カズオ・イシグロ著『浮世の画家』
第二次世界大戦中、軍国主義の隆盛に便乗することで画壇の大家となった小野益次。
しかし、敗戦を境に世の価値観は激変した。戦中称賛されていたことの多くが新しい時代では過ちとされ、軍国主義の旗振り役を務めていた者たちは世間から非難を浴びせられた。実業家や有名な作曲家が自殺に追い込まれた。
小野は画業から身を引いた。
そして、長女の夫を始めとする新しい世代の価値観に惑いながら、屋敷に引き籠り鬱屈した日々を送っている。
だが、次女の一度目の縁談が破談に終わったことから、世間に背を向けてもいられなくなった。
見合い相手の三宅家の言い分は、小野家に比べて三宅家の格が劣るからというものだった。そんなことは見合い話が持ち上がった時から分かっていたはずだ。
この辺の理由は最後まで明らかにされない。それでも、小野は戦後に自分たち家族に起きた悪しきことはすべて自分の戦中の活動が原因だと考えている。
なので、二度目の縁談が進行する中、小野は当時の関係者を訪ね、己の戦中の振る舞いが縁談に影を落とさないよう根回ししておこうと行動を起こした。
物語は、そんな老画家の1948年10月から1950年6月までの奮闘と回想を描いているのだが、どうもこの男の視点は当てにならない。
彼の情緒不安定が、世論の急変についていけないことに機縁しているのは間違いない。
しかし、彼が娘二人を含めた関係者と戦時中の話をする時の言い草が奇妙に曖昧なのだ。単なる記憶違いや誤認ではなく、意図的に事実を誤魔化しているような気がしてならない。
たとえば、1948年10月、次女の最初の見合い相手だった三宅二郎と破談後初めて再会した時の会話。
この日、三宅の勤め先の親会社の社長がガス自殺した。
三宅は社長の自殺は戦中の事業のいくつかに対しての社長なりの謝罪、戦没者の遺族に対するお詫びのしるしだったと言う。
謝罪のための自殺が毎日のように記事になっている。小野は国の最も優れた人材の一部がこうやって命を絶っていくことを大きな無駄だと感じていた。
そこから、三宅との応酬が以下のように続いた。
“「ほんとうに残念です。ときどき思うんですが、本来なら命を捨てて謝罪すべきなのに、自分の責任を直視できない卑劣な人がたくさんいるんじゃないでしょうか。だからこそ、うちの大社長みたいな方が崇高な責任を果たさざるをえないのです。戦時中の地位にぬけぬけと戻ってる人がずいぶんいます。彼らの一部は戦犯も同然です。彼らこそ謝罪すべきだと思います」
「あなたの言おうとすることはわかる」とわたしは言った。「しかし、戦争中に祖国のために戦ったり、忠誠心をもって働いた人々を戦争犯罪人と呼ぶわけにはいかんでしょう。このごろ世間では、やたらに人々を戦犯呼ばわりしているようだが」
「でも、わが国を誤った方向に引きずり込んだ人々がいることは確かです。彼らが自分の責任を認めるのは、ごく当たりまえのことではないでしょうか。彼らが過ちを認めまいとしているのは、卑怯です。そして全国民にそういう過ちを押し付けた人々の場合は、それこそ卑劣きわまる態度です」”
ここまで回想してから、小野は、あの日、三宅は本当にそういう言葉を使ったのであろうかと懐疑する。おとなしい三宅がここまで鋭い言い方をするだろうか。どちらかと言えば、長女の婿の物言いに近い気がする……?
