さて、女子小学校を開学させた後は当然ながら、次は女学校が必要になる訳で。
明治15年、県庁前に「県立女学校」が開校されました。
実はこれは当時としては、画期的なことです。
日本初の女学校は明治5年に東京に開学した「官立女学校(東京女学校)」ですが、
これはわずか4年で廃校に。
この明治15年時点では日本に女学校は4校しかありませんでした。
ちなみに、その内の3校は女子師範学校ですので、
狭義の意味で「女学校」は皆無にも等しい状態。
唯一がどこか?と思ったら、
「八重の桜」で新島八重さんがいた京都の女紅場が前身の京都府女学校でした。
おお、何か微妙に群馬つながりがw
さて、当然「2位じゃダメなんです!」ということはまったくなく、
学校はスタートしたわけですが、これは残念ながら早計だったようです。
それというのも、この学校は最初は女子師範学校として計画されていたものが、
途中から女学校へと変更されたらしく。
初年時の生徒数は、わずか36名でした。
授業は「読書」「作文」「習字」「算術」「地理」「歴史」から成っていました。
卒業後の進路としては、東京女子師範学校(現お茶の水)に進む生徒もいたようで、
レベルはけっこう高かったようなのですが、
明治18年の不況で閉鎖に追い込まれました。残念・・・
しかし、以後も有志達によって私財が投じられ、学校は維持されました。
その後、この学校は明治21年に地元有志、
そして新島襄と群馬のキリスト教関係者、
アメリカン・ボードの支援を受けてミッションスクールとなり、
私立「前橋英学校(共愛学園)」として再出発して、
幼稚園から大学(前橋国際大学)まで備える、総合学園として今日に至ります。
(注…共愛学園の正式な校史には「県立女学校」は含まれていません)
ただ、この挫折が尾を引いたのか、
県立の女学校はその後は長らく開学されず、
明治32年になり「群馬県高等女学校」(現高崎女子高校)、
41年に「桐生女学校」(桐生女子高校)、
43年に「前橋女学校」(前橋女子高校)まで待つことになります。
前橋英学校は前橋英和女学校、共愛学園と名前を変えています。
写真は前橋英和女学校時代の校舎。
では、女子高等教育の場所がなかったのかといえばそうではなく。
まず、これは正確な時期が不明なのですが、
明治10年代の半ばに仙台の松操女学園(現明成高等学校)の分校があったようです。
ここで学んだのが、前にドラマの鈴木栄太郎のモデル?
(下村=阿久沢と違って可能性は低そうですが)かと取り上げた、
鈴木福次郎の長女で鈴木多満子(たま)です。
彼女の婿は松山出身の実業家・鈴木宗十郎で、
この2人が明治29年、前橋に立ち上げたのが「上毛裁縫伝習所」です。
(前にこの学校を前橋初の私立女学校と書きましたが、
共愛学園が7年先でした。すみません、訂正します)
学校は後に「明治裁縫学校」と改名しますが、
生徒数は200人を超え和装のみならず洋装、
そしてお茶は裏千家、お花は古流、作法は小笠原流を授業に取り入れます。
名前は裁縫学校のままですが本科、別科、研究科、更に師範化をおいて、
教員免許の取得を可能とした、総合学校として明治~昭和の群馬を代表する学校となりました。
また、群馬県内の裁縫学校設立者も、多くが明治裁縫学校の卒業生です。
大正15年時点の群馬の私立学校は男子1校に対して、女子15校です。
ある意味、共愛学園や明治裁縫学校の「活力」が、
公の力を上回ったとも言えますが・・・
残念ながら明治裁縫学校は戦争で校舎が全焼し、
その後復活したものの明治30年にその歴史を閉じました。
しかし、もしもドラマの鈴木栄太郎が本当にモデルなら、
子孫は女学校経営者になると作中の彼に教えたい!!(違うとは思いますがw)
この他、明治34年には「群馬県女子師範学校」が前橋に開学しています。
こちらは後に男子師範と合併して、現在の群馬大学教育学部、社会情報学部ですね。
明治裁縫学校。
なお、鈴木多満は群馬県の女性として初の藍綬褒章を受章。
参考、引用文献
『前橋市史 第3巻』昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』昭和54年
智本光隆
明治15年、県庁前に「県立女学校」が開校されました。
実はこれは当時としては、画期的なことです。
日本初の女学校は明治5年に東京に開学した「官立女学校(東京女学校)」ですが、
これはわずか4年で廃校に。
この明治15年時点では日本に女学校は4校しかありませんでした。
ちなみに、その内の3校は女子師範学校ですので、
狭義の意味で「女学校」は皆無にも等しい状態。
唯一がどこか?と思ったら、
