こんばんは!
夢の舞台を生ききっている、みなさん。
今日も嫁様とバトルした豊田です。
さっきYくんから電話があって「ブログの内容が意味不明」というご指摘を頂きました!
確かに笑
自分の思いを言葉に乗せすぎてるから、言いたいだけで相手に伝わるか考えてないからでしょう。
うーん、この辺り改善すれば、読者も増えるかもしれない。
と、いうわけで、明日も休みで深夜まで起きていられるので、この辺り考えていきたいと思います。
まず思い浮かぶのが『私』とか『自我』『真我』とかいう言葉に共通性がないということですね。
私というときに、真我とか、自我とか分けるわけですが、この自我と真我は別ではありません。
エゴというと自己中心的といういみのエゴイズムという言葉があるので、わがままという意味だと受け取られたりもします。
しかも、この『私』という言葉は非常に重要なわけです。
なにしろ『私』を見いだしたり、無にしたりするわけですから、私を理解しなければ不可能なのであります。
表現するときも『私』と書いていますが、この私と書いたときに、私をどこに持っているかで人によって解釈が異なる。
普段、無意識に私というのは思考のこと感情のこと身体のことと思っています。
私と言ったとき、どこで、その言葉を感じるかですね。
で、思考中枢、感情中枢、身体中枢がありますと書くと、これが、私とは別にあると考える人もいます。
だから混乱している私は自我と書き、本来の私を真我と仮に名付けています。
そうしないと、私の解説をするのに不便だから、そうなっているだけの話です。
だから真我というのは『わたし』であり、自我というのも『わたし』で全く=です。
スーパーヒーロー真我君と庶民の自我君が2人いるわけではないのです。
無我とは、この自我と真我が両方消えることですと書いたとします。
すると、自分の中に2人の人がいるのだと勘違いを起こさせてしまうわけです。
無我とは『私』が消えることであると書くと、肉体であったり、感情、思考、など連想によって様々にポイントが異なります。
または単なる概念だと思う人もいます。
無我とは真我が消えること、無我とは自我が消えること、と表現が変わっても、指し示す場所は同じです。
例えてみますと、御釈迦様が仏法僧と言ったのを、僕が真我-世界-意識と書きます。
仏-真我
法-世界
僧-意識
しかも、この3つの言葉は、ひとつの私を表現しているだけなのです!!!!
仏法僧=私である。
真我-世界-意識=私である。
なぜなら、本来は『わたし』は1個の存在なわけですから、分離しているわけがないからです。
この『私』という言葉だけで、すごい混乱状況ですね、爆笑
まあ、お前が混乱しているだけだろと言われそうですが・・・・・・
他にも、存在という言葉もありますね。
存在と書いたときに僕がこの言葉にあたえるイメージが、身体、感情、思考を成立させる基盤とします。
しかし、存在という言葉を身体感覚と捉える人もいれば、心理的に捉える人もいれば、我考えるで捉える人もいる。
他にも様々にあるわけですね。
こういった言葉に意味づけしているのはグルジェフさん曰く『形による』と言っています。
だからベルゼバブは形による思考で考察できるように、星が飛んだとか、まあ体感的な言葉をたくさん使うわけです。
そうしないと正確な意味が損なわれるから、面倒な作業をしたわけですね。
しかし僕がブログで書くときに、言葉に与える意味を、その都度、詳しく書くことは不可能w
なので、僕は言いたいこと書いて、読者の方に不便をかけるという構図になっている。
まあ基本的な国語力のなさがほんとうの原因だと思いますがw
雪と書いたとき、その文字から人は、自分が体験した雪を想起するわけです。
悟りと書いたときも、同じですね。
その人の悟りという形の中で、この悟りを想起するわけです。
もちろん、僕も、その独自の意味づけで言葉を書くわけですので、共通の体験が多い人にしか伝わらないわけです。
しかし、まあ、こんな屁理屈をこねまわしていても、仕方ないので、丁寧に書けるように気をつけようと思います。
夢の舞台を生ききっている、みなさん。
今日も嫁様とバトルした豊田です。
さっきYくんから電話があって「ブログの内容が意味不明」というご指摘を頂きました!
