歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

佐渡ケ嶽部屋に栄冠!!

2016-01-26 23:48:50 | 日記
琴奨菊優勝おめでとう

そして佐渡ケ嶽部屋琴欧洲以来、8年ぶりの天皇賜杯が。
はい、それでそれつながりで、、、




実は琴錦後援会に入っておりまして、
画像は琴錦2度目の優勝である平成10年九州場所の番付。
琴錦はこの2場所前が途中休場で秋場所は負け越し。
入幕以来、前頭12枚目まで番付を下げて臨んだ場所で、
14勝1敗の優勝!!
なお、平幕優勝2度は後にも先にも琴錦だけです。




なお両横綱が若貴という時代。
他に後年、問題を起こすことになる名前があったりなかったり。
上位陣に現在の現役力士はいませんが、
前頭6枚目若の里と、十両2枚目旭天鵬は去年まで現役でした。
それ以外ですと序二段の立山口(現・華吹)など数名はいます。


そして琴錦関、朝日山親方襲名おめでとうございます!!
部屋を興されるそうですが、「琴錦2世」が誕生する日を楽しみにしております。



追記です。

琴錦―琴欧洲の同部屋対決をやってみましたw
・・・うん、引退して15年対2年の違いが悲しいほどよくあらわれてww
スピードはいまでもけっこうあると思いましたが。
むしろ近距離から低い立ち合いで飛び込んだ方が良かったんじゃ・・・
・・・無理かw




智本光隆

前橋大雪騒乱7

2016-01-23 21:31:48 | 日記
一昨日、昨日と、
「楠木正具」「楠正具」「くすのきまさとも」で、
本ブログにおいでいただく方が増えているのは何だろう・・・


それはそれとして、、、






R17とそこからの横道。


今回の雪はどうにもまっっったく融けません。
特に「赤城颪」が直撃する北面。
で、、、大寒波がまたくるらしいのだが。




こちらは「けやきウォーク前橋」
雪に沈む・・・




智本光隆

お焚き上げ2016

2016-01-16 17:51:46 | 日記
何年か前もこのブログで紹介していますが、、、




近年は禁止というか自粛?になっている場所が多いお焚き上げですが、
私の地元では未だに健在です。
まあ、、、ダルマが多い土地でもなるのでw





火龍天昇


点火直後、炎が一瞬だけ巻きつくように燃え上がります。
なお、『関ヶ原群雄伝』第3巻の終章「焔の墓標」で、
大谷吉勝と小早川秀秋が岡崎城の門柱を燃やしていますが、
これがモデルです。これも書いたかな・・・
(柱を燃やしてこうなるかどうかは定かではないw)




正月も終わる・・・




智本光隆

前橋から花燃ゆ㉗楫取素彦と下村善太郎②

2016-01-10 19:59:59 | 日記
さて、その下村善太郎について。
父・下村善右衛門は前橋長磯村の農家生まれながら百姓仕事を嫌い、
前橋で小間物屋を開き、善太郎の代で生糸商となる・・・
下村の生涯については以前に書きましたが、
まず楫取が県令になる前の幕末~明治初年の下村は、
前橋内の「パワーバランス」を調整に腐心したという面があります。


前橋藩主だった酒井家は1749年、
度重なる利根川の水害に悩み姫路へとみずから転封を画策したのですが、
この際に「神君家康公から授かった前橋を離れない」という家臣も多く、
帰農した家臣も少なくありませんでした。
この人々の一族が後に前橋の商人となります。
そのため、明治初年の前橋商人は藩主だった松平系家臣もおり・・・
「旧酒井家系vs松平系vs町人・百姓系」に三分割されます。


下村は自分の父親以前の系図を残しておらず、
松平家から苗字・帯刀を許された身でしたが、
この三者のバランスを取ったのが、他ならぬ下村です。
後に鉄道が利根川を渡って前橋まで到達したとき、
前橋駅の予定地が酒井家の菩提寺・龍海院の側だったため、
「畏れ多い」と場所を変更したり、
前橋初代市長になった時には市章に酒井家の馬印「輪貫」を採用しています。
「日本で一番簡単に描ける市章」と言わるれマークですねw


