仙台の状況2(東北道の現状、ガソリン) 2011-03-31 21:14:12 | 日記 再び、週末が近づく。 東北へ行かれる方も多いと思うので、仙台までの状況を。 特に懸案のガソリンに関して。 色々と突っ込みたいのですが、東京はガソリンが完全に回復している様子。 私は25日に群馬で給油して、開通したばかりの北関東道から東北道へ。 この前日が、震災後初の前線開通でした。 栃木県内は普通に走れます。 上河内で最初の給油しましたが、特に行列はなし。ここではリッター制限もなし。 ひたすら北上。今回は新潟から山形へと走った時に比べて、ようやくタンクローリーを見かけます。 ガソリンは被災地の生命線。この後、仙台に到着して、その思いをより強くしました。 那須高原SAの横を通過。 ここはスタンドはありませんが、警察車両(25日は群馬県警、神奈川県警、京都府警他多数)が、 一ヶ所にまとまっておりました。 自衛隊車両は何処かに固まってはいませんが、とにかく各所で走っています。 ちょっと聞いたら、郡山へ行く、と。 引っ切り無しに頭の上を飛ぶヘリ。 「よろしくお願いします。頑張れ!」と、隣に乗った家族は言っていました。 スタンドは思ったよりも混んではいないと思ったのですが、 安達太良SAで長蛇の列!! (まあ、予想はしてましたが) 普段でも東北道は安達太良に誰もが立ち寄るので、ここは避けた方が良いかと。 吾妻PA、国見SA、菅生PAは混んでいますが給油出来ます。 ただし、おそらくリッター制限あるはず。 特に宮城に入ると地元の車が給油のためだけに高速に入って来ています。 後で書きますが、仙台市内ではまったくガソリンなし。というか、あっても給油出来ない。 高速下りる前に国見か菅生で、必ず給油するべきでしょう。 (25日の段階では菅生は50分待ち。2000円まで給油可能) 道路は各所で補修の跡がありますが、まずは普通に走れます。 (栃木→80キロ規制。福島中部から50キロ規制だったか) 中越地震で関越道を走られた方がいれば、あの時の長岡周辺の状態よりずっと道はマシ。 特殊車両だらけで、物々しさは比較にならないけど。 制限速度で走っている、パトカーごぼう抜きに出来る。平時なら楽しいんだろうけど(平時なら捕まるわな) ただ、支援物資のトラックは中越地震の時よりもずっと少ない。 何度も書くようですが、仙台市内で給油はまず無理です。 深夜に無人の閉店しているスタンドに、やっぱり無人の車が長蛇の列を作っている。 スタンドの多くは緊急車両用に使用が限られている。 地元の人も高速上や山形まで給油に行っている。 正直、外から入った人間が地元のガソリンを使うべきではない。 菅生、国見あたりで給油、向こうではそのガソリンで動くべきでしょう。 帰路は多少は混みますが、普通に給油出来ます。 菅生(上り)はリッター制限なかった。 何故か、那須高原では2000円上限だったけど。 こんな状況ですから、普段はあまり高速走らない人もかなり東北道を北へ向かっています。 走り慣れている方。みなさんの方が充分に注意して下さい。 しかしだ、一向に回復されないガソリンの状況は何だよ。 東京で回復。僕の地元・群馬でも今週月曜日には完全回復。 そして、宮城は一晩中並ばないと給油出来ない。 順番、違うだろう? スタンドがやられているところも随分とあったのは事実(天井落ちていたりとか。そもそも津波にやられたり) しかし、「出荷」の量が震災前を上回っていると言っても、「流通」しなけりゃ意味がない。 タンクローリー引き連れて行った国会議員もいたようです。それ自体は素晴らしいのですが・・・ これは民間支援で出来ることではない。 早急に回復の手立てを!! 智本光隆
仙台の状況 2011-03-30 00:59:32 | 日記 仙台から戻って参りました。 あの状況、どう説明したら良いのか? 私も物書きの端くれですが、文章で表現出来ない。するに気にもならない。 若林区の仙台東部道路を越え、荒浜方向を見た時の光景。 一生、忘れないと思います。 その先に立ち入るどころか、その場に留まることさえ出来ない。 仙台市内。 ガソリンない。スタンドには夜中に無人の車をみんな置いて行く。 コンビニは大半閉まっている。セブンイレブンと一部のローソンだけ営業。 棚には整髪料、化粧品、ストッキング、それから震災前発売の雑誌だけ。 カレー弁当みたいのだけ時々入荷。すぐになくなる。 マック、吉野家など全国規模のチェーン店は休業。材料が入らないため。 地元の個人経営店だけが、在庫を使って営業。 スーパーに野菜ない。生物ない。卵、乳製品まったくない。 会った人が地震以来、生物口にしていないと。 仙台在住だった家族は、知り合いにこっちから持って行った物資を届けた。 私も渡したものありますが。すごく感謝された。正直、戸惑うくらいに。 お世話になった会社に果物持って行こうと思ったのですが、止められました。 「あの人数の所に、一袋だけ持って行ったら大変なことになる」と。 その状況で私達が行ったらお茶を出してくれた地元の人々。 スバル日の出店様、大東建託仙台店様。 深い尊敬と敬意を表します。 報道が断片的なのは承知してますが、 仙台の真ん中であそこまでモノがないか? 智本光隆
