高橋繁行著『土葬の村』
“この本はおそらく、現存する最後といっていい土葬の村の記録である。”
1990年代初めから2020年までの約30年に渡る土葬に関する聞き取り調査の記録に合わせ、土葬と同様に消えゆく風習である野辺送り、野焼き火葬、風葬などの実態を知る人々への取材を通して、日本の葬儀形態が火葬に絞られていく過程と日本人の死生観の変遷をまとめ上げたルポルタージュだ。
手始めに古い因習の残る滋賀県の村を訪ね歩いた著者は、それぞれの土地の古老の証言から、彼らは土葬の風習は鮮明に覚えているが、土葬そのものはほんの少し前に消滅していることを知った。
日本三大霊場の一つ恐山や、ミイラで名高い出羽三山の村、熊野古道の村や九州の霊山、福岡県の求菩提山でも同様だった。
そのような中で、奈良県に土葬が残存しているエリアを発見した。エリア内の複数の村で土葬が常時、継続して行われているのだ。
その場所は、奈良盆地東側の山間部一帯と、隣接する京都府南山城村である。
奈良市柳生の里を起点に半径約一キロの円を描くと、円内に北東には南山城村、月ケ瀬、島ケ原が並び、南西には奈良市田原地区が、南には、大保町、南東には奈良県山辺郡山添村と、土葬の村が集中する。
現存する土葬の村を数年かけて調査した結果、どの村でもその時点では村全体の8~9割が土葬をしていることが分かった。
2017年秋、京都府南山城村の高尾地区で観音寺の住職によって行われた土葬、2018年9月、奈良県十津川村の武蔵地区でフリーの神官によって行われた土葬の神葬祭など、本書に出てくる証言はごく最近のものだ。
ところが2019年冬に土葬の村を再び訪れた著者は、土葬が急激に減少し、いくつかの村ではすでに消滅していることを知る。
古代から千年以上続いてきた土葬が、なぜたった数年でここまで激減してしまったのか。
近い将来、日本の墓地から土葬は完全に消滅するかもしれない。その前に、ここ数年で何が起こったのかを明らかにし、日本の伝統的な文化を記録として残しておきたいと思ったのが本書執筆のきっかけであると、著者は語る。
日本は世界一の火葬大国だ。
日本の火葬率は、1970年代には80%を超え、2005年は99.8%。イギリスの75%やアメリカの45%、フランスの35%に比べるとダントツの高さである。
私などはむしろ日本の火葬率の高さよりも、未だにこの国に土葬の地域が残っていることに驚いた。どういう訳か、日本では火葬以外の埋葬が法律で禁止されていると思い込んでいたのだ。本書でもそのように誤解している人が多いことについて触れている。
火葬が主流になったのは明治以降。もっと言えば、近年までは土葬の地域はそれなりの割合で残っていた。
であるからこそ、本書には親族や友人の土葬や野辺送りに参加した人たちの証言が多数取り上げられているのだ。
本書は、「第一章 今も残る土葬の村」、「第二章 野焼き火葬の村の証言」、「第三章 聖なる放置屍体」、「第四章 土葬、野辺送りの怪談・奇譚」の四つの章に分かれている。そのうち第一章に全体の約半分のページ数が割かれている。
本書には、しばしば柳田国男の著書『葬送習俗語彙』からの引用が出てくる。
自分の足を使っての聞き取り調査や読みやすい文体に柳田の影響を強く感じる。明瞭な構成や知りたい箇所がすぐに見つかる目次も好印象だ。
土葬が廃れた地域と、今でも土葬の習慣の残っている地域とでは、どのような差があるのか。
宗教観とか土地の広さとか色々な要因があるが、一番大きいのは、土葬に関する知識を有する者、墓穴掘りや棺担ぎを行う体力を有する者など、土葬という手のかかる葬儀を行える人員が確保できるかどうかだろう。
土葬の棺桶には座棺が用いられる。
棺の中の遺体は、膝を折り胡坐座りした格好で納棺される。
「亡くなった親の膝を折っておくのは、息子ができる最後の親孝行といわれました」(滋賀県東近江市石塔町の住人)