今日、前橋に残る石碑などを見ても、
下村は旧藩系の人々を上にして自分の名前は(寄付金の額が多くとも)
2列目に下げており各種学校はじめ、群馬銀行も実質的に創立者ながら、
それらに名前を残すこともありません。
大抵の場合、士族階層出身の名士を代表者としており、
自身の身分はあるまで一生糸商人・・・
公職についたのは死去前年の前橋市長職だけでした。
(そして、これも高齢を理由に再三固辞しています)


下村と楫取に話を戻せば、長州人の楫取にとっては群馬の名士であり、
また生糸商として八王子、横浜まで広範囲のネットワークを持つ、
下村の協力は県政運営で必要不可欠でした。
彼自身、関東とは無関係な人間であり、資金を群馬に持ち込めた人間でもありません。


では、下村から見た楫取は?
教育機関の拡充を図る下村にとって、
最初のパートナーは河瀬県令でした。
楫取が河瀬の後任となったのは、長州閥によるものでしょう。
(河瀬の妻は木戸孝允の正妻・松子(幾松)の妹芸子)
下村が欲したものは中央政府とのパイプであり、
その点は初代の青山、2代の河瀬と比べて長州出身の楫取は適当な存在でした。
(青山は福井、河瀬は京都の出身)
楫取県政の9年間が何だったのかと言えばそれは、


「下村善太郎が計画書に予算まで付けて県令・楫取素彦に上げ、
 楫取は政府から認可をもらいそれを下村が実行する」



この一点に尽きます。
そういう意味では学者出身の楫取は「うるさ型」の県令よりも、
「御しやすい」存在であったでしょうし、
先に楫取のことを「ハコモノ県令」と書きましたが、
それは下村も望んでいることでした。
何故なら楫取県政で造られた施設のほぼすべてに、下村は出資者として名を連ねています。
ドラマのセリフを借りれば、下村にとって楫取は群馬を創る「協力者」であったものの、
「あなたでなくても良ったのです」というところではないでしょうか。
楫取が9年の長きに渡り県令の地位に留まったのは、
下村にとって適当な存在であり、
逆に任期途中で更迭された後任の佐藤與三県令は様々な意味で、
「そうではなかった」と解釈することが出来ます。


ですが、楫取素彦が群馬県令の地位にあった明治9年から明治17年。
この期間は「座繰り製糸」の全盛期であり、
上州生糸の最初の黄金時代でもありました。
下村ら前橋の生糸商は機械製糸へは切り替えず、座繰り製糸での品質を重視し、
明治20年代半ばまで群馬の生糸生産量は全国1位をキープします。
(その後長野に抜かれ、再度1位になるのは太平洋戦争後です)


楫取の県令辞任翌年の明治18年に不景気が襲い、
後任の佐藤知事が廃娼問題で議会と対立して更迭したこともあり、
楫取県政時代は群馬の歴史の中でも高い評価を得ています。
楫取が個人的に残した功績は中央政府とのパイプ役ですが、
県を発展させたという意味では紛れもなく、
楫取素彦は「名県令」と呼ぶに相応しい政治家であるでしょう。


下村善太郎は明治25年、
関東で4番目に市制を敷いた前橋市長となり、
翌年に在職のまま世を去ります。
明治43年に初代銅像が前橋公園の高台に建立され、
台座には楫取の書いた碑文がはめこまれていたそうです。
銅像は戦争で供出されて、台座も基礎石しか残ったおらず、
探したものの楫取が下村に何を書き残したのかは分かりませんでした。
楫取と下村――お互いがお互いを評した言葉は特に残ってはいません。


楫取素彦という人物を考えた時、彼は下村の掌の上で踊っていたが、
しかしそれは百も承知で県令という「役割」を演じていたのか―――
いずれにせよ、彼らが近代群馬の基礎を築いたその事実が、
今へと語り継がれています。



かつては群馬各地でみられた桑畑に沼田の発知のヒガンザクラ。
今年の大河ドラマは沼田ゆかりの「真田丸」ですが、
さて・・・



智本光隆