さて、『本能寺将星録』ではなんだかピエロっぽくなってしまった高山右近重友。
各創作などでは「信仰の男」として描かれてますね。
上巻発売直前にNHK歴史秘話ヒストリアでも、
「私は愛を信じます 絶対に裏切らない武将」というタイトルで放送がありました。
生涯、キリスト教への信仰に生きた・・・と。
(なお、その時点で上巻は校正終了、下巻も入稿直前だったので本作に直接、影響はありませんが)
それは確かにそうなのかも知れない。しかし、その「裏切らない」は一体、誰に対してのものなのか。
右近は確かに信仰的には裏切らなかったかも知れませんが、領主として領民を裏切ったのではないのか?
それは大名家の主として、果たして称賛されるべきことなのだろうか?
細川忠興はその逆を生きた武将・・・そういえば少し言い過ぎでしょうか?
ちなみに忠興、珠子、右近は各種小説なんかでよく三角関係になってますね(w
そういう意味でもう少し、右近と珠子を絡ませたかったような気も。
下巻の京都細川邸を襲撃したの、あれは右近本人でも良かった気がと、今更。
ああ、どっかで忠興が右近と如水殺してのは、
セミナリオでガラシャ口説いてた?からだろうって、突っ込まれた気がする・・・
さて、最後に細川忠興と高山右近の関係について。
『本能寺将星録』では本能寺の変の直前、安土のセミナリオで初対面ですが、まあそれはないか(w
この両者、共に千利休の高弟である「利休七哲」に名を連ねています(蒲生氏郷もそうですね)
かなり親しい間柄であった様子。小田原征伐時の「焼肉論争」もありましたしね(w
この両者の最後の関わり合いを示すのが、高山右近が伴天連追放令の日本を去り、
マニラへと旅立つ際に忠興に宛てて認めた所謂「日本訣別の書」です。
さて、これはどう読むか?
普通に読めば友人の忠興に対する感謝を示しているわけですが。
慶長18年(1613)に徳川秀忠が伴天連追放令を発布し翌年、右近はマニラへと旅立ちます。
彼は彼の地で没する訳ですが、日本を発つに際して最後に書を差し向けたのが細川忠興でした。
当時、忠興はまだ九州におけるキリシタンの保護者です。
妙な深読みをしてみる。
書の中で右近は自らの行動を湊川の合戦に楠木正成に例えています。
正成が湊川で戦死したのは今更、何の説明もいりません。
あの合戦、宮方(新田、楠木ら)の敗北の最大の原因は、細川水軍による宮方の後方遮断作戦でした。
この作戦で細川水軍そのものは新田義貞に敗れますが、その間に楠木正成は戦死します。
書状を差し出す忠興は足利一門、そして細川家の子孫。
穿ち過ぎなのは百も承知ですが(w
右近は忠興にキリシタンに対する、もっと大々的の保護を期待していたのか?
忠興は日本における「キリシタンにもっとも理解のある異教徒」であり、
保護政策を取った最大の大名となっていました(他のキリシタン大名の大半は既に死去、あるいは改宗)
感謝も友情もあったかもしれませんが、やはり失望と皮肉が込められているような気もします。
あくまで、捻くれた見方ですが。
あと、焼肉の恨み(w
そして、忠興の方も右近ひとりには執着できない。
彼は細川家の統領として、家臣と領民を守る責務を負っています。
故に父の藤孝、弟の興元、妹の伊也、そして舅の明智光秀とも不仲となり、
或いは袂を分かって来た過去あります。
最愛の妻である珠子とて、細川家のために死なせたざるを得なかった忠興は、
右近の「訣別の書」をどう読んだのか。
仮に返書が存在するとしたなら、どんな思いを綴ったのか?
「お前はマニラに逃げられていいな。俺には出来ない」とでも思ったような・・・そんな気がします。
何れにせよ、細川忠興と高山右近。友人関係にあったかも知れない両者は、
決して交わることのない道を歩み続ける運命にあった。自分にはそう思えます。
共通しているのは唯一、己が信じた信念を生涯曲げなかった。その一点。
「絶対に裏切らない武将」の名は、両者ともに相応しいと思います。
季節は巡る。今年も薄暮に百合の花が咲く。
「本能寺将星録秘話」は今回で最終回です。
御愛読いただけた皆様、感謝します。
次回作『豊臣蒼天録』に関する企画があったら、そちらもよろしく!!