この後、行きつけのバーのマダム、当時の弟子たちのうち最近まで親交のあった信太郎、そして、小野に軍国主義を植え付けた社会活動家の松田など、小野の当時と今を知る人物との邂逅の場面が続いていく。
そこから、既に親交の途絶えた人々との戦前・戦中の思い出が蘇る。それらを通して、新しい価値観への批判と古い価値観への懐疑の間で揺れる小野の心模様が描かれる。
だが、上に挙げた三宅との会話同様、他の人物との会話も実際にそのようなやり取りがあったのかが曖昧なのだ。
小野の言うことが当てにならない以上、他の登場人物の意見に頼った方が良さそうだ。
しかし、娘たちは物言いたげな素振りを見せつつもはっきりと口に出さないし、小野に反感を抱いているとされる娘婿の素一にしたところでそこまで不躾な言い方をしない。というか、素一の登場する場面はごく僅かだ。
三宅にしても素一にしても、軍国主義に傾倒していた有力者全般の批判はするが、そこに小野を含んでいるとは言い切れない。小野が自分が批判されているような気になるのは、彼が己を一角の人物と自負しているが故の錯覚な気もする。その道の大家とは言え、一画家にそこまで世を動かす力があるだろうか。
小野が言う「やたらに戦犯呼ばわりしている」事態が彼自身の身に起きるのは、かつて一番弟子だった黒田のアトリエを訪ねた時のみだ。
〈ためらい橋〉の向こう側、今はオフィス街となった地帯は、戦前は歓楽街だった。
小野は贔屓にしていた〈みぎひだり〉という酒場で弟子たちと度々飲み交わし、芸術を語り合っていた。
黒田は小野の一番弟子で、画才でも討論でも頭一つ抜けた存在だった。
その頃の黒田は小野に信仰のような敬慕を向けていて、彼の口から情熱的に語られる小野礼賛は場を盛り上げ、小野の自尊心を心地良く擽ったものだった。
しかし、黒田は画家として成長するに従い、小野から距離を置くようになった。小野は仕方のないことだと自分に言い聞かせながらも、割り切ることが出来ない。
内務省文化審議会の一員で、非国民活動統制委員会の顧問にも任命されている小野と、反戦に心が傾いている黒田。師弟の絆は黒田が非国民として連行された時に切れた。
娘の先行きを案じるのなら、何を置いても黒田に会わなければならない。
小野は黒田のアトリエを訪ねた。
その日、黒田は不在で弟子の円地が小野を迎え入れた。最初、小野が何者かわからなかった円地は尋常な対応をしていたが、小野の正体がわかるとあからさまに態度を変えた。
“「十分な事情を知らないのは明らかにあなたのほうです。でなきゃ、どうしてこう平気でここへ来れるでしょう。例えば、あなたは黒田先生の肩のことを知らないんでしょう、きっと。ものすごい痛みだったのに、ご都合主義の看守どもはその傷についての報告をわざと忘れた。おかげで終戦後まで治療を受けられなかった。でももちろん、連中が先生の肩の傷のことをちゃんと覚えていながら、何度もなぐる蹴るの乱暴を繰り返したんです。この国賊め。先生をそう呼んだんですよ、連中は。国賊と。夜も昼も休みなくそう呼んだ。しかしいま、だれがほんものの国賊か、みんなちゃんと知っていますよ」”
小野は世の複雑さを知らない若者の言葉に気分を害しながらも、娘のために黒田へ手紙を書いた。後日、黒田から改めて絶縁の手紙が届いた。
物語の進行とともに、黒田を密告したのが小野であることが明るみになる。
小野の黒歴史の象徴とも言うべき黒田にスポットライトが当てられるのと前後して、小野と師匠のモリさんとの決別までの過程も語られていく。
モリさんは戦前持て囃されていた画家の一人で、彼の描く夜の街の儚い美しさは見る者を魅了した。モリさん自身も〈浮世の画家〉を標榜し、歌麿の伝統を「現代化」しようと努力していた。
モリさんの別荘で兄弟弟子達とともに切磋琢磨していた頃が、小野が最も輝いていた時期だったかもしれない。しかし、松田と出会い、社会活動に関心を持つようになった小野は、モリさんから心が離れていく。
