ出来ない行為だよ。もしかしたら、神に誓うよりずっと重くて貴いかもしれないね」
そうか。
結婚する、ということはそういうことなのか。
相手を敬い、慈しむ心でもって、永遠の愛を相手に誓う。
敬い、慈しむ…
ふと何かを思い出しかけた。遠くない過去の記憶。そこには「彼」がいた。
「あなたは?まだ愛を誓える相手に出逢えていないの?」
その時、記憶の扉がカチャと軽い音を立てて開かれた。
自由を求めて、内なる何かが、扉を大きく大きく広げていく。
開け放たれた扉から、記憶の壁にうっすらと塗り込まれた美しい言の葉が、零れるように溢れて出てくる。
その言葉たちに優しく包まれて、私は探し求めていた答えがそこにあることに気がついた。
おそらく、ゲストルームの一つをスパ・ルームにしたのだろう。案内された部屋で約2時間、マンディ・ルルーを受けて外に出ると、辺りはすっかり夕闇に包まれていた。
通路の灯りをたよりに、夢心地な気分で自分の部屋へと戻っていると、コーランの調べが静かに空気を震わせながら聞こえてきた。
黄昏時、時報のように耳にするコーランの穏やかな調べは、なぜかイスラム教徒でもない私の心を静めてくれる。
マンディ・ルルー。花嫁が結婚前夜に受ける特別なマッサージ。
プロポーズしてきた相手とのディナーの前にマンディ・ルルーとは、何とも意味深ね、と思わず笑いがこぼれた。
約束の時間までは、まだ1時間以上ある。コーランを聴きながら、ゆっくり準備すればいい。
その約束の時間より少し遅れて、私は部屋を出た。
オープンエアのメインダイニングへと続く階段を上がっていくと、その入口でダイニングのスタッフが両手を合わせ「Selamat siang」と笑顔で私を迎えた。
彼女は私に何も聞かず、彼が待つ席にまっすぐ私を案内した。他の高級ホテルが追随できないアマンジヲのクオリティの高さはこういう気配りで随所に表れる。
向かいの席に腰掛けた私を見て、彼は読んでいた本を閉じた。彼の前にはグラスに入ったビールが置いてあった。
「素敵なドレスだね」
私は自分の服を見下ろした。
黒地に薔薇だか蘭だかよく分からないが大きな花が白で染め抜かれたコットンのサマーロングドレス。バリ島の、土産物屋に毛の生えたようなお店に陳列されていた、日本円にして1000円するかしないかの安物だが、その色が気に入って買った。安くてもお気に入りのドレスだ。
私は極上のシャネルのドレスを誉められたかのように、満面の微笑みを浮かべて、バリの人をならい、両手を合わせて「Terima kasih」と頭を下げた。
マカン・マラムは、ジャワの伝統料理を個別の器に入れて、客人に出す特別な料理で、ここアマンジヲではアンティークな真鍮製の容器に入れられて6種類の料理が出される。
最初に、スタッフがそれぞれの皿に、ライスと一緒に少しずつ取り分けてくれた後は、残りは自分たちでサーブしていく。
ワインを飲み交わしながら、2人で頂くマカン・マラムはとても美味しく、楽しい時間だった。そう思えたのは、私の心がすっかり吹っ切れたからかもしれない。
最後にメニューからデザートを選び終えた私は、柱と柱の間から見える外に視線を向けた。階段状に配されたゲストルームの彼方、田園地帯が広がるその先、ケドゥ盆地の豊かな緑の中に密やかに、厳かに、堂々と存在する聖なる場所の方へ。今は、その姿は深い闇の中にある。
すっかり片付いてデザートの到着を待っているテーブルの上に、デザートが来るより先に、軽いものが置かれる音がした。
私は視線を戻して音の正体を見た。それから彼を見た。
今度は、彼が暗闇の彼方に目を向けた。
「君が不自然だなんて言うからだよ。これで本気だってわかってもらえるかな」
私はそれには答えず、目の前に置かれた小箱に手を伸ばした。女性ならおそらく誰もが憧れる、革製の真紅のリングケース。彼の視線を感じながら、私は蓋を開けて中を見た。
メインダイニングの控え目な灯の中でも、プラチナの台座に嵌め込まれたそれは、申し分ないほどの輝きを放っている。彼の覚悟も呑み込んだ本物の輝き。
「まだ返事してないのに…」
「怖かったんだ」
「えっ?」
「このまま日本に帰したら、返事すらもらえないような気がした」
彼は私の方に向き直った。違う?と私に問うその瞳に、微かな不安と強い意志が浮かんでは消え、そしてまたあらわれる。
覚悟を決めた彼の思いをちゃんと受け止め、それに答える責任が私にはある。
「そんなことしない。答えるって約束したし」
彼がそっと息を吐き出すのを耳にした。そして、そのタイミングを待っていたかのように、デザートが運ばれてきた。
私はカルティエのマリッジリングにもう一度目を向けた。
彼が椅子の中で小さく身じろぎするのがわかった。
「気に入ってくれた?」
「ええ、素敵。とっても」
それは本当に、心から思った感想だった。素直に思ったままをそのまま口にした。
私はリングケースの蓋を静かに閉じて、口を開いた。
「裕」
その名前を口にするのは、あのパラオの最後の夜以来だった。あれから、長い時を経て再び、彼の名前を声に出した。ゆたか、と。
彼が目を大きく見開いて私を見つめる。
私は微笑んで、赤いリングケースを自分のデザートプレートの斜め前にそっと置いた。
To be continued
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
ひさしぶりに「MAP」に横山さんが出ていて、超ご機嫌な管理人です
ふわふわハンバーグでごはんをほおばる横山さん可愛すぎーーー
大人子供なバランスがホンマに絶妙すぎて…彼の愛らしさにメロメロです
えーと
4話で終わらそうと思っていたこのお話ですが、思ってたより長くなりまして。
自分で書いてて楽しくなってきて、帰国後の話につなげて続けてみようかなーと、ちょっと欲も働いたのですが、なんだか…ひと昔前の月9みたいな話になりそうな気がしてきたので(笑)、泥沼にはまる前に、とっとと終わらせることにしました。
というわけで、次回の5話が最終回です
自分でも思うんですが、今回の話はかなり「ベタ」ですよねー(笑)
カルティエのエンゲージリングなんて、もろに恋愛ドラマの小道具じゃん。
自分で書いてて、うわーこんなのどこかで見たことある場面やしーと思ってました。
指輪のブランドですが、個人的な好みでハリー・ウィンストンにしようと思ってたら、ジャカルタには取扱店がない。で、カルティエにしました。まあ、ティファニーでもよかったんだけど。
皆さんなら、どっち欲しいですか?(笑)
だけど、リアルにカルティエの婚約指輪なんて出されたら、もう断れないですよね。
そんな「私」が出した答えは次回わかります。
だけど、相変わらず、まだ書き終わってません
<第1話> <第2話>
********************************
夕刻、ガルーダのボーイング機はジョグ・ジャカルタの国内線ターミナルにランディングした。
乾季のインドネシアにしては珍しく、窓の外は雨模様だった。
アマンジヲのウェルカムボードを手にした白い制服のホテルスタッフに誘導されて、人混みと車両でごった返す到着口の玄関ロビーから、迎えの車に乗り込む。空港からホテルまでは約1時間の道のり。
車がハイウェイに乗った時には、雨が夜への加速を早めたのか、すでに空は暗く沈み込んでいた。
― 一緒にパリに行かないか…
要はプロポーズだった。
旅先で派手に喧嘩別れした後は、大学を卒業してから一度も顔を合わせたことすらなかったのに。