湯かんが済んだ遺体を座棺に納棺する際、その作業をする者は心身ともに大変な負担を強いられる(湯かんも重労働ではある)。
現在一般的に用いられる寝棺の平均的なサイズは、縦約1.8メートル。
それに比べて、土葬で用いられた座棺のサイズは地域によってまちまちだが、だいたい三種類に分けられる。
一つは、滋賀県の調査でよく見かけられた、高さ二尺三寸(約70センチ)、幅一尺(約54センチ)四方。
二つ目は、神奈川県津久井郡の報告に見られる、高さ二尺四寸四分(約73センチ)、幅一尺四寸四分(約43センチ)四方。
三つ目は、滋賀県高島郡西庄村(現・高島市)の葬礼として報告されている、高さ四尺(120センチ)、幅二尺(60センチ)四方。
三つ目はわりとゆとりがあるが、上二つは人体を収納するのには、明らかにサイズが小さい。この中に死後硬直を気にしながら、遺体を胡坐か正座の姿勢で固定し納める。
すると、以下のような証言が出てくる。
「胡坐座りをした親の体をさらに前屈させ、狭い座棺に入るように背中を力いっぱいに押しました。背骨が折れそうで、納棺の様子を見ていた子どもらを外に追い出したほどでした」(滋賀県長浜市川道の村の住人)
「縄で幾重にもがんじがらめに縛ってね。とても素面じゃできないので、酒をあおって皆で納棺しました」(富山県氷見市の村の住人)
腕が胴にめり込むほどに締めくくるので、骨が音を立てて砕けることがあるという。
土葬にまつわる作業は煩雑かつ重労働で、納棺などその入り口に過ぎないのだが、この時点でもう心が折れそうだ。
南山城村では、納棺作業を「与力」という村の構組織の面々が行っていたので、遺族がこのようなストレスに晒されることはなかった。また、座棺の寸法を亡くなった人のサイズに合わせて作っていたことも幸いし、土葬の風習が長く残ったのだろうと推測される。
土葬の風習で何よりも特徴的なのが野辺送りだ。
野辺送りの作法・しきたりは村それぞれだが、参列する近親者が白い装束を身に着ける点はだいたい一致している。白装束は故人の死に装束と同じものであり、これを纏うことで死のケガレを引き受けるのである。
四つモチ(法界弁当)を入れる木箱や、輿車(手押し霊柩車)など、野辺送りに使用される専用の道具や、白い幟を立てて野原を練り歩く野辺送りの葬列などが、写真入りで解説されている。実際に見たことがないのに、なぜか懐かしさに捕われる。清浄で美しい光景だ。
田原地区沓掛町の野辺送りは、約二キロの道のりを歩いた後、埋葬地に到着する。
野辺送りには少なくとも20~30人の遺族、近親者が関わり、葬儀を手伝う村人は、松明や灯篭、飾り用品などの葬具を竹細工や紙細工で、通夜・葬儀に間に合うように用意する。葬儀会館での葬式に比べてはるかに手間がかかる。
「みんなで“ムダ”をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」(田畑地区・十輪寺の森崎住職)
今、その“ムダ”に丹精を込められる人が激減している。
「遺族は遺言で土葬を決意したものの、誰も土地風習を知らなくなっていました。遺族に細かな指示をしなければ何もできなかった。おそらく私が南山城村の最後の導師なのでしょう」(南山城村・観音寺の後住職)
「この時節だから自粛で人を呼べないということもありますが、そうでなくても縁故関係が疎遠になってきている。それが土葬が減った理由です」(大柳生町・東福寺の村岸住職)
土葬にまつわる風習は美しいもの、心鎮まるものばかりではない。奇習と呼べるようなものも少なからずある。
もっとも壮絶なのが、三重県伊賀市島ケ原という村の「お棺割り」だ。
島ケ原は、京都府と奈良県の県境、木津川断層帯に位置している。
「四十九日の法要の朝、親族はめいめい鍬を持ち、埋葬された墓を掘り返していくんです。掘り進むうちに思わぬ白骨が出てきました。目当てのお棺の主より以前に埋葬された遺体が二体、三体……頭蓋骨をそっと取り出し、地面に並べたものです」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)