“「ここ何年ものあいだ、多くのことを学びました。歓楽の世界を見つめることも、そこに儚い美しさを発見することも、ずいぶん勉強になりました。でも、もうほかの方向に進む時期が来ているような気がします。先生、現代のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光とともにあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのがぼくの信念です。画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」”
こうして、二人は決別した。
軍国主義の気炎に比例して小野の名声も上がった。
1938年5月、小野は重田財団賞という重要な賞を受賞した。
〈みぎひだり〉で弟子や画家仲間たちと盛大に祝った数日後、小野はモリさんの別荘のある地に足を運んだ。
小野はモリさんとの交流を絶っていたけど消息はいつも気にしており、モリさんの評判が下がっていく一方であることを承知していた。
歌麿の伝統に西洋の影響を取り入れようとするモリさんの試みは、愛国心に反するものと見なされた。展覧会も格の低い画廊で、それも、苦労してようやく開かせてもらう状態に落ち、生活のために大衆雑誌の挿絵を描き始めたという話まで聞こえていた。
モリさんは小野が重田財団賞を受賞したことを知っているだろう。
“「いいですか、モリさん、あなたはいつぞや、おまえなど漫画でも書いて暮らすしかあるまいと心配してくれましたが、とんとその必要はありませんでしたよ」”
全編を通して、小野の自己正当化と独善に気持ちの悪さを感じる本作だが、その最高潮が尾根からモリさんの別荘を見下ろし、勝利に酔いしれたこの場面だ。小野は小一時間もそこに座り、心からの満足感を抱きながらみかんを食べ続けたのだ。
小野はその時の境地を多くの人が経験できる感情ではないと思っている。
このマウント気質が、反省しているようで実は無反省な態度に繋がっているのだが、本人は自分を謙虚な人間だと思っているので、周囲の人々との齟齬の原因が主に自分にあるとは理解していない。
小野は己の才能や努力に絶対的な自信を持つ一方で、戦中の軍国主義に基づいた行為に対する総括は出来ないままでいる。
黒田を密告した直後、黒田の家を訪ね、警官に黒田について不当な扱いが無いように頼む場面はサイコかと思うほどの悍ましさだった。それでいて、密告という行為の卑劣さに目をつぶり続けるほどの厚かましさは持ち合わせていない。相反する感情に揺れる不安定な言動は、親しい人たちとの関係に亀裂を生んだ。
これでよくモリさんを卑怯だと言えたものだと呆れてしまう。
とはいえ、常識だと思っていた価値観が、時代の変化とともに丸ごと否定されてしまう恐ろしさを経験したことのない私が、彼の自己正当化を糾弾して良いのか分からない。
少なくとも、終盤まで読んで、小野は三宅の言う「自分の責任を直視できない卑劣な人」「わが国を誤った方向に引きずり込んだ人々」の一人だったかもしれないが、「戦時中の地位にぬけぬけと戻ってる人」には当てはまらないと思った。三宅もそのような認識で語っていたと思う。ところが、小野は三宅から全面的に否定されたと感じた。
戦中とはそういう時代だった、その世情の中で自分は最善を尽くしたと自認しながらも、完全に開き直れるほど小野の面の皮は厚くない。黒田の弟子の円地以外は、誰も彼を名指しで糾弾していないのに、小野自身の心が世間や親しい人が彼を戦犯のように思っていると感じている。それは引け目だけではない。かつての自分がそれだけ重要な立場にいたというプライドでもある。そこに彼の生き辛さがある。
それと、小野が語るモリさんの絵があまりにも美しくて。
かつて小野はモリさんの絵を「夜明けの光とともにあえなく消えてしまう享楽的なもの」と評した。しかし、小野の絵もまた、時代の移り変わりの中で消えて行った。小野自身も〈浮世の画家〉の一人だったのである。そう思えば、あまり共感出来ないこの男の生き方にも一筋の儚い美を感じるような気もする。