今回偶然、久しぶりに再会して、再会したその日にプロポーズだなんて、普通の常識じゃありえない。
「でも、俺たちは初対面ってわけじゃないだろ」
「それはそうだけど…」
「4年間積み重ねてきた俺たちの関係が、たかが意見の相違で別れたくらいでリセットされたなんて、俺は思ってないから」
たかが意見の相違…
だったら、なぜその時に、すぐに関係を修復しようと思わなかったのか。
私の中では、完全に『ジ・エンド』だった関係が、彼の中では終わっていなかった、そんなことがあるんだろうか。
「でも…やっぱり不自然じゃないかな」
「それは君の感覚だろ?俺はね、昔付き合ってた二人が、偶然このタイミングで、日本以外の場所で再会した奇跡を信じるよ」
「…運命、ってこと?」
「ベタな言い方をするならね」
彼は返事は急がない、と言った。
仕事のこともあるだろうし、身の回りの整理もあるだろう、だから返事を待つ、と。
結局の所、いま付き合っている人がいることをはっきり言わなかった私がいけないんだろう。
「いま好きな人がいるの」
たったその一言だけで、すべて終わってたはずなのに。
その一言すら言えなかった理由は考えるのもおぞましい。
結婚という安定。
パリに住むという魅力。
相手はかつて好きだった人。
目の前にぶら下げられた甘い蜜に吸い寄せられているだけだと分かっているのに、そこから目を離すことが出来ない。
私は手帳に挟んだ彼の名刺を取り出した。
知らない人はいない大手商社の名前の下に、ジャカルタ副支店長の肩書きとともに彼の名前が刷られている。
田宮 裕
YUTAKA TAMIYA
彼に再会するまで、同じ名前だったことすら忘れていた。もちろん同じといっても漢字だけで読み方は違うのだけど。そして、名刺の裏に携帯番号の走り書き。
― もし、君の気持ちが滞在中に決まったら連絡をくれないか。仕事は二の次でジョグジャまで飛んでいくから…
あの夜から、私は聞き慣れた関西弁の声が聞きたくてたまらなかった。いったい何度、携帯に名前を表示させたことだろう。
でも、結局、電話することは出来なかった。
話せば解決するというような簡単なことじゃないのは、自分が一番よく分かっていた。
私が自力で答えを出さなくちゃいけないことだった。
気づくと、車はハイウェイを外れて、街灯もない道を走っている。車のヘッドライトの灯りだけが頼りだが、ドライバーはスピードを落とすことなくハンドルを握っている。
ガタガタと音を立てて、オランダ統治時代からの木製の橋を渡ると、車は最後の坂道を上がった。坂を登りきって緩いカーブを曲がると、ジェットコースターのような急角度の坂を一気に下っていく。
その坂の終着点に、煌々と灯りに照らされて、ライムストーンで造られた建築物が忽然と姿を現した。
古代の神殿のような円柱がぐるりと囲むアマンジヲの威容に圧倒されているうちに、車はホテルスタッフが総出で迎えるエントランスに到着した。
パーソナルアシスタントが、ようこそアマンジヲへ、と車から降りた私を笑顔で出迎えた。
彼にエスコートされ、アマンジヲに足を踏み入れた瞬間、私は胸に抱えた悩みをほんの一時、忘れることができた。
夜明け前、淡い藍色の色彩が支配する中、周囲にたちこめた深い朝靄が視界を遮っている。
すぐ目の前に並ぶ数塔のストゥーバ(仏塔)以外は、この寺院の頂上まで息を切らして上がってきた長い石段も見えない。
ボロブドゥール寺院から臨む日の出を拝むために、まだ暗い夜明け前からここに集まった観光客たちの顔に、これはダメだという苦笑や諦めの表情が浮かび始めていた。
乾季とは言え、周囲を山々に囲まれたケドゥ盆地にあるボロブドゥールは、山から吹き下ろしてくる風など天候の影響を受けやすい。御来光を望めるのは運次第だ。
しばらくすると、周囲はまだ靄に覆われていたが、すっかり明るくなって、どうやら日の出の時刻はとうの昔に過ぎたようだった。
夜が明けてしまったことにようやく納得した人々は、それぞれのツアーのグループに合流し、世界遺産である、世界最大の仏教建築の観光に戻っていく。
私は一番上の巨大な仏塔の石段に腰掛けて、巨大な曼荼羅を模したとも言われるこの聖地を抱く緑の大地が、白いベールの中から姿を現してくるのを見つめていた。
「ええなあ、俺も行きたいなあ」
ベッドの中でインドネシアのガイドブックを見ていた彼が、隣に入ってきた私を見ずに言う。
「実際行けないんだからしょうがないじゃない」
「俺、ここ行きたい」
ボロブドゥール寺院のページを開いて私に見せた。
「うん、私が下見してくる」
「なんや下見て。ガッチガチのプライベートな旅行やろ。冗談でもおもんない」
「もう、次はちゃんと行ける?って聞くから」
私は彼からガイドブックを取り上げると、その空いた彼の手をそっと握って「ごめんね」と小さく呟いた。
彼の表情にちょっと照れたような笑いが混じって、ホッとする間もなく、私の体は彼に引き寄せられていた。
「次っていつやねん」
私を抱きしめながら、彼がベッドサイドの電灯を消した。
暗くなった部屋の中で耳にする彼の声に、狂おしくなるほど愛しさが募る。私も彼の耳元に唇を寄せて言葉を返した。
「いつがいい?」
「いつがええかな」
「きみ君が決めて」
「なんで?」
「だって私、きみ君の予定ぜんぜん知らないもん」
それともこれから全部教えてくれる?と囁いた途端、鳩尾に軽いジャブが入った。
「おまえ、策士やなあ。うわ、危なかったあ。俺、うっかりええよ、て言いそうになったわ」
「ケチ」
「ケチでええわ。ホンマ危な、俺、いまマジで情報漏洩するとこやった」
彼と私の笑い声がぶつかり合って、暗闇に吸い込まれていく。
「あれやな、ガイドブックに書いてあったけど、あの『ぼろぶどーる』寺院て、世界最大の仏教のお寺なんやて。だから世界遺産なんやろうけど。インドネシアって、仏教なん?」
「今のインドネシアはイスラム教が多いんじゃなかったかな」
「ふうん…お寺さんてことは、お参りするとこやろ。おまえ、何お願いしてくんの?」
「んー…世界平和?」
「おまえ、よう言うわ。それ仏様への無茶ぶりやで」
いま、このボロブドゥール寺院に実際に立ってみて思う。
世界平和を願うのは無茶ぶりじゃないかもしれない。
日々の平穏を願い、この地に建てられた壮大な寺院に、紀元前の古から幾重にも染み込んだ人々の祈り。
一人一人が願う小さな平和が重なり、重なりあえば、それは一つの大きな平和になるのではないか。
…もし彼がここに立ったら、何を感じるのかな…
周りを見渡して、アマンジヲのスタッフと専任ガイドが私を見つけて、手を振っているのに気がついた。
アマンジヲのゲストルームは、一人では持て余してしまうほど、広々としたスイートルームだった。
外のプライベートプールに設えられている茅葺き屋根のガゼボから、彼方のボロブドゥール寺院を見下ろすと、緑の絨毯の上に置いた黒い文鎮のように見える。
午後を回った今頃は、観光客も一番大勢訪れているのだろうか。ここからではその様子を伺い知ることは出来ないが。
空に浮かんだ白いわた雲が、プールの水面に映り、時折吹きぬける風が、その水鏡を静かに揺らして、小さなさざ波を作っていく。
小さな蜥蜴が、私の様子を窺いながら、ガゼボのカウチの上をちょろちょろ探索していた。
静かな午後だった。
人工的な物音が一切しない空間は、人の心も無にしていくのだろうか。
私は大きなクッションを背中に当て、広々としたカウチの上で体を伸ばして、惰眠を貪っていた。
「今から帰るの?」
