青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

フローラ逍遙

2023-01-26 08:20:59 | 日記
澁澤龍彦著『フローラ逍遙』は、25種の花々に纏わるエッセイ。澁澤最晩年の作品だ。

澁澤龍彦の著書は洒落たタイトルの作品が多いが、この『フローラ逍遙』も、フローラというカタカナ語の軽みと、気ままにあちこちを歩き回ることを意味する逍遙という単語の相性の良さに感嘆する。晩年の澁澤は病魔に侵され、起き上がるのにも難儀していたはずだが、軽やかな遊び心は終生健在だったようだ。

75点の植物図譜はオールカラーで、写真とは一味違う品の良さと温かみを感じさせる。
あとがきによると、これらの図譜は熱心な植物愛好家である八坂安守氏の提供だそうだ。巻末には、その八坂氏がそれぞれの図版について解説を書いている。この解説も、この本を手元に置いておくべき理由の一つだったりする。

『龍彦親王航海記』を読んで以来、私の中で澁澤龍彦再燃中なのだが、再読したいと思った澁澤本の上位に『フローラ逍遙』があった。
一般に、澁澤の仕事の中で最も評価が高いのは翻訳で、その次がエッセイ、最後に小説になると思う。私個人が最も心惹かれるのはエッセイだ。中でも植物や鉱物について書かれた文章の持つ童心が好きなのだ。

『フローラ逍遙』は、30年近く前に図書館で借りて読んでいたと記憶している。
ずっと手元に置いておきたい宝箱のような本だと思ったが、当時はまだ子供だったので、ちょっと手の出し辛い値段だった。その後、少しずつ澁澤から気持ちが離れていったのだが、再燃してからこの本を購入したいと思った。
しかし、時すでに遅し。ハードカバーは絶版らしい。本は買える時に無理してでも買うべきだと痛感した。
そんなわけで、今回、文庫版を購入したのだが、ハードカバー版と同様に、植物図譜がオールカラーで収録されているのが嬉しかった。八坂氏の解説と澁澤のあとがきもそのまま収録されている。1602円という、文庫本にしてはやや高めのお値段なだけのことはある。

扱われているフローラは、水仙、椿、梅、菫、チューリップ、金雀児、桜、ライラック、アイリス、牡丹、朝顔、苧環、向日葵、葡萄、薔薇、時計草、紫陽花、百合、合歓、罌粟、クロッカス、コスモス、林檎、菊、蘭の25種類。
それぞれに素敵なサブタイトルがつけられている。

あとがきで澁澤は、“私はろくろく土をいじったこともなく、自分で草木を植えたことも数えるほどしかない”と述べているが、本文の中には、澁澤自らが植物を植えた描写がたびたび出てくる。
彼が土いじりで手を汚すところを想像したこともなかった私には、それがまあまあの衝撃であった。
「逍遙」と冠せられるだけあって、本書のエッセイは、澁澤邸の花木、澁澤が国内外を旅行した際に見た植物、さらにはサド、プリニウス、ジャン・ジュネについてまで、自由気ままに筆が動いている。


「梅」……的皪たる花

的皪とは、物が鮮やかに白く光り借り輝くさまをいう。澁澤は、梅の花とくれば、直ちにこの的皪という形容詞が浮かぶのだそうだ。
的皪とは、今時なかなかお目にかかることのない言葉である。少なくとも、私はこの本以外でこの言葉を見たことがない。今使っているパソコンでも一発では変換出来なかったので、辞書登録した。

的皪は、テキレキと読む。
まだ冷気の残る青空の元に咲く白梅の清潔な輝きには、的皪と言うきっぱりとした響きの言葉がよく似合う。
因みに、澁澤は梅を冬の花としているが、歳時記では早春に分類される花だ。
百花に先駆けて咲くことから、「花の兄」とも呼ばれる。真面目で忍耐強い、古い時代の美徳を備えた日本の長男、梅にはそんな風情もある。

梅は奈良朝以前に中国から渡来したと考えられている。
まず『懐風藻』に歌われ、次いで『万葉集』や『古今集』で大いにもてはやされ、しかし、時代が進むにつれて、桜に花の第一人者の地位を奪われて、現在に至る。幻妖と卑俗を併せ持つ桜の振り幅の前では、梅の凛とした慎ましさは少々地味に映るのかもしれない。
しかし、桜には一歩及ばないとはいえ、日本における梅の人気は根強く、詩歌に歌われ、画題として取り上げられる機会は、古来より現在に至るまでプロアマ問わず数多い。

日本ではこれほど愛されてきた梅であるが、ヨーロッパでの人気はさっぱりらしい。
言われてみれば、ヨーロッパの文学や絵画の中で梅を見た記憶がない。
ヨーロッパ人が愛する春の花とは、薫風の中で咲き乱れる桃、アンズ、桜など、柔和で華やかな印象の花で、寒風に耐えながら凜と咲く梅の花には、どうやら少しも心が動かされないようだ。
澁澤は、この現象について、“「むめ一りん一輪ほどのあたたかさ」といったような、いわばミニマムの美学ともいうべきものが、ヨーロッパ人には欠けているのではないかという気もする”と分析している。

