こんにちは。
感覚を通してすべてを形成した大本である、みなさん。
今日も、いつもの如く、やる気全くなしの豊田です笑
今朝は12時頃に起きてきて、嫁様と言い合いしたり、ご飯作って貰って食べたりしました。
ナポリタン作ってくれた。
枝豆みたいなんとウインナーと玉葱が入っていました。
珍しい!
さて、ニサルガダッタ・マハラジさんが苦しみについて書いています。
苦しみは至福の中で除外されない。
快楽を求めるのも、苦しみを求めるのも止め、ただ至福に『あるがままに』留まりなさい。
そうすることで『身体が私だ』という観念が落ちるのだろう。
身体=意識=世界は、同時に現れて、すべて自己ではない。
自己の派生物である。
大地が種を育み、苗となり、成長して花を咲かせ、種を落とす。
しかし、隣の種にとっても、大地は共通の栄養源である。
この花は、大地の存在には気が付いていないのだ。
そして自分が単独で、この世界に存在していて、私とはこの花のことだと思っている。
しかし、どれだけ執着しても、この花は枯れて落ちてしまわなくてはいけない。
それが自然法則だからだ。
そうすると、この形成された花の思考は落胆して苦しむ。
私は死ぬのだと言っているのである。
しかし、実際には花には思考がないと想像される。
すると、花は、成長して、種を残して枯れていくという『人生』を『あるがまま』受容して、受け入れていると言うことだ。
だから人間も花も、本当は同じ存在なのである。
この大地、広大なる大地が、心の奥、心の向こう側にあって、これを発見した人が、そして修業して身体との同一視を解除した人が、いわゆる悟ったと言われる人たちである。
ここで由々しき問題があることが発見されました。
なんと、この大地があることを発見した人が、大地が自分自身で在ることを忘れて、この身体の同一視を持ったまま生きるということです。
これが、僕の現状であると認識します。
しかし、よくネット上で覚醒したと言われる方々が、この暫時の解脱、つまりは『大地』を見たことで、この安寧の上に、身体イコール世界を保持したまま立っていられると思っている様子があります!
つまり花が枯れても自我が残ると思っている人がいるということです。
身体イコール世界には実体がないわけですから、実体無きものは滅び去るに決まっているのです。
しかし魂はすべてを記憶しており、この『質』と言われるものは、また新たなる種として大地に蒔かれる。
これが輪廻です。
ですから、もはや身体=世界を自身ではないと悟った人は、種=魂から抜けるわけですね。
もはや再生せずに、種は、種のままに朽ち果て、大地の養分となる。
ここまで、持ってくるには、『自分のものにしたい』『こうであってほしい』を手放し『あるがままに』いることが必要でしょう。
身体イコール世界は生きている限り実体があるのですが、これは感覚から形成された思考なのです。
同一であって、身体イコール世界は起きると共に現れる。
しかも一説によると、この世界は、映画のようであるらしい。
因縁というものがあって、関係性の中に生きているので、すべて自然現象なのです。
つまり『風が吹くのと同じです』
この風が吹いているところに『私』を持ち込んで楽しんでいるのが、我々なのですね。
しかし、楽しみがいつか苦しみになり、苦しみがまた楽しみになる。
この生活に飽き飽きとして、この展開自体が苦になった人が人生を見渡して、『私はこれでない、あれでもない』と気が付く。
これでもない、あれでもない場所から、人生を見たときに、湖面に浮かぶ映像のように見えます。
この映像は、自分自身が創り出しているにも関わらず、その中に突入していき、勝手に苦しんでいる(爆笑)
この身体=世界=私という映像、湖面の反響、心眼、また現世、神の現れ、ブラフマン? 等々と言われるものは偽物です!!!!
偽の自己なのです。
ほんものは悠然と、その心の向こうに大海としてあって、湖面のさざ波は夢のように儚いのです。
欲望を制する。
つまり『自分のものにしたい』『こうであってほしい』を捨てるのは真我の観点から捨てるのです。
そうでなければ絶対に不可能でしょう。
だから仏教の教えは、この大地を発見した人こそがしなくてはならない。
つまり、風になり、雲になり、主客一体の境地や、禅定などの状態に留まる。
そして真我の存在を発見したら、これに頻繁に留まる。
身体の疲れやストレスが来たら、否定せずに、ただ淡々と、見ている。
見守ってあげているという感覚。
おそらく、敵対するわけではないのですね。
身体を離れて、この身体を見守る存在となるのです。
しかし、これもまたテクニックです。
真理を指しているわけではないのです。
このテクニックを徹底的に語っている御釈迦様の言葉を、真我そのものと勘違いして大騒ぎする。
人も中にはいます。
我々は、本来、真我なのです。
ですから生まれてもいないし、死にもしないのです。
というのは、花に於ける大地のことを指しているのです。
だから、花(身体)に同一化すること、儚い者に同一化することは苦でしかない。
苦楽という苦なのです。
快楽-不快原則という苦なのです。
『あるがままに』ただ来る者を、そのとき、そのときの判断で、自然に生きること。
なぜなら、生きているのは私ではなく、世界なのですから。
そして私は世界とは無縁であって、その神の世界さんに遊びに来ているだけなのですから。
招待チケットありがとう!