「お棺割り」は、故人の遺族・親族が行った。
親族たちは墓を掘り起こし、鉈で棺ぶたを叩き割る。ふたが割れると、中からまだ白骨化しきっていない遺体の顔がのぞく。髭や髪が伸びていることもあったという。
死に顔を拝んだら、棺の中に土を入れ始める。棺の中の隙間が土で埋まると、墓穴全体に土を入れる。地上まで埋まると、土を固く踏みしめる。
その後、よけてあった石塔を上に置く。「お棺割り」の最中に出てきた別の頭蓋骨は、丁寧に横に並べて、手を合わせたという。
「お棺割りのたびに石塔は移動させられるので、石塔の角は傷だらけでぼろぼろでした」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)
あまりの壮絶さににわかに信じがたい「お棺割り」であるが、これをしなければならなかった理由は当然ある。
島ケ原は、土地が狭いために両墓制がとれず、単墓制だった。つまり埋め墓と参り墓を別々に設けることが許されず、埋め墓の上に石塔の参り墓を建てねばならなかった。
埋葬後、数年経つと石塔墓の下の土が凹む。まず棺が朽ち、棺の中の遺体も朽ち、棺の中の空洞が押し潰され、その結果、埋め墓全体が陥没する。
木津川断層帯にある島ケ原の地質は、特に柔らかく陥没しやすい。
放置しておくと、先祖代々の石塔墓が倒壊してしまう。そのために、遺体や棺が朽ちる前に、棺を割って中に土を入れ、強く踏み固めるのだ。
「お棺割り」のために土を掘り返すと、遺族たちは「ゴウランが出たな」と言い合ったという。
ゴウランとは頭蓋骨のことだ。
「お棺割り」は四十九日に行うので、まだ完全に白骨化していないことも多く、その場合、ゴウランは目をそむけたくなるような惨状だったという。
また、島ケ原は、砂地、砂利層、その下は粘土層という地質のため、高温高湿になりやすく、遺体が白骨化しないで死蠟化していることも多かった。
島ケ原は、近畿の土葬地帯の中で比較的早く、1975年頃に土葬を行わなくなった。「お棺割り」の凄惨さが、土葬消滅の引き金を引いたと考えられる。
人の行き来が容易くなった現代、よその土地の葬儀事情を知った人々から、「お棺割りはかなわん」という不満の声が噴出したのも当然と言えば当然だ。
「お棺割り」の聞き取り調査は、証言者を見つけるのに苦労したようだが、あまり話したくないという心情も何となくわかる。
それでも、島ケ原で土葬と「お棺割り」が消滅したのは、50年も昔のことではない。
核家族化が進み、葬儀会社の提供する葬儀プランはどんどん手軽になっていく。
土葬の村が完全になくなってしまうのは、我々が思うよりもずっと早いかもしれない。
土葬や野辺送りの消滅とともに、消えていく風習は多い。
著者は、過去の弔いの歴史を紐解き、土葬・野辺送りの調査を比べることで、どのような土葬の風習がなくなり、どんな風習が現在まで残り、今後の葬儀に受け継がれていくか、見通せるようになって来たと言う。
「魂呼ばい」、「耳ふたぎ」、「泣き女」などは、現在の葬儀では見かけることはない。
その一方で、伝統的な湯かんの作法は、葬儀社の湯かんサービスや看護師によるエンゼルケア、エンバーミング技術などに受け継がれた。
今でも、死のケガレを忌むサカゴトの風習は、全国に残っている。死の枕辺に魔よけの刀を置く風習も途絶えていない。第三章に紹介されているような墓場の幽霊譚、地獄の審判や蘇生譚、輪廻転生の死生観も、まだ力を失っていない。
消えていく風習と、形を変えながら継承されていく風習を比べることは、日本人の心の在り方の変遷を考えるうえで、大きな手掛かりとなるのではないだろうか。
“この本はおそらく、現存する最後といっていい土葬の村の記録である。”
