豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

なまけもの

2014-05-12 10:59:42 | 日記
おはようございます。

スペシャルカスタマイズされた独自の人生を歩まれている、みなさん!

近頃、ブログへの意欲がめっきり減退していた豊田です。


今日は朝の8時に起こされて悠聖を小児科へ連れて行きました。

顔に腫れ物ができているので母親が心配して連れて行けと言うので、朝から起こされた・・・・・・。

自動車税の支払いや生活費の振り込みもやってきました。

何か、毎日、毎日、やらなければいけないことが、次から次へ起こってきます。

まあ、全員、同じでしょう。

家族、仕事、友達、地域、いろいろな所で求められる。


ブッダさんのお話では、ただひとり、閑静なところにいなさいと言います。

父母も妻子も家も仕事も何もかも捨て去ったブッダさん。

よく生きて行けたなあと不思議です。

今の時代に乞食して家の前に立って「ごはんください」とかやったら、恐ろしい現実に出会うだけでしょう(爆笑)


スッタニパータにもこのような話が載っています。

ブッダが食を乞うと畑を耕す人が、君も畑を耕してから食いなさいと言うシーン。

その時、信仰が種だ等々と話していますが、これは、まあそうなんでしょうが、現代日本では通用しません。

故に、日本ではブッダは即涅槃に入られるでしょう。

道を説く、必要性がないと、みんなが思っているのですから、ブッダもわざわざ説法もしない。

と妄想します笑


しかし我々の目の前に現れる現実には堅固なものはひとつもない。

『これもまた過ぎ去る』という有名な言葉がありますが、そのとおりですよね。

しかし、この出来事へ対応していくときに『めんどうだな』とすぐに思う僕、笑

これを克服していかなくてはいけないでしょう。


ダメ人間の典型である『怠惰』と『貪り』をごっそり持っている僕。

これは『疲れる』ことを避けるということでありますが、無明、無知蒙昧なので、こうなっている。

そこを学ばなければならないので真我は現れの中に、これを発生させ続ける。

わかるまで、これは続けられる。

一説によると、死んでも生まれ変わって続けられると言われるくらいだ。


どのような理解が生まれることで、この『怠惰』と『貪り』を克服できるのだろう?

普通は睡眠と食事が『楽』だから、それを求めている。

少なく眠り、少なく食べること、

というブッダの教えは、それと真逆だから『苦しい』

ストレスだ。

しかし、この教えは『苦』を取り除くため、それだけのためにあるはず。

どういうことなのだろう?


諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静

この基本に立ち返って、もう一度、この敵と対峙してみよう。

この世の諸々の出来事は常に移り変わり堅固なるものはなく、

この世の諸々の法の世界に我というものはない。

一切、なにもかも苦しみでしかない。

涅槃だけが寂静、さみしく静かである。


この苦しみの世界を逃れて、涅槃に至るには欲望を捨てることである。

欲とは、自分のものにしたいという所有である。

望とは、こうであってほしいという分別である。


この欲望が生まれるのは『快楽・不快』の原則による。


眠りたい、食べたいという欲望は、快楽を得たいということだ。

また動きたくない、自分の時間だけを持ちたいというのも、快楽を得たいということだ。


ここで自らの快を現象界で相殺しようとすると凄まじいストレスに見舞われる。

こうなると代替えで、ストレスの解消をしなくてはならなくなる。

欲望を制することで、落ちなくてはならないのは『私』だということをとても感じてしまう。

つまり、私は心の中で死ななくてはならない!!!!


もしも心が死んでいたならば、自分のものにしたい、こうであってほしいは滅する。

一切が苦しみである世界、からも遠く隔たって、真我の恍惚の中に休まるに違いない。

で、あるならば、主客一体、また真我実現は、同時に行われなければなるまい。

主客一体の無我の境地は、同時に、我を消滅させた、真我の世界と繋がる必要があるのである。


こうあって、世界から『心理的』に遠ざかることで、目の前の行為としては生ききるわけだ。

行為としては、実際の現実の世界で『怠情さ』と『貪り』を克服することができる。

しかし『心理的』には涅槃の世界に赴き、我はいない。

こうすることによってカルマ、行為、私、のすべてが滅していくだろう。


しかし、これは並大抵のことではないですね・・・・・・。

理屈としては簡単な理屈ですが、何しろ、現に今、纏わり付いた囚われがあるわけですから、

遠ざかり離れようとするには、とんでもない注意力がいります。

また完全に人生を諦めていないと無理です。

本気で一切は苦しみであると、真に知っているならば、離れようとするでしょう。


無我の境地は、遙か彼方に遠ざかってしまった!


究極的に表現するならば、真我が我を消滅させると言うことだろう。

これは我にとっては極限のストレス状況に置かれることになる。

我は常に『自分のものにしたい』『こうであってほしい』と快楽―不快の原則の上にしか存在しない。

これを制すれば、常にストレスとなって内面に広がります。


なんかグルジェフワークと似てるな(爆笑)


ここで不快感の表出と内的考慮をしないということでしょうね。

怒りのエネルギーは、即、我の最後の足掻きのようなものでしょうね。

これに屈すると、我は歓喜するわけです。


こう考えてくると、心理的なものだけでなく、快楽も捨てなければならない。

眠るときや、食べるときに快-不快の感覚を遠ざけなくてはいけないということになる。

生活全般においても醒めきって、すべて捨てていく。

そうして現実を直に、そのままにして在らしめ、真我の涅槃の境地が我を滅するまで、これを続けることだ。

これが『あるがままに』生きることか。


なんと恐ろしいではないか!

しかし、これが、仏道の目指すべき境地である可能性は高い。

もはや我が生きている内に『心理的に』滅することを目指しているに違いない。


徐々に、徐々に、この方向へ持っていかない限り、これは不可能!!!!

毎日、毎日、現れに対して、我が遠ざかり、真我-現実が一体化している状態へ帰る、とんでもない努力が必要だろう・・・・・・。