本日、大河ドラマは「方広寺鐘名事件」でしたが・・・
こちらの紀行でも、それ行って見よう!!
前回訪問した豊国廟の阿弥陀峰の真下が、豊国神社です。
元々は方広寺が文禄4年(1595)、豊臣秀吉によって建立されてました。
その鎮守社として建立され、後陽成天皇より神号を賜ったのが豊国大明神です。
江戸時代には荒れ果て、明治になって再建されたのは前回、書いた通りですが・・・
豊国神社鳥居、及び正面参道。
阿弥陀峰を下りてここに着いた時、天気がなんか激変!!
あんま、写真の映りが良くないのはご容赦下さい。
地震や度重なる火災で、豊臣時代のものはほとんど残ってはおりません。
社殿の完成は明治13年(1880)、当時は別格官弊社に列せられています。
これについては当初、大阪に建立が予定されていたものの、京都市民の熱望で再建されたとのこと。
さて、そんな訳で豊臣時代のものはない中で、
これが残っているのは、歴史の必然なのか?
方広寺梵鐘。そして「例の文字」
今日まで「世紀のイチャモン」と語り継がれる、「国家安泰 君臣豊楽」の八字。
諱を避けなかった豊臣側の隙を突いたも言われていますが、大坂の陣開戦につながる事件となりました。
なお、大河ドラマでは何故か作品によって、発案者が違っていたりします。
今回は本多正純。。。
金地院崇伝が出ることは稀かな?まあ、自分も出したことはないですが(w
大坂の陣の勝敗は今更ですが、、、
さて、この一件は徳川幕府にひとつ、大きな「敗北」を残しました。
後世の多くの人々はこの鐘名事件を徳川の難癖と見て、そう語り継がれております。
で、数年に一度は大河ドラマでもそのように。
歴群でもそんな感じに(w
もっとも家康にとって、そこまでして潰さなければならない、それが豊臣家であった。
そして、豊臣秀頼であった・・・と。
そういうことなんだとは思います。
それこそ、己一代が泥の塗れても・・・
耳塚。
朝鮮出兵で削ぎ取った鼻、耳を葬った「耳塚」(鼻塚とも言います)は、
実は豊国神社正面です。なので、こちらへも。
(実はこれもかなり大きい・・・)