これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その2)

2025-01-12 19:32:30 | 人生
【はじめに】
 今回も、私の幼馴染のS氏の話しです。 自動車事故を起こして→→経済的に窮地になりましたが→→メゲル事無く→→造園会社(SR社)を設立して→→SR社が順調に発展し→→S氏が将棋三昧の楽しい生活を始めた話しです。

 S氏は”おっちょこちょい”で”いい加減”な性格ですが、楽天家で、『近欲』では有りません! そして、社員を大切に思っている様に見えます。

【S氏と奥さんが屋台の商売】
 S氏は、27歳の時にホテルを止めて→→奥さんと”屋台の商売”を始めたと電話が有りました。 二人子供を授かったばかりだったので、「奥さんが体調を崩すのでは?」と私は心配しました。 足掛け3年ほどやった様でした。

【S氏が自動車事故】
 S氏は重大な人身事故を起こし→→相手の方が生きている限り、生活出来る金を渡さなくてはならなくなりました。 当初はS氏の所得が少なかったので→→毎月、六、七万円を除いた金を→→相手に渡していた様です。 奥さんの所得で、何とか食べていた様でした。

 私は心配になって、二、三ヶ月に一度電話を掛けてS氏を励まし、奥さんの様子を確認しました。

【S氏がひょっこり我が家に来ました】
 30歳になった頃、夜の9時ごろ、S氏が突然我が家にやって来ました。 頑丈な/大きなボストンバッグを二つ持っていました。 提げて見たら、二つとも非常に重かったです。 S氏は元気そうで、奥さんも「元気だ」と言うので安心しました。

 有る方が、プレミヤ価格で取引されているコインを教えてくれたので→→沢山の商店を車で回って→→「○○年発行の50円貨幣を60円で買い取る」などと言って置いたら→→沢山!沢山買えたのだそうです。 「明日、東京に行って売るんだ!」と言いました。

 数日後、電話が掛かって来て「数百万円儲かった!」と喜んでいました。 その金は造園業を始める資金の一部になった様でした。 (二つのボストンバッグにはコインが入っていたのです。)

 私の妻がS氏に会ったのは、この時一度きりです。 妻は、土産も着替えも持たずに→→突然来て→→一泊した事に呆れていました。 私は、コインが余りにも重かったので、「仕方が無い」、「私でもそうするだろう」と思いました。

【S氏との食事】
 S氏は関西にやって来ると、午前11時頃に「今、大阪にいるから、会いに来てほしい」と電話して来ます。 大抵、ウイクデーで仕事中なので、2回に1回程しか会いに行けません。 会うと昼食を奢(おご)ってくれるのですが、安い飯屋で秋刀魚や鯵や鯖の塩焼きの定食です。 S氏の安い定食屋を探す才能は大したものです。 梅田の近辺でも安い定食屋を見付けます!

 定食屋の後、喫茶店でコーヒーを飲みます。 1時間~2時間、S氏が近況を話してくれ→→伊丹空港から飛行機で帰ります。

 一度だけ、JR尼崎駅近くの会社に勤務していた時、尼崎駅まで来てくれました。尼崎駅の近くに美味しい”うどん屋”が有るのですが、「定食屋の方が良い」と言いました。

 S氏と酒を飲んだ事は全く有りません。 刺身、寿司、天婦羅、ステーキ、すき焼き等の話をした事が有りません。 食べ物の話をした事が無いのです!

【造園業を始めました】
 30歳の頃に九州の某県で、造園業(SR社)を始めました。 最初は若い社員を二人雇った様です。 直ぐに、一回り以上年上のベテランの職人さん(T氏)を雇う事が出来ました。 T氏は腕の良い職人さんで、若い社員の面倒見が良く、何よりも人格者だった様です。

 SR社は、経理を奥さんが担当し、T氏が若い社員達を指導しながら運営し→→直ぐに黒字体質の会社になりました。 そして、順調に若い社員が増えていった様です。

【将棋に熱中】
 会社が黒字体質になるまでの数年間、S氏は真面目に毎日フルタイムで出社していましたが→→午前中二、三時間だけ出社して→→将棋を指しに出掛ける様になりました。

 S氏の出社時間が少なくなると→→SR社の売上が増加して→→社員が15人程に増えました。 まさに『亭主元気で留守が良い!』だったのです。

《余談❶ :奥さんが実家に帰ってしまいました!》
 会社に出社しないで、三日間将棋を指し続け→→S氏がクタクタになって家に帰ったら→→奥さんが実家に帰っていたそうです。 「離婚されそうになった!」と言っていました。

 何日かして、奥さんは帰って来られましたが→→徹夜将棋は止められ無かった様です。 「会社は順調だし、浮気している訳でも無いから、マアいいか!」と諦めておられる様に思えます。

《余談❷ :全国大会に出場》
 S氏は腕を上げて→→某県の将棋大会に優勝して→→全国大会に出場した事も有ります。 アマチチュアの”四段”以上になっていると思われます。

《余談❸ :将棋会館を建設》
 S氏は会社(SR社)で得た金を、某県の将棋会館の建設に億単位の金を寄付した様です。 私の妻だと許してくれません。奥さんは”太っ腹”ですね! 感心しています。

【利益の配分と特別ボーナス】
 黒字体質が定着して→→S氏は思い切った事を始めました。 大学卒の社長や世襲の社長では思い付かない『素晴らしい経営方針だ!』と感心しました。S氏から「感想を聞きたい」と電話が有り→→「SR社の発展は間違いない」と絶賛しました。

(1) 会社の経営状況をガラス張りにしました。 ・・・「赤字なのか?」、「黒字なのか?」、「幾ら儲かったのか?」を社員が分かる様にしたのです。

(2) 利益の『1/3』を社長(S氏)の取り分、『1/3』を会社の設備投資や内部留保、残りの『1/3』を特別ボーナスとして→→3月に社員に支給するのです。

(3) 特別ボーナスは各社員の業績で配分し、誰に幾ら渡したか公表しました。

 SR社の社員達は、「社長は、日に二、三時間しか出社し無いのに、社員一人一人の仕事ぶりを見てくれており→→評価している。 社長は元気で留守が良い!」と思ったと推察します。

(余談 :ガラス張り) SR社は個人向けに商売しているので『ガラス張り』に出来ます。 然し、国、都道府県、市町村との取引をする為には→→領収書が貰えない『金(かね)』が必要になります。 民間企業との取引でも、「この注文が欲しかったら『金』をよこせ」と言う輩がいます。

 非上場の会社から、8,000万円の商談が纏まった後で→→「11,000万円支払うから、3,000万円フィードバックしてくれ!」と言われた事が有ります。オーナーは税金の掛からない『3,000万円』を得る事になります。 私の勤務していた会社は、あの手この手使って→→『3,000万円』分の領収書を搔き集める必要が有りました。

 輸出案件でも『裏金』を要求されるケースが多々有りました。『ガラス張り』にするのは難しいです!