「八重の桜」で新島八重さんがいた京都の女紅場が前身の京都府女学校でした。
おお、何か微妙に群馬つながりがw
さて、当然「2位じゃダメなんです!」ということはまったくなく、
学校はスタートしたわけですが、これは残念ながら早計だったようです。
それというのも、この学校は最初は女子師範学校として計画されていたものが、
途中から女学校へと変更されたらしく。
初年時の生徒数は、わずか36名でした。
授業は「読書」「作文」「習字」「算術」「地理」「歴史」から成っていました。
卒業後の進路としては、東京女子師範学校(現お茶の水)に進む生徒もいたようで、
レベルはけっこう高かったようなのですが、
明治18年の不況で閉鎖に追い込まれました。残念・・・
しかし、以後も有志達によって私財が投じられ、学校は維持されました。
その後、この学校は明治21年に地元有志、
そして新島襄と群馬のキリスト教関係者、
アメリカン・ボードの支援を受けてミッションスクールとなり、
私立「前橋英学校(共愛学園)」として再出発して、
幼稚園から大学(前橋国際大学)まで備える、総合学園として今日に至ります。
(注…共愛学園の正式な校史には「県立女学校」は含まれていません)
ただ、この挫折が尾を引いたのか、
県立の女学校はその後は長らく開学されず、
明治32年になり「群馬県高等女学校」(現高崎女子高校)、
41年に「桐生女学校」(桐生女子高校)、
43年に「前橋女学校」(前橋女子高校)まで待つことになります。
前橋英学校は前橋英和女学校、共愛学園と名前を変えています。
写真は前橋英和女学校時代の校舎。
では、女子高等教育の場所がなかったのかといえばそうではなく。
まず、これは正確な時期が不明なのですが、
明治10年代の半ばに仙台の松操女学園(現明成高等学校)の分校があったようです。
ここで学んだのが、前にドラマの鈴木栄太郎のモデル?
(下村=阿久沢と違って可能性は低そうですが)かと取り上げた、
鈴木福次郎の長女で鈴木多満子(たま)です。
彼女の婿は松山出身の実業家・鈴木宗十郎で、
この2人が明治29年、前橋に立ち上げたのが「上毛裁縫伝習所」です。
(前にこの学校を前橋初の私立女学校と書きましたが、
共愛学園が7年先でした。すみません、訂正します)
学校は後に「明治裁縫学校」と改名しますが、
生徒数は200人を超え和装のみならず洋装、
そしてお茶は裏千家、お花は古流、作法は小笠原流を授業に取り入れます。
名前は裁縫学校のままですが本科、別科、研究科、更に師範化をおいて、
教員免許の取得を可能とした、総合学校として明治~昭和の群馬を代表する学校となりました。
また、群馬県内の裁縫学校設立者も、多くが明治裁縫学校の卒業生です。
大正15年時点の群馬の私立学校は男子1校に対して、女子15校です。
ある意味、共愛学園や明治裁縫学校の「活力」が、
公の力を上回ったとも言えますが・・・
残念ながら明治裁縫学校は戦争で校舎が全焼し、
その後復活したものの明治30年にその歴史を閉じました。
しかし、もしもドラマの鈴木栄太郎が本当にモデルなら、
子孫は女学校経営者になると作中の彼に教えたい!!(違うとは思いますがw)
この他、明治34年には「群馬県女子師範学校」が前橋に開学しています。
こちらは後に男子師範と合併して、現在の群馬大学教育学部、社会情報学部ですね。
明治裁縫学校。
なお、鈴木多満は群馬県の女性として初の藍綬褒章を受章。
参考、引用文献
『前橋市史 第3巻』昭和53年
『写真集 明治大正昭和 前橋』昭和54年
智本光隆
よくブログは見ていますが、群馬はかなり教育県だったんですね。私の曾祖母の母(なんていうんだろ?)は群馬で女学校にいったらしいですが、どこか聞いておけばよかったです(明治10年代らしいです)
質問はドラマに出ている三田佳子さんの阿久沢せいさんですが、この人は実在した下村善太郎という生糸商人の奥さんと同名だそうですが、どんな人ですか?ドラマのような女性だったのでしょうか?ほかで調べてもよくわからないでの、教えていただけるとうれしいです。よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
群馬の女学校ですか。明治10年代だと記事に書いた通りで、県立女学校か、仙台松操前橋分校になります。一度入学して仙台本校に行った人もいるようです。
もう少し時期がずれると、共愛が出来ますが・・・
下村善太郎妻・下村せいさんについては、知っている限りで書いてみました。また何かありましたら、遠慮なくどうぞです。
私の知識で答えられることでしたら・・・ですがw