豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

究極の伝導

2014-05-01 15:33:11 | 日記
引き続きYouTubeを見ていたら、凄い動画を発見してしまいました。

究極の伝導の瞬間です(爆笑)

これを見たら、あなたも悟ります笑

絶対に!

ここにすべて、あります。

これ以外、何も学ばなくても、悟ります(爆笑)


何回も見てください。

感じてください。

全部在るんですよ、ここにドラマのすべてが凝縮されている!!!!


これは素晴らしい、僕は感動しました。


投稿者は師の臨在が影響していると思っていますが、実際は弟子の側が、自ら見いだしたのです。

師は場所を指し示しただけなのですが、弟子は素直に従ったのです。

彼女は、ただ純粋だったのですね。

ここ。

ここに自分がいるのに、どこを探しているのかと師は言います。


そして、この、ここに、自分がいたことに弟子は気が付くのです。

それだけのことなのですが、感動的なのです。


そして、この弟子の女性が、感動して泣くのは、あまりにも直接的だったからでしょう。

自分が、いま、ここだったことと、それまで、勘違いしていたこと、探求に捧げてきたことの落差に泣くのです。

だから、この状態が起こったこと、この泣いたり笑ったりすることは、この人の悟った結果なのです。

誰もが、こうなるわけではありません。


ありとあらゆる、すべてが、いま、ここで自分だったことに気が付いたら爆笑するか、泣くか、安心する、人それぞれですね。


あらゆる活動を止めたら、ここに、目があるのです。

この目は、感じることのできる目なのです。

この目の中に、つまり自分の中に世界があるので、あなたはすべてなのです。

雲はアナタの中を流れ、川や、人々や、また眠りの中や、ありとあらゆる動き、思考、感情、動作、アナタの体、感覚、なにもかも一切。


これが、わたしです。

真我です。

愛です。

至福です。

しかし、これは名前のないものなのです。

だだ、生まれる前から、あなたの本性だったのです。


世界があなただったのです。

死ぬわけがありません(爆笑)


さあ、この究極の伝導動画で、この日、悟ってください笑


▶ 4分で目覚め -


これ以上の表現は難しいでしょう。

究極の伝導です。

もう、ここに、すべてが現れています。

何回も見て、掴んだら、それで終わりです。

何も探す必要はないのです。

ここに、すべて、いま、毎日、どの時も、あなたのいない瞬間はこないのです。

あなたは実在なのです!

世界なのです!

神の創造を助けているのは、あなた、なのです!!!!

もう、絶対に究極ですよ、この動画は、、、


これだけのことなのです。



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空(くう)を空(そら)と呼んでもいい

2014-05-01 14:02:08 | 日記
※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。

※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。




人気ブログランキングへ←あなたは『空』だったのです。



こんにちは!

今日は起きてから気分が優れなかったですが、

YouTubeの動画を見ていたら、吹き飛んでしまいました。


僕たちは空のようなものですね。

目撃者です。

夢の立ち現れる、この目の中にいる。

いるというか、それ、そのものであって、世界が立ち現れる場所。

それは、いま、ここです。

そして至福であり、愛である、全体性です。

心眼は、ここにあったのですね。


花岡修平さんの伝えたかったことが、ようやく爽やかに了解できました。

どこにもない、ただ、この夢の世界の根本である、僕自身は、爽やかな空のようなものです。


いろんな人が伝えています。

これから、どんどんと、気づきが広がっていくでしょう。

なぜなら、それは、まったく難しいことではないからです。


観ているもの、観照者は個体としてあります。

しかし、この首の後ろ、まあ人によっては場所が違うらしいですが、にいる観照者は、代理人なのです。

自分の目は、なんと空(そら)なのです。

この、空(そら)は、いま立ち現れる現実を存在させ、目撃し、まあ生きている夢を見せている。


なんにもなくならない。

死はない。

夢から覚めるときに、死んだと思う人はいません(爆笑)

ああ、夢を見ていたんだなあと思うだけなので何も怖くありません。


そして僕は、肉体がある限り、ここにいるわけですから、醒めきっていればいいのです。

それが覚醒でしょう。


心の奥とか、体の何処かに拘る必要はなかった。


あなたは夢の目撃者、なのです。

そして見ているこの夢の立ち現れるところも、あなたなのです。

このあなたは空(くう)であり、かつ空(そら)である。


眠っているときも、この光と風の戯れの中に休んでいるのでしょう。


観照者が拡散するとき、心眼は、世界そのものとなるのです。

そして世界は、夢の立ち現れる、この愛とか、至福とか、真我とか、なんたらとか仮に名付けられたところです。

実際には、名前のない『わかる眼』だったのです。

この夢の中で、太陽や風や鳥や花々や人間の暮らし、生命の安らぎ、すべてある。


空間と目撃、このふたつは、あなたではありません。

でも、ほんとうは、あなたなのです(爆笑)

