豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

禅定三昧による圧倒的知恵の悟り

2014-05-26 12:24:51 | 日記
こんにちは!

諸行無常による清浄行を極めた、皆様!


相変わらずの、妄想狂、豊田です。


本日も朝から、嫁様の暴れ馬状態を目撃しておりました。

まあ僕の口が原因であることが、ほとんどでありますが、女の人というのは『虚栄心』というのか褒められたいというのか、この『会話で親切にされる』ということに非常に敏感なのかなと、思います。

男同士だったら、貶して冗談とかは、親密な関係の証拠なのですが、どうも違うのでしょうかね……。

まあ、僕が子供っぽいだけなのですが、なんか調子狂います、笑。


さて、今日もCMだけは入れておきましょう。

人気ブログランキングは、たまに、ですが新規に、このブログを見に来てくれる人がいます。

が、上位になると気になって覗きに来る人が、増えるという仕組みになっております。

まあ、ここにきても、なんじゃこりゃーと避ける人も多いとは思いますが、まあ出会いが生じるのであります。

と、いうわけで、一時期、どうでもよくなっていたブログランキングに燃えているのです。



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さらに、嫁様の『ダラックマのブログ』は、悠聖の育児のことや、まあ、生活のことを書いてあります。

毎日更新はしていないようですが、こちらも、遊びに来て貰えると嬉しいです。

宜しく、お願いいたします。


※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。


『超個人的疑問』は、僕の半生を気になる部分だけ抜き取って、中途半端に仕上がった自伝であります。

これを読んで、ためになることは、特にはないと、思うのですが、まあ、時間がある方に読んで欲しいなあという個人的な願いであります。

僕のダメさが、全開で、出ているかもしれませんw


※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。


以上、本日もCMでした☆


さて、縁起の法を昨日は勉強しておりましたが『無明に縁って行がある』から始まって、すべての繋がりから、生があるらしいです。

この生が無くなれば、死は無いというのが仏教の教えでありますね。

関係性で出来ているので、1方が無ければ、もう1方も無くなるのであります。

無明というのは『諸行無常、一切皆苦、諸法無我』を知らず、縁起を知らず、苦の滅尽することを知らないことでしょうか。

そして行というのは『意志』のことであり、身、口、心の活動だと書かれていますね。

この行から識がうまれ、色がうまれ、色によって識があり、識によって色があるという状態になる。

意識があるから体がある、体があるから意識があると説かれています。

しかし、これに先行するのが、意志(指向性?)である、身、口、心の活動性なのです。

この、身、口、心の意志(指向性)すらも、諸行無常であるが故に苦が滅するということでしょう。

苦があるところには我はないと、御釈迦様は言っているのです。

なぜなら、苦とは我の自由にならないところから生まれているからであります。

生老病死が、その中でも代表的な4つということでしょう。


これは、身と口と心を『わがもの』と見なさないということではないでしょうか。

生の根本まで辿っていくと、身と口と心の動きがある、この動きを我だと思い、ここに識があって、色がある、色があって識があるという勘違いが生まれているのだ!

行為と言葉と心も、諸行無常、一切皆苦、諸法無我から外れないのである。


水面に映る心眼も、日々生きている行為も、口をつく言葉も、何もかも一切が、無常であり、苦であり、無我である。

遠ざかり離れることに寄って、この『わがものである』という観念を落としてしまう。


このように観ずる方法として『禅定三昧による圧倒的知恵の悟り』という方法があるのでしょう。



「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。


見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。


聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。


考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。


識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。


実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。


見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。


聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。


考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。


識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。


バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。


それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」


バーヒヤという樹皮をまとった行者は、このように、尊師が簡略に法を説くやいなや、執着がなくなり、煩悩から心が解脱しました。


さて、尊師は、樹皮行者のバーヒヤにこの簡略な教誡によって教えて、去っていった。


ところで、尊師が去って間もない頃、樹皮をまとった行者バーヒヤに、牝牛と仔牛がぶつかって、命を奪い去りました。


そのとき、尊師は托鉢のために行じて、食後に乞食より戻って、


多くの比丘たちとともに町から出て、樹皮をまとった行者であるバーヒヤが亡くなったのに出会いました。


これを見て比丘たちに、話しかけました。


「比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取り上げて、寝台に乗せて外に出し、火をつけなさい。


そして、かれの塔を作りなさい。比丘たちよ、おまえたちと共に清浄行をしていた者が亡くなったのだ」


「尊師よ、その通りにします」と比丘たちは答えて、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取りあげて、


寝台に乗せて外に出し、火をつけて、かれの塔を作ったあと、尊師のところに赴きました。


尊師のところに赴いて、挨拶をした後、一方の端に座りました。


一方の端に座った比丘たちは尊師にこのように述べました。


「尊師よ、樹皮行者バーヒヤの身体は荼毘に付され、かれの塔が建てられました。かれの赴く先はどこでしょうか。未来の運命はどうなのでしょうか」


「比丘たちよ、賢者である樹皮をまとった行者のバーヒヤは、法に関して随法行を行い、わたしを、法の課題で悩ませることはなかった。
比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤは、般涅槃したのである」




これは某掲示板で紹介していただいた法話ですが、僕は、この話を聞いて、これこそ仏道と感動しました。

諸行無常であるが故に苦が滅する、つまり、我がものという思いが消え去ることができるのである。

これを略せば、諸行は無常であるが故に世の一切は苦であり、世の一切は苦であるが故に諸法は無我なのである。

ということで完結します。


これは人生を生ききることであると、思われます。

目の前にある諸行無常を、それを、それと感じて、我がものとせず、忘我している。

我が無いときには、もはや、苦は滅尽しているのである。

静粛という、言葉や状態すらなく、静粛なのである。

認識主体のない、清涼なる境地なのである。

もしも我の分別を持ち込まずに、目の前の現れに、だだひたすら没頭しているならば、これが仏道の修業だろう。


今日も一日、生き切りましょう♪



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