《余談 :N社の話し》
 私は50歳の時に機械の設計/製造をする小企業(N社)に出向しました。 数年前から少し赤字で、債務超過に陥る寸前でした。 毎年、それなりに受注していたのですが、社長(N氏)が勘で見積金額を出していました。 どの案件が赤字か/黒字か把握していませんでした。 経理をN氏の奥さんと私と同い年の女性が担当し、パソコン(PC)を使っていました。 PCで作成したデーターを貰って→→見積計算ソフトを作成し→→引き合いが有ると→→私が適正な見積金額を計算して→→社長(N氏)の了解を得て→→見積書を作成しました。

 予算管理計算ソフトも作成して→→進行中の受注案件の予算/実績の差異が把握出来る様にしたので→→期末にどの程度利益が出るか?→→高精度で予想出来る様になりました。 私が出向して、一年もしない内に→→N社は黒字体質になりました。

 N社には、製造部長と設計部長がいて→→ボーナスの時期になると、二人が社長(N氏)に→→「今年は黒字になるから、(税金を減らして)社員のボーナスをアップして欲しい」と懇願しました。 然し、N氏の回答は何時も『ノー(NO)』でした!

 私は、「SR社が特別ボーナスを支給する制度にして、大成功した」話しをN氏にしましたが、N氏は何故か?税金を増やす事に固守しました。

【造園技能士】
 SR社では社員が造園技能士の国家試験を受けるのを積極的に支援しています。 国家試験は1級~3級まで有ります。3級に合格した社員は→→2級の資格を得て→→1級になりました。 社員の定着率が高かったので、アイディアの豊富な社員が増えて→→SR社の評判が高まり→→社員数が増えました。

 SR社の発展に寄与したT氏は一回り程年上でしたから、2005年頃にはリタイヤされていたのではと思われます。 SR社では、優秀な社員が育ちましたから、「T氏がリタイヤされても困らなかった」と推察します。

【造園コンテスト】
 SR社の社員達は何人かでチームを作って→→何組も→→全国造園デザインコンクールやLIXIL(リクシル)エクステリアコンテスト等に参加し→→毎年、毎年、優秀な成績を収めています。 勿論、旅費、宿泊費などを支給しています。

【陶器窯の廃レンガ】
 S氏が、岡山県の飯屋の広い駐車場に乗用車を止めると、陶器窯に使用していた耐火レンガを山積みしていました。 色がマチマチで、「これは面白い」と思い→→店の主人に話すと→→「廃棄する為に置いている。」、「欲しかったらタダで上げます。」と言ってくれたそうです。 乗用車に積めるだけ積んで会社に持ち帰ると→→社員達が大喜びして→→トラックで残りを取に行き→→受注していた住宅の花壇に使ったら→→顧客が気に入ってくれたそうです。

 S氏は余程嬉しかった様で、この話を何回もしました。 「僕が会社に貢献したのは、これぐらいだ」と言いましたが、「特別ボーナスを支給する様にしたり、社員の自主性を尊重したり、会社にあまり出社し無かったり、君は沢山!沢山!貢献している」と話しました。

いい加減な性格が福をもたらした話し (その1)

2025-01-06 13:18:40 | 人生
【はじめに】
 今回は、私の幼馴染のS氏の話しです。 S氏は、楽天家/おっちょこちょい/いい加減な性格ですが、人に好かれるタイプです。

 いい加減な人間は大成しないのが普通ですが、S氏の場合は真逆で、彼の欠点が幸いして→→S氏が設立した会社は現在従業員が70人もいて→→殆ど、赤字になった事が無い様です。

 去年の年末にS氏から電話が有り、「最近物忘れが激しく、いい加減な仕事しか出来ない」と嘆くので→→「昔から忘れ物が多かったし、いい加減な事をやっていた。年のせいでは無いよ!」と慰めました。

【S氏と私】
 S氏は、小学校と中学校の同級生です。小学校の同級生は22人で、中学校は36人しかいませんでした。S氏と私は、田辺市の別々の高校に進学しました。中学校から田辺市の高校に入ったのは二人だけでした。

 高校を卒業してからは、数年に一度会っており、二、三年に一度は電話で話しています。10年ほど前にS氏の前立腺に癌が見つかってからは、毎年1回は電話しています。 S氏は、自分の近況を1時間以上話します。 その為に、私はS氏のことを良く知っていますが、S氏は私の事は殆ど知らない/覚えて無いと思います。

【小学生の頃のS氏】
 小学4年生から週に一回クラス会の時間が有りました。 「民主主義を体現する時間だったのでは?」と思います。(先生は立って見ているだけでした。) 持ち回りで議長になって、草引きの日等を決めるのです。 そして、遅刻や忘れ物をした生徒に罰を与えました。 S氏以外に罰せられた生徒はいませんでしたが、S氏は毎日の様に遅刻し、忘れ物をしました。

 S氏に与えられた罰は、漢字を書く事でした。中学校や高校で習う漢字まで書いていました。 その為に、S氏は漢字博士の様になりました。

 好天の日の休み時間に皆でキャッチボール、ドッチボール等を、雨の日は卓球等をしましたが、S氏は参加しませんでした。 小学5年生まで、私はS氏と遊んだ記憶が有りません。

【S氏に将棋を教えました】
 私は小学生になった頃、近くに住んでいた父の弟(MI叔父)に将棋を教えてもらいました。 毎週、一局以上指しました。 一年もすると結構上達しました。 MI叔父は強かったので、「今日は、この升で詰ませる」と宣言し→→私がドンナニ頑張っても→→私の『王』は指定された升に行かざるを得ませんでした。

 小学校6年生の担任の先生が末期癌だったので、一年間授業が全く無く→→毎日自習でした。 雨の日に教室でS氏に将棋を教えました。S氏の上達は早く→→直ぐに私と対等で指す様になりました。

《余談 :囲碁の思い出》  私が小学の高学年になった頃、父に囲碁を教えてもらいました。 一番上の姉は中学校の教師と結婚していて、夫(義兄)と子供を連れて良く帰省していました。 父と義兄が碁を打つのを観戦しました。 私が中学生になった頃、碁盤と碁石は義兄が持って帰りました。

 大学4年生の時に、同じゼミの友人(K氏)に囲碁を教えました。K氏は熟慮するタイプで、直ぐに上達して→→ほぼ互角で打てる様になりました。 ゼミには教授と助教授(現在の准教授)がおられ、二人に共通する趣味は囲碁でしたが、二人で打つことは有りませんでした。