本能寺将星録秘話第2回―細川忠興2― 2011-03-25 02:04:59 | 本能寺将星録 下の更新でも書いてますが、これは本来ならば12日頃に更新予定だった訳で。 一応、載せてから行きますね。 さて、『本能寺将星録』の舞台は本能寺の変(当たり前か) で、この日本史上最大のクーデター、現在に至るまで謎だらけ。 知名度の割に、解明されていないことがあまりにも多いのです。 例えば、本能寺襲撃が明智勢の誰によるものなのかすら、はっきりとは分かっていない。 そして、肝心の動機。黒幕の存在。 本作では「朝廷黒幕説」と「羽柴秀吉黒幕説」を混ぜています。 「イエズス会黒幕説」も多少は入れて見ました。 入っていないのは「細川藤孝黒幕説」。 つまり、足利義昭、もしくは朝廷が藤孝を仲介として明智光秀に接近した・・・というものですね。 細川に限らずですが事変直後、畿内武将の行動が明らかにされていないのがこの本能寺の変。 秀吉の大返しですら変事を知ったのが何日なのか、高松を発ったのが何時なのか、 実ははっきりとは分かっていません。 通説では信長の遭難を知った細川父子は剃髪し、珠子を三戸野に幽閉します。 本作では本能寺の変そのものに、細川は関わっていません。 しかし、「事変発生直後、細川は明智と同心していた」というのは、ゼロの可能性ではないと思います。 山崎の合戦において、細川は丹後を動いていないとされます。 しかし、『永源師壇紀年録』などは忠興は天王山に出陣したとし、 積極的に動いたとする見方もあります(信憑性は別にして)。 これらは当然、羽柴方として信長の仇を討とうとした行動と取るのが普通です。 ですが、「事件当時は明智方だったが、山崎の合戦で光秀を見限った」との仮定を立てて見ました。 「洞ヶ峠の日和見」は筒井順慶ですが、天王山を占拠していた細川忠興は、 合戦の最終局面で光秀を見捨てた・・・・・それが今作の発想のひとつになっています。 (無論、作中はそうではありません。あくまで、下敷きにしたということです) 本能寺の変時、細川家の当主は49歳の藤孝であり、 20歳の忠興に何処まで決定権があったのかは定かではありません。 本作は勝龍寺城に忠興を置き、信長死後のキャスティングボードを取らせて見ました。 結果、忠興は主君・信長の仇を取ることに成功しましたが、義父の光秀を失う結果となりました。 書き終わって「これって忠興が光秀の兵を使い潰して信長の仇を討ち、反逆の意思のあった光秀も結局は死なせた」 と作者自身が思いました。 それもまた、忠興が望んだ結末なのかも知れません。 話ついでにIFの先のIFを。 『本能寺将星録』の終章では忠興が朝廷と畿内の支配権を握りました。 一方、関東に降った蒲生氏郷は厩橋か川越に本拠を置くでしょう(会津にはまだ入らないかと)。 冬姫(氏郷の妻。信長の二女)も連れて行きますかね。 関東には武田の旧臣達が数多くおり、それらは氏郷の下に集まります。その中には当然、真田の姿も。 やがて氏郷は忠興が進める中央の政治体制に反発し、東国武士と共に反乱を決意。 陸奥の大名達も傘下に収めて、上洛作戦を実行します。 しかし、その頃には忠興も畿内の織田旧臣を傘下に入れ、毛利、長宗我部とも友好関係を築いている。 性格的に氏郷迎撃に尾張あたりまで進軍。そうなると鍵を握るのは三河の徳川家康。 そして、織田家の実質当主となった津田信澄。 天下布武の真の後継者を巡り、合戦の火蓋が切って落とされる。 信長に将来を嘱望された二人の決戦。そして、珠子と冬姫は。 そんなところが智本光隆の考えた『本能寺将星録』のアフターストーリーですが、みなさんはどう思われるでしょうか?
東北の地震10 2011-03-25 01:59:07 | 日記 え~実はちょっと仙台行きます。 東北道がやっと動き出したようですが、ガソリンはどうなのか? 高速上はあるのでしょうが、下道はどうだろうか・・・ 震災当日に紹介した近所のカワヅザクラ。何時の間にか満開になってた。 本当は地震があった週末に更新予定だった「本能寺将星録秘話」第2回があった。 完全に忘れてた。 行く前に更新して行きます。 それでは。。。 智本光隆
東北の地震9 2011-03-22 08:24:15 | 日記 仙台から引き上げて来た、後輩からの話。 3月18日時点、宮城から山形県内での給油はほぼ不可能だそうです。 (15日時点では、山形市内は可能でした) 仙台市内は給油出来るようなのですが、どうも私の家族がいた頃よりも、 今の方がガソリン不足が深刻なようです。 色々な話では今日から改善が見込めるらしいのですが・・・ この状況ですから、4号で戻れる訳もなく、 彼も山形―新潟のルートで戻ったようです。 「非常に無力を感じた」が彼の言葉ですが、私も同じ気持ちです。 自分に貢献出来ることは何かを、やはり考えないとな。 智本光隆