歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

2015年の感謝!!

2015-12-31 20:08:27 | 日記
毎年紹介しているスバル(富士重工)航空機カレンダー。
なんと、、、今年で最後だそうです。




最後の表紙は中島飛行機が誇る四式戦闘機「疾風」
中島飛行機が誇る最後の制式戦闘機です。




中も少しご紹介を英軍の「スピットファイヤー Mk.Ⅷ」


さて、今年も多くの皆様に本ブログをご覧いただき、
誠にありがとうございました。
特に、、、大河ドラマ「花燃ゆ」群馬編がスタートしてから、
「いや、ちょっと待て(汗」というくらいの伸び率が!!
(なお最大は11月29日で訪問者数1245です)
このブログで紹介した群馬の歴史をご覧いただけて、
嬉しい限りです。
・・・うん、その点はNHKに感謝しなければならない。
しかし、養蚕とはそもそ(以下略
あ・・・「前橋から花燃ゆ」が完結してませんが、
年明けには多分w


そんな訳で年の後半に予想外のサプライズ?もありましたが、
今年もありがとうございました。
御礼申し上げる次第です。
来たるべき年が皆様にとりましてより良い年でありますように。



智本光隆

前橋から花燃ゆ㉕楫取素彦

2015-12-26 12:54:28 | 日記
さて、ドラマは終了して今日は総集編があるようですが。
第3代群馬県令・楫取素彦とは一体群馬にとって何を残した人であったのか。
何度も書いていることですが、群馬においては、
「県庁移転に関して3万円を受け取り、そして県庁を高崎から前橋に移転した人」
これが楫取の第一認識です。
はっきりいってしまえば、それに尽きる。
・・・では話が終わってしまうのでw


楫取は「難治県」とされた群馬県の県令となりましたが、
実際に当時の群馬は特に「治めにくい」県という訳ではありません。
ただ、明治維新時点で国内が11藩に分かれ、他に天領も多い上州ですが、
幕末から生糸輸出で爆発的に潤った為に治世者にとっては財政的心配は皆無。
「難治県」とは楫取の離県時の県庁職員のスピーチに端を発し、
それが「楫取素彦功徳碑」に刻まれたものが初見のようです。


群馬県の初代県令は青山貞、第2代が河瀬秀治です。
明治5年に前橋に厩橋学校、
6年になり桃井学校など前橋を中心として群馬各地に学校(小学校)が開学ラッシュしますが、
この時の県令は河瀬です。
河瀬は元宮津藩士で群馬県令、熊谷県令を歴任後は内務省に入省。
明治13年に渋沢栄一、毎朝話題の五代友厚と共に東京商法会議所(商工会議所)を設立します。
功績を考えれば、河瀬は「群馬教育の父」というべき存在でありますが、
熊谷県時代に県令辞任したこともあって、群馬県人からの認識は薄いです。
しかし、作中に登場した星野長太郎、新井領一郎兄弟は河瀬から中央との人脈を築いており、
退任後も群馬との関わりは続いたようです。
なお、河瀬の妻は木戸孝允正妻・松子・・・つまり幾松の妹芸妓・玉松なので、
楫取の県令就任は、この長州ライン・・・じゃないかと思うのですが、さてw
・・・あ、あともしかしたら「あさが来た」に出てくる可能性もww


楫取が河瀬の後任として、熊谷県令に就任したのは明治7年7月。
群馬県が再分離して、楫取が群馬県令(第2次群馬県・初代)となったのは明治9年です。
県庁問題のゴタゴタの末、楫取が前橋県庁に赴任した時には、
少なくとも前橋近郊の学校はすべて開校済みでした。
このあたりは、以前に「前橋から花燃ゆ⑰群馬学校物語」でも突っ込みましたが。