1990年代初めから2020年までの約30年に渡る土葬に関する聞き取り調査の記録に合わせ、土葬と同様に消えゆく風習である野辺送り、野焼き火葬、風葬などの実態を知る人々への取材を通して、日本の葬儀形態が火葬に絞られていく過程と日本人の死生観の変遷をまとめ上げたルポルタージュだ。
手始めに古い因習の残る滋賀県の村を訪ね歩いた著者は、それぞれの土地の古老の証言から、彼らは土葬の風習は鮮明に覚えているが、土葬そのものはほんの少し前に消滅していることを知った。
日本三大霊場の一つ恐山や、ミイラで名高い出羽三山の村、熊野古道の村や九州の霊山、福岡県の求菩提山でも同様だった。
そのような中で、奈良県に土葬が残存しているエリアを発見した。エリア内の複数の村で土葬が常時、継続して行われているのだ。
その場所は、奈良盆地東側の山間部一帯と、隣接する京都府南山城村である。
奈良市柳生の里を起点に半径約一キロの円を描くと、円内に北東には南山城村、月ケ瀬、島ケ原が並び、南西には奈良市田原地区が、南には、大保町、南東には奈良県山辺郡山添村と、土葬の村が集中する。
現存する土葬の村を数年かけて調査した結果、どの村でもその時点では村全体の8~9割が土葬をしていることが分かった。
2017年秋、京都府南山城村の高尾地区で観音寺の住職によって行われた土葬、2018年9月、奈良県十津川村の武蔵地区でフリーの神官によって行われた土葬の神葬祭など、本書に出てくる証言はごく最近のものだ。
ところが2019年冬に土葬の村を再び訪れた著者は、土葬が急激に減少し、いくつかの村ではすでに消滅していることを知る。
古代から千年以上続いてきた土葬が、なぜたった数年でここまで激減してしまったのか。
近い将来、日本の墓地から土葬は完全に消滅するかもしれない。その前に、ここ数年で何が起こったのかを明らかにし、日本の伝統的な文化を記録として残しておきたいと思ったのが本書執筆のきっかけであると、著者は語る。
日本は世界一の火葬大国だ。
日本の火葬率は、1970年代には80%を超え、2005年は99.8%。イギリスの75%やアメリカの45%、フランスの35%に比べるとダントツの高さである。
私などはむしろ日本の火葬率の高さよりも、未だにこの国に土葬の地域が残っていることに驚いた。どういう訳か、日本では火葬以外の埋葬が法律で禁止されていると思い込んでいたのだ。本書でもそのように誤解している人が多いことについて触れている。
火葬が主流になったのは明治以降。もっと言えば、近年までは土葬の地域はそれなりの割合で残っていた。
であるからこそ、本書には親族や友人の土葬や野辺送りに参加した人たちの証言が多数取り上げられているのだ。
本書は、「第一章 今も残る土葬の村」、「第二章 野焼き火葬の村の証言」、「第三章 聖なる放置屍体」、「第四章 土葬、野辺送りの怪談・奇譚」の四つの章に分かれている。そのうち第一章に全体の約半分のページ数が割かれている。
本書には、しばしば柳田国男の著書『葬送習俗語彙』からの引用が出てくる。
自分の足を使っての聞き取り調査や読みやすい文体に柳田の影響を強く感じる。明瞭な構成や知りたい箇所がすぐに見つかる目次も好印象だ。
土葬が廃れた地域と、今でも土葬の習慣の残っている地域とでは、どのような差があるのか。
宗教観とか土地の広さとか色々な要因があるが、一番大きいのは、土葬に関する知識を有する者、墓穴掘りや棺担ぎを行う体力を有する者など、土葬という手のかかる葬儀を行える人員が確保できるかどうかだろう。
土葬の棺桶には座棺が用いられる。
棺の中の遺体は、膝を折り胡坐座りした格好で納棺される。
「亡くなった親の膝を折っておくのは、息子ができる最後の親孝行といわれました」(滋賀県東近江市石塔町の住人)
湯かんが済んだ遺体を座棺に納棺する際、その作業をする者は心身ともに大変な負担を強いられる(湯かんも重労働ではある)。
現在一般的に用いられる寝棺の平均的なサイズは、縦約1.8メートル。
それに比べて、土葬で用いられた座棺のサイズは地域によってまちまちだが、だいたい三種類に分けられる。