 K氏と打っていると、教授と助教授が来られて→→K氏の後ろに教授が、私の後ろに助教授が立って→→次の手を指示するのです。 お二人ともかなりの腕前で→→素晴らしい指示だったので→→勉強になり→→卒業する頃には、私はアマチアの初段以上の力が有ったと思います。

 私の妻の兄(義兄)は、NHKの囲碁番組を今でも毎週録画しています。 彼は負けず嫌いです。 義兄と数局打ったのですが、何時も私が勝ったので→→二度と打とうとはしません。

 対戦相手がいなかったので、1990年頃に囲碁のパソコン・ソフトを買ったのですが、弱すぎたので楽しめませんでした。20024年に新しく出たソフトを買いました。「AIソフト」となっていますが、学習能力は有りません。 「こう打ったら勝てる」と言う手をわざと避けて→→次善の手を打って→→ソフトがドンナ手を打つのか?・・・楽しんでいます。 そろそろ、新しいソフトを買いたいと思っています。

【中学生の頃のS氏との思い出】
 小学5年生と6年生の時は、私は野球部で活躍したのですが、中学校に入って部活には参加しませんでした。 S氏と殆ど毎日一緒に下校し→→お互いの家に遊びに行く様になりました。

(思い出❶ :給食) 戦後、ユニセフが日本の子供達に食料品を支給してくれていました。 故郷(龍神村)では、外米と脱脂粉乳を支援してもらって→→小学校と中学校では給食が有りました。余裕の有る家の子供は、野菜と薪を持って来ました。 ご飯、脱脂粉乳を溶かした牛乳、味噌汁と言うヘンテコリンな給食でした!

 小学5年か6年の頃、外米の支援が無くなったので、農協(JA)が龍神村の全小中学校向けのパン工場を建設しました。 (パン工場は、龍神村・福井・横畑に有りましたが、現在は無くなっています。)

(思い出❷ :シュガーマーガリン・パン) 中学校下校時に、週に一、二回、S氏とパン工場に寄って、熱々のシュガーマーガリン・パンを買って食べました。 マーガリンに砂糖を練り込んだ物を→→職人さんが目の前で、コッペパンを割いて→→タップリ入れてくれました。 (スーパーでシュガーマーガリン・パンを見掛けたら、必ず買っています。)

(思い出❸ :補習授業と弁当) 現在は土曜日は休校すが、昔は”半ドン”でした。中学3年生になると、高校進学を目指している生徒には土曜日に補習授業が有り、給食は休みでしたので弁当持参でした。1ヶ月に一度、模擬試験を受けましたが、その時も弁当持参でした。S氏と私は補習授業を受けました。

 母が作ってくれる弁当は、白いご飯と梅干一個の”日の丸弁当”でした。鶏を沢山飼っていたのですが、卵焼きは作ってくれません→→その代わり、缶詰を買う金を渡してくれました。 鰯や鯖の缶詰を買いました。

 S氏の父親はキノコ採りの名人で、毎年沢山!沢山!採って来て→→塩漬けにしていました。 S氏の弁当には塩漬けにしたキノコの炒め物が沢山入っていました。 S氏と御菜(おかず)を半分ずつ交換しました。キノコの炒め物は美味しかったです!

【高校受験】
 S氏は田辺商業高校(田商、現在=神島高校)を、私は田辺高校(田高)を受験しました。 入学試験が終わって、校庭で父が友人と雑談している時、父の近くでボンヤリしていました。 S氏と彼の父親がやって来て、「答案用紙に氏名と受験番号を書かなかった、どうしよう?!」と言ううのです。 私に言っても、どうしようも無いですよね!

 そばで聞いていた父が、「義弟(母の弟=私の叔父)に頼んでみる」と言って出掛けました。 ラッキーな事に叔父が田辺商業高校の教頭だったのです。

 後で叔父から聞いた話しでは、S氏は全ての答案用紙に氏名と受験番号を書いていなかったそうです。 そして、他に氏名と受験番号を書き忘れた受験生がいなかったので→→S氏の答案用紙を見つけるのは簡単だった様です→→叔父が氏名と受験番号を書き加えて→→S氏は合格になりました。 多分、今だと許されない事だと思います。(叔父が、「S氏は字が上手だ」と言っていました。)

【高校生時代】
 S氏は、田商から田辺駅のほぼ中間に有った、共用の台所が付いた四畳半のアパートを借りて自炊していました。 実家から米、沢庵、味噌等を送って貰い→→部屋に置いた電気炊飯器でご飯を炊いていました。

 学校が終わると、同級生を五、六人引き連れてアパートに帰り→→将棋を指すのが日課になっていました。 S氏の将棋の腕はドンドン上がって、田商の生徒の間では無敵になりました。

《余談 :若草寮の夕食》
 私は間借りして、夕食は田高の寮(若草寮)に食べに行っていました。一年先輩に背の高い/ガッシリした体格のバスケットボール部の男性が二人、若草寮に入っていました。

 若草寮の夕食は、ご飯は少し大きめの飯茶碗一杯だけ(お代わり無し)、味噌汁、簡単な御数(おかず)だけの質素な物でした。 バスケットボール部の二人が、毎日他人の分を食べてしまいました。

 私の夕食も週に一回か二回は食べられました。そんな時、月に二、三回、S氏のアパートに行って、冷めたご飯と沢庵を貰って飢えを凌ぎました。

(余談の余談 :若草寮) 田高の前進の一つが田辺高等女学校です。若草寮は田辺高等女学校の寮でした。 母は5年間、私の一番上の姉は1年間・若草寮に住んでいた様です。若草寮は現在も田高の寮として存在しますが、私が高校生だった頃は、ボロボロの木造で、旧市街地に有りました。

(余談の余談 :チキンラーメン)  私は間借りだったので、電気ポットしか有りませんでした。 寮の夕食を食べられた時は、S氏の所に行くか、日清のチキンラーメンにお湯を掛けて食べる以外に手が有りませんでした。

 上から三番目の姉が内職して貯めた金を、時々・5,000円程送ってくれていました。 間借りしていた家の近所の店に、結婚したての二十歳過ぎの奥さんが店番をしていました。 私が貧しい事を知っていて、「チキンラーメンを段ボール箱で買ったら安くしてあげる」と言ってくれたのです。姉が送ってくれた金で買いました。 涙が出るほど嬉しかったです。

【マラソンの思い出】
 中学3年生になると男子は、往復で5km程の距離を走らされました。 一山を超える5kmですから、『箱根駅伝の5区』の様な物でした。 S氏と私が一着か二着でした。

 高校でもマラソン大会があり、3学年の男子生徒が一斉に走りました。S氏は3年間良い成績だった様で、3年生の時は『トップ』だったそうです。

 私は高校一年生の時は剣道部でした。 昔から、剣道部と柔道部は「マラソン大会では絶対に負けない」と競い合っていました。マラソン大会が近付くと、両部ともマラソンコースを走って練習しました。 私は三、四回走った様に記憶しています。 私は両部の一番になりました。