では、楫取が群馬の教育に果たした役割とは?
彼が群馬に赴任して時点で学校作りは一段落がついている状態でしたが、
「就学率」は以前として低い状態でした。
これは群馬のみの問題ではなく全国的な問題でした。
(群馬の就学率は当時全国10位)
この就学率を如何にして上げるかが、楫取県政近々の課題。
当時、厩橋学校に次いで前橋に誕生した桃井小学校が洋風建築に建てかえられ、
前橋市内は新築ラッシュとなりました。
楫取はそれらの学校、更には郡部に誕生して新学校を回り校名の筆を取り、
寄付金を配ったと言われています。
何度か書いているものに、前橋にあった前橋女学校(女児学校)がありますが、
これも本来の目的は女子だけの学校をつくることではなく、
男子よりより低い女子の就学率を上げるために、
県都前橋に「女子の小学校」をつくるという「イメージ戦略」に基づいたものでした。


ドラマの楫取は県内では和装で通していますが、
残っている写真、肖像画、そして逸話などは洋装で、
馬に乗って各地を視察したようです。
ですが、これは明治政府の「威光」を示すために行為であって、
逆に和装では意味がないw


これらの努力が実を結び、明治11年に群馬県の就学率は66.7パーセントで、
大阪に次いで全国2位となります。
(ただし、明治の就学率については疑問符がつきますが・・・それはまた別の話)。
いずれにせよ「西の岡山、東の群馬」と呼ばれる教育県となった訳です。
なお、明治初年より群馬の就学率のほうが、山口よりもずっと高いw


楫取は「群馬教育の父」とまでは言えないでしょうが、
彼は群馬を教育県として「推進役」であり、その役割を充分に果たしたことは確かです。
ただ、そこには莫大な財政負担が圧し掛かり、
それは一介の儒学者出身の楫取ではどうすることも出来ない問題ではありました。
楫取県政にとって欠かせない男――それが初代前橋市長となり、
前橋生糸商を代表する下村善太郎です。


続きます。



智本光隆

お前はまだグンマを知らない5

2015-12-25 19:55:11 | 日記



帯はイバラキ(イバラギじゃなくて)の逆襲ですが、
(あ、、、そういえば行ったことないな、茨城)
全巻のVS新潟戦から始まります。


実際に館林の人曰く、
「熊谷に負けてもいい。涼しくなって欲しい」だそうでw


なお、群馬の森の馬の像は県内の馬像でもっとも有名です。
上に乗っている人はまだ見たことありませんがw
ちなみに群馬人は昔は海といえば茨城の大洗でしたが、
関越自動車道の開通後は、もっぱら新潟ですかね・・・


ただ、その頃の名残かどうかは分かりませんが、
当家の稲荷は茨城の笠間稲荷です。
そろそろ、今年の板祓(御神体)を収めにいかないとな。


・・・そういや従兄弟殿は筑波大だった。
巨大地下空間があるのか今度帰ってきたら聞いておこうw



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑯下村せい

2015-12-19 10:20:50 | 日記
(12.19 一部加筆修正しました)
ご質問もいただいてしまいましたので、
ここはドラマの「阿久沢せい」のモデルと思われる、
下村善太郎の妻「下村せい」についてです。


せいの父は前橋の立川町の畳屋・小泉長七で、
元の名は「小泉せい子」です(ブログはせいで統一します)。
当時、前橋でも「顔立ち美しく優しく」、そして「心映え雄々しく美しい」
そんな少女だったそうです。
2人の結婚は善太郎が17歳、せいが16歳の時で、翌年には長女のちか子が生まれています。


ところが、若き日の下村は仕事(小間物屋)を放り出して博打に嵌り込みます。
この当時、前橋藩は本城を川越に移しており、
それにより街の風紀は乱れ放題。
(後の下村の県庁誘致は、この時の街の荒れようを知っているからこそですが)
その上に米相場にまで手を出して、遂に実父始め親族からも絶縁状態となります。
この危機を救ったのがせいの兄・小泉藤吉でした。
下村はこの義兄から八王子の糸屋源兵衛を紹介してもらい、
また祖母・きせ子から支度金6両2分400分と夜具布団だけを用意して貰うと、
妻のせいと娘を連れて八王子で再起を期します。
時に嘉永3年(1850)、まさに黒船来航の直前で、
前橋を旅立った下村は24歳。せいが23歳、ちか子が4歳。


