全身にダルさを感じたのは、午後3時を回ったくらいだったろうか。外が薄暗くなり始めた頃には、熱っぽい悪寒が私の身体を襲いだしていた。
あの大震災の日を境に、自粛ムードに圧されて春先のイベントが次々と中止や延期になったこともあり、いま抱えている仕事に急ぎのものはない。
時計を見て、行きつけのクリニックの診察時間に間に合うことを確認した私は、パソコンを閉じて帰り支度を始めた。前の席の後輩が、私の動きを見て顔を上げる。
「あれ。今日は早いですね」
「ちょっと熱があるみたいなの。病院立ち寄って帰ろうと思って」
お大事に、という言葉を背中で受け流しながら手を振った。
医者の見立てはただの風邪だったが、熱が下がるまでは仕事を休むように言われた。
明日は夏のイベントの打ち合わせがある。朝までに熱は下がるかしら、と不安に駆られながらフラフラの状態で家に着いた私は、リビングのソファーにバッタリ倒れ込んだ。パジャマに着替えもしないでベッドに飛び込む、ということをしなくなったのは、そういうことを嫌う彼の1年に渡る「教育」の成果かもしれない。
だるい体を起こして、床に投げ出したバッグを引っ張り上げ、中から薬を取り出す。風邪薬も解熱剤も、即効性がなさそうな漢方薬を処方された。まあ、私が曖昧な言い方したのがいけないんだけど。
「妊娠はしてない?絶対にしてないと言える状態?」
2週間前に生理は来たし、Hの時にはちゃんと注意してる。けれど、確実に避妊しているかと問われたら、少々答えに困る。
ただ、近頃は彼が忙しすぎて、全然会っていない。だから全く問題ありませんと答えればいいのだけれど、それはそれで女としてのプライドが傷つくんだよね……そんなことを考えながら答えた。
「……たぶん」
とにかく、漢方薬を飲むにしても、何か口にしなくては。食欲はまったくないのだが。
冷蔵庫にあったリンゴを、皮を剥かずにかぶりついて、プレーンヨーグルトと一緒に胃袋に送る。そのあと、水で薬を流し入れた。
薬を飲んだことで、ちょっと気分がよくなったような気がした私は、シャワーを浴びてから寝ることにした。
それがアカンかった。バスルームから出る頃には、寒気が増して、ご丁寧に熱まで上がっていた。髪を乾かすのもそこそこに、ベッドに入って、冬眠中の熊のように丸くなって布団にくるまる。
明日までに治るとは到底思えなくなってきた。最悪だ……
「熱があるのにシャワー浴びた?うっわ、呆れた。あなたってホントにバカねえ」
「今日は何を言われても甘んじて受ける……」
「私と同じ大学出た人と思えないんだけど。母校の恥よ、恥」
「ちょっタカヒロ……」
「美・奈・子!なんで昔の名前で呼ぶの?いい加減に覚えてよね」
タカヒロ、否、美奈子に思いきり睨みつけられ、私は布団を頭まで引き上げた。
美奈子は大学の卒業式前までは、柏木孝弘というれっきとした男子だった。それが卒業式の日、彼は突然、女子の袴姿で現れたのだ。元々、女の子と見紛うほど可愛い顔をしていたので違和感はなかったが、それが一時的な気まぐれの女装などではなかったことは、その後の彼の人生の選択を見て分かった。
彼は内定していた大手の会社を何の未練もなく蹴ると、ニューハーフの世界に飛び込んだ。
そして3年前、目黒に念願だったショットバーの店を持った。その可憐な容姿ゆえに客受けが良くて、常連客もかなり付き、店の経営は順調にいっているようだった。時々、私も立ち寄っている。
昨日も行く予定であらかじめ連絡をしていたのだが、熱のせいで、すっかり忘れてしまっていた。その上、携帯の電源を切っていたので、連絡が取れないことを心配した彼が、わざわざ家まで様子を見にきてくれたというわけだ。
「お粥、作っておいたからね」
「ありがとう。助かる」
熱があるんだから、これくらい貼っときなさい、と美奈子が冷却シートを私の額にピシャリと音を立てて貼りつけた。
「そういえば一昨日だったかな。彼がお店に来たよ。メンバーと一緒に」
「えっ?よく来るの?」
まさか、私抜きで彼が美奈子の店に行くとは思ってもいなかった。
「よくは来ないけど、たまにね」
全然知らなかった。隠し事をされたような気がして、ちょっと凹んだ。
「一人でも来たりする?」
「それはない。必ず誰かと一緒」美奈子は私の手をポンと叩いた。「でも、あなた以外の女と来たことはないから大丈夫よ」
