豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

そのままに

2014-05-11 08:23:56 | 日記
おはようございます。

理解力と包容力を兼ね備えている、みなさん。


今日は朝から煙草とコーヒーを楽しんで、PCです。


スッタニパータ読んでいると、やはり心を虚しくすることが説かれている気がします。

怒りを断ち切るとか、現象の世界に囚われがあったら不可能でしょう。

愛欲を断ち切るとか、妄執を断ち切るとか、も、なんというか淡々とクールでないと難しい。

まず意識していないと難しいですよね。

あ、今、怒っている。

あ、今、愛欲を求めている。

あ、今、妄執している。

気が付いて離れるという練習をしていかないと上達しそうにないです。


でも、これ中心にやっていると超自我のコントロールになって余計に怒り、愛欲、妄執を喚起する。


だから方法論としては目の前の物事を淡々としていくことでしょう。

ただ座る、ただ書く、ただ飲む、ただ生きる、みたいな感覚でしょうか?

難しいですね。


仏教では、欲望を断ち切る話が頻繁に出てきています。

それそのものに成りきっているときは、欲望はありませんが、頭でそうなろうとすると欲望が生まれる。

またもや対象化するわけだね。

頭って言うのは経験を速攻データとして記憶して、対象化して妄執させる。

なりきった状態を1度でも経験したら、それを記憶して、妄執させる(爆笑)

延々と成りきっている生活というのは可能なのだろうか・・・・・・。


やはり心を虚しくしておくこと、が、一番しっくりきます。


起こってくる出来事は諸行無常で、ドンドン変化していく、

にもかかわらず、自分は、どこにも掴まらずに、流されるように、ただ生きていく。

行為だけがあり我はない。

無為自然、過ぎ去る出来事を、ただ集中してやっている。

音があり、動きが、感覚が、感情が、思考が、本能が、性が、また出来事が、ある。

来たままに、あるがままに、為させしめる、それ、そのものになっている。

音があるなら私は音だ。

思考があるなら私は思考だ。

感情があるなら私は感情だ。

変幻無在、ただ、いま、そこにある現実、そのものでしかない。

それが如来だ!