しかし、この時に八王子の糸屋には、
「(下村には)金銀の儀は一切御貸し下さるまじ」と紹介状に書かれていたので、
金を借りていきなり起業は不可能に。
しかも、支度金は八王子に長屋を借りただけど、早くも底を尽きかけた状態に・・・


そのため、下村はまず熨斗糸買から商売をはじめます。
せいは当初は借りた長屋で繕い物の仕事をしており下村を支えます。
やがて糸屋の信頼を得た下村は、木綿反物、絹織物と商売を広げて行きます。
そして、せいも長屋に別の部屋を借りると、
そこで下村とは別に質屋をはじめます。
この時期、せいは生活費はすべて自分の稼ぎで賄い、
下村は稼いだ銭はすべて商売につぎ込むことが出来たといいます。


やがて、下村は武蔵大沼田村から生繭を買いこれを生糸に製造、
武蔵全域、上野からも生繭を買い付け、遂に巨万の富を得るに至ります。
前橋を出てから、8年目のことでした。
なお、この時期に祖母を八王子に引き取って、せいが世話をしています。


さて、そしてペリー来航と横浜開港を経た、
そんな文久3年(1863)に下村の父・右衛門が世を去ります。
熨斗糸買として八王子をはじめ、横浜にまで人脈を作り、
そして今や生糸売買で巨万の富を得た善太郎は、家業を継ぐべく前橋に錦を飾ります。
小間物屋「三好善」は生糸商となり、
それからの生糸商人としての下村の活躍は言うまでもなく、
前橋の教育、インフラ整備にも大きく尽力しています。


前橋に戻った翌年、せいは長男の善右衛門を産んでいます。
(姉のちか子とは19歳差!)
その後、せいが表舞台に立つことはなかったようです。
ですが、前橋の生糸商人のまとめ役となり、
そして県庁誘致を成し遂げた下村を陰に日向に支え続けました。
下村の商法は基本的には農家の生糸を買い上げるか、
もしくは生繭を農家に卸し委託生産する(賃引き)が主でしたが、
「昇立社」という自前の製糸工場も作っています。
この製糸工場ではせいも糸を紡いだと言われています。
そして以前に下村の窮地を救った、せいの兄・小泉藤吉の子は三好善の番頭を経て、
昇立社の支配人になっているので、
せいが工場を差配したのかな・・・と推測はしています。


他にも明治6年頃に、下村は商家2階で奉公人、工女のために
「夜学」を開いていますが、これにもせいの影響は充分にあったでしょう。


ちなみに2人の子は、姉のちか子は幼い頃からせいが手習いを熱心にさせ、
書の名人だったようですが、明治19年に38歳の若さで病死しています。
長男の善右衛門は下村の全盛時代に成長して、
慶応大学に進学した後に家業を継いで、衆議院議員に2度当選しています。


下村善太郎は前橋市長在任中の明治26年、
横浜に出張に向かう途中の汽車の車内で倒れ、東京の病院に入院し、
前橋から駆け付けたせい達に看取られて67年の生涯を閉じました。
亡骸はすぐに前橋に運ばれ、当然前橋市葬となりましたが、
この際にせいは質屋時代からの蓄えを出し、
葬儀費用に当てたといいます(形は市葬、費用は下村家という事か?)
せいはその後も健康を保ち続けましたが、
明治43年11月22日に世を去りました。享年83歳。


下村は妻のせいに生前「俺はどんなに稼いでもお前には及ばない」と、
常々口にしていたと言います。



前橋の龍海院にはある墓石には下村善太郎とせい――2人の名前が並んで刻まれています。



参考文献
『下村善太郎と当時の人々』栗田秀一 大正14年




智本光隆