SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

現代音楽の始祖?

2024-01-16 09:54:00 | 日記
こちらは始祖鳥



こちらは現代音楽の始祖




ア―ノルド・シェ―ンベルク
(1874−1951)

ヨ―ロッパの音楽は
1つの音(主音)が支配して
音階を作りだして
いましたが
1911年にシェ―ンベルクは
新しい方法を考え
前衛と言われる時代に
入ります。

それまでの
中心になる音(主音)を
決めて作曲するのではなく
オクタ―ブ内にある
12音の音をすべて
平等に扱うのです。

もしピアノが
ありましたら
ドからシまでの音を
数えて下さい。
白鍵7と黒鍵5の
12の鍵盤があります。


作られた音列は
順序を保ったまま
逆行したり
展開したりしますが
これによって
作られた音楽を
「12音音楽」といいます。
調性が感じられないので
「無調音楽」とも
呼ばれます。

シェ―ンベルクの
12音技法は
世界中に広まり
近代音楽の手法として
定着しました。


新しもの好きの
シェ―ンベルクは
卓球が好きで
自宅に卓球台を備えて
いました。
テニスも好んで
ゲ―ムしていたようです。

シェ―ンベルクの
初期の作品
「浄められた夜」
とても美しいです。

ベルリンフィルハ―モニ―
サ―・サイモン・ラトル
(3‘11")




1925年には
ベルリン芸術アカデミーの
教授になりますが
ヒトラー政権が
誕生すると
ユダヤ人である彼は
身の危険を
感じるようになり
アメリカに亡命して
作曲活動を
続けました。





抜けるような青空に。

2024-01-15 12:00:00 | 日記

雪と強風から
打って変った休日は
雲一つない晴天に
恵まれ
車窓からの富士山を
堪能しました。



そのあとは
ビ―ルを飲んで爆睡(笑)

   ✨✨✨✨✨✨


クラシック音楽館は
キリル・ペトレンコと
ベルリンフィルハ―モニ―
管弦楽団来日公演

①モ―ツァルト
交響曲第29番

ウトウト
していましたが
歯切れの良い演奏で
目が覚めました。
ペトレンコの
メリハリのきいた
見事な指揮。
楽しそうな表情で
微笑みながらの
演奏です。





②アルバン・ベルク
管弦楽のための3つの小品

大編成に変わり
迫力のある大作を
ラクラクと演奏し
本領発揮。
最後は大音響。

③ブラ―ムス
交響曲第4番

繊細な出だしから
始まり
重厚なブラ―ムスに
圧巻の演奏に
眠気はすっかり
吹っ飛んで
いました。

このプログラムの
コンサ―トマスタ―は
樫本大進
氏ではなく
ベルリン・フィル初の
女性コンマスでしたが
さすが演奏、
堪能しました。


   ✨✨✨✨✨

後半は
樫本大進氏か主催する
ル・ポン国際音楽祭より
ディヴェルティメント
(ヴァンハル)

初めて
聴かせて頂きましたが
コントラバスが大活躍。
とにかく上手い。
面白かったです。




雪と強風

2024-01-14 14:50:00 | 日記

昨日のお天気
東京は雪。

夕方、練習場に
出かけようと
思いましたら
なんと風も強い。
新宿のホテルから
駅までは
地下道でしたが
とりあえず
コンビニで
大きなビニール傘を
買いましたが
開いた途端に
裏返しに…。(笑)

なんとか無事に
練習場に到着。
1回だけの
合わせですから
緊張の時間です。

あとはホテルで
バタンキュー。(笑)

