歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

豊臣蒼天録紀行20―不破関、そして運命の山―

2012-05-29 20:27:00 | 豊臣蒼天録
さて、次なるは不破関へ。
(実際の取材順は、不破関にほうがさきだけどw)





不破関は『豊臣蒼天録』の中、割と重要だったりしています。
2巻の作中にもありますが壬申の乱後、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関と共に整備され、
世に「三関」と呼称されました。
側には大友皇子最期の地とされる場所もあるのですが、
道がふさがれていて行けなかったな・・・残念。


そろそろ、関ヶ原紀行も終わりですが、





松尾山


言わずと知れた関ヶ原の合戦で、小早川秀秋が布陣した松尾山。
『豊臣蒼天録』では伊達政宗が布陣しています。
ここ、行くとよく分かるのは「麓から鉄砲を撃ちこんだ」と言うのは、まあないです。
届かないって(w


秀秋については『関ヶ原群雄伝』で、それなりに書いたかなっとは思っています。
以前、大学の後輩が「関ヶ原の合戦を小早川秀秋視点で書いた作品がない」と言っていました。
(それ聞いたのは、関群が完結したあとですが)
あの作品の最終合戦の舞台は関ヶ原ではないですが、
「秀秋の苦悩」という点は共通しているかと思います。
無論、彼の真意がどこにあったのかは、永遠にこの松尾山にあるのですが。



松尾山麓


登りたいのですが、時間なく麓まで。。。
観光客いる関ヶ原で、松尾山周辺は完全に無人ですね・・・




「四将」の中で脇坂安治は本陣跡が、、、
『豊臣蒼天録』では、あんな感じであんまりな扱いでした(w
えー・・・謝罪を。。。


さて、後は残りの散在している場所の写真だけで、関ヶ原編は終わるかな?

今こそ東京タワーを!!

2012-05-26 14:45:07 | 日記
テレビはスカイツリー、スカイツリーを。。。
なので、今ここで注目したい!!!



俺たちの東京タワー

昭和33年開業。2年後に三原監督の大洋ホエールズが、奇跡の日本一に
ええ、吉野家が牛丼再開させた日に、松屋に行った人間です。
なんか日本中で、同じネタやっている人いる気がする(w
ちなみに、サイズは1/1800
東京タワー上ったのは、中学の時の1度だけ。
今こそ、もう一回行きたい!!
CLAMP先生作品ほどに!!!


・・・行きたいが次回作進行中。
一時の迷走からは、少し抜けた・・・かなぁ。
実際書くと、当初案と微妙に(ときにまったく)ズレてくるのがなんともで。



今のベイ
1-0で勝っている。
そんな奇跡が。



智本光隆

黄金の輪

2012-05-21 21:34:31 | 日記
さてと、金環日食でございます。
わりと、写りがいいかと思ったので、写真載せてみますね。



















6:27頃から8:17頃まで。
小学生の頃の金環日食のときは、色着きセロファンとかで見たものですが。
記憶がたしかなら、赤と緑を重ねて。
その色の組み合わせで、学校で配布されたと思う。
今は絶対厳禁とか言われているようで。。。


仕事柄と言うか、なんと言うか、
金環みて松平の馬印とか、加藤の蛇目とか頭に浮かび(w
邪気よ晴れろ。



智本光隆

序盤の攻防

2012-05-19 23:32:52 | 日記
次回作、序盤を執筆中。。。
やや、迷走中だ(w
実は「1章」って結構鬼門だったりします。


『風花』(歴史群像大賞応募作)→上手く行かず、一番最後に書く。
『関ヶ原群雄伝』→長くなり過ぎ、カットに大変。読んでて心地よい眠りが・・・とかの評価。
『本能寺将星録』→3分の2入れ替え。
『豊臣蒼天録』→前半部分の構成変更。


とかですね。
当初は武田征伐終了時点から、開始予定だったりしましたね将星録は。
うまーく波に乗ってくれれば、割と速いんだけど。
まあ・・・全部書き終わって、大幅に直すこともめずらしくないが。
さて、もう少し何とか詰めようかねぇ・・・



智本光隆

豊臣蒼天録紀行19―大谷刑部終焉の地―

2012-05-17 23:37:54 | 豊臣蒼天録
さて、大谷の陣に行くには宇喜多陣地の後方から行けるのですが、、、
「今、道が通行止のようになっているので、止めたほうがいいですよ」
と、レンタサイクル店さんから情報が。
そのため、一度旧中山道側に出てから、回り込む感じになります。
不破の関(あとで取り上げるとして)を通過、




黒血川、線路を渡って山中へ。
そう、大谷の陣は山の中です。知らずに来たら、これはかなり意外。
西軍諸隊の中で、交通の便?は極端に悪いです。


山道を進み・・・



「大谷吉隆陣所古趾」


で、更に山道を進みます。







山中に突如、旗が出現したり(w
関ヶ原の街の中には東西両軍の旗が翻っていますが、
大谷の旗は「紺地に白三丸」が使用されています。
この山中だけ、「違い鷹の羽」が。
残念ながら、「対い蝶」はなかったな(w
豊家に殉じた勝色の旗は、今も関ヶ原に立つ。







大谷吉継墓所。
隣は家臣の湯浅隆貞(五助)の墓です。
五助は『関ヶ原群雄伝』には、息子の十郎ともども出ました。
墓は合戦後、交戦相手であった藤堂家の建てたもの。
西軍首脳の中、関ヶ原の戦場で戦死したのは大谷吉継が唯一。
一応、『関ヶ原群雄伝』の時はそれを踏まえて、あのラストとなりました。
主従ともに、関ヶ原に眠る。


ところで、吉継は関ヶ原の合戦に臨むに際して、
名乗りを「吉隆」に改めたとされ、古碑もそのようになっております。
謀反人と呼ばれる三好義継と音が通じ、それを避けたとのこと。
『関ヶ原群雄伝』の際は、実は「吉隆」でやっています。
実はあれ、ちゃんと理由があったんです。
全3巻の間、披露する機会がなかっただけで。
そういえば、これまでの3作全部出てますね、吉継(『豊臣蒼天録』は夢のシーンだけど)


さて、大谷家のみなさまには非常にお世話になっておりので、お参りを。
息子さん、『豊臣蒼天録』では家康に勝ちますよ・・・とか(w


アクセスよくない割に、そこそこ人とすれ違いました。
正直、笹尾山(石田)の次に人がいた(w
やはり、石田と大谷は西軍の両翼か。