確かに笑
自分の思いを言葉に乗せすぎてるから、言いたいだけで相手に伝わるか考えてないからでしょう。
うーん、この辺り改善すれば、読者も増えるかもしれない。
と、いうわけで、明日も休みで深夜まで起きていられるので、この辺り考えていきたいと思います。
まず思い浮かぶのが『私』とか『自我』『真我』とかいう言葉に共通性がないということですね。
私というときに、真我とか、自我とか分けるわけですが、この自我と真我は別ではありません。
エゴというと自己中心的といういみのエゴイズムという言葉があるので、わがままという意味だと受け取られたりもします。
しかも、この『私』という言葉は非常に重要なわけです。
なにしろ『私』を見いだしたり、無にしたりするわけですから、私を理解しなければ不可能なのであります。
表現するときも『私』と書いていますが、この私と書いたときに、私をどこに持っているかで人によって解釈が異なる。
普段、無意識に私というのは思考のこと感情のこと身体のことと思っています。
私と言ったとき、どこで、その言葉を感じるかですね。
で、思考中枢、感情中枢、身体中枢がありますと書くと、これが、私とは別にあると考える人もいます。
だから混乱している私は自我と書き、本来の私を真我と仮に名付けています。
そうしないと、私の解説をするのに不便だから、そうなっているだけの話です。
だから真我というのは『わたし』であり、自我というのも『わたし』で全く=です。
スーパーヒーロー真我君と庶民の自我君が2人いるわけではないのです。
無我とは、この自我と真我が両方消えることですと書いたとします。
すると、自分の中に2人の人がいるのだと勘違いを起こさせてしまうわけです。
無我とは『私』が消えることであると書くと、肉体であったり、感情、思考、など連想によって様々にポイントが異なります。
または単なる概念だと思う人もいます。
無我とは真我が消えること、無我とは自我が消えること、と表現が変わっても、指し示す場所は同じです。
例えてみますと、御釈迦様が仏法僧と言ったのを、僕が真我-世界-意識と書きます。
仏-真我
法-世界
僧-意識
しかも、この3つの言葉は、ひとつの私を表現しているだけなのです!!!!
仏法僧=私である。
真我-世界-意識=私である。
なぜなら、本来は『わたし』は1個の存在なわけですから、分離しているわけがないからです。
この『私』という言葉だけで、すごい混乱状況ですね、爆笑
まあ、お前が混乱しているだけだろと言われそうですが・・・・・・
他にも、存在という言葉もありますね。
存在と書いたときに僕がこの言葉にあたえるイメージが、身体、感情、思考を成立させる基盤とします。
しかし、存在という言葉を身体感覚と捉える人もいれば、心理的に捉える人もいれば、我考えるで捉える人もいる。
他にも様々にあるわけですね。
こういった言葉に意味づけしているのはグルジェフさん曰く『形による』と言っています。
だからベルゼバブは形による思考で考察できるように、星が飛んだとか、まあ体感的な言葉をたくさん使うわけです。
そうしないと正確な意味が損なわれるから、面倒な作業をしたわけですね。
しかし僕がブログで書くときに、言葉に与える意味を、その都度、詳しく書くことは不可能w
なので、僕は言いたいこと書いて、読者の方に不便をかけるという構図になっている。
まあ基本的な国語力のなさがほんとうの原因だと思いますがw
雪と書いたとき、その文字から人は、自分が体験した雪を想起するわけです。
悟りと書いたときも、同じですね。
その人の悟りという形の中で、この悟りを想起するわけです。
もちろん、僕も、その独自の意味づけで言葉を書くわけですので、共通の体験が多い人にしか伝わらないわけです。
しかし、まあ、こんな屁理屈をこねまわしていても、仕方ないので、丁寧に書けるように気をつけようと思います。