歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

そして今年も百合が咲き

2015-08-30 20:11:21 | 日記



日本は季節がズレたのか・・・
コンビニでおでんを買ったw
ここに来て、やっと足底腱膜炎の具合がやっと良いです。
前に一度回復ものの、5月の連休明けに再悪化。
あの手この手でいろいろやり、何とか好転・・・
・・・したままだといいんですが。


最近のベイ
足の具合とは逆に、なんかにっちもさっちも行かない状態に・・・
今日は今の所1点勝っていますが。
昨日は山崎が2イニング投げているしなぁ・・・



智本光隆

高橋光成初完封!!

2015-08-24 07:37:52 | 日記
夏の甲子園は終わりましたが、
2年前の甲子園の優勝投手、西武の高橋光成投手がプロ初完封!!
3勝目ですね。4試合目の登板は松坂に並ぶ記録だそうです。
すでに8月だけど、ダルビッシュの1年目(5勝)は越えるか?



昨日のベイ
いや、なんつうかまあ。
振り返るとそこに・・・



智本光隆

惜別 斎藤隆②

2015-08-23 20:44:11 | 日記
2005年シーズン終了後、斎藤隆はベイスターズを退団し、
メジャーリーグ挑戦を表明します。
この年、勝ち星こそ3勝ですが終盤の斎藤の調子は悪くなかったです。
しかし、どしゃぶりの2軍戦で登板させ(これは引退を促したとも)
シーズン終了後に自由契約を希望する斎藤に、
球団の返事は「いいよ」のひとこと。
斎藤隆は横浜を去りました。


その後、、、ロサンゼルスドジャースとマイナー契約し、
開幕直後にメジャーに昇格、
72試合 6勝 2敗 24Sの成績あげます。
翌年は、
63試合 2勝 1敗 39S
ドジャースのクローザーに定着します。


斎藤がアメリカで成功した理由はいろいろあげられています。
技術的には日本ではボールゾーンに曲がり、
見せ球にしか使えなかったスライダーが、
アメリカではウイニングショットとして、驚異的な威力を発揮した・・・と。
(斎藤自身も渡米後はスライダーが決め球と発言しています)
個人的には斎藤自身の性格と、下半身の強靭さが成功の要因だと思っています。
日本とアメリカのマウンドの違いを口にする投手が多い中、
斎藤だけが「同じです。力いっぱいマウンドを踏んで、ミット目がけてなげるだけ」
と発言しています。
「斎藤隆のもっている素質はプロ野球界随一。
それが花開いた時、再び栄冠が訪れる」

とは、ベイスターズファンが信じていたことで、それが実現しました。
着ているユニフォームがちょっと違いましたが、そんなのは些細なことw


アメリカでは5球団を渡り歩きました。
おそらく下位チームのクローザーとなり、セーブを稼ぐ選択肢もあったはずですが、
ワールドシリーズを制覇の目標があったのでしょう。
それはあと一歩で叶いませんでしたが、
アメリカで7年 338試合 21勝 15敗 84S


当時、もう日本に戻らない趣旨の発言もありました。
2013年に楽天に入団したのは、東日本大震災・・・
彼の故郷である仙台が被災したことでしょう。
この年、楽天は日本一に輝きます。
それから2年・・・
その斎藤隆がマウンドを去ります。


引退会見を聞く限り、すぐに楽天や他球団のコーチなどに就任する気はなさそうです。
でも、必ず野球界に戻ってくると約束もしてくれました。
それが故郷仙台なのか、それとも他球団なのか・・・
ですが、私は願っています。
退団の過程は決してスムーズではなかった。当時のフロントに非礼もあった。
それでもファンはいつも、そしていつまでも信じています。
斎藤隆投手、長い間お疲れ様でした。
いつかまた横浜で






智本光隆

惜別 斎藤隆①

2015-08-18 22:11:11 | 日記
颯爽と巨人打線を剛速球で切り裂く姿は美しかった。
好投するも援護なく、1発に沈む試合すら華があった。


大洋ホエールズ最終年に入団し、
右のエースとして先発で活躍し、
1998年は前年の故障から見事復活して13勝、
日本シリーズ第2戦では完封、
2006年に渡米してドジャースのクローザーとなり、
日本人投手初の胴上げ投手(厳密にはワイルドカード)
オールスターゲームにも登板。
2013年に故郷・仙台の楽天に入団してここでも優勝。


日米7球団で活躍した斎藤隆投手が引退を発表されました。


日米通算 740試合 112勝96敗 53H 139セーブ 防御率3.15


東北高校で5番ファーストで甲子園に出場しながら、
東北福祉大3年で「お前、この打席で凡退したら投手になれ」で凡退。
で、投手に転向。それが大洋初の1億円ルーキーに。
ルーキー当時に先輩内野手から「おい、1億円のピッチングを見せてみろよ」
と言われたそうです(誰だ?)


入団2年目の1993年に頭角を現してこの年8勝。
同年は野村が17勝で最多勝に輝いており、
左右のエース誕生の期待が高まりました。
しかし、その後は9勝8勝10勝・・・
まあ、この時期は過渡期のチームが弱かったんですが。
(2000年代よりずっと強いが・・・)
10勝した翌年は遊離軟骨で1年を棒に振ります。
その97年、チームはヤクルトを猛追する優勝争い・・・


そして98年。
開幕当初はセットアッパーで完璧な投球を見せます。
ある意味、後年の輝きの片鱗を見せたことになりますが、
5月から先発に回り、後半戦は柱として活躍。
10月8日の優勝決定試合は、当日に先発変更になったと言います。
そして、日本シリーズ第2戦では完封劇。
最後のバッターが、今楽天のチームメイトの、
松井稼頭央というのも何か印象的です。
このシリーズは優秀選手賞を獲得します。


1998年10月20日 日刊スポーツ


翌年は14勝3敗という驚異の勝率。
しかし当時、変化球主体の投球を本人は「悲しい変身」と言っていた記憶があります。
9月まで、上原や同僚の川村と最多勝を争うも、股関節を痛めて離脱。
翌年、メジャー移籍した佐々木の後釜にと、権藤さんにクローザー転向を勧められますが、
この時は固辞したそうです。
しかし、翌年は森監督下でクローザーに。
1年目こそ27セーブをあげますが、翌年はチームが最下位を独走する状態に出番すらなし。
そして、オフに最初のメジャー挑戦を宣言しますが、
この時は交渉はまとまらず。


2003年から本人、山下監督の希望もあって先発に戻りますが、
ここから何か迷走に・・・
3年間で11勝に終わります。2005年はそんなに悪くなったですが・・・
「斎藤隆は終わったのか?」との声が聞こえる中、
決断は2005年オフでした。
みずから自由契約を申し出、そしてロサンゼルスドジャースへ。
斎藤隆本人、これを「生まれてはじめてみずから下した決断」と評しています。



つづく。