極度に人見知りな彼がそんなことをするはずはないが、もしも一人で美奈子の店に行ったりしていたら、私は男の美奈子に嫉妬してしまうかも。
「あっ。それと昨日話そうと思ってたんだけど、田宮が来たわよ。震災前の話だけど」
去年の夏のことが蘇る。熱が一段と上がりそうな気がした。
「田宮のプロポーズを断ったんだって?本人から話を聞いたけど、そういうことは先に言ってくれないと私が困るのよ」
「なんかあった?」
「付き合ってる男を知ってるかって聞かれた」
私はよほど焦った顔をしたに違いない。
「言ってないわよ。知らぬ存ぜぬで通したから。当たり前でしょ」と即座にフォローが入った。
「ほとんどパリに駐在してるらしいから大丈夫だと思うけど、これから彼と2人で店に来る時はあらかじめ連絡してくれる?」
「了解……」
水分不足にだけは気を付けるのよ、とお茶の入った携帯ボトルをベッドサイドに置いて、美奈子は帰った。途端、一気に部屋が暗くなったように感じた。窓からは春の明るい陽光が差し込んでいるというのに。
しんと静まりかえった部屋は、元気な時は何も感じないが、体調を崩して寝込んでる時は、気分が更に滅入りそうになる。
彼の声が聴きたくなって、私はiPodで歌を聴きながら、頭から布団を被って目を閉じた。
夢を見ていたような気がする。
ぼんやりと目を覚ました時、夢の残像を追いかけたが、記憶に留まる間もなく、かき消されてしまった。
眠っている間に日が沈んだのか、薄暗い夜の気配が室内を覆っている。
まだだるさの残る体をベッドから起こすと、芳醇なかぐわしい香りが鼻孔をついた。コーヒーサイフォンがコポコポいう音が、半開きのドアの向こう、リビングの方から聞こえてくる。
美奈子が戻ってきてコーヒーでも淹れているのかと思った次の瞬間、歌声が耳に飛び込んできた。それは、今の今までiPodで聴いていた彼の声だった。
なんで彼がいるのだろう。ハッキリ言って、こんな日に会いたくない。熱で湿気を帯びた髪の毛は、お世辞にも癖毛とは言い難いほどクシャクシャだし、寝汗をかいたパジャマは汗臭い。
冗談やめてよぉ……
私は布団の中に潜り込んで、狸寝入りを決めこむことにした。彼が様子を見に来ても、寝たふりをして、彼が帰るのを待とう。
彼の柔らかい声に乗って『イエローパンジーストリート』が、布団越しに聞こえてくる。
それにしても、いつから来てたんだろう。コーヒーを淹れているということは、その前に豆を挽いていたはずなのに、全然気づかなかった。
それより、彼は私が仕事を休んでここにいることに気づいているんだろうか……と、彼の歌声が近づいてきて、私は布団の中でギュッと固まった。
君が熱出てないか熱出てないか心配だ~♪
替え歌?しかも字余りだし。てか、私がいるのを知ってんの!?
「あれ?」
布団の真上から声が下りてきた。それを聞いて、私は中で布団を掴んで、アルマジロみたいにさらに丸くなった。
ポンポン。と、布団の上から彼が軽く叩く。
「熱、計ったんか」
「……」
私は気づかないふりをした。
ポンポンポンポン。叩く回数が増えた。しかも、ちょっと強くなってるし。
「なんも食ってないんやろ。おかゆ、あっためたるから食えって。栄養取らんと治らんから」
そっとだが、布団を引っ張られる感触に、私は焦って中から引っ張り戻した。
「ちょっ待て。おまえ、起きとんのか」
布団を引っ張る力が増した。ヤダーと思わず声が出る。
「何がイヤやねん。こっちは心配しとるのに」
布団の攻防はあっさり決着がついた。元気な男とまともに競うだけのパワーはない。私は布団から目だけ出した。
「ヤダって言ったじゃん」
「何が」
「だって頭モシャモシャやしスッピンやし……」
「アホか、おまえのスッピンなんかもう見慣れとるわ」
と、私の額にかろうじてついていた、カサカサに乾いた冷却シートを取った。
「まだ熱あんのかな」
彼は呟きながら、手を私の額に触れた。彼の掌から柔らかい冷たさが、熱を帯びた全身にすーっと伝わっていく。
「冷たくて気持ちいい……」
「そっか、気持ちええか」
彼は空いていた片方の手を、私の首筋にそっと当てた。熱なんて出してなければ、うっとりしてしまうようなシチュエーションなのに。こんな姿では気分は上がらない。
「ちょっとまだ熱っぽいな」
彼はサイドテーブルの上にあった体温計を私に手渡した。
「熱計ってて。おかゆ、持ってくるから」
「今日、仕事は?」