 私は、3年間三十番以内に入っていました。 特に3年生の時は学年で一番になりました。

【高校卒業後のS氏】
 S氏は高校卒業後、大阪の電気店に就職しましたが、2年ほどで辞めてしまいました。 その店のお得意さんは、芦屋などの超!金持ちの家が多かったそうです。 高級な電気製品を買ってくれると→→トラックに派手な”幟旗(のぼり)”を付けて配達するのが、仕事だった様です。

 その後、京都のミシン販売店に就職しました。 殆ど基本給は無く、歩合制だった様です。ミシン販売店で、女性を”千人切り”したと言う話は次のブログに書きました。

★ 不倫報道は禁止すべきです。 :投稿日=2024年11月16日

【S氏は九州の某県に転居しました】
 1971年にS氏は、九州の某県に有った大きな観光ホテルに就職しました。

 ミシンの販売店に勤務していた時、(S氏よりも数歳年上の)ホテルのオーナーの次男か三男(M氏)がいて、ホテルの経営に参加する事になりました。 M氏に誘われて、好条件でホテルに転職したのです。M氏は、父親や他の兄弟と考え方が違ったので、S氏が27歳になった頃→→ホテルを追放され→→S氏もホテルを辞めました。

【S氏が素晴らしい女性と結婚しました】
 25歳になった年にS氏は地元の女性と結婚しました。 当時、私は神戸市に勤務していて→→フェリーで結婚式に参列しました。 しっかりした女性に見えたので、安心しました。 S氏は”いい加減”な男ですから、「奥さんが支えてくれるだろう」と思ったのです。 その後、私の予想通りになりました。

 その後、S氏には色々辛い事が有りましたが、奥さんが頑張って→→立ち直り→→事業に成功して→→今日が有るのだと、私は思っています。 次回に、その後の出来事を書きます。

つくね芋を育てています。

2024-12-30 20:36:55 | 園芸
【はじめに】
 私は子供の頃から芋粥(いもがゆ)が大好きで、今でも毎年二、三回食べています。 芋粥には昔から粘りの強い”つくね芋”等を使用しています。 私は、芋粥と”焼き干し鰯”が有れば、他に何もいりません。

 芋粥の思い出は、下記のブログに書きました。 本稿は以前のブログの補足説明と近年の私の工夫について書きました。

★ 我が家の芋粥(いもがゆ) :投稿日=2020年1月11日

【今年の成果】
 昨年と今年は大きくて美味しい”つくね芋”が出来ました。 特に、プランターでもスーパーで売っている物に負けない大きさの芋が出来たので、ビックリしました。 プランターに排水用の穴を追加したのが良かったのでは?と思います。

(余談 :ミミズと蝉の幼虫) 毎年、プランターにミミズと蝉の幼虫がいますが、今年は何故か?一匹もいませんでした。(花壇にはいました。) 夏暑かった為でしょうか? それでも、大きな”つくね芋”をプランターで3個も収獲出来ました。

【我流の育て方】
 インターネットでヤマノイモの育て方を色々解説してくれていますが、私は我流で/試行錯誤しながら10年強育てて来ました。

 私は、1985年に狭い庭付きの家を建て→→80歳を過ぎた両親と同居する様になりました。 私は、当時仕事が超!超!多忙だったので、庭の草引きは母がやってくれました。 二、三年後に、庭に長芋が生えて来る様になりました。ムカゴが落ちて、至る所に生えて来ました。

 2000年頃に、母が年老いて草引きが難しくなったので→→私が草引きを引き受けました。 小豆よりも小さなムカゴでも芽をだすので、見つけ次第に芽や蔓を除去していますが、根絶するのは不可能です。

 私は、花壇とプランターで”つくね芋”を育てています。 4月の中旬から5月の上旬に、テンデバラバラに芽が出てきます。 そして、11月の中旬に、葉がほとんど落ちってしまった頃に収穫しています。 妻は土いじりが嫌いですが、”つくね芋”を掘り出すのは楽しい様で、手伝ってくれます。

(1) 連作障害
 つくね芋には、連作障害が出ると解説している記事を見掛けます。 私は、花壇のほぼ同じ個所で育てていて、同じプランターを使用していますが、今のところ・連作障害は出ていません。

 ①化学肥料を一切使用していない事、②バーク堆肥などの有機物を沢山入れている事、③毎年、少量の骨粉を加えている事で連作障害が無いのでは?と勝手に判断しています。

(2) 施肥
 つくね芋を育て始めた頃、中粒の発酵固形油粕を6月と8月に沢山やりました。 大きな芋が出来たので→→擂り鉢(すりばち)で擂っていたら→→薄茶色に変色してきて→→美味しく無かったです。 それで、7月頃に中粒の発酵固形油粕を少量埋め込む様にしています。 化学肥料は使用した事は有りません。

(3) 最大の天敵は野良猫です!
 花壇とプランターを野良猫が掘り返し→→糞をします。 つくね芋を掘り出す事も有ります。 掘り出された芋は直ぐに埋め戻すと芽を出しますが、数日放置したら乾燥して死んでしまいます。

野良猫対策 :庭木を剪定して得た枝を、適当な長さに切って→→花壇とプランターに並べたり/立てたりしていますが、敵もさるもので万全では有りません。

罰則付きの条例を希望 :神戸市には『神戸市人と猫との共生に関する条例』が有りますが、野良猫に餌をやる輩を罰する規定が有りません。 私は、「100万円以下の罰金」、「再犯者には6ヶ月以下の懲役」くらいの罰を与えるべきだと思います。 野良猫を捕獲して→→結構な税金を使って去勢手術して→→捕獲した場所に放す自治体が有る様です。・・・税金の無駄遣いだと思われませんか?!

