歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

前橋から花燃ゆ⑬下村善太郎銅像

2015-10-31 21:37:31 | 日記
アクセス数が急上昇しまして。。。
みなさま、ありがとうございます。
是非とも拙著の方にも・・・


さて、ドラマでの阿久沢権蔵のモデル(と思われる)、
初代前橋市長・下村善太郎について。
ネットをみていると現在の銅像は結構紹介がありますが、
初代像は見かけないので、本ブログでご紹介を。



初代下村善太郎銅像


下村は明治26年に67歳で死去しますが、
前橋の発展に大きく寄与した功績を讃える声に、
明治43年に前橋公園内に銅像が建立されました。
同年は前橋で1府14県連合共進会が開かれています。
共進会とは産業の振興をはかるため、
物品を陳列、審査する都道府県持ち回りの謂わば博覧会です。
(前橋は第13回)
これを記念しての建立だったようです。
・・・余談ですが、楫取県令の別邸だった建物は、
この共進会の会場として使用され・・・終了後に取り壊されたらしくw




こちらが遠景。
この立地は利根川を背にして、群馬県庁と前橋市役所を見守る位置になります。
写真に写っている桜は古木となって今も健在ですが、
銅像は昭和18年に供出されてしまい、
残念ながら現存していません。


しかし、銅像復活の声は戦後も根強く、
昭和58年の「あかぎ国体」を記念して再建されたのが、
以前にも紹介した、前橋市役所前に立つ下村像です。



2代目下村善太郎像


写真引用
『写真集 明治大正昭和 前橋』国書刊行会  昭和54年



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑫阿久沢権蔵と鈴木栄太郎とは?

2015-10-25 20:06:00 | 日記
お蚕様と書きますが「おこさま」といいます。


ドラマが群馬に来て以来、日曜夜のアクセス数が多くw
で、大半が「下村善太郎」関係で起こしになっているのですが、
登場しないようですね。
そして、阿久沢権蔵(江守徹)がそのポジションになっています。
大河で架空人物はめずらしくないですが、
そのポジションの人物が実在しているのに出さないのもめずらしい。
下村については本ブログの「前橋から花燃ゆ⑥名声高き下村善太郎」で。
あ・・・三田佳子さん演じるのは「阿久沢せい」ですが、
下村善太郎の妻も名前は「せい」だった。


さて、もうひとりの鈴木栄太郎(相島一之)も架空の人物のようです。
群馬県勧業課の職員という設定ですが、これは誰がモデルだろう?
思い当たるのは2人。
県庁誘致(・・・自体総カットだけど)の際、
下村と一緒に2万7千円を用立てた有志の中に「鈴木久太郎」という名前がありますが、
この件以外の詳細は不明。生糸商人だとは思いますが・・・


もうひとり、前橋藩最後の祐筆に「鈴木福次郎」なる人物がいます。
ただし、作中の時点では県庁の役人ではなく警察官で、
西南戦争には抜刀隊として田原坂で薩摩軍相手に武功を挙げています。
西南戦争後は役人に転じて群馬県の群馬郡・勢多郡合同役所の郡長代理を務めていますが、
こちらの方が近いか?ただ、西南戦争から3年後に腸チフスで亡くなりますが・・・
その後、子孫は教育界に転じて前橋初の私立女子学校「上毛裁縫伝習所」を設立しています。
学校は「明治裁縫学校」と名を改めて、戦後に藍綬褒賞を授与されています。


・・・ただ、どちらにせよ名前的には前橋出身で、
お茶の水女子大の講師として理科教育の第一人者であり、
NHKテレビ番組編成委員、文部省教材等調査委員を歴任された、
「阿久沢栄太郎」氏からとっているような気がするんですが・・・どうだろう?


と、OPをみたら時代考証に手島仁さんの名前があるな・・・



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑪短編小説『至誠の糸』第3回

2015-10-24 20:43:21 | 日記
え~前回がいつか作者も忘れておりますが・・・
第3回、そして最終回です。



素彦は頬に流れる汗を拭うのも忘れた。
その目を眼前に広げられた、10札の山から放すことが出来なかった。
2万7千円―――これを現在に置き換えるといくらになるのかには諸説があるが、
おおよそで20億~30億ともいわれている。
いずれにせよ、これまでに見たことも無い大金が素彦と下村の間に積み上げられた。


素彦も幕末の頃、そして明治となってからも長州藩のために地元や京、大坂の両替商、
商家の間を走り回り、維新回転を成し遂げようとする長州藩の金策に奔走した身だ。
腰の太刀にものを言わせたことも一度二度ではない―――
だが、今は手を伸ばせば届くところに、一度も目にしたことのない大金が積まれていた。
(この金があれば)
素彦は己の心に「灰色」の感情が湧きあがるのを感じた。
それは長州藩の儒学指南として生きて来て、ずっと押さえ込んで来たものだった。
下村は県庁舎も師範学校も医学校も、すべて前橋で用意していると言った。
そればかりか、楫取の邸宅に別邸、更には信心深い妻・寿子のために寺まで勧進すると約束もした。
(この金は県政のための御用金ではない。つまりすべては・・・)