「たまたまやけど、お休み。弟が学校行っちゃってどうしよう思てたら、美奈子さんから電話もらってん」
もう、タカヒロったら余計なことを、と思った直後、いつの間に2人が互いの電話番号を交換したんだろうと疑問が湧く。たしかに、タカヒロに会わせた時から、ニューハーフで頑張って生きてきた彼にかなり興味を抱いてはいたけれど……まあ、男相手に妬いてもしょうがないか。
「おまえが熱出して寝てるから、ヒマなら様子見てきてって。ヒマならって、俺、別にヒマしてるわけやないのに。つかの間のお休みもらってただけやん」
「忙しい時なのにゴメンね」
3ヵ月連続の新曲ラッシュに、レギュラー番組も増えて、スケジュールがビッシリ入って、かなり忙しいのは知っている。だから、せっかくのお休みを私のために使わせてしまって申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
彼が驚いたような顔で振り返る。
「なんやえらい素直やな。おまえ、ずーっと熱出しとったらええんちゃう」
私が投げつけた枕を、彼は笑いながら悠々と避けた。
熱は微熱くらいには下がっていたが、身体のだるさは続いている。でも目の前のおかゆを見て、空腹感を覚えてきたので、体力は戻ってきたのかもしれない。
「美奈子さん、優しいな。俺じゃ作れへんもん」
「メンバーとお店に行ったんだって?」
私の隣に座りながら彼は頷いた。
「おん。行ったよ。アカンことないやろ?おまえの話は一切しとらんし」
彼の言葉にふと疑問がよぎる。メンバーは私のことを知ってるの?
喉元まで出掛かった質問を、しかし、私はお粥と一緒に飲み込んだ。
それは自分から知る必要のあることだろうか。メンバーが知っていようがいまいが、それを知ったところでどうだというのだろう。私たちの関係に何か変わりがあるのだろうか。
コーヒー飲む?と聞いてきた彼に、いらないと首を振った。お粥にコーヒーの組み合わせなんてありえない。可笑しくなって笑い出しそうになった。
「ねえ」
「ん?」
「もう大丈夫だから」
「何が?」
「花粉症なのに、風邪うつしたら悪いし、帰っていいよ」
「やっぱり、俺、花粉症なんかな」
彼は困ったような顔で自分の鼻先をつまんだ。
「ひのき花粉でしょ」
「おまえはちゃうの?」
「これは風邪だって医者が。だから、うつらんうちに帰って」
「ええよ。もう少しおるよ」
「いいって」
「ええって。なんも予定ないし」
「でも、ほんとにいいから」
「ええってゆうとるやろが」
「悪いし」
「ええし」
「気になるし」
「気にせんし」
彼が私の肩に手を回した。「大丈夫やって。俺、風邪なんかうつらんから」
それに、ホンマは俺にいてほしいんやろ?と、からかうように言い足した。
もちろん、それは冗談で言ったんだろうけど、私の本音はその通りだった。今、彼に帰られてしまったら、私は孤独感に押し潰されてしまう。
これ以上迷惑かけさせたくないから帰ってほしい、そう思う気持ちの裏に、寂しくなるからまだ傍にいてほしい、と願う想いがある。心の内にさえ存在する本音と建前。自分でも持て余してしまう厄介な二重の感情。
私はスプーンでお粥をゆっくりかき回した。中国粥のように、中に赤いクコの実が入っている。美奈子らしい気遣いだ。本当に、美奈子がタカヒロという男じゃなかったら、私はきっと気が気じゃないだろう。
「うつっても知らんから」
「そんなら、うつるかどうか試してみる?」
「なに試すの?」
「……チュウしよか」
お粥から隣にいる彼に視線を移す。自分で言った言葉に照れているのか、彼は私から顔を背けていた。
この人の心の中は、私と違って、シンプルではっきりしている。私に向けられる彼の言葉に建前は一切ない。だから、私は彼といて安心できるんだろうな、と思う。
私は、彼の肩に頭を乗せた。先ほどから少しずつ全身を伝う火照ったような感覚は、微熱のせいなのか、それとも、彼を求める私の渇望のせいなのか。
「……してくれる?」
「ええよ」
彼の指が私の頬に触れた。
― おまえがもうやめてて言いたくなるくらい、いっぱいチュウしたるから……
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
GWに入ってから、ブログの更新がサボり気味でスミマセン。
というか、3連休の後、1日仕事出て、それから3連休して、また1日仕事出て、土日休みって、なんだか調子が狂う…