終章、小野は〈ためらい橋〉に立って、先日亡くなった松田のことを考えたあと、昔弟子を連れて飲み歩いた歓楽街の跡地へ向かった。
空襲で瓦礫の山になったその地区は、今は再建されて清潔なオフィス街になっている。昔の面影は殆ど残っていない。マダム川上のバーも、〈みぎひだり〉も無くなった。すべては儚い浮世の夢だ。
夜もなお明るい酒場や街燈の下に寄り集まって、陽気に談笑していた人々を思い出すたびに、ある種のノスタルジーを感じる。だけど、時代の流れは止まらないし、時代遅れになっても人は生きていかなければならない。
主人公に好感を持てなくても、彼の出す結論が気になり一気に読むことが出来た。
第二次世界大戦中、軍国主義の隆盛に便乗することで画壇の大家となった小野益次。
しかし、敗戦を境に世の価値観は激変した。戦中称賛されていたことの多くが新しい時代では過ちとされ、軍国主義の旗振り役を務めていた者たちは世間から非難を浴びせられた。実業家や有名な作曲家が自殺に追い込まれた。
小野は画業から身を引いた。
そして、長女の夫を始めとする新しい世代の価値観に惑いながら、屋敷に引き籠り鬱屈した日々を送っている。
だが、次女の一度目の縁談が破談に終わったことから、世間に背を向けてもいられなくなった。
見合い相手の三宅家の言い分は、小野家に比べて三宅家の格が劣るからというものだった。そんなことは見合い話が持ち上がった時から分かっていたはずだ。
この辺の理由は最後まで明らかにされない。それでも、小野は戦後に自分たち家族に起きた悪しきことはすべて自分の戦中の活動が原因だと考えている。
なので、二度目の縁談が進行する中、小野は当時の関係者を訪ね、己の戦中の振る舞いが縁談に影を落とさないよう根回ししておこうと行動を起こした。
物語は、そんな老画家の1948年10月から1950年6月までの奮闘と回想を描いているのだが、どうもこの男の視点は当てにならない。
彼の情緒不安定が、世論の急変についていけないことに機縁しているのは間違いない。
しかし、彼が娘二人を含めた関係者と戦時中の話をする時の言い草が奇妙に曖昧なのだ。単なる記憶違いや誤認ではなく、意図的に事実を誤魔化しているような気がしてならない。
たとえば、1948年10月、次女の最初の見合い相手だった三宅二郎と破談後初めて再会した時の会話。
この日、三宅の勤め先の親会社の社長がガス自殺した。
三宅は社長の自殺は戦中の事業のいくつかに対しての社長なりの謝罪、戦没者の遺族に対するお詫びのしるしだったと言う。
謝罪のための自殺が毎日のように記事になっている。小野は国の最も優れた人材の一部がこうやって命を絶っていくことを大きな無駄だと感じていた。
そこから、三宅との応酬が以下のように続いた。
“「ほんとうに残念です。ときどき思うんですが、本来なら命を捨てて謝罪すべきなのに、自分の責任を直視できない卑劣な人がたくさんいるんじゃないでしょうか。だからこそ、うちの大社長みたいな方が崇高な責任を果たさざるをえないのです。戦時中の地位にぬけぬけと戻ってる人がずいぶんいます。彼らの一部は戦犯も同然です。彼らこそ謝罪すべきだと思います」
「あなたの言おうとすることはわかる」とわたしは言った。「しかし、戦争中に祖国のために戦ったり、忠誠心をもって働いた人々を戦争犯罪人と呼ぶわけにはいかんでしょう。このごろ世間では、やたらに人々を戦犯呼ばわりしているようだが」
「でも、わが国を誤った方向に引きずり込んだ人々がいることは確かです。彼らが自分の責任を認めるのは、ごく当たりまえのことではないでしょうか。彼らが過ちを認めまいとしているのは、卑怯です。そして全国民にそういう過ちを押し付けた人々の場合は、それこそ卑劣きわまる態度です」”
ここまで回想してから、小野は、あの日、三宅は本当にそういう言葉を使ったのであろうかと懐疑する。おとなしい三宅がここまで鋭い言い方をするだろうか。どちらかと言えば、長女の婿の物言いに近い気がする……?