フロントにタクシーをお願いしようとした私を彼が呼び止めて、自分の腕時計を指差して言う。
「これじゃ、タンジュン・サリに着くのは1時過ぎだよ」
「アメリカ人なんてクラブで真夜中まで遊んでるじゃない。大丈夫よ」
「部屋のベッドを貸すよ。俺はカウチで寝るから。カウチと言ってもシングルベッド並みだし」
私は首を振って、フロントのスタッフに、タクシーを呼んでとお願いした。
すると、彼が待ってとスタッフに制止をかける。
「明日、空港に行く途中で君をホテルで下ろすよ。だから…そうしないか?」
「ありがとう。でも、やっぱり帰らせて。いろいろ…考えなきゃいけないし…」
「…怖い?」
「何が?」
即座に問い返した私と彼の問いかける視線が絡み合う。
そう。その通り。
怖くてたまらない。
もしも、このままここに留まったら、何もないままでは終わらない気がするから。
でもそれを口にしたら、自分の気持ちが揺れ動いていることを、彼に悟られてしまう。
私は、彼から視線を外すと、再度タクシーを回してくれるように頼んだ。
私のこの迷いはいったい何なのだろう。
何を私は迷っているんだろう。
不意に感じた肌寒さと、叩きつけるような激しい雨音の大合奏に、午後の微睡みから叩き起こされた。
先ほどまで明るい陽射しに照らされていたはずなのに、辺りはまるで夜のように暗い。墨を撒いたような真っ黒な空からは、槍のように豪雨が降り注ぎ、遠くから雷鳴の轟きも聞こえてきた。
カウチの上に2枚敷いていたバスタオルの1枚を頭から被り、もう1枚のバスタオルで本やカメラを包んで抱きかかえると、ガゼボから部屋のドアまでのわずか数メートルの距離をダッシュした。
そのわずか数秒の移動で、バスタオルごと頭からびしょ濡れになるほどの激しいスコール。
滝のような雨筋が途切れなく流れ伝う窓から暗い外を見ると、稲光がいきなり闇を切り裂いた。
服に着替えて落ち着いた私は、室内のコンポに、自分のiPodをセットした。
スピーカーから大音量で流れてきた歌は、このスイートルームにも、この聖なる土地の雰囲気にもまったくマッチングしていなかった。
けれど、今の私が一番必要としていた、聴きたかった歌だった。
時々、ソロやハモリで聞こえてくる彼の声を、私は耳で一つ一つ拾いあげた。
わかりきっていることなのに
答えは目の前にあるのに
彼への想いがループのように回って回って
でも、なぜか答えに辿り着かない。
それは答えを出したくないから?
本当にそうなの?
答えの出ない答えに納得いく答えを出そうとして答えのない答えの答えを私は探している。
まだ宵の時間ではないが、まるで夜の帳が降りたように、暗く沈んだ外を見やる。
雨は激しく地面を水面を窓を叩き、まだまだ止む気配はない。
To be continued
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
フラゲしてきた「8UPPERS」に行く前に、短編をアップすることにしました。
さーてスッキリした気分で見るぞー
CDショップではDVDがガンガン流れてて、私が画面を見るたびに横山さんが
なんだこれ。本能か?(笑)
次の4話がまだ出来てないのですが、週末にはなんとか載せられるかなあ。
ところで、なぜ、「私」がこんなに悩んでるのか、自分でもよくわからないんですが(笑)
どう考えたって、いま付き合ってる相手が優先でしょう。
だって、相手に不足はないわけだし。いまをときめくアイドルですよ(笑)
テンション上がって、マルのおでこにKicyuしたり、弟が帰ってきたと思ったら学校へ行ってしまう
と凹んだりしちゃうような可愛い人
ですよ。
でも…ということなんですよね、この話は。
恋人としてならありえても、自分の人生の伴侶として見たときにどうなのか。
そこに、すごい好条件(笑)で、結婚しようとプロポーズしてくる相手が現れた場合、しかもそれがかつて愛した人だったら?それでも、「私」は彼を選ぶのか?
きっとそれは、付き合っている相手がアイドルだろうが一般の人だろうが、そういうシチュエーションになった場合、悩む気持ちは同じだと思うんですけど、いかがでしょう。
「私」がどうやって答えを導き出すのか。
うーん、実はまだそこのところが具体的に定まってません
ラストシーンは決まってるんですよ。
でも、そこにどうやって持っていくのか。決まってません。
どうすんだ、私。
< 第1話 >
****************************************
バリ島の山間部にあるウブドは、バリの伝統芸能と文化、芸術の発信地として、昔から内外の芸術家たちが居住、滞在してきた。それ故だろうか、ウブドには街そのものにアーティスティックな雰囲気が漂う。
近年は、お洒落なショップやブティック、レストラン、そして密林の中にひっそりと佇む隠れ家的な高級ヴィラが次々とオープンして、垢抜けたビーチリゾートに飽きてきた旅行客からの評価も高い。
長閑な田園地帯で、山の傾斜地や渓谷に作られた棚田『ライステラス』に、蒼蒼とした稲穂が風に揺れる光景は、この地を代表する美観だ。
夕刻、サヌールのホテルを出発して約1時間、タクシーがウブドの街に入った頃には、空は暗紫色に染まり、漆黒に近い闇の中では、美しい田園風景を臨むことは叶わなかった。
今夜、彼がリザーブした店は、ウブドにオープンして以来、欧米の旅行客を中心に人気を博しているフランス料理店だった。パリやニューヨークの最新レストランのように洗練された店内は、バリ島の他の高級レストラン同様、冷房がとてもよく効いている。
エアコンの効いたインドアダイニングを抜けると、熱帯の木々に囲まれ、頭上には星空が瞬くオープンエアのガーデンダイニングがある。
庭の間接照明とテーブルに置かれたキャンドルの灯りに照らされ、ルビー色に輝くワイングラスに手を伸ばした時、羽織っていたストールが肩から滑り落ちた。
「そうか。明後日にはジャワに飛ぶのか」
ちょうどメインディッシュが運ばれてきたところだった。目の前に置かれた料理は、どこからナイフを入れようか迷ってしまうほど美しくアレンジされている。
「それなら、ジョグ・ジャで会おうと思えば会えたかもしれないな」
「もしかして時間ないのに無理させちゃった?」
私はストールを肩に掛け直しながら、申し訳ない気持ちで聞いた。
「いや、ジャカルタとジョグ・ジャは離れてるし、実際会えるかどうかはわからないから」
空になった彼のグラスにワインが注がれる。
「アマンジヲか。君は昔から憧れてたもんな」
「後からくる請求が怖いけど、ワクワク感の方が今のところ勝ってる」
私は思いきって、皿の上のラム肉にナイフを入れた。
「帰ったらまた頑張って働かなくちゃ」
「なんか意外だな」
「何が?」
顔を上げて彼を見ると、食事の手を止め、楽しそうな表情で私を見ている。
「俺はね、君はとっくの昔に結婚して、仕事も辞めて、専業主婦になってるものだと思ってた」
「ちょっと待って、昔の私ってそんなイメージだったの?」
「イメージというか、君は自分の人生プランをしっかり設計して、そのプラン通りに着実に歩いていくタイプだと思ってた」
私は心の中で失笑した。プラン通りの人生どころか、遠回りの人生を歩きっぱなしだけど。
「でも、予想が外れてて嬉しいよ」
思いもしなかった言葉に、思わず彼の顔を見た。嬉しいとはどういう意味だろう。
彼の真意をはかりかねて、私は曖昧な笑みを返すだけにした。
「で、これからの君の人生プランは?まさか仕事に人生賭けてますってわけじゃないだろ?」
人生プラン?
