歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

早咲き

2016-03-27 20:32:08 | 日記
え~ちょっと家に工事がいろいろ入りまして、
ブログが放置気味でなんかすみません。
ひとまず、更新をw






早咲きの桜。
種類は・・・過去にライラックを思いっきり間違えているので、
ふれない方向でw


そして、明日は地味?な難問があり・・・



智本光隆

前橋から花燃ゆ㉛前橋今昔十六景

2016-03-20 20:01:17 | 日記
楫取像の寄付金集めが難航しているようです。
そりゃあなぁ・・・


さて、これをそういえば紹介してなかったなとw
昨年に発売された「前橋今昔十六景」絵葉書シリーズ。
花燃ゆにゆかりの地も入っています。
なお、まだ絶賛発売中です。
お求めは郵便局で!
その内の何枚かをご紹介すると、、、




初代前橋市役所。
楫取県令辞任後の明治25年に東京、横浜、水戸に継いで、
関東地方で4番目の市として「前橋市」が誕生。
初代市長は下村善太郎。
市庁舎は翌年落成で、
県内初の小学校「厩橋学校」(前橋から花燃ゆ⑭群馬教育開花)があった場所です。
現在は日銀前橋支店。




花燃ゆにも登場の臨江閣。
明治43年に貴賓館として別館が完成。




そして同年、
「1府14県連合共進会(第13回)」
「殖産興業」のスローガンのもとに開かれた博覧会です。
現群馬県民会館のメイン会場。
9月17日~11月15日の60日間開催されました。
ですが、この撤去時に楫取県令時代の建造物も、
かなり取り壊されたらしいですが・・・



智本光隆

5年目。

2016-03-11 14:00:00 | 日記
3月11日です。
今年は過去4回とくらべて、当時の津波映像が多くTVに流れています。
「5年目の節目」という言葉も多く聞かれますが、
同時に「何の節目でもない」との声も聞こえます。
「伝えるべきだ」という声があることは承知していますが、
私は過剰に映像を流すべきではないと思います。
京都にいた当時に聞いた話ですが、
阪神大震災でも被災からの復興までのスピードは、
人によって違います。
それは、モノと心の双方で。


今年は私自身がちょっと自由の制限される状況が続いているので、
逆に考える時間が多くなりました。
このブログで長い文章を書くことも考えましたが、
何を書いても空虚な響きしかなく、
今日は犠牲になられた方々の御霊の安らかなることをお祈り致します。


そして、今も被災地でご苦労されている方々に敬意を表し、
微力な身ではありますが、復興の一助となれるように務めたいと思っております。









智本光隆

前橋から花燃ゆ㉚厩橋か前橋か?

2016-03-06 20:41:08 | 日記
北島寿典選手、リオ五輪(ほとんど)内定おめでとうございます。
中央高校・・・中学どこだろうw
飯塚淳司さんと箱根駅伝で同じ区間(8区)走ってるな・・・



さて、前橋城のことを前に少し書いたのでその呼称について。
「前橋」は古名では「厩橋」といいます。
古来、上野国府(現在の前橋市・旧群馬町の境付近)近くの宿駅・・・
つまり「厩」の近くに川が流れており、そこに橋が架けられていて、
そこから「厩橋」(うまやばし)と名が付き、
時代が下って「まやばし」と呼ばれるようになった・・・というのが定説です。


ただし、この「国府厩説」は伝承であって、資料的な裏付けはありません。
私は言語学はまったく門外漢ですが、
その観点から「うまやばし」が「まやばし」に変化することはない・・・
とも言い当初から読みは「まやばし」でなかったのか・・・今日ではこちらが主流です。


文献上の前橋の初見は新田郡長楽寺所蔵「永禄日記」で、
戦国時代のことになります。
ただし、前にふれましたが厩橋城は天文年間の築城なので、
永禄年間(1558~1570)より以前に厩橋(城)と呼ばれていたと思われます。


では、漢字で「前橋」(まえばし)が登場したのは何時かといえば、
城が正式に「前橋城」となったのは第5代前橋藩主・酒井忠挙(1648~1720)の代です。
ただし、その父で「下馬将軍」と謳われた大老・酒井忠清(1648~1720)は、
在任中の書簡では漢字で「前橋」、平仮名では「まやはし」(まやばし)と記述しており、
江戸時代初期は「厩橋」と「前橋」が混合していたと思われます。
忠挙以降は「前橋」となり、読みも時代が下るにつれて「まえばし」となります。
しかし、以後も古名がある種の「正式名称」として使われ「厩橋」も使用され続けます。


前に一度ふれたかも知れませんが、
明治3年に明治政府に提出された「鉄道建設建議書」に、
「上ノ厩橋」(※上州前橋)と記述されており、
明治初年でも「厩橋」の呼称が生きていたことが伺えます。



前橋城車橋門。
前橋城の数少ない遺構です。




智本光隆