この後、行きつけのバーのマダム、当時の弟子たちのうち最近まで親交のあった信太郎、そして、小野に軍国主義を植え付けた社会活動家の松田など、小野の当時と今を知る人物との邂逅の場面が続いていく。
そこから、既に親交の途絶えた人々との戦前・戦中の思い出が蘇る。それらを通して、新しい価値観への批判と古い価値観への懐疑の間で揺れる小野の心模様が描かれる。
だが、上に挙げた三宅との会話同様、他の人物との会話も実際にそのようなやり取りがあったのかが曖昧なのだ。
小野の言うことが当てにならない以上、他の登場人物の意見に頼った方が良さそうだ。
しかし、娘たちは物言いたげな素振りを見せつつもはっきりと口に出さないし、小野に反感を抱いているとされる娘婿の素一にしたところでそこまで不躾な言い方をしない。というか、素一の登場する場面はごく僅かだ。
三宅にしても素一にしても、軍国主義に傾倒していた有力者全般の批判はするが、そこに小野を含んでいるとは言い切れない。小野が自分が批判されているような気になるのは、彼が己を一角の人物と自負しているが故の錯覚な気もする。その道の大家とは言え、一画家にそこまで世を動かす力があるだろうか。
小野が言う「やたらに戦犯呼ばわりしている」事態が彼自身の身に起きるのは、かつて一番弟子だった黒田のアトリエを訪ねた時のみだ。
〈ためらい橋〉の向こう側、今はオフィス街となった地帯は、戦前は歓楽街だった。
小野は贔屓にしていた〈みぎひだり〉という酒場で弟子たちと度々飲み交わし、芸術を語り合っていた。
黒田は小野の一番弟子で、画才でも討論でも頭一つ抜けた存在だった。
その頃の黒田は小野に信仰のような敬慕を向けていて、彼の口から情熱的に語られる小野礼賛は場を盛り上げ、小野の自尊心を心地良く擽ったものだった。
しかし、黒田は画家として成長するに従い、小野から距離を置くようになった。小野は仕方のないことだと自分に言い聞かせながらも、割り切ることが出来ない。
内務省文化審議会の一員で、非国民活動統制委員会の顧問にも任命されている小野と、反戦に心が傾いている黒田。師弟の絆は黒田が非国民として連行された時に切れた。
娘の先行きを案じるのなら、何を置いても黒田に会わなければならない。
小野は黒田のアトリエを訪ねた。
その日、黒田は不在で弟子の円地が小野を迎え入れた。最初、小野が何者かわからなかった円地は尋常な対応をしていたが、小野の正体がわかるとあからさまに態度を変えた。
“「十分な事情を知らないのは明らかにあなたのほうです。でなきゃ、どうしてこう平気でここへ来れるでしょう。例えば、あなたは黒田先生の肩のことを知らないんでしょう、きっと。ものすごい痛みだったのに、ご都合主義の看守どもはその傷についての報告をわざと忘れた。おかげで終戦後まで治療を受けられなかった。でももちろん、連中が先生の肩の傷のことをちゃんと覚えていながら、何度もなぐる蹴るの乱暴を繰り返したんです。この国賊め。先生をそう呼んだんですよ、連中は。国賊と。夜も昼も休みなくそう呼んだ。しかしいま、だれがほんものの国賊か、みんなちゃんと知っていますよ」”
小野は世の複雑さを知らない若者の言葉に気分を害しながらも、娘のために黒田へ手紙を書いた。後日、黒田から改めて絶縁の手紙が届いた。
物語の進行とともに、黒田を密告したのが小野であることが明るみになる。
小野の黒歴史の象徴とも言うべき黒田にスポットライトが当てられるのと前後して、小野と師匠のモリさんとの決別までの過程も語られていく。
モリさんは戦前持て囃されていた画家の一人で、彼の描く夜の街の儚い美しさは見る者を魅了した。モリさん自身も〈浮世の画家〉を標榜し、歌麿の伝統を「現代化」しようと努力していた。
モリさんの別荘で兄弟弟子達とともに切磋琢磨していた頃が、小野が最も輝いていた時期だったかもしれない。しかし、松田と出会い、社会活動に関心を持つようになった小野は、モリさんから心が離れていく。
“「ここ何年ものあいだ、多くのことを学びました。歓楽の世界を見つめることも、そこに儚い美しさを発見することも、ずいぶん勉強になりました。でも、もうほかの方向に進む時期が来ているような気がします。先生、現代のような苦難の時代にあって芸術に携わる者は、夜明けの光とともにあえなく消えてしまうああいった享楽的なものよりも、もっと実体のあるものを尊重するよう頭を切り替えるべきだ、というのがぼくの信念です。画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」”
