変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




とうとう観ました、ダ・ヴィンチ・コード。小説に引き続き。
兎に角、面白いのだ!
評判は「いまいち」というのが多いようだけど、何でだろう? あんなに面白い
のに。終わった時に拍手したくなる、という奇妙な衝動が込み上げてしまう程
の傑作だと思った。
原作もそうだが、ミステリーとしての完成度が抜きん出ている、という訳では
無いだろう。勿論、そういう意味でも充分に秀作だとは思うが。
マーケティングによって創り出された前評判だけでは、あそこまでの動員は
実現できるはずもない。優れたエンターテイメント性を備えているんだ。

人間キリストの末裔。
二千年に及ぶ宗教歴史、それには膨大な数の人々が関わり、その人の多さ
をも凌駕するだろう無尽蔵とも言って良い程の物語があるに違いない。
福音書とて、そんな物語の一つに過ぎないのではないか。信者には到底受け
入れられないかもしれないが、一つ一つの物語の貴重さ、それを知らしめる
手段として、そんな意味合いで聖書を感じることがある。
そういう意味では、イエスその人も然り。神性を否定する訳ではないが、人の
価値に上下重軽はなく、貴重な一人としてのイエスは、裏返せば全ての人の
尊さを体現していたのではないか。
マグダラのマリアへのイエスの思い、彼女自身の感情、そして彼等と子孫を
取り巻く人々の信仰。キリスト教徒ではないおいらをして、神聖で純粋な感情
に包まれた。異論異端論争はあれども、長きに亘って信じ暖められて来たと
いう事実からも、この宗教の凄みを感じずにはいられない。

そんなキリスト教社会というか、社会観念というか、それを覆すような真実と
秘密の物語。面白くないはずがない。

しかし、だ。
物語が寄って立つ基盤と、作者が訴えるメッセージに込める思い。受け手に
よって千差万別になること請け合いの映画において、『面白み』はどこから
生まれるのだろう? 誰もが知るレオナルドという一人の男を題材にした、と
いうだけでは説明がつかないと思う。
これが分からねば、多数に受け入れられる物語を書くことは適わないのかな。

先月に完成したMy小説は、社会が覆った後の物語なのだが、ダ・ヴィンチ・
コードとの差は、事件の前後というだけでは無い。

それが何なのか、よく考えてみよう。
面白さの差、その原因がそこにはあるまいか。
そもそも比べるなってことなんだけども。。

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