 私の提案は罰則が重すぎると思われるかも知れませんが、ゴミの不法投棄は『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』の第16条と第25条の規定では「罰金1,000万円以下または懲役5年以下、又はこれを併科する」となっています。 公共の場や他人の所有地に野良猫への餌を置くのは『一種のゴミの不法投棄だ!』と言えますから、決して過剰な罰則だと思いません。

《余談 :野良猫に餌をやる困った奥さん》
 隣の家の奥さん(Sさん)は”苦情言い”で近所では嫌われ者でした。 その上、結構遠いい所まで野良猫に餌をやりに行っていました。 (私は何回か見た事が有るのですが、)庭の広い家では、無断で庭に入って餌をやるのです。 私が散歩していると、大きなお屋敷の奥さんが、紙製の皿に猫の餌が入ったのを手にもって、数人の奥さん達と喋っていました。

 Sさんが、勝手に庭に入って野良猫に餌をやっていたので、注意したら→→「私は、猫が食べるのを見ていただけだ」と言って逃げる様に行ってしまったのだそうです。

 Sさんは、8年程前に痴呆症の症状が顕著になり、その頃から野良猫の餌遣りはしなくなりました。 2年前にくも膜下出血になり→→植物人間になって病院か施設に入っている様です。 我が家の近所の野良猫は激減しました。

 近所に教師だったと言う生涯独身だった年老いた女性がいたのですが、彼女も野良猫に餌をやって回っていました。 歩くのが難しい状態になっても餌遣りを続けていました。 20年程前にポックリ逝かれたのですが、亡くなる3日程前まで餌遣りを続けていた様です。 彼女は近所の嫌われ者でしたから、「野良猫と会う以外に楽しみが無かったのでは?」・・・私から見たら「寂しい老後だったのでは?」、「こんな方には教えて貰いたくない!」と思いました。

 我が家から徒歩5分程の所に、高さ2mほど有るブロック塀で囲った結構大きな家が有ります。塀や屋根の上に日中は猫が10匹以上いました。 近所の奥さん達の話しでは、「老婆が一人で住んでいて、猫を飼っている」とのことでした。

 10年程前に彼女が亡くなられ→→子供さん(?)が住む様になり→→猫に餌をやら無くなったのか?→→急に猫を一匹も見掛け無くなりました。 そんな分けで、最近は、我が家にやって来る野良猫は三、四匹になりました。

【プランター】
 私は下記の大きな/頑丈なプランターを使用しています。 10年以上前に、妻の好きな草花を育てる為に購入した物を転用しています。 今でも十分使用出来る状態です。

★ プランター :容量=48リットル、(幅=72cm)✕(奥行き=40cm)✕(高さ=26cm)
★ アマゾンの価格=1,320円

 プランターの底に大き目の鉢底石をタップリ入れています。  プランターで育て始めた時、野菜用の土に→→赤玉土を少し混ぜて→→バーク堆肥をタップリ入れ→→骨粉を少量混ぜました。 次の年からは、収獲した後→→土と鉢底石を全て一旦取り出して→→プランターを水で洗います。 土には、バーク堆肥と骨粉を追加して→→混ぜています。 プランターに鉢底石を戻し→→土を入れます。 バーク堆肥と空気が入った分だけ土が余っるので→→花壇に撒いています。

 ペーハー(PH)が『6』前後になるように心掛けています。 私は、竹村電機製作所製のPH計を使用しています。 (植物を育てる時はペーハー値の管理が重要ですから→→持っておられない方は、是非とも購入して下さい。)

 4年前に「水捌け(みずはけ)が悪いのでは?」と気が付いて→→プランターの底にφ6mmの穴を4箇所開けて見ました。 少し大きな”つくね芋”が採れたので→→6穴(けつ)増やしました。

穴開け作業 :最初に細い錐(キリ)を貫通させ→→穴径がφ6mmになる太いキリを貫通させました。

【つくね芋の病虫害】
 神戸の我が家では、梅雨の時期と9月頃に『キイロスズメ蛾』の幼虫が発生します。 葉を食べまくって→→二、三日で急激に成長します。 黒い大きな糞を落とします。 見付けたら、剪定ハサミで切断しています。 (農薬は一切使用していません。)

 去年は不思議な事に『キイロスズメ蛾』は発生しませんでした。 今年は9月の中旬に一匹だけ発生しました。 『キイロスズメ蛾』以外の害虫が発生した事が有りません。 そして、病気も発生した事が有りません。

【豆知識 :山の芋】
 山の芋は雌雄異株です。 丸い羽根が3枚付いた果実が出来るので、果実からも繁殖出来ると思います。 多くの種類で蔓にムカゴが付き→→私の経験では、小さなムカゴも発芽します。 つくね芋には滅多にムカゴ出来ない様で、我が家では一粒も付いた事が有りません。

 つくね芋には、黒皮と白皮の二種類が有ります。 子供の頃育てていたのは白皮で、現在育てているのは黒皮です。 どちらも粘りは強いです。 白皮の”つくね芋”を長い間食べていないので、黒皮と白皮の味の違いは、私には分かりません。

・・・ つくね芋の仲間 ・・・
❶ つくね芋
❷ いちょう芋

・・・ 長芋の仲間 ・・・
① ヤマノイモ(自然薯) :日本固有種  ・・・粘りが強い
② ナガイモ :中国原産と言う説が有りますが、日本で栽培されているナガイモは、現在中国では栽培されていない様です。

《余談 :ねばりっこ》
 近所に鳥取県出身の奥さんがおられて、毎年・鳥取県産の長芋『ねばりっこ』を頂いていました。 見た目はスーパーで売っている長芋と同じですが、粘度は、つくね芋と同程度で→→芋粥(いもがゆ)にすると美味でした。

 残念ながら、3年前に引っ越されました。 『ねばりっこ』はアマゾンで入手出来ますが、結構な値段です。

《余談 :ヤマノイモの輸出入》
 ヤマノイモは中国やベトナム等から輸入されていますが、日本から台湾、アメリカ等に輸出されています。

出典 :農畜産業振興機構 『やまのいもの需要動向』

スマホの普及までの歴史

2024-12-22 10:14:48 | 工業技術
【はじめに】
 21世紀になってスマホが劇的に普及して、今では無くてはならない物になっています。

 スマホは無線通信の一種です。 第二次世界大戦後、無線通信の技術が急激に進んで私の年代の人達は『生き証人』の様な存在になりました。 今回は、「無線通信の技術がドンナニして進歩したのか?」について書きます。

【無線通信(スマホ)の仕組み】
 A氏がスマホを使って→→B氏に電話したとします。 A氏のスマホが発信した電波を近くの幾つかの交換局が受信して→→最も大きな信号を受け取った交換局から→→光ケーブルを使って→→別の基地局に信号が送られます。 B氏がスマホの電源を入れていると→→「B氏が、どの基地局の管内にいるのか?」システムは把握しています。

 A氏からの信号が→→B氏のスマホの管内の基地局に送られ→→一番近い交換局に送られ→→交換局からB氏のスマホに電波が発信されるのです。 交換局と基地局間は光ケーブルを通して信号がやり取りされるので、スマホのシステムには光ケーブル網が不可欠なんです。

A氏のスマホ←→電波←→交換局←→有線ケーブル(光ケーブル)←→基地局←→光ケーブル←→基地局←→光ケーブル←→・・・←→基地局←→光ケーブル←→交換局←→電波←→B氏のスマホ

《余談 :初期のPHS》
 1998年頃に私はPHSを買いましたが、歩きながらPHSを使う事は出来ませんでした。 PHSで採用されていた電波は減衰しやすく、交換局が少なかったので→→少し移動すると→→会話が途絶えてしまうのです。 私は技術者の端くれなので、原因が分かっていたので→→「PHSとは、まあそんなものだ!」と承知してPHSを買いました。 