感覚を通してすべてを形成した大本である、みなさん。
今日も、いつもの如く、やる気全くなしの豊田です笑
今朝は12時頃に起きてきて、嫁様と言い合いしたり、ご飯作って貰って食べたりしました。
ナポリタン作ってくれた。
枝豆みたいなんとウインナーと玉葱が入っていました。
珍しい!
さて、ニサルガダッタ・マハラジさんが苦しみについて書いています。
苦しみは至福の中で除外されない。
快楽を求めるのも、苦しみを求めるのも止め、ただ至福に『あるがままに』留まりなさい。
そうすることで『身体が私だ』という観念が落ちるのだろう。
身体=意識=世界は、同時に現れて、すべて自己ではない。
自己の派生物である。
大地が種を育み、苗となり、成長して花を咲かせ、種を落とす。
しかし、隣の種にとっても、大地は共通の栄養源である。
この花は、大地の存在には気が付いていないのだ。
そして自分が単独で、この世界に存在していて、私とはこの花のことだと思っている。
しかし、どれだけ執着しても、この花は枯れて落ちてしまわなくてはいけない。
それが自然法則だからだ。
そうすると、この形成された花の思考は落胆して苦しむ。
私は死ぬのだと言っているのである。
しかし、実際には花には思考がないと想像される。
すると、花は、成長して、種を残して枯れていくという『人生』を『あるがまま』受容して、受け入れていると言うことだ。
だから人間も花も、本当は同じ存在なのである。
この大地、広大なる大地が、心の奥、心の向こう側にあって、これを発見した人が、そして修業して身体との同一視を解除した人が、いわゆる悟ったと言われる人たちである。
ここで由々しき問題があることが発見されました。
なんと、この大地があることを発見した人が、大地が自分自身で在ることを忘れて、この身体の同一視を持ったまま生きるということです。
これが、僕の現状であると認識します。
しかし、よくネット上で覚醒したと言われる方々が、この暫時の解脱、つまりは『大地』を見たことで、この安寧の上に、身体イコール世界を保持したまま立っていられると思っている様子があります!
つまり花が枯れても自我が残ると思っている人がいるということです。
身体イコール世界には実体がないわけですから、実体無きものは滅び去るに決まっているのです。
しかし魂はすべてを記憶しており、この『質』と言われるものは、また新たなる種として大地に蒔かれる。
これが輪廻です。
ですから、もはや身体=世界を自身ではないと悟った人は、種=魂から抜けるわけですね。
もはや再生せずに、種は、種のままに朽ち果て、大地の養分となる。
ここまで、持ってくるには、『自分のものにしたい』『こうであってほしい』を手放し『あるがままに』いることが必要でしょう。
身体イコール世界は生きている限り実体があるのですが、これは感覚から形成された思考なのです。
同一であって、身体イコール世界は起きると共に現れる。
しかも一説によると、この世界は、映画のようであるらしい。
因縁というものがあって、関係性の中に生きているので、すべて自然現象なのです。
つまり『風が吹くのと同じです』
この風が吹いているところに『私』を持ち込んで楽しんでいるのが、我々なのですね。
しかし、楽しみがいつか苦しみになり、苦しみがまた楽しみになる。
この生活に飽き飽きとして、この展開自体が苦になった人が人生を見渡して、『私はこれでない、あれでもない』と気が付く。
これでもない、あれでもない場所から、人生を見たときに、湖面に浮かぶ映像のように見えます。
この映像は、自分自身が創り出しているにも関わらず、その中に突入していき、勝手に苦しんでいる(爆笑)
この身体=世界=私という映像、湖面の反響、心眼、また現世、神の現れ、ブラフマン? 等々と言われるものは偽物です!!!!
偽の自己なのです。
ほんものは悠然と、その心の向こうに大海としてあって、湖面のさざ波は夢のように儚いのです。
欲望を制する。
つまり『自分のものにしたい』『こうであってほしい』を捨てるのは真我の観点から捨てるのです。
そうでなければ絶対に不可能でしょう。
だから仏教の教えは、この大地を発見した人こそがしなくてはならない。
つまり、風になり、雲になり、主客一体の境地や、禅定などの状態に留まる。
そして真我の存在を発見したら、これに頻繁に留まる。
身体の疲れやストレスが来たら、否定せずに、ただ淡々と、見ている。
見守ってあげているという感覚。
おそらく、敵対するわけではないのですね。
身体を離れて、この身体を見守る存在となるのです。
しかし、これもまたテクニックです。
真理を指しているわけではないのです。
このテクニックを徹底的に語っている御釈迦様の言葉を、真我そのものと勘違いして大騒ぎする。
人も中にはいます。
我々は、本来、真我なのです。
ですから生まれてもいないし、死にもしないのです。
というのは、花に於ける大地のことを指しているのです。
だから、花(身体)に同一化すること、儚い者に同一化することは苦でしかない。
苦楽という苦なのです。
快楽-不快原則という苦なのです。
『あるがままに』ただ来る者を、そのとき、そのときの判断で、自然に生きること。
なぜなら、生きているのは私ではなく、世界なのですから。
そして私は世界とは無縁であって、その神の世界さんに遊びに来ているだけなのですから。
招待チケットありがとう!