澁澤邸の梅は、黒々と節くれだった老木で、一時期はめっきり花の数が少なくなって、いよいよ命の終わりかと危ぶまれたそうだ。しかし、その後、不思議に勢いを盛り返して、再び白い蕾をたくさんつけるようになった。梅とはまことに生命力の強い花木なのだ。

我が家の小さな庭には、白梅はないが紅梅なら一本ある。
素人の私が適当に剪定しても枯れこむことのない、非常に手のかからない花木だ。そんな質実剛健さも日本人の好みなのかもしれない。
澁澤はこの項で、服部嵐雪の「むめ一りん一輪ほどのあたたかさ」を挙げていたが、一輪か二輪しか咲いてなくても絵になるのもまた、梅の良いところだろう。


「金雀児」……野原を埋める黄金色

エニシダの花は、連翹よりはるかに明るい、目の覚めるような黄金色をしている。
五月になると、しなやかに伸びた細い枝に小雀が群がるようにたくさんの花をつける。その様が、全身で聖なる月の喜びを表しているようで、私はこの花が大好きだ。
フランス語ではプランタジュネ、英語ではプランタジネット、ラテン語ではプランタゲニスタという。延宝年間に日本に渡来して、エニスダ、或いはエニスタと呼ばれるようになった。エニスダ(エニスタ)が、エニシダに転じたのはいつ頃のことだろうか。

漢名は金雀枝、或いは金雀児。
澁澤は金雀児の方を採っているが、私には金雀枝の方が馴染み深い。
澁澤はエニシダの名句として、久保田万太郎の「ゑにしだの黄にむせびたる五月かな」を挙げている。
私もこの句は好きだが、もっと好きなのは、石田波郷の「金雀枝や基督に抱かると思へ」だ。エニシダの枝をイエス・キリストの痩せた腕に見立てているのだろう。この句をもって私は、エニシダは金雀枝だと思うのだ。
エニシダの咲く五月は、キリスト教の聖霊降臨の日があることと、エニシダが痩せた土地にもよく咲くことから、この花を見ると荒野のイエスを連想する。

フランス語では、今でもエニシダのことを、プランタジュネを縮めてジュネと呼ぶ。
だから、ジャン・ジュネはエニシダを愛していて、自身の小説の中にたびたび登場させてきた。
澁澤はこの項で、ジュネの『泥棒日記』から、主人公が野原で見かけたエニシダに自分を重ね合わせる場面を引用している。ジュネはエニシダを「花の王」、「自然界における私の標章」と呼ぶ。彼がそんな夢想にひたるのは、あのジル・ド・レエの城のある中部フランスの野原においてだ。
ジル・ド・レエとカトリックは分かち難く結びついているが、さすがに石田波郷がジュネやジル・ド・レエを念頭に置いて、「金雀枝や基督に抱かると思へ」を作句したとまでは思わない。

ところで、エニシダは痩せ地でもよく生育する花であるが、寿命は案外短く、急に枯れる。
澁澤邸の庭にも、二メートルばかりのエニシダが繁茂していたが、ある年を境にみるみる枯れてしまったのだという。

我が家にもエニシダがあったが、やはり何の予兆もなく枯れた。
あれほどは陽気な雰囲気の花木が、いきなり枯れたのは結構なショックだった。そんなわけで、私は再びエニシダを植えることが出来ないでいるが、澁澤はもう一度、植えたいものだと述べている。
澁澤は本書を刊行して程なく病没したが、その後、澁澤邸にエニシダは植えられたのだろうか。

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2 コメント

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Unknown (saopen)
2023-01-27 21:56:11
感想をありがとうございます💕
感想の感想というのもヘンですが。

澁澤龍彦というと先入観がありますが、花を愛で植える人だったのですね。意外〜。
花についてのエッセイは、真っ当で的確な印象です。

テキレイの漢字は全く読めませんでしたが、音の響きだけで寒さの中で清らかに輝く梅らしさを感じます。

ハードカバー、装丁もきれいだったのですね。絶版とは残念。本も欲しいときに手に入れておかなくてはですね。そこまでほしい本に出会えたことは幸せですね😊
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Unknown (mahomiki)
2023-01-28 09:34:44
さおぺんさん

とりとめの無い文章ですが、読んでいただけて嬉しいです😊
もう少し短く、要点を分かり易く、が今年の課題。好きなものを語るとオタク長文になってしまうのがいけない💦
澁澤は植物、鉱物、貝殻等の自然物や紋章等のエッセイが好きです。
彼の仕事で最も評価されている翻訳の方は、ちょっと理解が及ばないところが多くて😅
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