仕事でのキャリアは、将来的に思い描いているイメージがないわけじゃない。
自分の仕事の未来像はある。
じゃあ、仕事以外は?自分自身の人生は?
それをどうかと問われても、今まであまり考えたことがなかったかもしれない。
だから、不倫などという先の見えない恋愛を3年も続けられた。でも今は…
そのとき初めて気がついた。いや、気づいてしまった。
先が見えないのは今も同じ。
アイドルの彼と一般人の私。
住む世界が違う私たちの恋のレールは、いったいどこへ向かっているんだろう。
それに答えてくれるただ一人の人は、今ここにはいない。
「…わかんない。ここ数年は仕事に追われてて、仕事以外のこと、あまり考えてなかったから」
無難な嘘でごまかした。
「なるほどね。いまの仕事は楽しい?」
「そうね、総じて楽しいかな。もちろん楽しいだけじゃないけど」
まあ仕事なんてそんなもんだよな、と彼はステーキを口に運びながら頷いた。
「人生が自分の狙い通りにいかないことを嫌ってほど思い知らされたよ。社会は学生時代の理論が通用しない別世界だった」
「別世界だったのは大学の方だったんじゃない?」
「たしかに。そういや俺たち、かなりバカなことやってたよなあ」
それから、デザートが来るまでの間、大学時代の思い出話に花が咲いた。
楽しかった頃の懐かしい話をしていると、彼と別れたのは嘘だったのではないかと思えてくる。
時間は、二度と修復出来ないと思っていた深い溝を、知らないうちに埋めていたのだろうか。
コース料理の最後に、目にも美しい芸術的なデザートが目の前に運ばれてきた。
周囲の木々がなければ、ここがバリ島だということを忘れてしまいそうになる。
「あなたは…結婚したの?」
再会した時から気になっていたことを尋ねた。
彼はジャワコーヒーのカップに手を伸ばした。
「したよ。君と違ってね。2年前かな」
その答えに、僅かだが失望感を覚えた自分の気持ちに私は焦った。
失望?なぜ?失望は期待の対極だ。私は何を期待していたの?
動揺を隠して、私は努めて冷静に聞いた。
「じゃあ、奥様も一緒にジャカルタに?」
彼は一度近づけたコーヒーカップから唇を離した。
「妻とは半年前に別れた」
別れた…予想もしなかった答えに私の心は翻弄された。
気づくと、彼の力強い視線が私に向けられている。
私はその視線を受け止めきれずに俯いた。
はるか昔に終わった恋に未練などあるわけない。でも、胸の奥がざわめくのはなぜ?
「別れた理由、聞きたい?」
私は首を横にはっきり振った。そして揺れる気持ちの手綱を引き締めた。
「私には関係ないことだから」
苦笑混じりの小さな溜め息が彼から漏れる。
「関係ない、か…ま、たしかにその通りだな」
彼が左手首にはめた腕時計をチラッと見た。
フランク・ミュラー、コンキスタドール・コルテス。こんなところまで同じだなんて。
「門限、何時だっけ?」
真面目な顔で尋ねてきた彼に思わず吹き出した。
学生時代、私が住んでいたアパートには大家の意向で、今時では考えられない門限があった。
いったい何度、駅からアパートまでの道を夜遅く、彼と一緒に全力で走ったことだろう。
そんな愉快な思い出に油断してしまったのかもしれない。私は深く考えもしないで、笑いながら首を振った。
「門限は何時ですかって、ホテルの支配人に聞くの忘れちゃった」
場所を変えて飲もう、と彼が案内したのは、フォーシーズンズのラウンジだった。
熱帯の木々に囲まれたアユン渓谷を望むカウンターに並んで腰掛けた。
紫紺の闇よりさらに黒々とした密林のシルエットは、影絵の背景のように見える。その影絵の上には、ホテル棟につながる渓谷に掛けられた吊り橋で見た、宝石箱のような星空が輝いている。
彼がここに泊まっていると聞いて、商社の駐在員ってずいぶん贅沢な生活してるのね、とちょっぴり皮肉を込めて言った。
「いや、ここに泊まるのは初めてだよ」
そうなの?と疑いの目を向けると、彼は水割りのグラスに口をつけて鷹揚に頷いた。
「当分バリ島に来ることはないだろうなあと思ったんだ。だから最後の記念にというか。ここだけまだ利用したことがなかったからね」
つまりここ以外は、別れた妻と利用したことがあるということか。
「俺も変わっただろ?」
微かな笑いとともに彼が言った。
「フォーシーズンズに泊まるなんて、あの時の俺だったら考えられなかったからな」
あの時。あのパラオの最後の夜。
彼が選んだホテルの部屋で、そのホテルのことで大喧嘩をした。
「それは…経済的な余裕があるからなんじゃないの?」
「まあ、それもあるだろうけど、やっぱりあの時、君に言われた言葉がずっと引っ掛かってたんだと思う」
彼が私の顔をのぞき込む。「覚えてる?」
もちろん。
その言葉が、当時の二人の価値観の違いを決定づけてしまったのだから。
「イヤなことは忘れるたちなの」
「君はあの夜こう言ったんだ。最高の思い出は最高級の場所でしか作れないのよ、って」
「…最悪。何様のつもりだったのかな」
「でも、あながち間違いじゃないよ。場所は確かに重要なんだ。あとは、その場所でどう過ごすかということなんだと思うよ」
彼は空になった水割りのグラスの追加を頼んだ。
「あの時の俺はホテルのサービスに不満と文句ばっかり言ってた。狭い室内、部屋の窓から見える景色、アメニティ、食事の内容、スタッフの態度・・・自分が選んだホテルなのに。自分でどんどんマイナス評価を増やしていった。最悪なのは俺だよ」
彼の手が私の腕にそっと置かれた。
強要も強制もない、相手をいたわるように置かれたその手を、私は初めて見るもののように見つめた。
「君は毎日楽しそうに振る舞って、一生懸命、最高の思い出を作ろうとしてたのに、俺はその気持ちに全然気づかなかった…」
今なら君の怒りも解るよ、と彼は笑って手を離した。
離れていた歳月は、彼の中にどんな変化を与えたのだろう。
高級ホテルなど見向きもしなかった彼が、今ではフォーシーズンズに泊まったり、ブランドものに興味がなかった彼が、人気の高級腕時計を身につけている。
しかし、そんな外見的な変化よりも私が驚いたのは、かつては根拠のない自信を鎧にして、自己主張ばかりしていた彼の横柄な態度が、今はその影すらどこにもないことだった。
私は目の前の小皿にのったチョコレートに手を伸ばした。
ビターなチョコの中に、リキュールを染み込ませたガナッシュが入っている。苦味と甘さのバランスがいい。
…お土産は、バリのコーヒーとチョコレートにしようかな…
チョコレートにブラックコーヒーの組み合わせで、満足げな顔を見せてくれる人を思い出した時だった。
「実は、10月からパリに転任することになったんだ」
夜の静寂を突き抜けて、彼の穏やかな声が耳に飛び込んできた。
「パリ?」
思わず問い返しながら、彼が言った最後の記念という意味がわかった。と同時に、パリという場所への憧れと羨ましいと思う気持ちが湧き上がる。
大学で第2外国語にフランス語を先行したほど、パリは大好きな街だ。これまでにも4回訪れている。
彼も第2外国語はフランス語だった。パリ行きにはそういう背景もあるのだろう。
「じゃあ忙しいわね」
「通常業務に加えて引き継ぎの資料作りもあるからね。それに長らくご無沙汰だったフランス語を勉強し直さなくちゃいけないし、確かに忙しい」
彼の前に置かれたグラスの中で、氷がカランと音を立てて揺れた。
「でも、ジョグジャで君に会う時間くらいは作れる」
無理しないで、と言おうとした私は、続く彼の言葉に耳を疑った。
「一緒にパリに行かないか?」
To be continued
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もう少し早く第2話をアップする予定だったんですが、やっぱり週末になってしまいました
そして、アップしてから気付いたんですが、なんと、関西弁を話す「彼」がこの話では一度も出てきてないんですよね~
後から、強引に突っ込もうかと思ったんですが、話の展開的に入れる余地なし…
まあ、今回ちょっと長い短編(短編というくくりでいいのか?)ということでご容赦ください
次回からは、ちゃんと出てきます。
ところで、今回の作品ですが、長文が多いんですけど、そのあたりどうなのかなあと。
縦書きの本で読むのと違って、横書きの文章って長文だと読みにくくないですか?
