歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

桜の花に癒されて7―母校―

2011-05-11 17:07:30 | 日記
なにかもう、桜の話題が季節外れのような気も。
北の方はそうでもないさ!!と割り切って、駆け足でご紹介。
数年前まで在学した母校。







そして練習するサッカー部。強さの程は良く知りません。


連休前に担当さんに次回作草稿送ったのですが、そのやりとりを昨日今日としてます。
なんとかまとまったので、その方向で原稿に手を入れます。
それと、連休中から仕事場の整理してました。そっちもようやく終わるか?


ちなみに昨日、群馬で横浜VS巨人戦が。
チケット販売当時、仙台の件をどうするか大騒ぎしていて、忘却してました。
行けるもんなら行きたかったですが、地方球場狭いのでどうにも。それにしても・・・


4連勝!!!!



何時以来なんだ、4連勝って。
もしかして昭和35年日本シリーズの、大毎オリオンズ4タテ以来か?
今日勝てば5連勝・・・ちょっと、記録調べて来よう・・・


そして、一度更新してから気がつく。
水曜日の更新、何気に3月30日以来(w



智本光隆

ザスパ草津VSファジアーノ岡山

2011-05-09 22:16:58 | 日記
ちょいと昨日、サッカー見ました。
J2のザスパ草津対ファジアーノ岡山の一戦。
地元なので前はよく見てました。
3年くらい前に在籍した島田裕介選手が好きでしたね。今は徳島ですが。
この仕事初めてからほとんど行ってないけど。
ほぼ、1年ぶりの観戦。



試合開始。
岡山と言えば桃太郎と高橋大輔選手が有名です。あと児島高徳とか(マイナー?)


前半40分、PKを得る草津。
そして・・・



おお、決めた。そして、よく写ったなあ。


1点リードで前半を折り返しますが・・・
まあ、色々あって、なんやかんやで・・・


結局、1-2で逆転負け食らいました。



肩を落とす選手のみなさん。


まあ、次の試合に期待していますよ。
相手、FC東京ですが。


そして岡山サポのみなさん、
「日本ココロハヒトツニトモニタタカウ」
「がんばろう日本!共に前を向き共に戦おう」
横断幕、ありがとうございます。



智本光隆

桜の花に癒されて6―新田桜―

2011-05-08 17:51:20 | 日記
本日は5月8日は母の日!!
そして元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府討伐のため、
上野の生品神社で挙兵した日です。
これが=されてるのって、このブログくらいか?


そんな訳で生品神社の桜を。





鳥居・・・最近色落ち激しい。そして、神社脇のシダレ。


さて、生品神社に来たからにはご紹介したいことが。
こちらは新田義貞挙兵の地として、戦前は非常に注目を浴びた場所です。
昭和8年(1933)は新田義貞挙兵600年記念に当たっており、
太田市、新田町で大々的に式典が挙行されました。
これを語ると論文一本になってしまいますが、当時作られた石碑は今に残っています。
石碑の数だけなら楠木正成の湊川神社より多いかも・・・



「新田義貞公挙兵六百年記念碑」記号は徳川家達(徳川家宗家十六代当主)


この記念式典の関連行事は色々あるのですが、そのひとつに義貞像の帝都・東京へと建設がありました。
しかし、先に楠木正成像があり、あまり上手く運ばなかったよう。
そのため、銅像設置の機運を高めるためとして、まずは県内小学校に義貞小像設置を呼び掛けました。
・・・まずは義務教育から利用するって手法、今も昔も良く取られます。


以後、昭和16年(1941)までに県内では、約19体の義貞像が設置されています。
ですが、戦時中の金属供出によって大半が撤去され、わずか数年で姿を消しました。
まさに幻の銅像となってしまいましたが唯一、現存しているものがこの生品神社にありました。




当時、生品小学校に設置された銅像が昭和58年(1983)、
挙兵650年を機に生品神社に移設されたもの。
当時の姿で唯一現存している義貞像(再建はもう一体、利根郡白沢村にあります)だったのですが・・・



現在の姿・・・
隣は群馬出身の某総理が筆を入れた挙兵六百五十年記念碑。


バンクーバー五輪の頃に盗難されました。高橋大輔選手に国民が喝采送っていた日でしたね。
返せ!戻せ!!可及的速やかに!!!
地元では早々に再建の動きありましたが、その後どうなっているのやら・・・


日本ハムの斎藤投手も前に書きましたがこのあたりのご出身で。
大丈夫ですかね?今日の登板で脇腹痛めたらしいのですが。
ちなみに、我が横浜ベイスターズは阪神にサヨナラ勝ちで三連勝!!
うわあ・・・何時以来だ三連勝?しかも地元で・・・



智本光隆


桜の花に癒されて5―太田芝桜―

2011-05-05 00:52:00 | 日記
本日は子供の日。
・・・にちなんで子供が関する話題を。


今年の3月19日、群馬―栃木―茨城を結ぶ北関東自動車道が全線開通!!
する予定でしたが、これが震災のために延期に。
ですが、2度の仙台行きには間に合ったので便利に利用させて頂きました。
下道より大体、1時間の短縮かな?


