埼スタの惨劇が・・・
と、これはひとまず置いとこうか。育英11は良く戦った。
お疲れ様。
だるま&猫(今年は黄色)2017
・・・まあ、ここまでは毎年定番なわけですが、
今年は何やら広く世間をお騒がせする事態になっているようでございまして。
地元に近いところにおりますと何やら「色々な話」が、
聞こえて来ることが間々あります。
まあ、、、何がどこまでどういう話かは分かりませんが、
高崎・・・いいんかいなそれで。
高崎商人を曾祖父母に持つ身としては何とも・・・
高崎の少林山だるま・・・
延宝8年(1680)、一了行者がこの地に流れ付いた黒光りする大木で、
達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのが少林山の起源。
なお、高崎少林山の一帯はその当時は厩橋(前橋)藩の領地でした。
数年後、この地を視察に訪れた藩主・酒井雅楽頭忠拳
(『関ヶ原群雄伝』に出ていた酒井重忠の子孫)が達磨像を参拝します。
厩橋城から見て、少林山は鬼門の方向に当たっており、
元禄10年(1697)、忠拳は徳川光圀を仲介として、
中国僧・心越禅師を迎えて「少林山達磨寺」を創建します。
水戸黄門で「高崎を訪れた御老公が達磨の利権を独り占めする、
悪の代官を成敗する」という話があった気がしますが、それは微妙に真実?
時が流れて・・・天明大飢饉により高崎一帯も食うや食わずの危機に。
この時、農民救済のため少林山九代・東嶽和尚が、
心越禅師の描かれた達磨大師の図を手本に木型を作り、
農家に「張子だるま」を作らせて、寺の七草大祭で販売させた・・・
これが評判となり、農家には欠かせない副業となりました。
なお、群馬が養蚕県とるにつれてだるまは「繭型」として丸くなり、
「縁起だるま」と上毛かるたに「縁起だるまの少林山」と詠まれ・・・
・・・これは私の知っている「少林山 縁起だるま」の歴史な訳で。
それで行きますと家族も「七草大祭でだるまに魂が入るんじゃないのか?」
と言っております。
知人の薬屋は毎年少林山まで名入のだるま買いに行ってたしねぇ。
そんなわけで、出来れば・・・というか早急に少林山と和解した方が、
よろしいのでは?と思うのですが。
どのような感じなんでしょうか。そうして欲しいというのもあります。
もちろん、詳しい事情は知らずに書いておりますが。
智本光隆