   ✨✨✨✨✨

今朝は良いお天気です。








ドジ❗

2024-01-13 07:40:00 | 日記


昨日、早く目覚め
用事を済ませ
新幹線に乗ろうと
スーツケースを
閉めたところで電話。

「今日の9時のお約束
でしたが…」と
ホールからの
着信でした。
「えぇっ❗」





新しい手帳に変えた時に
間違ったようです💦💦💦

ホテルをキャンセルし
新幹線を変更
しました。

私のオルガン・レジスト
であったのが
せめてもの慰め。
今日は心して
東京に向かいます。
  











もう一人の巨匠

2024-01-12 08:56:00 | 日記

バロックの2人の巨匠
バッハ、ヘンデルが
生まれた1685年に
もう一人偉大な作曲家
スカルラッティが
生まれています。





スカルラッティは
若い頃はローマで
活躍していましたが
やがて
ポルトガル王室礼拝堂の
音楽監督としてリスボンに
移ります。
そして10歳になった
マリア・バルバラ王女の
音楽教師になりました。
その後、彼女が
スペイン王室に嫁ぐと
スカルラッティも
王女と共に
マドリードに移ります。
マドリード王宮



そこで王女のための
練習曲として
チェンバロのための
「ソナタ」を500曲以上
作曲しました。

どの曲も
バルバラのために書かれ
高度なテクニックを
駆使する
演奏困難な曲があるのは
バルバラの腕前か
相当なものであったと
窺い知ることが
できます。

マリア・バルバラ
スペイン王妃





「ソナタK141」

マルタ・アルゲリッチ



スカルラッティは
博打が好きで
しばしば借金を
背負ったようですが
その負債はバルバラが
建替えたようです。
(大量に書かれたソナタは
その代償だったの
でしょうか。)













先駆者

2024-01-11 09:12:00 | 日記

瀧 廉太郎
(1879−1903)

明治12年
瀧廉太郎は東京で生まれ
生家は
新橋と虎ノ門の間でした。
官僚だった父の
転勤にともなって
横浜に移り
暫く暮らします。

横浜は外国人が住み
教会が多くありました。
隣に住む松川家は
カトリック信者の一家で
家庭音楽会に
招かれます。

その後、
父の転勤で
富山、東京と移り
1891年には
大分の竹田市で
高等小学校に転入します。
彼はこの学校にあった
リードオルガンに
触れることを許さるた
唯一の生徒でした。

1894年
14歳の時に
一人で東京に戻り
現在の
東京芸術大学音楽学部
に合格します。
4年後には
本科を首席で卒業して
研究科に進み
ピアニストとしてデビュー
この頃には作曲も初め
ました。

留学を決めたのは1901年
その前年に
日本聖公会の教会で
洗礼を受けます。

留学先は
ドイツ・ライプツィヒ。



メンデルスゾーンが
設立した
ライプツィヒ音楽院に
初めて入学した
日本人でした。

5ヶ月ほど経った頃に
肺結核を発病し
入院します。
長い治療が続きますが
良くならず
翌年の7月には
帰国を余儀なく
されます。
ロンドン経由で
横浜に戻り
その後
大分で療養生活を
送りますが
翌年、23歳の若さで
この世を去りました。

ライプツィヒには
記念碑が設立されました。
「日本で敬愛された作曲家
瀧廉太郎は1901年から
1902年までフェルディナンド通り7番に住み
ライプツィヒ音楽院で
学んだ。短い一生の中で
彼は数々の名曲を残し
日本の近代音楽の扉を
開いた功績は
永遠に輝き続ける」と
日本語とドイツ後で
記されています。



≪花≫
ウィーン少年合唱団






敬愛された国王

2024-01-10 16:20:00 | 日記

昨日は美容室に伺い
さっぱりしました。
気温が下がってきて
寒くなりましたね。


  ✨✨✨✨✨✨

フランツ・ヨーゼフ1世
(1830ー1916)




オーストリア帝国の
最後の皇帝で
国民から
敬愛されました。



68年に及んだ
在位中に帝国は
衰退が進み
家族に次々と先立たれ
苦難の人生でした。
弟はメキシコで銃殺され
長男ルドルフは
恋人と心中し、
美しい妻のエリザべートは
暗殺され
皇位継承として指名した
甥のフランツ・フェルディナンド夫妻も
第1次世界大戦のきっかけと
なるサラエボ事件で
暗殺されました。

