歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

横浜最速伝説30!!

2015-05-28 08:04:25 | 日記
両リーグ最速30勝!!


何年ぶりかと思ったら、球団創設以来初だそうです。
何時だ?球団創設。
1950年?それとも大洋松竹ロビンス創設の1953年?
そして、先発三浦が開幕から無傷の3連勝!!
これは19年ぶりだそうです。



探せばあるものだ。


はい、1996年の5月4日の順位表と投手成績表。
この年は斎藤隆、三浦、野村の3人が無傷の3連勝を飾っています。
この年は大矢監督の1年目です。


しかし、この投手表で2015年現在でも現役なのは、
斎藤隆と三浦の横浜勢2人だけ。
一体!!1996年のこの時点で誰がそんなことを予想しただろうか?
野村とかは、細く長く投げそうなイメージではあったけど・・・


まあ、、、この後横浜がどうしたかは、各自お調べを。。。
三浦がこの年何勝したかも、、、同上でひとつw




智本光隆

夏前の風邪・・・

2015-05-23 21:40:00 | 日記
すいません、風邪がこじれて喉がイタイ・・・
少々ブログも放置気味になっていて、えらいすいません。
カメラはとっくに旅から帰ってきているんですけどねw



ダークカイト・・・


あなた!だまされていませんか!


・・・まあ、確かに。
実は本放送を見損ねている。
再放送まだだよな・・・



今日のベイ

勢いが一旦止まった感じだが。
しかし、課題の一つに守備陣。
ショートが固定できないとどうにもな。
飛雄馬・・・あれゲッツーの時、ベースに入り方が悪くないか?



智本光隆

貯金10!!

2015-05-16 12:25:55 | 日記
ベイの貯金が10に!!
ちなみに貯金が10に達するのは、あの1998年以来だそうです。
当時は58試合目の到達だそうです。
1998年の58試合目・・・


6月27日の対巨人戦。
先発は現在投手コーチの川村です。
初回の鈴木尚の3ランを川村―関口伊織―五十嵐と継投で守り、
最後は佐々木が日本記録タイの、21連続セーブポイント。
この時点で2位とはゲーム差が2ゲーム。
2位は中日と巨人がほとんど並んでいました。
チームはこの勝利で6月16日からの8連勝を飾ります。


その後は勝ったり負けたりで、一時は2位に1ゲーム差まで詰められますが、
未だに「伝説」と語り継がれる7月7日七夕の夜、佐々木が2年ぶりに負け・・・
その翌日、前日と同じサヨナラ負けの危機で、バッターは同じ矢野。
サードの真横を抜けるかという当たりを、腕を負傷してこの試合まで欠場していた、
こちらも現在コーチの進藤が横っ飛びで奇跡の好捕!!
しばらくしゃがみ込んで動けない進藤に、
現在インフィールドフライで時の人となっている、
ショートの石井が何か必死に話かけていたのを、昨日のように感じます。


チームは翌日から引き分け挟んで破竹の10連勝。
6月を13勝6負
7月を12勝5負1分で乗り切ったチームは、
2位中日に4.5ゲーム差をつけて前半戦を折り返すことになります。


・・・とまあ、語りたかったので語って見たw
あのファインプレーを「目を瞑って飛び込んだら入った」と言い切った進藤!!
あのカッコ良さを昨日のように・・・これさっき書いたかw


ファンとして!!
現在のチームが「98年の域」とはまだまだ思いませんが、
接戦での粘りは、この10数年チームが失っていたものです。
連投の中継ぎ、そしてクローザー山崎の疲労が心配であり、
ここは慎重な投手起用が求められます。
進藤、川村・・・よろしく頼む!!