《余談 :光ケーブル》
 信号の減衰が少ない光ケーブルの開発に各社は努力して来ました。 現在は中継なしに、信号を『100km』も伝達出来る様になっています。

 光ケーブル網は陸上だけで無く、海底にも張り巡らされています。

【無線通信の歴史】
 無線通信は、日本がまだ江戸時代だった頃に、アメリカで事業化されました。 当時の先進国は隙あれば他国を攻めて領土を獲得する『植民地政策を”善”』とする時代でしたから、無線通信技術は”軍事技術”として開発/採用されました。

 私の父は、戦前・職業軍人でしたから日露戦争(1904年~05年)について色々話してくれました。 帝政ロシアがバルト海を支配する為に設けていたバルチック艦隊を極東に派遣しようとしました。 帝政ロシアは、遼東半島の旅順港とウラジオストクに艦隊を配置していましたが、バルチック艦隊が旅順港に入る事は不可能な状態になっていました。 その為に、バルチック艦隊はウラジオストクを目指さざるを得なくなっていました。 日本海軍は3ルートを予想していましたが、3ルートを守る戦力を保有していませんでした。

 対馬海峡ルートを通ると賭けて、戦艦を配置しました。 そして、特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」に対馬海峡を監視させました。信濃丸が「バルチック艦隊を見つけた」と無線通信したのです。東郷平八郎・連合艦隊司令長官が捨て身の戦法を採用して、バルチック艦隊をコテンコテンにやっつけました。 当時既に強力な妨害電波を発生させる装置が配備されていましたが、何故か?バルチック艦隊は使用しませんでした。

 第二次世界大戦後に半導体の技術が急激に進歩し→→沢山使用される様になって→→価格が大幅に低下し→→半導体が民生用製品に使用される様になりました。

・・・ 無線通信技術の歴史 ・・・
★ 1834年 :アメリカ人サミュエル・モールスが電信機を発明し→→無線通信(電報)が事業化されて行きました。
★ 1868年 :モールス信号が国際規格になりました。
★ 1870年 :東京―横浜間で国内電報の取扱いが始まりました。
★ 1887年 :エジソンが、列車無線として静電誘導方式無線通信を実用化しました。
★ 1900年 :無線電話の実験が行われました。
★ 1904年 :イギリス人のフレミングが二極真空管を発明しました。
★ 1904年 :アメリカ軍の戦車にトランシーバーが搭載されました。
★ 1905年 :日本海海戦でバルチック艦隊を撃破しましたが、特務艦隊仮装巡洋艦「信濃丸」からの無線通信(電報)が重要な働きをしました。
★ 1920年 :アメリカでラジオの商業放送が始まりました。
★ 1925年 :現在のNHKがラジオ放送を開始しました。
★ 1928年 :アメリカでテレビ放送が始まりました。
★ 1931年 :アメリカでテレックスのサービスを開始しました。 日本では1956年からサービスを開始しました。
★ 1939年 :NHKがテレビの実験放送を開始しました。
★ 1948年 :アメリカでトランジスタラジオを販売開始しました。
★ 1950年 :アマチュア無線局が認められる様になりました。
★ 1950年 :日本でソニーの前身の会社が、トランジスタラジオの販売を開始しました。
★ 1952年 : 松下電器産業(パナソニックの前身)が民生用のテレビを発売開始しました。
★ 1957年 :NHKがカラーテレビ実験放送を開始しました。
★ 1978年 :アメリカ軍がGPS用の試験衛星を打ち上げました。
    『GPS』とは、全地球測位システム(Global Positioning System)の事です。
★ 1990年 :日本が世界に先駆けてGPS式カーナビを実用化しました。(マツダと三菱電機)
★ 2017年 :アメリカでレベル4に相当する自動運転車の実験を実施しました。(走行距離は1,000万マイル≒1600万km)
★ 2021年 :ホンダが自動運レベル3の型式認定を取得しました。(世界初でした。)
★ 2024年 :テスラ社が自動運転レベル5のEVタクシーの試作車を発表しました。 26年に生産を開始する目論見の様です。(価格は450万円程を予定している様です。)

《余談 :自動運転自動車》
 自動運転自動車を実現する為には、高度な無線技術、AIソフト、法整備、道路整備が必要です。 そして、倫理問題についての検討/議論が不可欠です。

 緊急事態が発生して、左右どちらかに曲がる必要が有ったとします。 左に曲がると3人が、右に曲がると1人が死傷する可能性が有ります。 『AIソフト』に、「どちらに曲がるか?」判断させてはいけないと主張する方がいます。 皆さんは、ドウ思われますか?!

 安倍政権の時代に、「2025年までに自動運転自動車を実現する」と言う方針が出ました。 私は、その話を信じて株式投資をして金を貯め→→ほぼ買える金が有ります。 岸田氏も石破氏も自動運転自動車の実現に全く興味が無い様です! 「馬鹿にするんじゃ無いよ!」と言いたいです!

【モバイルの歴史】
 モバイルデバイス(≒モバイル、移動体通信端末 )の歴史を、御参考までに書いてみました。

 私が社会人になった1971年には、ポケベルが有りました。その後、10年ほど経って知り合いの中小企業の社長さん達が車に自動車電話を取り付けましたが、通話料金が高かったので→→電話が掛かってくると→→公衆電話の近くに駐車して→→公衆電話を利用していました。

 私は1996年に小企業(N社)に出向したのですが、N社に携帯電話が2台有り→→遠方に出張する時に持参しました。 出張先が郊外だと、繋がらないケースが多々有りました。

 1998年頃に、近くの大型電気店でPHSのキャンペーンをしていたので、契約しました。 2015年頃に、妻と二人で同じスマートフォンに替えました。中国のファーウェイ社製でした。妻はまだ使用していますが、私のは3年程で発熱する様になったので、Y'mobailで京セラ製のスマートフォンに買い替えました。

・・・ モバイルの進歩 ・・・
★ ポケベル :1968年に日本でも運用開始しました。
★ ノートパソコン :1973年、IBMが持ち運びできるPCの発売を開始しました。 ・・・ネットワーク機能は付いていませんでした。
★ 自動車電話 :1979年に、世界に先駆けて日本で運用が開始されました。
★ 携帯電話  :1982年に日本電信電話公社がサービスを開始しました。
★ 光ケーブル網 :1985年にNTTが日本最初の光ケーブル網(旭川市←→鹿児島市)を設置しました。
★ PHS  :1995年に日本が世界に先駆けてPHSのサービスを開始しました。 (2023年に、日本ではPHSのサービスが終了しました。)
★ スマートフォン :1996年にフィンランドのノキア社がスマホの発売を開始しました。
★ ノートパソコンにネットワーク機能が付いたのは、21世紀になってからです。
★ スマートフォンの普及 :日本では2009年から急激に普及しました。
★ タブレット  :2010年にApple社がタブレットの販売を開始しました。