フランツ・ヨーゼフ1世は
外交面では手腕は
発揮できませんでしたが
文化芸術の面では
ウィーンの音楽文化を
絢爛たるものに
発展させました。

在位中に現国立歌劇場や
ニューイヤーコンサートの
会場である
楽友協会やコンツェルト・
ハウスなどの劇場を
完成させました。
その他に
ウィーン市庁舎
国会議事堂
ブルク劇場
美術史美術館
ウィーン大学など
重要な建物を
完成させます。
ウィーン国立歌劇場

行進曲
≪フランツ・ヨーゼフ1世
万歳≫

作曲
ヨハン・シュトラウス2世

ウィーン・フィル




ニューイヤーコンサート

2024-01-09 08:37:00 | 日記

 
今年のウィーン・フィルの
ニューイヤー・コンサートの
「美しく青きドナウ」です。

指揮は
クリスティアン・ティレーマン。



1929年、
ウィーン生まれの
クレメンス・クラウスと
いう指揮者が
ザルツブルク音楽祭で
ヨハン2世の作品だけで
演奏会を開き
評判になりました。

それから10年後
ウィーン・フィルが
大晦日に
シュトラウス・ファミリーの
作品を演奏する
コンサートを
始めました。
これが
1941年から
このコンサートを
始めるきっかけに
なりました。

毎年NHKがウィーンから
生中継してくれますが
世界的なスター指揮者が
登壇して
ウィンナ・ワルツや
ポルカなどの
軽快な曲を演奏し
バレエも加わる
優雅な演奏会です。

アンコールには
必ず「美しく青きドナウ」
最後に
「ラデッキー行進曲」が
演奏されます。

「ラデッキー行進曲」



2025年の指揮者は
リッカルド・ムーティに
決まりました。



若気のいたり

2024-01-08 09:02:00 | 日記

ジャン・シベリウス
(1865−1957)


フィンランド南部に
生まれたシベリウスは
ヘルシンキ大学法学部に
入学しますが
中退して
ヘルシンキ音楽院に入学。

1889年にベルリンへ
翌年にはウィーンに
留学して
勉強を重ねますが
それ以上に
お酒と浪費で
問題を起しています。

ベルリンでも
ウィーンでも
サロンの常連となり
財力に釣り合わない
貴族趣味を
身につけます。


1890年代の
シベリウスは
有名な
「トゥネラの白鳥」を含む
「カレワラによる
四つの伝説」などを
作曲しました。
32歳の若さで
フィンランド政府から
終身年金の受給も決まり
生活の心配もなく
作曲に打ち込み
91歳と9ヶ月の
長寿を全うしました。

フィンランドの
ラジオ放送は
代表作の
「トゥネラの白鳥」で
追悼しました。

「トゥネラの白鳥」
ベルリン・フィル
サイモン・ラトル
(2‘36‘‘)











3人の博士

2024-01-07 07:45:00 | 日記

今日は「主の公現」
ベトレヘムに生まれた
幼子を東方の三博士が
礼拝にきたことを
記念する日です。


我が家も今日まで
クリスマスの飾りを
置いていました。
(片付けるのが
面倒ということも
ありますが… 💦)

  ✨✨✨✨✨

ピヨートル・イリイチ・
チャイコフスキ―
(1840-1893)

父はロシア人で
鉱山の首席査察官。
母はフランス系ロシア人で
本人はフランス人の
クォーターです。

父はフランス人女性を
家庭教師として招き
初歩教育を
受けさせました。
音楽好きな母の影響で
ピアノに親しんで
成長します。

10歳の時に
ペテルブルク
法律学校予科に
入学します。
19歳で法務省に入省
しますが
音楽を諦めきれずに
22歳で
ペテルブルク音楽院に
入学して
1期生になります。
チャイコフスキ―は
西欧風の教育法によって
ロシア国内で育てられた
最初の音楽家の
一人でした。

