豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

海と空

2014-05-18 09:39:23 | 日記
おはようございます。

天地開闢以来のすべてである、みなさん。


今日も、朝からだらけモードの豊田です。


『見るものが、見られるものである』というのは、

世界が私の向こうにある、この向こうの世界から私は見られているということですね。

自分が投影した世界から見られている、見ているあの人も、あの景色も、あれも、これも全部自分自身の投影。

投影した世界には神の自然法則があって、これによって成り立っている。

複雑すぎて理解できないが、科学者さんが懸命にコレを解いている。

しかし、この表面の世界、鏡の世界に僕たちは接しているだけで、本体は、ここにはない。

覗き込んでいるのだ。

海に浮かんで、空を見ている人がいるとしよう。

この海が自分で、人は、空との接点で、見ている空の青色は海の反映なのである。


これ、素晴らしい例えじゃない?(自画自賛、笑)


ここで人がいなくなったとしましょう。

そうすると、海も空も自分を知ることができません。

だから観測点、中間に人間を置くことで、存在を確立させる必要があるわけです。

真我-からだ-空が、このように3点揃って、はじめて我々の世界が成立している。


これを人間界、人間の世界と呼ぶわけです。

しかし世界には、色々とあるらしく、まあ幽界であっあり、地獄であったり、

この幽界に行ったときは、アストラル体が海に浮かんで、空を見るわけです。

しかし、この自分自身で在る海は、どのように体が移り変わろうが、変わらないわけですね。

だから、こんな体験をしたから悟ったというのは誤解です。


空中浮遊やら、幽界旅行やら、なんやら、かんやらは超能力であって、これは悟りとは関係ないのであります。

自分が海であったことを思い出すことが悟りなのです。


海に気が付いたら、空が、鏡であるとわかるでしょう。

そうして人が、この、空の動きをただ不動で眺めている海の中にいるとわかる。

動いているのは空に描かれた映像なのです。

世界で神々が生きているのは、我々が、そこに参加しているからなのですね。

我々が生きるからこそ、神々も生きている。

生命の神秘、そのものである神々は、人間の観照と接触があって初めて存在意義がある。

でなければ、神は存在しないも同然であるからである。


これを言い方を変えてみると、人間の観照と接触は神々の生命を保つ食料である。

そして、この観照と接触の大本である魂=真我は、神々の生命活動を記録しているハードディスクなのだ。


こういった諸々の高次存在の必要性に駆られて、我々は機能として生存している。

まあ電気みたいなもんですね。

しかし、もう体験するのも、6道輪廻も疲れ果てた人は、全部リセットするしかない。

電気を切ってしまうしかない。



そうすると海も人も空もない。


白でも黒でもない。


赤でも青でもない。


光でも闇でもない。


二項対立がなく、一もない。


何もないというすべてがある。


白でも黒でもある。


赤でも青でもある。


光でも闇でもある。


二項対立しつつ、一でもある。


すべて無くして、何もかもある。


海も人も空もある。


ただ私がそこにいなくなった。


誰も、そこにいない。




それが悟りだったということに気が付くだけなのでした。

勘違いを元に戻しても、特に何も変わらないよ(爆笑)

だから、おおげさな話をしている人は全部偽物だと思った方が賢明だと、

個人的には思います。


あくまで個人的意見、推測、なのですよ!


推測なのです!