こうして、二人は決別した。
軍国主義の気炎に比例して小野の名声も上がった。
1938年5月、小野は重田財団賞という重要な賞を受賞した。
〈みぎひだり〉で弟子や画家仲間たちと盛大に祝った数日後、小野はモリさんの別荘のある地に足を運んだ。
小野はモリさんとの交流を絶っていたけど消息はいつも気にしており、モリさんの評判が下がっていく一方であることを承知していた。
歌麿の伝統に西洋の影響を取り入れようとするモリさんの試みは、愛国心に反するものと見なされた。展覧会も格の低い画廊で、それも、苦労してようやく開かせてもらう状態に落ち、生活のために大衆雑誌の挿絵を描き始めたという話まで聞こえていた。
モリさんは小野が重田財団賞を受賞したことを知っているだろう。
“「いいですか、モリさん、あなたはいつぞや、おまえなど漫画でも書いて暮らすしかあるまいと心配してくれましたが、とんとその必要はありませんでしたよ」”
全編を通して、小野の自己正当化と独善に気持ちの悪さを感じる本作だが、その最高潮が尾根からモリさんの別荘を見下ろし、勝利に酔いしれたこの場面だ。小野は小一時間もそこに座り、心からの満足感を抱きながらみかんを食べ続けたのだ。
小野はその時の境地を多くの人が経験できる感情ではないと思っている。
このマウント気質が、反省しているようで実は無反省な態度に繋がっているのだが、本人は自分を謙虚な人間だと思っているので、周囲の人々との齟齬の原因が主に自分にあるとは理解していない。
小野は己の才能や努力に絶対的な自信を持つ一方で、戦中の軍国主義に基づいた行為に対する総括は出来ないままでいる。
黒田を密告した直後、黒田の家を訪ね、警官に黒田について不当な扱いが無いように頼む場面はサイコかと思うほどの悍ましさだった。それでいて、密告という行為の卑劣さに目をつぶり続けるほどの厚かましさは持ち合わせていない。相反する感情に揺れる不安定な言動は、親しい人たちとの関係に亀裂を生んだ。
これでよくモリさんを卑怯だと言えたものだと呆れてしまう。
とはいえ、常識だと思っていた価値観が、時代の変化とともに丸ごと否定されてしまう恐ろしさを経験したことのない私が、彼の自己正当化を糾弾して良いのか分からない。
少なくとも、終盤まで読んで、小野は三宅の言う「自分の責任を直視できない卑劣な人」「わが国を誤った方向に引きずり込んだ人々」の一人だったかもしれないが、「戦時中の地位にぬけぬけと戻ってる人」には当てはまらないと思った。三宅もそのような認識で語っていたと思う。ところが、小野は三宅から全面的に否定されたと感じた。
戦中とはそういう時代だった、その世情の中で自分は最善を尽くしたと自認しながらも、完全に開き直れるほど小野の面の皮は厚くない。黒田の弟子の円地以外は、誰も彼を名指しで糾弾していないのに、小野自身の心が世間や親しい人が彼を戦犯のように思っていると感じている。それは引け目だけではない。かつての自分がそれだけ重要な立場にいたというプライドでもある。そこに彼の生き辛さがある。
それと、小野が語るモリさんの絵があまりにも美しくて。
かつて小野はモリさんの絵を「夜明けの光とともにあえなく消えてしまう享楽的なもの」と評した。しかし、小野の絵もまた、時代の移り変わりの中で消えて行った。小野自身も〈浮世の画家〉の一人だったのである。そう思えば、あまり共感出来ないこの男の生き方にも一筋の儚い美を感じるような気もする。
終章、小野は〈ためらい橋〉に立って、先日亡くなった松田のことを考えたあと、昔弟子を連れて飲み歩いた歓楽街の跡地へ向かった。
空襲で瓦礫の山になったその地区は、今は再建されて清潔なオフィス街になっている。昔の面影は殆ど残っていない。マダム川上のバーも、〈みぎひだり〉も無くなった。すべては儚い浮世の夢だ。
夜もなお明るい酒場や街燈の下に寄り集まって、陽気に談笑していた人々を思い出すたびに、ある種のノスタルジーを感じる。だけど、時代の流れは止まらないし、時代遅れになっても人は生きていかなければならない。
主人公に好感を持てなくても、彼の出す結論が気になり一気に読むことが出来た。
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