特に携帯からだと文章が固まりになりやすいので、今までの作品はなるべく短いセンテンスで、会話を多めに書くようにしてました。
ただ、さすがに長い話を書くとなると、そうそう短いセンテンスや会話だけで繋げるというわけにもいかず…もし読みにくかったらスミマセン。
ライステラスの写真はウブドらしい雰囲気のがあったので入れてみたんですが、フォーシーズンズのラウンジの写真がなぜかない。
前に一度泊まったので、写真に使えそうなものがないか探したんですが、なんだか部屋の写真とか部屋から見た写真とかそんなんばっかりで(初めてのスイートルームにテンションが上がりっぱなしだったんやろなあ)、しかも夜撮った写真が1枚もない
仕方ないので公式サイトの写真を載せます。まあ、これも日中の写真なんですけども、こんな感じのラウンジなんですよ~
当時、とある旅行会社のパンフレットの表紙にこれが使われてて、最初は違う所(たしかヨーロッパのどこかだった気が)に行こうと思っていたのに、偶然、旅行会社のラックでこれを見た途端、「ここに行きたい」となりまして。
ラウンジから臨むこの緑いっぱいの光景にめっちゃ惹かれたんですよね。
きっと癒されたかったんかなあ
ここのカウンターでお茶をしてる時に、急に思い立ってティガラランのライステラスにホテルの専用車で行ったりとか、夜はソファー席でカクテル飲んだりとか、思い出します。
でも、サイドメニューにチョコレートがあったかどうかは覚えてません(笑)
第3話は、ほぼ出来上がってますので、近いうちにアップしますね
「旅行?」
手に取った2切れ目のスイカを、彼は宙で停止させた。
「いつから?どこ行くん?」
私はスイカの種を皿の上に弾きながら答えた。
「バリ島とジャワ島。来週の金曜から1週間」
「誰と?」
一人、と答えてから急いで補足した。
「こういう仕事だから、友だちとまとまったスケジュールを合わせるの難しくて」
「いつ、決めたん?」
「うーん2ヵ月くらい前かな?」
「2ヵ月?なんで今まで黙ってんねん」
「黙ってたわけじゃなくて…あのね、もう話した気になってたの。ゴメンね」
宙で止まっていたスイカが、持ち手の動揺に合わせて揺れながら、皿の上に無事着地した。
「まあ…いつどこに旅行しようと、おまえの自由やけど」
彼が怒っているわけではないことは分かるが、直前になって聞かされたことがやはりショックなのかもしれない。
「そっか…バリ島とどこやっけ」
「ジャワ島。ボロブドゥール寺院のある所」
「ぼろぶどーる。世界遺産の?」
「うん」
「なんやあ、そんなん俺も見に行きたいわ。なんで俺に聞いてくれんの?」
駄々っ子みたいに身をよじらせて拗ねる彼に、思わず微笑を漏らした。
「うん…だけど実際行ける?」
「え?いまってこと?」
「ね、無理でしょ。なんにも教えてくれないけど、なんかめっちゃ忙しそうだし」
彼が私の視線を避けながら、口元に笑みを浮かべた。
「そっちはもう少し待っとってくれたらな」
「ねえねえ、何があるん?映画?ツアー?CLUB8のページ見てても何もわかんなくて」
「まあまあ、いろいろあんねんて。楽しみにしとき」
笑顔でスイカに戻った彼は、すぐにあっと声をあげて真顔になった。
「話すり替えんな。おまえの旅行の話やろが」
「別にすり替えたつもりないけど」
「なあ、いくら忙しそうでも聞いてくれたら行けるかもしれんやろ」
「遺跡になんか興味あるの?」
スイカを手に彼が身を乗り出した。
「あのな、最近、俺、そういう所行ってみたいねん」
「そういう所って?」
「歴史のあるとこ。いま行ってみたいんは、モン…モン…」
「モンハン」
「ちょっ待てや、モンハンて。モンハンじゃ話成り立たないやろ」
「モン・サン・ミッシェル」
「そう、それやそれ。あと、あそこ、サグラダ・ファミリア。おまえ、前に行ってたやろ」
「サグラダ・ファミリアはね、すっごく圧倒された。まだまだ建設途中でしょ。でも、その建設の作業そのものが、芸術って感じなの」
「へえ、ええなぁ。ヨーロッパめっちゃ行ってみたいわぁ」
「ボロブドゥールはアジアだよ」
「アホか、そんくらい知っとるわ。おまえ俺を馬鹿にして。そうやなくて、そこも世界遺産やろ」
「なるほど」
「俺もアラサーになったからなんかな。今まで知らんかったもの、いろいろ見てみたいねん」
ヨーロッパの街並に立つ彼の姿を頭に浮かべた。
色白でハーフっぽい外人顔の彼なら、石造りの街角にも溶け込みそうな気がする。
彼が子供のように表情を輝かせて言う。
「なあ、ヨーロッパとか世界遺産とか行ったことある言うたら、なんか大人の男って感じせえへんか?」
男の人って単純。
思わず吹き出しそうになるのを押さえるのに、少々苦労が要った。
「じゃあ、行く?」
「じゃあって、おまえ、いきなり来週から行けるわけないやろ」
前から相談してくれたら、こっちも調整したのに…と彼は残念そうにぼやいた。
私も残念。
気を使って誘わなかったんだけど、可能性があったのなら聞いてみれば良かった。
あなたと一緒に旅したかったな。
しかし、その思いは口に出さず、心の中で後悔するに留めた。
ングラ・ライ空港に降り立つと、日本の蒸し暑さとは明らかに違う、熱帯地方の乾季特有の涼しさを含んだ暖かい空気に全身を包まれた。
ホテルからの迎えの車は私一人を乗せ、バイパスを一路サヌール方面へと向かう。
近年、他の東南アジアの国と同様に、インドネシアにも中国資本が入ってきて、経済的な成長を見せている。
観光地として名高いバリ島でも、バイパス沿いに巨大な外資の工場や近代的なオフィスビル、高層マンション群が林立し、近代化は順調に進んでいるようだ。
しかし、バイパスを離れて街中に入ると様相は一変する。
未完成の舗装で土埃の舞う道路。
足元をとられそうになる崩れた歩道。
排気ガスを吐きながら車間を縫って走る若者たちのバイク。
老朽化が目立つ店舗や家屋。
道端に置かれた神への供え物…
東南アジアらしい混沌とした喧騒がそこにはある。
世界でも屈指のリゾート地として、お洒落なヴィラやショップなどが次々とオープンしているにも関わらず、2年前に訪れた時と島の光景はあまり変わっていないように見える。
変わらない、それこそ私がバリ島に魅せられる理由の一つだ。
変化は気持ちをエキサイトさせてくれるし、イマジネーションに刺激を与えてくれるけれど、いつも変化ばかりでは心も体も疲れてしまう。
変わらないということは、刺激もなく、つまらないこともあるけれど、そのままで良いと感じられることをあえて変える必要性はどこにもない。
バイパスから出た車は、サヌール市内の通りを進む。
サヌールは、バリ島の中でも一番古いリゾート地で、著名なアーティストなど世界のセレブたちに愛された場所だ。
クタやレギャンがアメリカナイズされた派手な観光地として発展していくのを横目に、ここサヌールは昔と変わらない落ち着きと静けさを保っている。
バリ島の中で、私がサヌールを滞在先に選ぶ理由はそこにある。
空港から出発した時はまだ明るかった空は、サンセットタイムを過ぎるとあっという間に群青色に染まり、夜への序章へと誘う。
窓外の景色が薄暗がりに包まれる頃、車はホテルの入口に到着した。
セキュリティーチェックを受けた車は、エントランスまで続く長い石畳をまっすぐに進む。
間もなく目の前に熱帯の常緑樹に囲まれ、松明の明かりに照らされたオープンエアのロビーが見えてきた。