一つは、滋賀県の調査でよく見かけられた、高さ二尺三寸(約70センチ)、幅一尺(約54センチ)四方。
二つ目は、神奈川県津久井郡の報告に見られる、高さ二尺四寸四分(約73センチ)、幅一尺四寸四分(約43センチ)四方。
三つ目は、滋賀県高島郡西庄村(現・高島市)の葬礼として報告されている、高さ四尺(120センチ)、幅二尺(60センチ)四方。
三つ目はわりとゆとりがあるが、上二つは人体を収納するのには、明らかにサイズが小さい。この中に死後硬直を気にしながら、遺体を胡坐か正座の姿勢で固定し納める。
すると、以下のような証言が出てくる。
「胡坐座りをした親の体をさらに前屈させ、狭い座棺に入るように背中を力いっぱいに押しました。背骨が折れそうで、納棺の様子を見ていた子どもらを外に追い出したほどでした」(滋賀県長浜市川道の村の住人)
「縄で幾重にもがんじがらめに縛ってね。とても素面じゃできないので、酒をあおって皆で納棺しました」(富山県氷見市の村の住人)
腕が胴にめり込むほどに締めくくるので、骨が音を立てて砕けることがあるという。
土葬にまつわる作業は煩雑かつ重労働で、納棺などその入り口に過ぎないのだが、この時点でもう心が折れそうだ。
南山城村では、納棺作業を「与力」という村の構組織の面々が行っていたので、遺族がこのようなストレスに晒されることはなかった。また、座棺の寸法を亡くなった人のサイズに合わせて作っていたことも幸いし、土葬の風習が長く残ったのだろうと推測される。
土葬の風習で何よりも特徴的なのが野辺送りだ。
野辺送りの作法・しきたりは村それぞれだが、参列する近親者が白い装束を身に着ける点はだいたい一致している。白装束は故人の死に装束と同じものであり、これを纏うことで死のケガレを引き受けるのである。
四つモチ(法界弁当)を入れる木箱や、輿車(手押し霊柩車)など、野辺送りに使用される専用の道具や、白い幟を立てて野原を練り歩く野辺送りの葬列などが、写真入りで解説されている。実際に見たことがないのに、なぜか懐かしさに捕われる。清浄で美しい光景だ。
田原地区沓掛町の野辺送りは、約二キロの道のりを歩いた後、埋葬地に到着する。
野辺送りには少なくとも20~30人の遺族、近親者が関わり、葬儀を手伝う村人は、松明や灯篭、飾り用品などの葬具を竹細工や紙細工で、通夜・葬儀に間に合うように用意する。葬儀会館での葬式に比べてはるかに手間がかかる。
「みんなで“ムダ”をいっぱいして故人を送ることが供養になるのです」(田畑地区・十輪寺の森崎住職)
今、その“ムダ”に丹精を込められる人が激減している。
「遺族は遺言で土葬を決意したものの、誰も土地風習を知らなくなっていました。遺族に細かな指示をしなければ何もできなかった。おそらく私が南山城村の最後の導師なのでしょう」(南山城村・観音寺の後住職)
「この時節だから自粛で人を呼べないということもありますが、そうでなくても縁故関係が疎遠になってきている。それが土葬が減った理由です」(大柳生町・東福寺の村岸住職)
土葬にまつわる風習は美しいもの、心鎮まるものばかりではない。奇習と呼べるようなものも少なからずある。
もっとも壮絶なのが、三重県伊賀市島ケ原という村の「お棺割り」だ。
島ケ原は、京都府と奈良県の県境、木津川断層帯に位置している。
「四十九日の法要の朝、親族はめいめい鍬を持ち、埋葬された墓を掘り返していくんです。掘り進むうちに思わぬ白骨が出てきました。目当てのお棺の主より以前に埋葬された遺体が二体、三体……頭蓋骨をそっと取り出し、地面に並べたものです」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)
「お棺割り」は、故人の遺族・親族が行った。
親族たちは墓を掘り起こし、鉈で棺ぶたを叩き割る。ふたが割れると、中からまだ白骨化しきっていない遺体の顔がのぞく。髭や髪が伸びていることもあったという。