「如何されました、楫取様」
下村の声に素彦は顔を上げた。
ずっと自分の顔色をこの初老の商人に観察されていたことに気づいた。
「お受け取り下さい。お察しの通りでございます」
「察しだと?」
「はい。これはすべてあなた様のために用意したものにございます」
「私の・・・」
口の中が乾くのを感じる。咄嗟に湯呑に手をのばしたが、
指先が震えているのが自分でもよく分かった。
「舐められたものだな」
素彦はやっとその言葉を口にすると、下村を睨んだ。
「このようなものを私の前に積み上げて、一体どうするつもりだ?」
「おや、お気に召しませんか?」
「まさか、これで群馬県庁を前橋に置けというのか。
それは、政府が精査した上で決めることだ。
一商人が札束を積み上げて決めて、天下の政道が成せようか」
「分かりました。すぐに下げさせて頂きましょう」
下村は驚くほどあっさりそう言うと、また手を打ち鳴らす。
襖が相手、店の番頭が姿を見せた。
「今すぐ早飛脚を仕立てよ」
「へえ。また横浜でございますか?」
「そうさなぁ・・・今度は東京の大久保内務卿のところが良かろう。
これなる県令は不足につき『下げさせる』とな」
「なに・・・?」
素彦は顔色を変えたが、下村は番頭への指示を続けた。


「以前は長州の木戸孝允様に県令を斡旋いただいたが、
近頃は病を患い松子夫人の介添えなしでは歩くことも間々ならないという。
次は大久保様で良かろう」
「待て、下村」
「ただ、あの御方は線は細くとも武勇を尊ぶ薩摩の御方。
金で転ぶような他の政府高官とは違う。くれぐれも粗相の・・・」
「待てというのか分からんのか!」
素彦は声を荒げると、傍らの杖を掴んだ。中にはサーベルを仕込んである。
それに勘付いたのか番頭は表情を引きつらせたが、
下村は平然として「何か?」と問い返してきた。
「なぜ、貴様如きが木戸の病状を知っている。
あれは政府でも限られた者しか知らぬ事だ。
それにどうして群馬の者が・・・内務卿大久保だと?」
大久保とは薩摩藩出身の大久保利通のことである。
薩摩の巨魁・西郷隆盛が下野して以来、薩摩閥の領袖であるのみならず、
病身の木戸や公家出身の岩倉具視をおさえて、今や明治政府の頂点に立っていた。


下村は軽く手をふると番頭を下がらせ、そうして口を開いた。
「さきほど、申し上げただけのことでございますよ。早耳の者が多いと」
「何が早耳だ。木戸の病など邸に出入りでもしなければ知りようはないはず」
「その通りでございますが?」
「その通り?」
「はい。木戸様には先年よりご贔屓にされていただいております」
「馬鹿をいうな。あの男が貴様などを・・・」
「その証拠に、このように立派な県令様を私どもにお遣わし下さいました」
「お遣わし・・・」
素彦は自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。
下村は相変わらず泰然とした表情で、茶を喫している。
維新後、長州で隠居同然の暮らしをしていた自分を、
どうして木戸がまた政府に引っ張り出したのか。
そして、江戸時代には十一の藩が乱立し「難治県」ともいうべき群馬の県令へと据えたのか―――


「あなたでなくても良かったのですよ」
そう下村が言った。
それは随分と昔に聞かされた言葉と同じであったが、
あの時よりも随分と重く深く、そして素彦の心を突き刺す棘となった。
下村が口元に薄く笑みを浮かべた。
「さあ、どうされます。楫取様は至誠のお心を持つ御方。
なれど、手前どもも商人でございます。
いつまでも、この金をこうして広げておくわけにも参りません」
「ま、待て・・・」
浮かんだ汗が冷えるのを感じる。
目の前には10円札の山が―――2万7千円が置かれたままになっていた。
群馬県の県庁は高崎にするというのは、政府の中ではもう既定路線だ。
だが、この金を木戸や大久保、岩倉、三条実美ら要職の者に渡し説得を試み―――
それでもなお相当の額が手元には残る。
もう下村姿も素彦の目には移らなかった。
10円札の山に向かって震える指先を伸ばす。その一枚を掴んだとき、素彦の目の色は明らかに変化した。
何かを捨て、そして別の何かを掴んだ――――