「…じゃないか?」
ヘッドホン越しだったが、自分の名前を、しかも日本語で呼ばれたのがわかって、私はランニングの足を止めて後ろを振り向いた。
こちらもランニングウェア姿の色黒の男が、息を弾ませて立っている。
その顔を見て、私は急いでサングラスとヘッドホンを外した。まさか。
サングラスを取った私の顔を見て、男の顔がぱっと笑顔になる。
「やっぱりそうだ。良かった、人違いじゃなくて」
「…ゆ…田宮君?」
真っ先に頭に浮かんだ下の名前を言いかけて、慌てて名字で言い直した。
何年ぶりだろう。
あの日以来、もう二度と彼に会うことはないと思っていたのに。
「ありがとう。俺の名前をまだ覚えててくれて」
笑いながら外国人のように差し出してきた手を、私は無意識のうちに握り返していた。
顔は、さすがに離れていた歳月を感じさせる変貌が見られたが、その手は昔と変わらず大きく、それでいて細く長く美しい。
同時に、この手に負けない美しい手をした人を思い出して、二人の姿が目の前で被った。
「こっちに向かってくる姿に見覚えがあるなって、ずっと見てたんだ。人違いだったら失礼になるとは思ってたけど」
「ごめんなさい。私、全然気づかなかった…」
「相変わらずだな。ボーっとしながら走ってたんだろ」
笑いながら言った彼の言葉が、昔の記憶を揺り起こす。
「すれ違った時に懐かしい香りがして確信したんだ。その香水、まだ使ってたとはね」
ということは旅行かな?と聞かれて、私はかすかな後悔を覚えながら、ええと答えた。
旅先で使う香水は、普段使いの香水と変えている。
あの時も私はこの香水を使っていた。
まさか、そんな昔の香りを彼が覚えていたなんて。
まざまざと蘇る彼と別れた時の記憶。
大学の卒業旅行で、彼と私は2人きりでパラオに行った。
2人ともこれが初めての海外旅行だったが、天気にも恵まれてパラダイスのような数日間を過ごした。
そして、旅の最後の夜、私たちは修復不可能な大喧嘩をしたのだ。
でも、その喧嘩が、別れの直接の原因でないことは2人とも分かっていた。
それは、もっとずっと以前から、累々とお互いの中に積み重なっていたのだから。
喧嘩はその導火線に火をつけ、一気に爆発させただけにすぎない。
「友達か誰かと一緒?」
私は首を横に振った。
「女が一人でリゾートに来てるのは変?」
「いや。いいんじゃないか」
アジアのリゾートは、そういう所は寛容だから。これがヨーロッパやアメリカだったら奇異の目で見られるかもしれないけど、と彼は苦笑する。
「あなたは?出張とか?」
大学を卒業した時、彼は大手商社への就職が決まっていた。
「今、ジャカルタの支店にいるんだ」
「ジャカルタ。じゃあ仕事?」
「まあ、仕事もあったけど、半分は休暇かな」
休暇。結婚しているのなら、奥さんと一緒なのだろうか。
「君はいつからここに来てたの?」
「一昨日から、だけど」
「なんだ。昨日も君を見つけるチャンスがあったのか」
「昨日はちょっと遅い時間に走ってたから…」
彼が同じ時間帯に走っているのなら、会えないはずだ。
「明日、ジャカルタに戻るんだけど…」
彼は引き潮のビーチに目を向けた。
穏やかな海は、乳白色に輝く太陽の光を反射してきらめいている。
「もし…君さえ良かったら、今夜、食事でもしないか?」
To be continued
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
最近、週末に短編をアップすることが多いのですけども。
まあ、落ち着いて作品を仕上げるとなると、時間のある週末になってしまうので
前作から言ってましたが、こちらの作品は連載になります。
今まで「私」と「彼」という二人の世界を描くことが多くて、私も楽しく書かせてもらってたんですが、甘々な話ばっかりというのも自分の中で物足りなくなったというか、ちょっと辛口の作品を書きたくなって、思いきって第三の男を出してみました。
これがねえ、ご愛読いただいているみなさんの中で「あり」なのか「なし」なのか
第三の男は、誰をイメージしてもらっても構いません。
私の中では、もちろんちゃんとあるんですけどね(笑)当て書きする人ですから
タイトルは今回全然いいのが思いつかなくて、めっちゃ悩みました
安直なラブソングのタイトルみたいなベタなものしか頭に浮かばなくて、自分のイマジネーション力と語彙の乏しさをまたもや思い知らされることに。
最初、「恋旅」だけだったんだけど、ふと思いついて「Eden」を入れたサブタイもつけました
続きもなるべく早くアップする予定ですが、まだ最後まで書き終えていないので、タイミングを見ながら載せていきますね。
お楽しみに。
(って楽しんでもらえるかなあ・・・今までとテイストが違うのでちょっと心配です)
グラスの中でゆっくりと溶けていた氷が、お互い譲り合うようにずれて、からんと小さな音を立てる。
その音で、私はルネッサンス時代のイタリアから一時的に引き戻された。
ソファーの上で、膝を抱えるようにずっと座っていたせいだろうか、曲げていた膝の後ろが汗ばんでいる。
私は、読んでいた本の間に栞代わりに人差し指を挟むと、リビングテーブルの上で、こちらも汗をかきながら水溜まりを作っているグラスに手を伸ばした。
鮮やかなルビー色から薄紅色に変わり始めているカクテルサワーは、アルコールも薄まっていそうだ。
グラスの底からポタポタ垂れる水滴が、本にかからないよう気をつけながら、唇にグラスの縁を寄せた時、玄関の鍵を回す音が聞こえた。
暑さよけにしている遮光カーテンのせいで外の様子は判然としないが、もしかするとかなり時間が経っているのかもしれない。
と思って時計を見たら、まだ午後3時を回ったばかり。
「外と比べたらやっぱ涼しいなあ、ここは」
大きなスイカを手にぶら下げて、彼が入ってきた途端、わずかに残っていたルネッサンスの余韻も吹き飛んだ。
「なにそれ」
私の言葉に、彼が本当に驚いた顔をした。
「おまえ、スイカ知らんのか?!」
ああ、ああ、そっちにいっちゃいましたか。
「スイカくらい知ってます。私が聞いたのは、外と比べたら涼しいってどういう意味ってこと。冷房つけてるんだから涼しいに決まってるでしょ」
「おまえ、設定温度28℃にしとるやろ。ずっとおると暑く感じんねん」
「設定温度28℃のメリットその1、冷房病と無縁。その2、エネルギーの節約。その3、冷えたスイカが美味しく食べられる」
「何の広告やねん。なあ、冷蔵庫にこれ入る?」
「うーん…昨日、実家からいろいろ送ってきたから…」
冷蔵庫の野菜室を開けてみれば、野菜と果物が所狭しと入っている。
「プップー満員でーす。ご乗車できません」
「…なんやそれ。ヤスよりヒドいな。全然おもんないで」
「別におもしろいこと言ったつもりないし」
私はスイカを指差した。
「それ今日食べる?」
「当たり前やろ。このボロクソに暑い中、持ってきたんやで」
スイカは氷水をたっぷり張ったたらいの中で、しばらく入浴させておくことにした。
1時間も置けば十分冷えるはず。冷房もそれなりに効いている…と思う。
グラスの中身を、今朝作ったばかりの冷えたサングリアに入れ替えて、彼の分と一緒にテーブルに置いた。
再びソファーの上で、15世紀のイタリアにワープしようとした私の横に彼が来て座った。
「何読んでんの?」
と、体をかがめて本の背表紙を見て、私が答える前にタイトルを読み上げる。
