歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ㉑臨江閣

2015-11-29 20:03:05 | 日記
富岡から前橋来るのは沼田行くより大変だぞ・・・
富岡製糸場所長で払い下げを主張した、速水堅曹は出ないのか・・・?
そして群馬は座繰り製糸での「質」に拘った結果、
機械製糸への本格転換は日露戦争後です。



群馬県では明治6年に下村善太郎が商家の2階に夜学を、
明治11年に女児小学校を、明治15年に県立女学校が開学しています。
詳しくは以前に書いた、
前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花
前橋から花燃ゆ⑮群馬女子教育

なお、女児小学校は明治13年に新校舎建設されますが、
16年の前橋大火で焼失してしまう・・・



さて、楫取が県令退任する年のこと・・・
ある時、下村善太郎ら前橋の名士を前にして、
「前橋にもいろいろな施設が出来たがまだ欠けているものがある。
県都に相応しい迎賓館をつくりたい。
この際、私も寄付をしようと思うので、諸君も奮発してくれないか・・・」


前橋はこの前年に大火があり、街の中心部が大被害を受けた。
白亜洋風で明治天皇も宿泊した生糸改所も全焼してしまい、
下村らもこれはもっとも、と考えた。


楫取はこの「迎賓館」に自分が暮らす別邸「楽水園」のすぐ南の、
利根川畔の高台を指定したが、そこは下村善太郎の私有地だった。
下村がまずその土地を提供し、その他は生糸商人はじめ、
国立三九銀行(現群馬銀行)が出資し、
市民からも寄付を募り建設費用の6千円が集まった。


同年8月、まだ建設途中の迎賓館「臨江閣」で、
退任の決まった楫取県令の送別会が挙行され、楫取県政9年の幕が下ろされた。
楫取は東京に去り元老院議官となり。


ちなみに・・・・・6千円が恙なく集まったためが、
楫取が寄付した形跡が見受けられないw







前橋に残る楫取県政でほどんど唯一の建造物。
ただ、子供のころにここで普通に市の行事をしたので、
あまり史跡という感じがしないw



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑳アメリカ直販と新井領一郎

2015-11-28 11:33:56 | 日記
何かけっこういろいろな所で先週の、


Q 群馬県とアメリカ人商人・リチャードソンとの取引は本当なの?


というのが話題になってます。ええ、私も聞かれました。
それで・・・


A んな訳ねぇって。あれなんなんさ!


・・・ちょっと上州弁混ぜて応えるとまあ、こんな感じにw
製糸関係者からすると笑えないだろうけど(汗



まず、星野長太郎と新井領一郎の兄弟について。
兄弟は群馬県黒保根村の出身で、
兄の長太郎は明治7年に群馬県初の機械製糸場「水沼製糸場」を立ち上げます。
これより先に藩営前橋製糸所(前橋藩)や、官営富岡製糸場が県内にありますが、
「民間機械製糸場」は県内初です。
この後、ドラマであったように弟の新井領一郎が、
アメリカへの生糸直販ルート開拓の為に渡米します。
これは楫取県令に直談判したように描かれていますが、
内務省支援の「米国商法実習生」に加わってのもので、群馬県は直接関係ありません。
(県としての派遣ではない)
星野兄弟については書くと長くなるので、また回を改めて。


さてドラマでは、
「生糸相場の下落で慌てて底値で契約し、
その後値上がりしたが契約時の取引価格を強行」
と描かれていました。
これは概ね事実です・・・・が!!
新井がこの時にリチャードソンと取引したのはあくまで「水沼製糸場」の生糸であって、
県名義で輸出したものではありません。


そもそも、群馬県は生糸の輸出を一括統制はしていない!


ですのでドラマでは、


「群馬県(楫取県令)とリチャードソンの取引」的な描写ですが実際は、
「水沼製糸場とリチャードソンの取引」だったということになります。


楫取素彦を星野長太郎に置き換えると合う感じですかね・・・
(ただ、この時に星野は弟に契約見直しを指示していますが、
新井は自分の名誉と取引の将来のためだと、当初価格を主張。
最終的にはリチャードソンが価格を多少上乗せして決着)


新井領一郎は後に日本を代表する生糸の貿易商になります。
ですが、兄が経営する水沼製糸場はこの当時から経営的には大分厳しかったらしく、
明治32年に閉鎖に追い込まれています。
この辺りのことは、明治の群馬に機械製糸場が普及しなかったことも原因でしょう。
前にも書いたかも知れませんがこの当時の生糸は、
座繰り(農家)→製糸工場(座繰り)→製糸工場(機械)の順で品質に差がありました。


ですので、ドラマでは群馬中の農家、製糸工場から生糸をかき集ていましたが、
そんなことしたら質に天と地ほどの差が出て先方激怒します。
ラストは阿久沢権蔵が足りない分を補填して・・・という流れでしたが、
彼を下村善太郎に置き換えると前橋一の生糸商ですので、
扱う生糸は一等品です。機械製糸場とではかなり差があるような・・・
ただ、下村は自前の製糸工場を持っていたので、
質の釣り合った生糸を選んで提供したのかも知れませんがw



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑲下村善太郎と当時の人々

2015-11-22 20:07:50 | 日記
生繭の選別って熟練の目利きじゃないと無理だと・・・・
なお、新井領一郎とリチャードソンは桐生(黒保根村)の、
水沼製糸場の生糸の直輸出であって、県は直接関係ありません。

明治14年学びの場って何だろう?
前橋女児学校なら明治11年に開校してますが・・・
前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花


はい、ちょっとご紹介したい本がございます。




『下村善太郎と其當時の人々』栗田秀一  大正14年


下村善太郎、そして妻の下村せいの死後に刊行されました。
下村善太郎、勝山源三郎、勝山宗三郎、須田傳吉、大島喜六、鈴木久太郎・・・
昭和9年の県庁前橋移転に関わった下村善太郎はじめ、
その資金約2万7千円を用意した25人が紹介されています。
巻頭に「群馬県庁移転運動に参加した有志の活動史」と銘打っているだけあって、
県庁移転に関して詳しいです。
また、取り上げられている大半が生糸商人ですので、
生糸関係に関しても取り上げられています。



中央が下村善太郎



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑱前橋生糸改会所

2015-11-15 20:20:32 | 日記
なんか阿久沢さんの家で噂話しながら、焼きまんじゅう食べていますが、
あれは会話しながら食べるのに向きません。

あ・・・船津伝次平宅に風車っぽいのがありますが、
赤城南面は空っ風地帯なので・・・・・吹っ飛ぶぞw


新田神社と楫取の関係って聞いたことないのだが・・・?
というか、新田神社は明治8年創建だったと思うので、
当時の新田郡は栃木県管轄下じゃあ・・・



花燃ゆで先週からの「揚返場」(字が違うかも・・・)って、
一体何を指しているのはよく分かりませんが、
(なお、現実に同名の施設はありません)
近いのは先週ちょっと書いた、
前橋藩から下村善太郎たちが引き継いだ「前橋生糸改会所」ですが、






明治11年に白亜の洋風建築として新築されました。
現在はこの記念碑だけですが。




どちらかと言うと、昭和9年の昭和天皇群馬行幸の、
「昭和天皇行在所」としての方が地元では有名か・・・
祖母なども「明治天皇が止まったところ」と言っていましたしw




智本光隆