25歳で音楽院を卒業後
モスクワに新設された
音楽院の教師をしながら
本格的に作曲を始め
「ピアノ協奏曲1番」を
完成させます。

音楽院の院長
ニコライ・ルビンシュタインに捧げるはずでしたが
酷評され
屈辱的な思いを
味わいます。

その後
ドイツのピアニスト
ハンス・フォン・ビューロ―
に献呈され
アメリカ・ボストンで
行われた初演は
大成功をおさめ
チャイコフスキ―の
出世作になりました。


音楽院の院長
ルビンシュタインも
その後、謝罪して
このピアノ協奏曲を
感動的に
演奏するようになり
パリ万博博覧会では
1楽章が終わるなり
大きな拍手が
巻きおこったのです。

 
「ピアノ協奏曲第1番」
ピアノ
ワイセンベルグ
指揮
カラヤン
(3‘30‘‘)








院長辞任

2024-01-06 09:38:00 | 日記

今どきの若い生徒の
憧れの作曲家は
ラヴェルのようで
3人がそれぞれ
練習を初めています。

   ✨✨✨✨✨


モ―リス・ラヴェル
(1875−1937)

スペイン国境に近い
漁村シブ―ルに
生まれました。

父はスイス生まれの
著名なエンジニアで
深い教養の持ち主。
母のマリ―は
鋭い美的感覚を持つ
バスク人でした。

父が幼いラヴェルの
才能を見抜いて
早くから
高度な音楽教育を
受けさせました。

7歳でパリでも有数の
ピアノ教師に習い
9歳で作曲の勉強を
はじめます。

14歳で
パリ音楽院に入学
フォーレに作曲を
学びました。
在学中に
「古風なメヌエット」や
「亡き王女のための
パヴァーヌ」などを
発表して
注目を集めます。
1901年にロ―マ賞に応募
しましたが2位でした。
翌年とその翌年は
最終選考に残ることなく
3回続けて落選し
1905年
年齢制限ギリギリの
最後のチャンスも
審査員側は
前衛的すぎると
応募さえ
認めませんでした。
ラヴェルが
異端児サティに心酔
していることや
彼の大胆な和声や
斬新な色彩感覚が
音楽界の長老たちに
受け入れられ
なかったのです。

このような事態を
ジャ―ナリズムは
見過ごすことはなく
新聞が一斉に
報じたことにより
国民からも
ラヴェル擁護の声が
巻きおこります。
ついに
パリ音楽院に
非難が集中し
院長は責任を取り
辞職しました。
これが有名な
ラヴェル事件です。

彼の知名度は
かえってあがり
新進作曲家としての
地位を築くことに
なったのです。











1台のピアノから。

2024-01-05 09:37:00 | 日記

あらっ❗
シュト―レン発見。💦




息子達と頂こうと
12月はじめに
購入していましたが
ケ―キを
食べる事になり
忘却のかなたへ



賞味期限は17日
私のおやつに
なります。💦



  ✨✨✨✨✨✨


ジョ―ジ・ガ―シュイン
(1898-1937)

アメリカの音楽史上で
最も重要な
作曲家のひとり
ポピュラー・ソングと
ミュ―ジカルで成功した後
ジャズとクラシック音楽を
融合させます。

両親は
ユダヤ系ロシア人で
ニューヨークの下町
ブルックリンに
移住しました。

ガ―シュインの
音楽との出会いは
遅かったのですが
12歳の時に家に
アップライト・ピアノが届き
彼はたちまち
弾けるように
なったのです。

15歳で学校を中退し
ティン・パン・アリ―
(マンハッタンにある
ポピュラ―音楽の楽譜屋街)で客のために
新作を弾いて聴かせる
デモンストレーション・
ピアニストとしての
仕事をしながら
ポピュラー・ソングの
作曲をしていましたが
1919年に作曲した
≪スワニ―≫が
大ヒットして
売れっ子の
仲間入りを
果たします。


 
更に
ラプソディ・イン・ブルーを
発表し
24歳にして
一躍アメリカの
人気作曲家に
なりますが
彼の音楽は
アメリカで
誕生した音楽として
独自の地位を
築きました。


「I got rhythm
ピアノ かてぃん




一本指で弾きはじめて
レベルを
上げていきます。
(*^^*)





変なタイトル

2024-01-04 09:47:00 | 日記

3日の夕方
レッスンに
やってきた断崖君
頑張れ・がんばれ!