刹那、対面に座る下村が山と積まれた10円札の下の風呂敷を、思い切り引いた。
素彦が「あ・・・」と声を上げる間さえなく、
2700枚の10円札は紙吹雪のように舞い上がった。
素彦が宙に舞う紙幣を呆然とみつめる中で、下村が立ち上がった。
「良き県令様をお迎え出来、これ以上の喜びはございません。
これからも末永く、御名は群馬の地に残りましょうぞ。さあ!」
下村の声とともに、隣室に控えていた前橋の生糸商人たちが一斉に部屋へと入ってきた。
素彦へと差し出された2万7千円を出資した、いずれもこの街の生糸商人達だった。
それに続いて酒と、山国とは思えない豪華な料理が運ばれて来る。素彦はそのまま上座へと座らされた。


「ささ、県令様」
「これで前橋の・・・いえいえ、群馬の繁栄は約束されたも同然でございますな」
「さすがは、吉田松陰様の見込まれたお人」
みずからを讃える商人達の声が素彦にはやけに遠くに聞こえた。
右手には10円札が一枚握られたままになっていた。
「楫取様は素晴らしき名県令様と、後世まで語り継がれましょうぞ」
下村の目はもとの好々爺のものへと戻っていたが、
底光りする眼光から逃れるように素彦は横を向く。
柔和な表情のまま、下村は口元を緩ませた。


同年、県令・楫取素彦は群馬県庁を高崎から前橋に移転すると発表した。
当初、高崎の有力者にはあくまで「仮移転」であるとしたが、
明治14年には正式に県庁を前橋に移転させた。
高崎側からは猛烈な抗議を受けたがこれを覆すことはせず、
在任時は生糸をはじめとした産業を発展させ、小中学校、女学校を設置させて、
群馬県を日本でも屈指の「教育県」とした。
また、娼廃運動も強力に推進した。
明治17年に群馬を去り元老院に転じ、貴族院議員などを歴任した。


楫取素彦が去った後、明治25年に前橋に市政が敷かれる。
初代市長には下村善太郎が就任したが、翌年には病で世を去った。
前橋市民は下村の功績を称え銅像を建立したが戦時中に供出された。
しかし、昭和58年のあかぎ国体を機に再建されている。






え~・・・まずタイトルを間違えたような(汗
なお、本作は当然のようにフィクションです。

盛田幸希へ捧ぐ

2015-10-22 22:17:17 | 日記


1995年―――横浜ベイスターズには石井がいて斎藤隆がいて谷繁がいて佐々木がいて、
そして、盛田幸希がいた。



今日はドラフトの日ですね。
盛田がドラフト1位で指名されたのは1987年、
当時の球団名は横浜大洋ホエールズ。
同期は3位に野村、
実は長嶋一茂の「外れ1位」だったりする。


なお、盛田投手の本名は「盛田幸妃」ですが、
本ブログでは「盛田幸希」と基本的に書いています。
1994~1997年の登録名ですが、自分の中でこの名前で盛田は輝いていました。


とにかく、いろいろと「度胸」の凄まじい投手だった。
佐々木を描いた某有名マンガの影響で、ソフトなイメージを持つ人も、
当時は結構いたが本人が各方面で語るものも、
「一茂の外れ1位なんてふざけるなと思った」とか、
合宿所で同部屋の野村に「PLのお前には悪いけど俺はタバコ吸うからな」
(これに対して野村は「いや、俺も吸う」と言ったとかw)
「入団して3年は練習らしい練習しなかった。やってもダメな奴はダメだと思っていた」
などなど。
今のプロ野球に照らし合わせれば「規格外」な言動も多い。


それでも、同期同部屋の野村が先にブレイクしたことに触発され、
1992年には52試合14勝6敗2S 防御率2.05
ちなみにこれが大洋ホエールズ最後のタイトルホルダーとなってます。


そして1993年、球団名は「横浜ベイスターズ」に。
同時期にブレイクした佐々木との「ダブルストッパー」については説明不要。
横浜のほとんど唯一のウリであり、チームの象徴でもありました。
実は当初は佐々木―盛田で出てきた試合もけっこうあった記憶がありますが、
ヘルニア持ちで長いイニングが投げられない佐々木に対して、
平然と2、3イニング投げる盛田が先に自然となりました。
この時期・・・確実に盛田の方が実力は上だったと思います。
まあ、、、この2人は良く朝まで飲む仲だったのもまた有名か。


近藤監督時代に他球団の脅威となったダブルストッパーですが、
過渡期のチームは順位は5位、6位、4位・・・
しかし、その中で盛田は力投します。
今、ネット上で残っている映像を見てもそれは良く分かる。
キレのあるストレート、そして「えげつない」とだれもが形容するシュート。
そしてマウンド上で見せる気迫。
そのすべて、今の横浜には失われているものです。