「チ…チェーザレ・ボルジア、あるいは…」
「あるいは優雅なる冷酷」
彼がぽってりした唇を尖らせて私を見た。
「俺かて優雅と冷酷くらい読めるわ」
そう言って、本を覗き込んでくる彼の顔があまりに近すぎる。
「その本おもろい?」
声も耳元で聞こえて、私は集中力を失った。
イタリア統一を目指す強烈な個性の美しい若者より、どうしても気持ちが彼に行ってしまう。
仕方ない。こっちの相手をしようと私は彼の方を向いた。
「面白いよ。イタリア版織田信長の話なの」
「織田信長、カッコエエやん。なに?それ日本人の話なん?」
思わず吹き出しかけた。
「そういう意味じゃなくって、このチェーザレ・ボルジアって人が織田信長によく例えられるの。彼の生き方とか物事のやり方とか」
「あっなるほど、織田信長に似てるイタリア人ってことか。イタリアの人ってオシャレやもんな、そいつもカッコエエんやろ?」
そう言いながら、彼の関心はテーブルの上に積んである本に移ったらしい。
置いてある本を1冊ずつ手にしてはタイトルを眺めている。
「これ、全部読んだん?」
「うん」
「マジで?すごいな」
「朝から読書マラソンしてたの」
「読書マラソン?なにそれ、初めて聞いた」
「うん。だって私が勝手に作った言葉だもん」
「それ途中参加してもかまへん?俺も何か読みたい。どれオススメ?」
と、手にした数冊の本を、ソファーの上で私との間にトランプのように広げて並べた。
なんだか読んでほしい絵本を並べて親にせがんでる子供みたい…
本人にしてみればなんてことはない行動なのだろうけど、見ているとたまらなく愛しくなる。
彼を抱きしめたい気持ちを抑えて、私は「これとこれ」と、作家が違う2冊のエッセイ本を指差した。
「面白いん?」
「こっちはスタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんの書いた本。こっちの本書いたのは大阪のおばちゃん。たぶん、どっちとも通じる感覚あるんじゃないかな」
「ふうん。で、どっち先がええ?」
鈴木さんのは貸したげるから、こっち先に読めば?と、私は大阪のおばちゃん…もとい、詩人、茨木のり子のエッセイ集を渡した。
同じソファーに並んで座りながら、それぞれお互いに違う世界へと入っていく。
静かに過ぎゆく時間の中で、時を刻む時計の秒針と本のページを捲る微かな音だけが響いていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
遮光カーテンの隙間から部屋に差し込む光の細い帯が、橙色の強さを増しながら長く伸びてきていることに気がついた。
スイカを冷やしていたことを思い出して立ち上がろうとしたら、彼が私の脇腹を小突いた。
「な、これ、そうなん?」
「何が?」
彼が指で挟んでいたらしい本のとあるページを広げて見せた。
「ここ」
そのページを見た途端、彼が何を聞きたいのかわかった。
私もそこを読んだ時に、ちょっと気持ちがソワソワと落ち着かなくなったからだ。
作家、金子光晴氏のことを書いた『女へのまなざし』という章の一文。
いい年をした家政婦が、ドリフターズのいかりや長介に夢中なのが腑に落ちない金子氏。
奥さんにその謎を尋ねた時の奥さんの答えが…
『…あなたその年になってもまだ女がわからないの?古今東西、女は有名人好きに決まってるじゃありませんか…』
「さっき聞こうと思ってんけど、おまえ、めっちゃ本読んどったし…」
私はわざとゆっくりそのページを眺めて、「で?何が?」と聞き返した。
「これって、やっぱそうなん?」
「どう思う?」
「どう思うて、俺がおまえに聞いてんねん」
「私?」肩をすくめた。「あなたみたいな有名人と付き合ってるからそうなんじゃない」
「俺、有名人ちゃうよ」
「立派な有名人でしょ」
「え、なに、じゃあ、だから俺と付き合うてんの?」
ヤレヤレ。
私はわざと大きな溜め息をついてから言った。
「もしホンマにそうやったら、私、嵐のメンバーと付き合います」
俺、嵐と同期なのに出遅れてるよなあとボヤキ始めた彼の声を背に受けながら、私はキッチンに立って、スイカの様子を見てみた。
たらいの中で氷山のように浮いていた氷はほとんど溶けていたが、スイカはほどよく冷えている。
「なあ、俺も年取ってエロ爺さんになったら、めっちゃ人気出るんかな」
「それやったら、どっちか言うと、エロ爺さんになる素質があるのは、すばるの方だと思う」
「あーっ、そやな。たしかにすばるには負けるな」
私はスイカをたらいから、持ち上げた。
冷たくて気持ちいい。
どこかの動物園の白クマが、氷の塊を抱いてる映像を見たことがあるけれど、あんな感じでこのスイカを胸に抱え込みたい。
その衝動を我慢して、スイカをまな板の上に置いた。
かなり大きくて、2人で1回だけでは食べきれそうにない。
「ねえ」
「おん?」
彼を見るとまた読書に戻っている。
漫画以外の本を読んでいる彼の姿はちょっとした見ものだった。
「今日はどうすんの?」
家に帰るのか、ここに泊まるのか、聞くときの決まり文句。
「おるよ」
泊まって行くときの、いつもの答えが返ってきた。
じゃあ、スイカの半分は明日に回すことにしよっと。
大きさにちょっと手こずりながら切っていると、もともと2日分のつもりで、こんな大きなスイカを買ってきたのかも、と気づいた。
半分に分けても、まだスイカは大きかった。
食べやすいように切り分けたのを大皿に載せて、リビングのテーブルに持っていった。
すると、彼が待ち構えていたように私のキャミソールの裾を引っ張って、なあこれ、めっちゃええよ、と天使のように無邪気な顔で私を見上げる。
たあいもない仕草。
たあいもない会話。
たあいもない、いろんなこと。
彼と私の間をいつも行き交うのは、ほとんどが、たあいもないことだったりする。
そんなたあいもないことが、幸せはありきたりな日常にあるのだと、そっと教えてくれている。
「ほら、この詩…」
彼が開いた本のページを片手で伏せて、私は、たあいもないキスを、彼に、した。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
前回に続いて、またまた夏のお話です。
この短編、じつは前回の短編からの続き、さりげなく連載、になってます(笑)
というのも、前から書き下ろしてある作品が手元にあるんですけど、キュンキュン度がやたらと低い話で
それで、まず二人だけの世界で楽しそうな作品を書いて、序章みたいにしました。
前回の作品は、最初は独立した短編のつもりで書いてたのを途中で変更。
タイトルを序章『Prologue』としました。
そして今回の『summer time』を本編に繋がる導入部として、連載じゃないんだけれど、ひと続きのシリーズ作品みたいにしようかと。
ということで、次回から本編です。お楽しみに。
私はピアノを弾く手を止めた。
夏の午後の陽射しが、白いカーテン越しに柔らかい光を居間のテーブルに投げかけている。
ガラス製のテーブルの上で、携帯がレインボーカラーに光り、ゴトゴトとせっかちそうに震えながら鳴っていた。
催促するような携帯の呼び出し音を聴きながら、かけてきた相手の名前をしばらく眺めていた。
「もしもし」
― 何してんねん。いい加減切ったろかと思ったぞ。
「ゴメン。すぐに出られなかったの」 嘘をついた。
― 何してたん?