死に顔を拝んだら、棺の中に土を入れ始める。棺の中の隙間が土で埋まると、墓穴全体に土を入れる。地上まで埋まると、土を固く踏みしめる。
その後、よけてあった石塔を上に置く。「お棺割り」の最中に出てきた別の頭蓋骨は、丁寧に横に並べて、手を合わせたという。
「お棺割りのたびに石塔は移動させられるので、石塔の角は傷だらけでぼろぼろでした」(島ケ原・天台宗寺院のI住職)
あまりの壮絶さににわかに信じがたい「お棺割り」であるが、これをしなければならなかった理由は当然ある。
島ケ原は、土地が狭いために両墓制がとれず、単墓制だった。つまり埋め墓と参り墓を別々に設けることが許されず、埋め墓の上に石塔の参り墓を建てねばならなかった。
埋葬後、数年経つと石塔墓の下の土が凹む。まず棺が朽ち、棺の中の遺体も朽ち、棺の中の空洞が押し潰され、その結果、埋め墓全体が陥没する。
木津川断層帯にある島ケ原の地質は、特に柔らかく陥没しやすい。
放置しておくと、先祖代々の石塔墓が倒壊してしまう。そのために、遺体や棺が朽ちる前に、棺を割って中に土を入れ、強く踏み固めるのだ。
「お棺割り」のために土を掘り返すと、遺族たちは「ゴウランが出たな」と言い合ったという。
ゴウランとは頭蓋骨のことだ。
「お棺割り」は四十九日に行うので、まだ完全に白骨化していないことも多く、その場合、ゴウランは目をそむけたくなるような惨状だったという。
また、島ケ原は、砂地、砂利層、その下は粘土層という地質のため、高温高湿になりやすく、遺体が白骨化しないで死蠟化していることも多かった。
島ケ原は、近畿の土葬地帯の中で比較的早く、1975年頃に土葬を行わなくなった。「お棺割り」の凄惨さが、土葬消滅の引き金を引いたと考えられる。
人の行き来が容易くなった現代、よその土地の葬儀事情を知った人々から、「お棺割りはかなわん」という不満の声が噴出したのも当然と言えば当然だ。
「お棺割り」の聞き取り調査は、証言者を見つけるのに苦労したようだが、あまり話したくないという心情も何となくわかる。
それでも、島ケ原で土葬と「お棺割り」が消滅したのは、50年も昔のことではない。
核家族化が進み、葬儀会社の提供する葬儀プランはどんどん手軽になっていく。
土葬の村が完全になくなってしまうのは、我々が思うよりもずっと早いかもしれない。
土葬や野辺送りの消滅とともに、消えていく風習は多い。
著者は、過去の弔いの歴史を紐解き、土葬・野辺送りの調査を比べることで、どのような土葬の風習がなくなり、どんな風習が現在まで残り、今後の葬儀に受け継がれていくか、見通せるようになって来たと言う。
「魂呼ばい」、「耳ふたぎ」、「泣き女」などは、現在の葬儀では見かけることはない。
その一方で、伝統的な湯かんの作法は、葬儀社の湯かんサービスや看護師によるエンゼルケア、エンバーミング技術などに受け継がれた。
今でも、死のケガレを忌むサカゴトの風習は、全国に残っている。死の枕辺に魔よけの刀を置く風習も途絶えていない。第三章に紹介されているような墓場の幽霊譚、地獄の審判や蘇生譚、輪廻転生の死生観も、まだ力を失っていない。
消えていく風習と、形を変えながら継承されていく風習を比べることは、日本人の心の在り方の変遷を考えるうえで、大きな手掛かりとなるのではないだろうか。
法律で火葬が決まってるのかと思いました。土葬は大変そうですね💦
おまけに、お墓を掘り起こす風習なんて、土地柄状必要とはいえ心折れる。感染症とかも心配になりますね。
「ムダをする」というのが供養だったんですかね。現代は何事も効率重視、ムダを省くを求めてますよね。
今年の2月に出た本なんで、コロナ禍の影響も含めた土葬の歴史の最新版といった内容でした。
私も火葬以外の葬儀はとっくの昔に法律で禁止されていると誤解していたのですが、土葬だけでなく、野焼き火葬や風葬などの生き証人の言葉も載せられていて、とても読み応えがありましたよ。