【通信速度の高速化】
 1980年代に国際的な通信規格『第1世代(1G)』が制定されました。『1G』はアナログ通信の規格でした。 2010年頃に、最初のディジタル通信規格『2G』が出来ました。 その後、短期間に通信速度が飛躍的に早くなって来ました。

《御参考 :5Gの脅威的速度》 5Gだと、DVD画質の『2時間の映画』をダウンロードするのに掛かる時間は、たったの『数秒』だそうです。

(注記: 第6世代(6G))  超!超!高速の『6G』は、コンセプトが提案されていますが、国際規格の制定にはマダマダ時間が掛かりそうです。

(注記: 無線通信の利用)  通信速度が飛躍的に早くなったので、スマートフォンなどの電話以外にも無線通信が活用される様になっています。 電気使用量を計測する最近のメーターは、計測データーを無線で送信していますから、従来の様に人が検針する必要が有りません。 電気の契約/解約の電話を掛けると、(遠隔操作で)直ぐに通電/遮断が行われます。 関西電力の場合は、インターネット(はぴeみる電)を利用すると→→昨日までの使用量をベースに計算して→→来月の支払い予想料金額を教えてくれます。

★ 5G :2018年 ・・・通信速度が4Gの10倍以上
★ 4G :2012年頃
★ 3G :2012年頃
★ 2G :2010年頃 ・・・ディジタル通信規格
★ 1G :1980年代 ・・・アナログ通信規格

【無線電話の種類】
 昔は船舶電話が有りましたが、衛星電話に置き換わっています。 新幹線などに設けられていた列車電話は2021年に廃止されました。

★ 携帯電話 :ガラ携
★ スマホ、タブレット、通信機能付きパソコン
★ 衛星電話 :静止衛星を使用しています。

【無線電話の会社(キャリア会社)】
 現時点で営業している無線電話(スマートフォン)の会社(キャリア会社)は、以下の①~④の4社です。 他に、衛星電話サービスを行う会社が、❶日本デジコムと❷JSAT NOBILE Communicationsの2社が有ります。❶は日本の会社ですが、❷はイギリスのインマルサット社の子会社です。

・・・ 現時点の無線電話(スマホ)の会社 ・・・
① NTT     :ドコモ
② ソフトバンク :SoftBank、Y'mobail
③ KDDI     :au  ・・・J:COMはKDDIの系列です。
④ 楽天モバイル :Rakuten

(注記 :J:COM) J:COMはKDDIと住友商事が株主で、スマホも手掛けていますが、ケーブルテレビ事業が主です。

(注記 :アンテナ料金) スマホのアンテナは、無線電話会社(例えば:NTT)の子会社が新設/維持/管理を行っています。 私有地にアンテナを立てている場合は、地権者に毎年お金が支払われますが、何も言わないとトンデモ無く小額の金しか支払われません。 アンテナが4G用か5G用かで金額に差が有りますが、住宅街で『数万円/年』しか受けっとっていない方が、(私の経験から)上手く交渉したら『20~30万円/年』貰える可能性が有ります。

(注記 :鉄道会社や電力会社) 鉄道会社や電力会社が無線電話事業を行っている様な記事を見掛けますが、無線電話会社にアンテナを建てたせてたり/付けさせたりして→→毎年、借地料を得ているだけです。

・・・ 日本の無線電話(スマホ)会社の歴史 ・・・
★ 日本電信電話公社(NTT) :1952年設立
★ 国際電信電話株式会社(KDD) :1953年にNTTから分離独立して→→設立されました。→→国際電気通信・国際電話を独占していました。
★ 第二電電(株)(DDI) :1984年設立
★ 日本電信電話(株)(NTT) :1985年設立 (民営化されたのです。)
★ ソフトバンク(株) :1986年設立
★ 日本移動通信(株)(IDO) :1987年設立
★ JCOM(株) :1995年設立  ・・・『J:COM』と表示されるケースが多いい。
★ KDDI(株) :2000年に第二電電(DDI)がKDDとIDOを併合して→→社名をKDDI(株)としました。
★ 楽天モバイル(株) :2018年設立

《余談 :最近、驚いたこと》
 紀州のドンファン(野崎幸助氏)事件の判決公判が、12月12日に有りました。 亡くなられた日(2018年5月24日)、野崎幸助氏は二階にいた様です。 容疑者の須藤早貴氏が24日に限って一階と二階を頻繁に昇り降りした事実が、スマホの記録で確認された様です。

 私は、「スマホでそんな事まで分かるのか!」とビックリ仰天しました。

選挙の地殻変動

2024-12-16 17:22:35 | 政治
【はじめに】
 公正性で公平性な選挙が行われる事が民主主義国家にとって最も重要です。 スマホの普及で「選挙の公正性と公平性」が失われ様としています。

 12月11日に放映されたBSフジの『プライムニュース』の『”選挙とSNS”あるべきルールと法規制を徹底検証』を見ました。 河野太郎氏を含め4人のコメンテータが、SNSの問題点、影響、対策について持論を話されましたが、私はピント外れの様に思いました。

 公職選挙法を改正して、インターネット選挙運動(SNS選挙運動)を解禁したのは『2017年』です。 改正に携わった政治家達と官僚達が予想していなかった事態になっていると私は思います。 何らかの制限を設け無いと、民主主義が崩壊してしまいそうです!

【SNS選挙運動と法律】
 選挙のルールは『公職選挙法』に規定されています。 安倍政権の時に、選挙権年齢が18歳に引き下げられ、インターネットを使った選挙運動が解禁されました。

 SNSで、誰でも「○○候補は素晴らしい方ですから、投票しましょう!」と発信する事が出来ます。 居住地に関係なく、国籍もに関係なくSNSで発信する事が出来ます。 多分、発信者の年齢制限が無い様ですから、子供でもSNSで発信する事が出来ます。

 友達だったら電子メール(例えば、LINE)で「○○候補に投票しましょう!」と発信する事が出来ます。 不特定多数に電子メールを利用した選挙運動は禁止されている様です。

★ インターネット選挙運動 :2017年に解禁
★ マイナンバーカード :2016年交付開始
★ 選挙権18歳     :2016年施行
★ 電子投票      :2002年;電磁的記録投票法が施行 ・・・地方選挙のみ

《御参考 :公職選挙法のインターネット選挙運動に関する規定》
 公職選挙法は『e-Gov 公職選挙法』で検索すると全文が読めます。 インターネット選挙運動に関する規定は第142条の3~7です。 私はザット読んで見ましたが、ボリュームが有って、理解するのが難しかったです。 「スマホ愛用者は読む気がしないだろう」と思いました。