だから、ここは永遠の諸行無常の夢の舞台、楽しんで、いきましょう。


苦しかったり、飽きたりしたら、眠ればいいのです。

また目覚めるときもくるでしょう。


愛と光の世界は、完全に自由だったのです。

この夢の世界、創造の奇跡を生み出し続けているのが、神様なのかもしれない。



☆いろんな人が語っている動画☆~お薦めですよ~


▶ ムージ、個人とは思考が寄り集まったもの - YouTube

▶ ムージとの瞑想への導き_Guided Meditation with Mooji - YouTube

▶ 岩永大和 『観点』 KanTen - YouTube

▶ 岩永大和 いまここにいること。 - YouTube

▶ 悟り、目覚めへの誤解が、その体験を難しくしていた - YouTube

▶ 幻想に惑わされない~目覚めの体験を難しくしてきたもの~ - YouTube

▶ ガンガジ 「愛と感謝(Love&Gratitude)」 日本語字幕付きサンプル - YouTube




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運命と赦し

2014-05-01 03:04:07 | 日記
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こんばんわー

なんか夕方、興奮してブログ投稿したけど、静粛さから完全に遠ざかってたなあと、

思っとる豊田です。


仕事終わってビール買って家帰ってきたらPC点けっぱなしだった・・・・・・。

ガーン・・・・・・orz


で、ブログランキング見に行ってたら、キリスト教に関する記事があって、

タイムリーに罪の話。


キリストさんは、姦淫の罪を犯した女の人を連れてきた人たちに、

あなた方の中で罪を犯したことのない人は石を投げなさいと言ったらしいです。

そうしたら、みんなその場を立ち去った。


まあね。

そりゃあ、誰だって罪人だ。

それでもイエスは赦したのだろう。

なんという愛!


よく考えたら、自分が『私は神の子である』と言ったから十字架にかけられた時、

神よ、この者たちをお許しください、彼らは、自分たちが何をしているか知らないのです。

と言ったとか・・・・・・。


あかん、これは泣ける。

これは、ほんとうに、ほんとうの話なのだろうか。

凄まじい人だよね、マジで。


でも、まあ、僕ごときが、いろいろホザいてるのもよくないなと反省しました。


ラマナマハルシが世界のことは、どうしようもないのだと言っているし、

イエス様も罪人を赦しているし、


人は死の苦しみにあるときだけは、その行動に責任はないとグルジェフさんも言っている。


そう沈没船で思い出した・・・・・・

こういう状況で、自分を犠牲にするか、逃げるかだけれど、、、

もちろん自分自身にも悲しむ人たちがいるわけで、その人達のことも考慮に入れた上で、行動しなくてはならない。


昔、ニュースで、駅のホームから飛び降り自殺しようとした老人を若い女性が助けて犠牲になった話があった。

父親の目の前での出来事だ。

これは、自分の命は、自分だけのものではないと思ってしまう。

たしかに、彼女はヒーローだけれど、また、悲しみの原因にもなったことも間違いないだろう。


その状況に居合わせない、僕なんかが、ニュースの情報にいちいちクチャクチャ書くのも失礼だ。

反省します・・・・・・。


いろんな人のお陰で、僕がいるわけで、また、生きていられるわけだ。

こんな、いい加減な人間に、、、


自分を客体化したら、自分の体だって、文句言わずに、散々働いてくれている。

心臓は規則正しく、動いてくれているのだ。


軽々しく、自己犠牲を賛美するような記事を書いてはいけなかった・・・・・・。


自分自身の面倒を見られるようになれば、それで十分だとマハルシが言う。

ほんとうに、そうなのかもしれない。

世界がどうあるか、これはもう、どうしようもないことなのだ。


神が運命を定めているのだ。

アルジュナの話も、そういう意味で、運命なのだと捉える必要があるのかもしれない。


あの、ブッダが!

自分の故郷の王国が攻められたとき、3度まで防いだが、宿業の避け難きを知って、諦めたとある。


また、あの、楠木正成が、死に挑む合戦の時、禅僧を訪ねた。

生死の覚悟、どうあるべきか訪ねると、

禅僧、

渇と絶叫!!!!

そのまま、戦場へ赴いて、死にきったらしい。


一休さんは、死の床で、

「死にとうない」と言ったとか、

これは、ほんとうに、ほんとうに、おもしろい。

人もゆく、我もゆく、人生、夢のまた夢、

だけれども「死にとうない」のだ。

なんという素晴らしい死に様だろう。

それでも、彼は、死の避けがたきを超えていたのだ。


何処にも行かない、ここにいる、呼びはするな、返事はせぬぞ、

というのは、誰の言葉だっだだろう。


みんな、運命の避け難きを知っていて、赦していたのかもしれない。




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