「ピアノ、弾いてた」
― ああ、そういや弾ける言うてたな。何の曲弾いてんの?
「言ってもわからないよ。クラシックだし」
― おまえ、馬鹿にしとんのか。俺かてクラシックくらいわかるわ。モーツァルトとかベートーベンとか、なんやあとはショパンとか、そんなんやろ。
「すごーい!巨匠の名前3人も知ってるんだ」
― やっぱり馬鹿にしとるやろ。
「プーランクの即興曲。15番。エディット・ピアフへのオマージュ」
― ・・・・いまの呪文か?
思わず笑ってしまった。
窓の外を見ると、抜けるような紺碧の青空に、大きな入道雲が湧き上っている。
夕立が来る気配を覚えながら、入道雲を悠然と横切る大きな野鳥の姿を見つけた。
トビかな?ノスリかな?
― どんな曲?弾いてみて。
「知らん曲聴いてもつまんないと思うよ」
― そんなんつまらんかどうか、聴いてみんとわからんやろ。それに・・・
おまえのピアノ、一度も聴いたことないから、と彼は小さな声で付け加えた。
私は、携帯をピアノの上に置いた。
鍵盤を叩くような激しい曲じゃないし、大丈夫だよね。
エスプリの作曲家と言われるフランシス・プーランクの晩年の作品。
交流のあったシャンソンの女王エディット・ピアフを称えて作られた作品で、1拍目と3拍目を打つ低音部のバスの音色が深いリズムを刻むメロディーラインの連続に、叙情的なシャンソンの香りが漂う。
夏の午後に弾くような曲じゃないけれど、個人的に好きな曲だった。
聴き終わった彼がポツリと言う。
― なんかあれやな。
「なに?」
― なんか、パリ・・・っぽい曲やな。夏に聴く曲って感じやないで。
時々、彼の感性の鋭さに、イマジネーションの豊かさに驚かされる。
誰かが教えたわけじゃないのに、彼の感覚は真実を突いてくることがある。
― ほかには?ほかにもなんか弾けるやろ?
「こんなの聴いてて、面白い?」
― おまえが弾いてんのに、つまんないわけないやろ。それともそれCD流してんのか?
「じゃあ、CD流す?」
言いながら、ふと、ある曲が浮かんだ。
曲名や作曲家の名前は知らなくても、 誰でも一度は耳にしたことがあるほど有名な曲だし、晴れた夏の午後、まどろみながら聴くのにぴったりの曲だと思う。
何より、この曲の持つエピソードがとてもロマンチックで、甘美なメロディーは演奏していて気持ちがいい。
E-durのシンコペーションが何かを予感させるリズムを刻み、そのあとすぐに、耳にした誰もがハッとする有名な美しい旋律が流れ出す。
途中、G-durに調が変わると、まるで恋人に語りかけるような優しく明るいメロディーがあらわれる。
そして再びE-durの主旋律に戻り、ドラマティックなクライマックスを奏でて、静かに幕を引く。
― この曲、俺、聴いたことある。なんて曲?
「Liebesgruss」
― はん?何?
「Salut D'amourとも言うけど。私はLiebesgrussという名前の方が好き。作曲した人の気持ちがすごく伝わってくるから」
― またおまえ呪文みたいなこと言うとるし。
「この曲はね、返事なの」
― 返事て何の?
「エドワード・エルガーという人が、自分のピアノの生徒だった女性からある詩を贈られたの。その詩への返事として彼から彼女に捧げた曲」
― おん。それで?
「その女性はドイツ語が得意だったのね、それで、彼は彼女のために『Liebesgruss』というドイツ語のタイトルを最初はつけたの」
― なんて意味?
「フランス語でSalut D'amour。日本語に訳すと愛の挨拶。ねえ、なんかどっちもダサくない?」
なんやいきなり、と彼は電話の向こうで笑いだした。
「私ね、ドイツ語のお堅いLiebesgrussというタイトルのほうが、この曲の持つ背景にしっくりくるんだよね。めちゃめちゃ甘ったるくて、コテコテのラブレターみたいなメロディーなんだけど、真面目そうなドイツ語のタイトルが、俺は真剣なんやで、って言ってる感じがしない?」
― そうか?てか、なんで関西弁やねん。そいつ、外人やろ。
「ニュアンスだよ、ニュアンス。そんなとこつっこまんといて」
― そやけど、ええ曲やな。で、彼からこの曲もらって、彼女どうしたん?
「エルガーさんの奥様になりました。めでたしめでたし」
― なんや、その童話みたいな終わらせ方。おもんない。
「だって私が好きなんは曲が作られたエピソードだもん」
まあ、実際、二人が結婚するには、いろいろな障害が立ちふさがってるんだけどね・・・。
でも、彼の表情が見えない電話で、その話をしたくないというのが私の本音。
他人の話ではあるけれど、「結婚」なんてデリケートな話題を今はしたくない。
もちろん、そう意識しているのは私だけで、彼はなんとも思っていないかもしれないけど。
― ところで、おまえ、いつ帰ってくるん?
「月曜から仕事だし。明日」
― そしたら、今度の休み、行ってええか?
防音装置を施した窓を少し開けると、生暖かい微風と一緒に、蝉の鳴き声が入ってきた。
カーテンが夏の風をはらんでそよと揺れる。
彼の言葉に胸を熱くしながら、私が返す言葉はただ一つしかない。
「待ってる」
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
こんな時に・・・とは思いましたが、でも、胸が詰まりそうになるくらい辛い現実の連続に、心が押しつぶされそうで。
私の短編に1人でも心を癒される人がいてくれたら・・・と思って急きょ書きおろしました。
ゴメン。そうじゃない。
私が救われたかったんです、きっと。
今まで体験したことがない激しい揺れの中で、会社のデスクの下で「怖い怖い」とつぶやきながら、心の中で「横山君、助けて」と叫んでる自分がいました。
・・・しげ、ゴメン。あなたの顔はまったく浮かばなかった。
音源ですが、You Tubeに、大好きな田部京子さんの演奏するプーランクが入っていたので、使わせていただきました。
このプーランクの曲は数年前に私がピアノの発表会で弾いた曲でもあります。
それと、エルガーの名曲「愛の挨拶」。
これは田部さん演奏のが見つからなかったので、ピティナの演奏を使いました。
ちなみに「愛の挨拶」は、去年の発表会でフルートとのデュエットで演奏しました。
「待ってる」
その意味は異なれど、今この時、愛する人が、大切な人が、自分の所に戻ってきてくれることを待っている人がたくさんいます。
ラジオから途切れることなく流れる「連絡待ってます」という伝言に、一人でも多く答えが返ってきてほしいと、切に願ってやみません。