歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

今年は品薄?

2016-01-10 15:13:05 | 日記
昨日1月9日は恒例の前橋初市でしたが。





単独写真だとまっったく分かりようもないですが、
例年の縁起だるまよりも1サイズ大きいですw


理由・・・6時半ころに店頭にいったところ、
一般家庭には明らかに大きいサイズと、
逆に小さすぎるサイズしかなかった。
理由を訊ねたところ、

「これからの一番出る時間にダルマがないって、
そんなどうしょうもねぇ!!」


・・・と、一番怒っていたのが店側だった。
なんか、土曜日と重なり暖冬の影響で昼間の客足が多く、
ダルマが品薄になった模様。
空っぽになりカレー食べていた店もw




こちらはまねき猫。
昨年猫の黒猫様の方は、
今朝のお焚き上げにて天にお還りになられましたが。




智本光隆

前橋から花燃ゆ㉖楫取素彦と下村善太郎

2016-01-09 21:47:33 | 日記
楫取素彦と寿子夫人と星野兄弟の銅像建設の資金、
2500万が集まらないそうですが。
・・・新田義貞の銅像建設も1500万だったので、
そもそも難しい。
なお、昭和58年のことなので比較になりませんが、
下村善太郎像は約3000万が即座に集まったそうですが。



さて楫取素彦と下村善太郎。
2人の出会いは楫取が熊谷県令に就任した明治7年ごろと推測されますが
(小説にするならもっと前に会わせますが、まあそれはそれとしてw)
明治9年に熊谷県が廃止となり、第2次群馬県が成立。
まず高崎の安国寺に県庁舎をおいた楫取を下村が訊ね、
(本ブログの小説では楫取が下村家を訊ねていますがフィクションです)
以後は人目を忍んで埼玉県本庄周辺の旅館などで、
密会を重ねたといいます。


そして楫取の要求した約3万円の資金を下村が調達し、
県庁は前橋に移転されるわけですが。
では両者はそれ以後どんな関係かといえば、
「相互利益関係」であり「楫取は下村善太郎の良き協力者」であったといえます。
後者・・・別に主語を間違えたわけではありません。
あくまで前橋の、そして群馬県の近代化を推進した主役は下村です。


すでに何度も触れておりますが、
群馬の教育推進の立役者は下村善太郎です。
彼は前橋屈指の生糸商ですが、同業者の誰よりも学校設立に熱心であり私財を投じました。
同時に前橋の商人として県庁の移転は、
何が何でも実現しなければならない問題でもありました。


考え方によっては、その県庁問題を金銭で決着させたということは、
下村にとって早計に過ぎたかも知れません。
当時・・交通の要衝である高崎よりも、輸出品筆頭の生糸を集約地であり、
生産地でもある前橋はには潤沢な資金があった結果ですが、
これにより「前橋は県庁を金で買った」として、
前橋・高崎の不仲は今に至ります。
或いは下村にしてみれば、
楫取がもう少し要衝の根回しをしてくれると思っていたのかも知れません。
しかし、楫取という政治家はその手の工作は至って不向きでした。
ただ、楫取は高崎において嫌われているとよく聞きますが、
下村は明治12年の高崎大火の被害者を救援し、
高崎への道路開削のために土地を寄付しているので、
彼に対する恨みはあまり聞きません。
下村としても多少の罪滅ぼしの意識はあったのかな・・・


そしてその楫取素彦県令。
彼を表現すれば儒学者出身らしい生真面目な学者肌であり、
そして「ハコモノ県令」という側面も持ちます。
前者は多胡碑をはじめ「上毛三碑」顕彰であり、
郡史編さん事業です。
(ただ、楫取県令退任の翌年に未曾有の大不況で、大正時代まで凍結されます)


そしてもうひとつ、「ハコモノ県令」としての側面が、
前回の内容と重なりますが、河瀬前県令時代に開校済みの小学校を、
新築、洋風校舎に建てかえる事業です。
学校以外では生糸改所の新築、臨江閣、ドラマではやたら揉めていた、
揚返し場があるかな・・・


楫取が「造っている学校」とされていた学校が、
群馬着任時点ですでにほぼ全校開校済みなことはこのブログで触れましたが、
当時は旧前橋藩校、寺、民家を間借りしたものでした。
これを新築し、また前橋女学校(女児学校)、県立女学校を大々的に開校させたことが、
楫取県令の大きな功績になります。


しかし、これは下村がその都度に私財を投じてくれなければ不可能な話でした。
「ハコモノ」を造る時、そこの政治家が何も恩恵を受けないのか?
そう言い切れる人間は、まずいない。
朝ドラの五代友厚は自身も実業家ですが、
学者出身の楫取は「金をつくる」ことが出来るわけではありません。


ドラマの放送中に「美和が女達の学びの場を作った資金は?」
「アイスクリームをつくる金は?」との突っ込みは良く聞きましたww
あれは阿久沢権蔵、せい夫妻が出していないなら、
県予算に手を付けていることになりますが、
現実の楫取県政にはなかったことです。
以前に一度触れた覚えがありますが、
当時の子供を学校に通わせるのに、全国的にはひとつき50銭ですが、
群馬は(場所によって差はありますが)約25銭でした。


何故、これが実現できたのか?
下村善太郎が楫取県令の在任期間中、学校建設や鉄道施設、
銀行設立などで出仕した金額は約2万2千円に上ります。
下村の支援による、そうして生み出された安定した財政基盤がなければ、
楫取県政はまったく成立しなかったことは間違いありません。



続きます。



智本光隆