さて、ドラマは終了して今日は総集編があるようですが。
第3代群馬県令・楫取素彦とは一体群馬にとって何を残した人であったのか。
何度も書いていることですが、群馬においては、
「県庁移転に関して3万円を受け取り、そして県庁を高崎から前橋に移転した人」
これが楫取の第一認識です。
はっきりいってしまえば、それに尽きる。
・・・では話が終わってしまうのでw
楫取は「難治県」とされた群馬県の県令となりましたが、
実際に当時の群馬は特に「治めにくい」県という訳ではありません。
ただ、明治維新時点で国内が11藩に分かれ、他に天領も多い上州ですが、
幕末から生糸輸出で爆発的に潤った為に治世者にとっては財政的心配は皆無。
「難治県」とは楫取の離県時の県庁職員のスピーチに端を発し、
それが「楫取素彦功徳碑」に刻まれたものが初見のようです。
群馬県の初代県令は青山貞、第2代が河瀬秀治です。
明治5年に前橋に厩橋学校、
6年になり桃井学校など前橋を中心として群馬各地に学校(小学校)が開学ラッシュしますが、
この時の県令は河瀬です。
河瀬は元宮津藩士で群馬県令、熊谷県令を歴任後は内務省に入省。
明治13年に渋沢栄一、毎朝話題の五代友厚と共に東京商法会議所(商工会議所)を設立します。
功績を考えれば、河瀬は「群馬教育の父」というべき存在でありますが、
熊谷県時代に県令辞任したこともあって、群馬県人からの認識は薄いです。
しかし、作中に登場した星野長太郎、新井領一郎兄弟は河瀬から中央との人脈を築いており、
退任後も群馬との関わりは続いたようです。
なお、河瀬の妻は木戸孝允正妻・松子・・・つまり幾松の妹芸妓・玉松なので、
楫取の県令就任は、この長州ライン・・・じゃないかと思うのですが、さてw
・・・あ、あともしかしたら「あさが来た」に出てくる可能性もww
楫取が河瀬の後任として、熊谷県令に就任したのは明治7年7月。
群馬県が再分離して、楫取が群馬県令(第2次群馬県・初代)となったのは明治9年です。
県庁問題のゴタゴタの末、楫取が前橋県庁に赴任した時には、
少なくとも前橋近郊の学校はすべて開校済みでした。
このあたりは、以前に
「前橋から花燃ゆ⑰群馬学校物語」でも突っ込みましたが。
では、楫取が群馬の教育に果たした役割とは?
彼が群馬に赴任して時点で学校作りは一段落がついている状態でしたが、
「就学率」は以前として低い状態でした。
これは群馬のみの問題ではなく全国的な問題でした。
(群馬の就学率は当時全国10位)
この就学率を如何にして上げるかが、楫取県政近々の課題。
当時、厩橋学校に次いで前橋に誕生した桃井小学校が洋風建築に建てかえられ、
前橋市内は新築ラッシュとなりました。
楫取はそれらの学校、更には郡部に誕生して新学校を回り校名の筆を取り、
寄付金を配ったと言われています。
何度か書いているものに、前橋にあった前橋女学校(女児学校)がありますが、
これも本来の目的は女子だけの学校をつくることではなく、
男子よりより低い女子の就学率を上げるために、
県都前橋に「女子の小学校」をつくるという「イメージ戦略」に基づいたものでした。
ドラマの楫取は県内では和装で通していますが、
残っている写真、肖像画、そして逸話などは洋装で、
馬に乗って各地を視察したようです。
ですが、これは明治政府の「威光」を示すために行為であって、
逆に和装では意味がないw
これらの努力が実を結び、明治11年に群馬県の就学率は66.7パーセントで、
大阪に次いで全国2位となります。
(ただし、明治の就学率については疑問符がつきますが・・・それはまた別の話)。
いずれにせよ「西の岡山、東の群馬」と呼ばれる教育県となった訳です。
なお、明治初年より群馬の就学率のほうが、山口よりもずっと高いw
楫取は「群馬教育の父」とまでは言えないでしょうが、
彼は群馬を教育県として「推進役」であり、その役割を充分に果たしたことは確かです。
ただ、そこには莫大な財政負担が圧し掛かり、
それは一介の儒学者出身の楫取ではどうすることも出来ない問題ではありました。
楫取県政にとって欠かせない男――それが初代前橋市長となり、
前橋生糸商を代表する下村善太郎です。
続きます。
智本光隆