その途中、太田の辺りを通過中、北側に巨大な「大中黒」が見える。
「大中黒」と言えば新田氏の家紋です。
智本光隆の歴史群像大賞優秀賞受賞作『風花』は新田義顕(新田義貞の嫡男)が主人公。
これは後で確認に行こうと思い、先月ですがちょっと行って見ました。





太田北部運動公園の芝桜


やや、季節的には早かった感じかな。今ぐらいの方が見頃かも知れませんね。




これが高速から見えた「大中黒」
もうちょい、中の黒が太いと完璧か?


さて、カメラ片手にぶらぶらしていると、何やら下の方が騒がしい。
この公園、結構斜度あります。





上から写真の池のあたりまで下りて行きますと、
どうやら子供さんが池にビニールボール落とした(というか、投げ込んだ?)らしい。
お母さんと5歳くらいと男の子、3歳くらいの女の子の3人。
ちょい上の方に野次馬っぽいご年配の方々が。


下りて行くと確かに池にボールはまってます。野次馬のみなさん「あれ、取れないね~」と無責任。
で、よく見てみる。
・・・・・いや、なんか割と簡単に取れそうな距離のような。
一応、「取って見ましょうか?」と断って柵乗り越えたら、1メートルくらいのとこに浮いてました。
しかも、側に枯れ木が何本も転がってるので、引っかけて簡単に取れた!!
と、思ったら、女の子方が持ってたもう一つのボールを勢い良く池に投入!!
おお、勇ましい子だ。真ん中あたりまで行ったぞ。
母親さん、怒ってました。「あっちはもうあきらめます。すみませんでした」
しかし、なんとな~くここ水流れているよな~と思って見ていたら、
5分ほどで手の届く範囲まで浮かんで流れて来ました。
そんな訳で、2個目も無事救助。


で、すごくお礼言われました。
「すみません。ほら、お兄ちゃんにちゃんとお礼いいなさい」とお母さん。
「今度は池に投げちゃダメだよ」と、ボール手渡す俺。
あ、俺ってまだお兄ちゃんで行ける!!とか思いつつ、何気に肩にカメラでも無駄に引っかけて見る。
『あ、もしかして俺いまカッコイイ?』と考えつつ、何の見返りも求めないで立ち去りました。
・・・いや、当たり前だろ。お前、枯れ木でボール2個引っかけただけだろうが。
見世物終わったとばかりに、野次馬さんも花見に戻って行く。おい、あんたらなあ・・・
まあ、別にいいけどさあ。


そして、思ったこと。
子供の頃、池に落としたボールや手を離した風船取ってくれた大人いましたね。
子供心にものすごくかっこよかった。
・・・あの連中も、こんなこと考えながら立ち去ったのだろうか。
夢壊れるな・・・


しかし、智本光隆にはあのボールを、なんとしてでも拾わなければならない責任が!
特に女の子が投げた2個目。
理由:その子が「さきちゃん」と呼ばれてました。『風花』のヒロインと同じ名前です。
あの、「大中黒」に誓って助けねばなるまい!!
いずれ美少女なお姫様で歩き巫女(そんなキャラです)に成長したら、またお会いしましょう。
その頃には俺、絶対にお兄ちゃんと呼ばれる年じゃないよな・・・
そんな春の出来事が。



智本光隆

桜の花に癒されて4―箕輪桜―

2011-05-03 18:31:56 | 日記



今回は箕輪城址の桜をご紹介。

箕輪城は戦国期の長野氏の居城。関東管領山内上杉氏の重臣として、
武田信玄相手に攻防を繰り広げた長野業正が有名。
武田信玄の6次に渡る侵攻を、すべて跳ね返した勇将、名君と今に伝わります。



箕輪城本丸


しかし、永禄4年(1561)、71歳で死去。
子の業盛も父に劣らぬ猛将であったものの5年の戦いの末、
箕輪城と共に自害して果てました。








「春風に梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る箕輪の山里」

業盛の辞世。享年、わずかに19歳。
辞世からは徹底抗戦の末の、むしろ清々しい最期すら思い浮かびます。
14で家督を継ぎ、よく5年も武田相手に持ち堪えたと思います。
長野親子はいずれ、描いて見たい人物ですね。



智本光隆