このダブルストッパーが健在の内に優勝を!!
ファンの誰もがそう思いましたが、1996年に就任した大矢監督が実行したのは、
まさかの先発転向。
横浜の監督といえば某監督の、
「無死か一死ランナー三塁の時はスクイズしないと死んじゃう病」があまりに有名ですが、
大矢さんも大概にしろと・・・
ローズ―進藤―石井のコンバート以上に、
他球団に恐れられたダブルストッパーを自ら手放す愚策でした。


何よりそう思うのは、下で紹介する月刊ベイスターズの盛田のインタビューで、
彼も「言われたところをやるだけ」とは言いつつも、やりたくは無さそうであるし、
佐々木も反対しているという点。
後年、「短いイニングを抑える方が向いていた」と発言もしています。
そしてこの先発転向の年を境に、彼の輝きは少しずつ失われて行きます。


病気の件を部外者が軽々に語るべきではないと思いますが、
この年の盛田は巨人戦で危険球騒ぎとなりました。
盛田=デッドボールのように当時はイメージされていましたが、
この年の死球は盛田7。
イニング数が違うので単純に比較はできませんが、
セリーグ最多はチームメイトの斎藤隆と阪神・藪の11です。
シュートピッチャの宿命とはいえ、イメージのみ先行した感じです。
ただ、未だに納得いっていないのは巨人戦の後で、
大矢監督が盛田を2軍に降格させたことでしょうか。
この年、そして翌年も開幕当初は先発として起用されますが、
(斎藤隆が怪我のため、開幕投手も務める)
この2年間の心労が病に影響を与えたのではないか・・・そう思っています。


皮肉なことにこの1997年、中盤以降不振で2軍暮らしの盛田を抜きに、
横浜はヤクルトと優勝争いを展開します。
思えば盛田と斎藤隆抜きで戦ったわけです。
そして夢にあと一歩届かなかったこの年のオフに、盛田は中根とトレードされ横浜を去りました。
家を新築したばかりだったというのに・・・
翌年は近鉄で開幕から好調に投げ続けるものの、8月に腫瘍が見つかり戦線離脱。
盛田の去ったベイスターズはこの年、38年ぶりの歓喜に沸く事になります。
その胴上げの輪の中に、盛田の姿はありませんでした。


その後、盛田は闘病の末に2001年に復活して2勝を上げ、
カムバック賞も受賞します。
翌年に引退し解説者となりますが、36歳で再発。
以後は横浜の球団職員となり、入退院をくりかえしていたようです。
彼のブログにその様子は詳しいですが、
2014年の春を最後に更新されなくなったので、
正直、病状はかなり深刻なものであるとは思っていました。


その盛田幸希投手が亡くなられました。
引退してからもう13年、ネットなどでも現役時代を知らないという声は多いです。
ただ、あの度胸満点のピッチングに、
落合をビビらせるシュート。
秋山登、斎藤明雄が背負った横浜のエースナンバー17を背負い、
猛然と相手打者に立ち向かうその姿。
ベイスターズファンは決して忘れません。
多くの感動をありがとう、盛田。
そして、長い闘病生活。今はゆっくりと休んで下さい。


物書きのくせにまったく言葉がまとまっていませんが、
斎藤隆がまさにファンの心境を代弁してくれたような、
そんな言葉を言ってくれました。
引用させていただきます(スポーツニッポン 2015.10.17)


「彼がブルペンを支えてくれて、たくさんのものを残してくれたからこそ
98年の横浜日本一があったと思います。あまりにも若すぎます」



私も思うことがあります。
当時の彼は闘病中ですので、あまりにも身勝手な思いではありますが。
10月8日甲子園球場。歓喜に沸く胴上げの輪。
盛田幸希の魂はそこに確かに存在したのだと。






月刊ベイスターズ盛田表紙号。
実は初めてこの雑誌を買ったのが、この1995年4月号でした。




智本光隆

前橋から見る花燃ゆ⑩

2015-10-18 20:44:35 | 日記
え~・・・先週に続いてなんですが、
「我々の知っている歴史と違う!」という声が満ち満ちておりまして。
まず、

楫取が受け取った2万7千円(20億~30億)の逸話は?


その件は描かないのかとw
それを描かないと、他に楫取にエピソードは何もないというか、
なんと言うか。


あと、初代前橋市長・下村善太郎は出ないのか?
阿久沢がそのポジではあるのだが。
あと、群馬来県時に寿さんは元気で、
女学校等の設立に尽力しているのですが。
それと、富岡製糸場で生産された生糸は2級、3級品で、
欧州でもてはやされた1級品は改良座繰り(前橋座繰り)で生産されているのですが。


追加
父曰く。
「あれは上州弁ではない」



智本光隆