おはようございます。
天地開闢以来のすべてである、みなさん。
今日も、朝からだらけモードの豊田です。
『見るものが、見られるものである』というのは、
世界が私の向こうにある、この向こうの世界から私は見られているということですね。
自分が投影した世界から見られている、見ているあの人も、あの景色も、あれも、これも全部自分自身の投影。
投影した世界には神の自然法則があって、これによって成り立っている。
複雑すぎて理解できないが、科学者さんが懸命にコレを解いている。
しかし、この表面の世界、鏡の世界に僕たちは接しているだけで、本体は、ここにはない。
覗き込んでいるのだ。
海に浮かんで、空を見ている人がいるとしよう。
この海が自分で、人は、空との接点で、見ている空の青色は海の反映なのである。
これ、素晴らしい例えじゃない?(自画自賛、笑)
ここで人がいなくなったとしましょう。
そうすると、海も空も自分を知ることができません。
だから観測点、中間に人間を置くことで、存在を確立させる必要があるわけです。
真我-からだ-空が、このように3点揃って、はじめて我々の世界が成立している。
これを人間界、人間の世界と呼ぶわけです。
しかし世界には、色々とあるらしく、まあ幽界であっあり、地獄であったり、
この幽界に行ったときは、アストラル体が海に浮かんで、空を見るわけです。
しかし、この自分自身で在る海は、どのように体が移り変わろうが、変わらないわけですね。
だから、こんな体験をしたから悟ったというのは誤解です。
空中浮遊やら、幽界旅行やら、なんやら、かんやらは超能力であって、これは悟りとは関係ないのであります。
自分が海であったことを思い出すことが悟りなのです。
海に気が付いたら、空が、鏡であるとわかるでしょう。
そうして人が、この、空の動きをただ不動で眺めている海の中にいるとわかる。
動いているのは空に描かれた映像なのです。
世界で神々が生きているのは、我々が、そこに参加しているからなのですね。
我々が生きるからこそ、神々も生きている。
生命の神秘、そのものである神々は、人間の観照と接触があって初めて存在意義がある。
でなければ、神は存在しないも同然であるからである。
これを言い方を変えてみると、人間の観照と接触は神々の生命を保つ食料である。
そして、この観照と接触の大本である魂=真我は、神々の生命活動を記録しているハードディスクなのだ。
こういった諸々の高次存在の必要性に駆られて、我々は機能として生存している。
まあ電気みたいなもんですね。
しかし、もう体験するのも、6道輪廻も疲れ果てた人は、全部リセットするしかない。
電気を切ってしまうしかない。
そうすると海も人も空もない。
白でも黒でもない。
赤でも青でもない。
光でも闇でもない。
二項対立がなく、一もない。
何もないというすべてがある。
白でも黒でもある。
赤でも青でもある。
光でも闇でもある。
二項対立しつつ、一でもある。
すべて無くして、何もかもある。
海も人も空もある。
ただ私がそこにいなくなった。
誰も、そこにいない。
それが悟りだったということに気が付くだけなのでした。
勘違いを元に戻しても、特に何も変わらないよ(爆笑)
だから、おおげさな話をしている人は全部偽物だと思った方が賢明だと、
個人的には思います。
あくまで個人的意見、推測、なのですよ!
推測なのです!
天地開闢以来のすべてである、みなさん。
今日も、朝からだらけモードの豊田です。
『見るものが、見られるものである』というのは、
世界が私の向こうにある、この向こうの世界から私は見られているということですね。
自分が投影した世界から見られている、見ているあの人も、あの景色も、あれも、これも全部自分自身の投影。
投影した世界には神の自然法則があって、これによって成り立っている。
複雑すぎて理解できないが、科学者さんが懸命にコレを解いている。
しかし、この表面の世界、鏡の世界に僕たちは接しているだけで、本体は、ここにはない。
覗き込んでいるのだ。
海に浮かんで、空を見ている人がいるとしよう。
この海が自分で、人は、空との接点で、見ている空の青色は海の反映なのである。
これ、素晴らしい例えじゃない?(自画自賛、笑)
ここで人がいなくなったとしましょう。
そうすると、海も空も自分を知ることができません。
だから観測点、中間に人間を置くことで、存在を確立させる必要があるわけです。
真我-からだ-空が、このように3点揃って、はじめて我々の世界が成立している。
これを人間界、人間の世界と呼ぶわけです。
しかし世界には、色々とあるらしく、まあ幽界であっあり、地獄であったり、
この幽界に行ったときは、アストラル体が海に浮かんで、空を見るわけです。
しかし、この自分自身で在る海は、どのように体が移り変わろうが、変わらないわけですね。
だから、こんな体験をしたから悟ったというのは誤解です。
空中浮遊やら、幽界旅行やら、なんやら、かんやらは超能力であって、これは悟りとは関係ないのであります。
自分が海であったことを思い出すことが悟りなのです。
海に気が付いたら、空が、鏡であるとわかるでしょう。
そうして人が、この、空の動きをただ不動で眺めている海の中にいるとわかる。
動いているのは空に描かれた映像なのです。
世界で神々が生きているのは、我々が、そこに参加しているからなのですね。
我々が生きるからこそ、神々も生きている。
生命の神秘、そのものである神々は、人間の観照と接触があって初めて存在意義がある。
でなければ、神は存在しないも同然であるからである。
これを言い方を変えてみると、人間の観照と接触は神々の生命を保つ食料である。
そして、この観照と接触の大本である魂=真我は、神々の生命活動を記録しているハードディスクなのだ。
こういった諸々の高次存在の必要性に駆られて、我々は機能として生存している。
まあ電気みたいなもんですね。
しかし、もう体験するのも、6道輪廻も疲れ果てた人は、全部リセットするしかない。
電気を切ってしまうしかない。
そうすると海も人も空もない。
白でも黒でもない。
赤でも青でもない。
光でも闇でもない。
二項対立がなく、一もない。
何もないというすべてがある。
白でも黒でもある。
赤でも青でもある。
光でも闇でもある。
二項対立しつつ、一でもある。
すべて無くして、何もかもある。
海も人も空もある。
ただ私がそこにいなくなった。
誰も、そこにいない。
それが悟りだったということに気が付くだけなのでした。
勘違いを元に戻しても、特に何も変わらないよ(爆笑)
だから、おおげさな話をしている人は全部偽物だと思った方が賢明だと、
個人的には思います。
あくまで個人的意見、推測、なのですよ!
推測なのです!