★ 第142条の3 :ウェブサイト等を利用する方法による文書図画の頒布
★ 第142条の4 :電子メールを利用する方法による文書図画の頒布
★ 第142条の5 :インターネット等を利用する方法により当選を得させないための活動に使用する文書図画を頒布する者の表示義務
★ 第142条の6 :インターネット等を利用する方法による候補者の氏名等を表示した有料広告の禁止等
★ 第142条の7 :選挙に関するインターネット等の適正な利用

《余談 :電磁的記録投票》
 ほとんどの国民は、忘れてしまわれたと想像しますが、小泉政権の時に、地方選挙に限り『電磁的記録投票』を行って良い事になりました。 2002年に行われた岡山県・新見市の市長/市議会選挙で初めて→→2016年までに25回の選挙で『電磁的記録投票』が行われました。  出典:総務省『電子投票の実施状況』

 「どの方式が良いのか?」、「どの程度効果があるのか?」、「問題点は?」などを調査/検討中の様です。 タッチパネル方式、テンキー方式、ボタン方式が試された様です。

タッチパネル方式 : 投票所に置かれたタッチパネルの画面に表示される候補者を選択すると→→無線で送信され→→集計システムが受信して→→記録して→→投票時間が過ぎると→→短時間で集計結果を出します。 期日前投票の集計に時間が掛かっている様です。

【SNSを活用した選挙】
 今世紀になって、日本でもスマートフォンが急激に普及しました。 私達は、マスメディアが発信する情報の受け手から→→自分の考えをSNCで発信する事が出来る時代になりました。 他人が発信した記事を呼んで→→自分の考えを追加して→→発信しています。 多くの人が興味の有る話題だと→→SNCでの発信数がネズミ算式に増加します。

 我が国の選挙で最初にSNSを活用したたのは、(19年に行われた参議院選挙での)れいわ新選組の山本太郎氏だったと思います。 インターネットで応援者を募り、献金を呼び掛けました。 山本氏は、「献金は『4億円』を超えた」と公表しました。

 24年に行われた都知事選挙では、石丸伸二氏が『166万票(得票率≒24.3%)』で、蓮舫氏を抜いて2位になりました。 予想に反して、石丸氏の票が伸びたのはSNSの活用だったと言われています。

 10月に実施された衆議院選挙では、国民民主党が7議席→→28議席に、得票数を259万人→→617万人に増やしました。 これは、『103万の壁』の廃止を公約した事と、SNSの活用だったと言われています。

 11月に実施された兵庫県知事選挙では、公約論争が吹っ飛んでしまいました。 NHK党の立花孝志とPR会社社長の折田楓氏の活躍で『有る事無い事織り交ぜた』SNS発信合戦になってしまいました。 その惨状は次のブログに書いています。 是非とも読んで下さい!
★ 兵庫県知事選挙から学んだこと :投稿日=2024年11月23日

・・・ SNSを活用した選挙 ・・・
★ 25年8月 :参議院選挙&東京都議会議員選挙の投票日
△ 25年1月20日 :トランプ就任式
★ 24年12月15日 :泉大津市長選挙の投票日 ・・・NHK党の立花孝志が立候補しました。
★ 24年11月17日 :兵庫県知事選挙の投票日
★ 24年10月27日 :衆議院選挙の投票日 ・・・国民民主党が大躍進しました。
★ 24年7月7日 :都知事選挙の投票日
★ 19年 :参議院選挙 ・・・れいわ新選組の山本太郎氏がSNSを活用した選挙戦を行いました。

【泉大津市長選挙】
 昨日(11月15日)、投開票が行われた大阪府の泉大津市長選挙に、NHK党の立花孝志が立候補しました。 立花氏は泉大津市の生まれです。「立花氏がどの程度の票を獲得するか?」注目していました。 立候補者は立花氏(57歳)の他に、3期目を狙っていた現職の南出賢一氏(44歳)の2人でした。 結果は『南出賢一氏の圧勝』でした。

 私は、「立花氏が万一にも当選したら、SNSについて早急に/真剣に対策を検討する必要が有る!」と考えていました。

 立花氏は、兵庫県知事選挙の結果から「自分に対する支持が何によるのか、誤解していた」様に思います。 立花氏のフォローアーの多くは、「現状に不満を持っており、日本を大改革して→→可処分所得を増やして欲しい!」等と考えているのだと私は想像していました。 立花氏が地方都市の市長になっても、フォローアーの生活が改善するとは思えません→→「立花氏を支持するSNSの発信数が少なかったのでは?」と想像しています。

 今回の投票率は、前回に比べ『6%』ほど高かった様です。 投票者数が『4,000人』程多かった計算になりますが、立花氏の得票数は投票者数の増加分ほどしか有りませんでした!

・・・ 泉大津市長選挙の結果 ・・・
★ 南出賢一氏 :得票数=21,700人 (割合≒83%) ・・・44歳・・・当選
★ 立花孝志氏 :得票数= 4,439人 (割合≒17%) ・・・57歳
◎ 市長選挙の投票者数=26,139人 (投票率≒42.8%) ・・・前回より投票率は『6%』ほど高かった様です。
◎ 泉大津市の有権者数=61,027人
◎ 泉大津市の人口=72,796人 (2024年11月1日時点の予想)

《余談 :私と泉大津市》
 私の家は神戸市垂水区に有り、故郷は田辺市龍神村福井です。 妻の実家は空き家になっていますが、田辺市の旧市街に有ります。

 新型コロナが流行し始めた前の年(2019年)までは、車で毎年一、二回帰省していました。 車を利用し始めた頃は、(行も帰りも)阪神高速4号線に有る泉大津市のサービスエリアで休憩していました。 渋滞を避ける為に、往路の時は泉大津サービスエリアに夜中の3時頃に着きました。 レストラン等は閉まっていたので、自動販売機のコーヒーを飲みました。

 泉大津サービスエリアは、11階建てのツインビルです。11階に展望室が有ります。泉大津サービスエリアから和歌山の方に少し走ると→→関空です。

 最初の頃は、三宮で一旦高速を降りる必要が有り、和歌山県の県道や国道が整備不足でした。 その後、道路が種々改善されたのと/ルートに慣れたので泉大津市のサービスエリアは利用しなくなりました。新型コロナの前は、次の様なルートで帰省していました。 往路は昔より『1時間』以上短縮されています。

往路 :神戸の家→→高速→→阪神高速4号線→→紀の川サービスエリアで休憩→→有田インターチェンジ→→県道→→国道424号線→→龍神村福井(私の故郷)→→国道425号線→→龍神温泉宿泊

復路 :龍神温泉→→国道425号線→→国道198号線→→国道216号線→→田辺市の妻の実家→→阪和自動車道→→紀の川サービスエリアで休憩→→阪神高速4号線→→高速→→神戸の我が家