   ✨✨✨✨✨


エリック・サティ
(1866-1925)

西洋音楽史上で
異彩を放つ
作曲家サティ。

1866年にフランスの
オンフル―ルで生まれて
4歳の時にパリに移住
しました。
6歳の時に母が亡くなり
祖父母のもとに
預けられます。

あるとき祖父が
サティが神秘的なもの
とりわけ
グレゴリオ聖歌に強く
興味を示す事に
気づきます。
早速ピアノを習わせ
教会の聖歌隊長について
勉強をはじめました。

12歳の時に
パリ音楽院に
入学しますが
伝統的な
音楽院の教育が
肌に合わず
授業をさぼり
アンデルセン童話を
読みふけり
学校をサボって
教会や図書館に通い
古典文学や中世音楽を
調べることに
熱中していましたが
やがて退学処分に。


軍隊に志願しても
居心地が悪く
寒風に胸をはだけ
気管支炎を患い
除隊に成功しました。

モンマルトルの
文学酒場で
ピアノを弾き
シャンソンなどの
伴奏をしながら
≪3つのジムノペディ≫
などを書き上げますが
変なタイトルが
多いのです。

≪犬のための
ぶよぶよした前奏曲≫
≪干からびた胎児≫
≪嫌らしい気取り屋の
3つの高雅なワルツ≫
≪あらゆる意味に
でっち上げられた数章≫etc.

まだまだあります。(笑)


作曲家の
ストラヴィンスキ―は
「今まで出会ったなかで
一番奇妙で
一番素晴らしい人間」と
書いています。

同時代の作曲家
ドビュッシ―も
今世紀のさなかに
迷いあらわれた
心優しい
中世音楽家と呼んで
親しくして
いました。








困難な時代に

2024-01-03 08:37:00 | 日記

静けさの戻った家で
少しピアノを
弾きました。

少し弾いたあと
TVをつけましたら
暗い空港で
真っ赤な炎を上げて燃える
飛行機の映像に吃驚。
元旦早々、
波乱の幕開けです。


   ✨✨✨✨✨


クララ・ヴィ―ク
(1819―1896)

ドイツの
ライプツィヒ生まれ。

父親は高名なピアノ教師
フリードリヒ・ヴィ―ク。
父は娘を
≪光≫を意味する
クララと名付けました。

5歳になったクララは
父親にピアノを習い
始めます。
サロンでの演奏を
経験したのち
9歳で
ゲヴァントハウス管弦楽団
とモ―ツァルトの協奏曲を
演奏して
華々しくデビュー
しました。

又、作曲の勉強をはじめ
13歳で
ピアノ協奏曲イ短調を
書きますが
オ―ケストラ・パ―トは
将来、夫になる
ロベルト・シュ―マンが
手伝いました。
彼はのちにピアノ協奏曲を
作曲するにあたり
クララのイ短調協奏曲を
参考にしています。

この頃にクララは
ヨ―ロッパに名を轟かす
ピアニストになって
いきます。




フランツ・リストは
クララには
完璧な技術と深い感性が
あると言いました。

女性の活躍が
困難な時代に
40年以上にわたって
演奏活動を展開した
大ピアニストでした。







新年早々

2024-01-02 07:32:00 | 日記

元旦の夕方に
大きな地震。

さいわいなことに
こちらは無事でしたが
北陸のみなさまは
どんなに
怖い思いをされた
ことでしょう。

心より
お見舞い
申し上げます。
どうか被害が
これ以上
広がりませんように。


   ✨✨✨✨✨

息子達は
早朝5時半に出発し
我が家には静けさが
戻ってきました。