智本光隆

前橋から花燃ゆ⑥-名声高き下村善太郎ー

2015-05-11 21:50:45 | 日記
さて、県都前橋の市役所前に銅像が建ち、
県庁方向を見つめる下村善太郎。





地元では「下村翁」と今でも親しまれており、初代の前橋市長でもあります。
子孫が何回か前の市長選に出馬して、
かすりもしなかったがそれはそれとして・・・


その下村善太郎・・・文政10(1827)に,
前橋本町の小間物屋「三好善」の長男に生まれ、利発な上に腕白な少年に成長。
16歳で妻せいと結婚し家業を継ぎますが・・・
城主不在の時期の前橋は風紀的にも荒れており、
「腕白」のほうに比重が置かれたのか博打に手を出し、本業を傾かせてしまいます。
このまま遊び呆けていて、詩人として名をのこした方もいたとかいないとかw


しかし、下村青年はここから一念発起すると、
23歳の時に妻と八王子へ。徐々に商人としての才覚を顕わします。
そして転機となったのが横浜開港。
ここで生糸貿易で商才を発揮し、ついに巨万の富を得ることになりました。
同時期に前橋の父親が亡くなると帰郷し、
糸繭商として前橋での商売を再会させます。
彼の取った手法は早飛脚により横浜の糸相場の動きを誰よりも早く知り、
ついには自分の店を前橋一の大店にするだけではなく、
「糸の街・前橋」をリードする存在になるわけですが。


さて、、、こんな状況下で起こったのが、
明治初期の廃藩置県による「群馬県県庁問題」なわけです。
群馬は新田氏の没落以来、安定した大勢力が存在せず、
江戸時代も11の藩が乱立した状態にありました。そのため・・・


明治4年(1871) 群馬県成立(県庁・高崎)
明治5年(1872) 県庁が前橋に移転
明治6年(1875) 熊谷県成立(県庁・熊谷)
明治9年(1876) 群馬県再成立(県庁・高崎)



・・・と短期間に非常に目まぐるしく変わります。
しかし、明治9年に群馬県が再成立したものの、
高崎城は陸軍の管轄下にあり、
県庁各庁舎は高崎のあっちこっちにあり不便を極め・・・
さて、ここに下村たちは目をつけました。
前橋にあるものは?ほとんど新品状態の前橋城です。
これを存分にお使い下さいと!


実際のところ、交通の要地である高崎に対して、
利根川東岸の前橋は平和な時代となれば地理的には不利です。
しかし、この時期の前橋の人々の多くは、
城主不在時の街の荒廃ぶりを良く知っていたと思われ、


加えて、幕末に「八公二民」といわれた高税率・・・
つまり経済的に疲弊していた高崎にくらべ、前橋は生糸のお陰で非常に裕福でした。
明治9年の群馬県再成立に際し、県令に赴任した楫取素彦のために、
下村は個人で1万円を用立てたといわれています。
これに生糸商人を中心に更に寄付が集まり、その額はなんと約2万7000円
この時期の2万7000円が現在でいくらになるのか諸説ありますが、7億円とも、
20億~30億ともいわれております。


この他に、楫取のために本宅、別邸等々を用意したのはもちろん言うまでもなく。
明治9年の12月、早々と県庁の前橋移転が決定されました。
さすが「至誠」の男・楫取素彦。素早い「市政」運営です!
と、ボケるわけではないが、一体どんな感じだったのやら。
そうだな・・・


楫取「ひさこ~ひさこ~見ろよ30億だってよ~」
寿子「わ~さんじゅうおくぅ。う~れ~しい!!」
楫取「で、何が褒美で欲しいだ。何?県庁?任せとけ、任せとけ」
寿子「ね~ね~けんちょうっとなに~おいしいの~?ええい、かんちょ!!」
楫取「あいたぁ!」



・・・・・ギャグになるな。
あとで最後のところはちょっと真面目に考え直そうww



智本光隆

横浜最速伝説!!

2015-05-07 20:30:03 | 日記
20勝到達!!


ベイがセ・リーグで20勝一番乗りを果たしたのは、
1978年以来。この年は実に川崎から、横浜移転の初年度ですね。
そして、両リーグ一番乗りは・・・
実に大洋時代から通じて、球団史上初だそうです。


ほら、数年前に琴欧州が優勝した時、
琴欧州14勝 横浜13勝 朝青龍 白鵬12勝
・・・なんて年もあったり。
あれは5月場所千秋楽なので、単純計算で20ぐらい速いw


そして、首位をがっちり固めております。
そう書けるうちに書いておけ。
で、明日から巨人戦で・・・



智本光隆