さて。GWとはまったく関係ない話を書いてみました(笑)
しかも、こういうシチュエーションの話をただ書いてみたかっただけという、初期の妄想作品に近いので、中身はじつにペッラペラです。まあ、私の頭の中も連休中ということで、ご勘弁ください
まあ、こんな内容ですので、お気軽にご感想などお寄せください
ところで、今回、初登場の「美奈子」さんですけども、前々からいつかは登場させようと思っていたキャラクターです。「私」と「彼」の関係を、第三者の立場から見る人がいたら面白いやろうなと、ずっと思ってたので。
本当なら、メンバーの誰かがその立場に立ってほしいんですけども、書く側からすると、ちょっとそれはそれで制約があって難しい。なので、また架空の人にしてみました。
今日はですね、夜から舞台「たいこどんどん」です。
先日、オセロの時にもらったチラシの中に、しげさんの「ビターオレンジ」が入ってました
でも、一番テンション上がったのは、やはり新感線の「髑髏城の七人」のチラシ
公式サイトを見てみたら、超カッコイイ。ドクロブログでは、スチール写真撮影の様子が、小栗君と森山未来君の分が上がってますけども、す、す、素敵すぎる…
ああ、いつになったら、野波さんが撮影する加藤成亮の姿が見られるのかしら?
あ、今、ちょっと思ったんだけど、関ジャニ∞で「七芒星」とかやってくんないかな。新感線メンバーは関西人ばかりだし、それにエイトが加わっただけで練習とか超楽しそう
てか、エイト勢ぞろいで、野波さんが撮影したらどうなるんやろ。まあ、そんなの見たら、間違いなく私、昇天しちゃうかも
そうだ、ライブのパンフ、今度、野波さんにお願いしてみてはいかがでしょう。
ちなみに「七芒星」、前に、しげさんで見てみたいと思ってた舞台なんだけどね
それにしても、今回の髑髏城は、捨之介に小栗君、無界屋蘭兵衛に早乙女太一だなんて、もう、チケット取るのめっちゃ苦労しそうです
捨之介と蘭兵衛の禁断のシーンはどうなるんやろ~
あっ
そういえば、明日の「ヒルナンデス」の観覧はハズれたんやなあ…
まあ、明日は何も予定ないので、テレビでゆっくり見ますわ
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こういう設定(美奈子さん)今までになかったので読み応えありました。
こういうのってありえなくはないですもんね。
何だかちょっとくすぐったいような、でもほっこりするような感じがしました。
GWいかがお過ごしでしょうか??
短編集読みました
かなり妄想して読んでたらキュン②でした
美奈子サン素敵ですね
個人的な印象ですが、パラキスのイザベラみたぃで想像しやすかったです
立ち居振る舞いが女子よりも女らしぃなって
そして、やはり横山クンには心奪われてしまぃます(笑)
あんな優しく看病されたら、あなたに委ねますって気持ちになっちゃいます
今回のお話はシンプルに萌えポを掴んでらっしゃって、私は大好きです
明日から仕事ですが、頑張れそうな気がします
いつも素敵な作品をありがとぅござぃます
うっわー
コメントありがとう
まーうささんから短編集に感想コメがもらえるなんて感激です~
新キャラ美奈子さん、気に入っていただけて良かったです
実際にこんな友人がいたら、心強いし楽しいだろうなあと思いながら書きました
彼女(彼?)についてはまた登場させたいと思ってます
パラキスのイザベラ
言われてみればたしかに
美奈子さんはあそこまでゴージャスなイメージではないんですが、でもキャラ的には近いです
料理も得意だし、『私』より女性っぽい。
個人的にもお気に入りのキャラなので、また登場させたいと考えてます
このシチュエーションってキュン度の高い話ですよね
ラブストーリーの常套手段ではありますが
目下の悩みは数日後に迫る黒いお方の誕生日。リアルな状況がわからない分、書きにくいです
去年みたいにツアー回っててくれた方が書きやすいんだけどなあと思いながら、ネタの仕込み中です
ホント、姉さんの書く短編集好きやなぁ
妄想の世界は、現実の嫌なことも忘れれちゃうからマジ幸せ
いつも素敵な世界をありがとう
ありがとう
私の短編で、はらんみたいに癒されてる人が一人でもいてくれるんだと思うと、私も幸せな気持ちになれるよ
緑の人でも書いてください