これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その4-1)

2021-09-18 13:34:20 | 民主主義
【はじめに】
 多くの方は、「イギリス、アメリカ、フランスの3か国が民主主義/自由主義が最も進んでいる」と思われている様ですが、私の見方は違います。 この3か国を含め欧米の列強は、自国内では民主化を進めながら、武力で弱小国を植民地化してきました。

 多くの植民地が独立を達成しましたが、宗主国が人道主義に目覚めて解放したのでは決して有りません。各植民地で発生した独立運動が激しくなって、抑えきれなくなり手放しただけの事です。

 今回は日本も関係したベトナムの独立運動の歴史と、イギリスの民主主義化について書きます。 ベトナムの学校では、「日本は悪い国」と教えています。その原因は、本書を読んだら御理解頂けると思います。

第6章 :植民地と民主主義
【植民地化政策は民主主義に反します!】

 覇権主義や植民地化政策は、民主主義に反すると思います。然し、イギリス、アメリカ及びフランスは、国内の民主主義化を進めながら、弱小国に侵攻して植民地化を罪の意識無しで行いました。 第二次世界大戦が始まる前には、多くの国が植民地にされていました。

 第二次世界大戦中に東南アジアで日本が解放した国では、日本軍が撤退した後、元の宗主国が軍隊を派遣して、再植民化を進めました。各国で独立運動が起こり、最終的には独立を達成しました。 その典型的な、ベトナムの歴史を次に書きます。

【ベトナムの歴史とベトナム戦争】
 1847年にフランスが、ベトナムの植民地化政策を始めました。1889年にカンボジア等を含めたベトナムの植民地化が完了しました。 独立運動の初期の組織として、1930年にホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党を設立し、 1939年に安南皇族のクォン・デらが上海で『越南復国同盟会』を結成しました。

 第二次世界大戦が始まるとフランスは短期間でドイツに降伏して、1939年にヒットラーの思想に近いヴィシーが政権を樹立しました。 ヴィシー政権は、ベトナムを含めて、植民地の経営を引き継ぎました。 日本とドイツは同盟国でしたので、日本とフランスは準同盟国の様な関係になりました。 日本はベトナムを南方作戦を行う為の兵站基地にしたいと考えていました。

 日本はフランスのベトナム統治機関と「ベトナムを植民地にしている事を認め、独立運動を支援しない代わりに、日本軍が駐留して兵站基地を設ける事を認めてくれ!」と交渉しました。交渉は成立して無血で進駐する事になりましたが、一部の軍が暴走して、少し小競り合いが発生しました。 (40年に、日本軍はベトナムに進駐しました。)

 越南復国同盟会は、「日本軍は戦闘をしてベトナムに侵攻するだろう!」と予測して、日本軍が進駐を開始する少し前に、ベトナムで独立闘争(戦闘)を始めました。 然し、日本の支援を得られ無かったので、フランス軍に敗北しました。 第二次世界大戦中に、幾つかの集団が小規模の独立闘争を起こしましたが、日本は原則として中立を維持しました。

 1944年にヴィシー政権が倒れて、ドゴールのフランス共和国臨時政府が発足しました。臨時政府がベトナムを含めたフランスの植民地の経営を継承しました。 この時点で、フランスは日本の敵対国になったのです。 然し、後術の明号作戦が開始されるまで、日本軍とフランス軍の衝突は有りませんでした。

知って欲しい事 :1945年のベトナムの飢餓 :1944年のベトナムでは、❶北部が大規模水害と低温に見舞われ米が不作だった、❷フランスと日本軍が多量に食糧を調達した、➌連合国が鉄道網を空爆して南部から北部への食糧輸送が難しくなった、➍44年の冬が非常に寒かった、等の原因でベトナム北部で40万人~200万人が餓死しました。 ホー・チ・ミンが、「飢餓の責任は日本に有る」と宣伝して、国民の支持を得ようと画策しました。 現在でも、ベトナムの教科書では日本は悪者扱いされている様です。

明号作戦 :1945年3月、日本軍が不意を突いてフランス軍を攻撃し、制圧しました。フランス軍の一部は中国に逃走しました。

 日本が降伏した後、ベトナム北部は中国(蒋介石)が、南部はイギリスが統治する事になりました。 然し、北部では直ぐにホー・チ・ミンが共産主義の北ベトナムを建国し、南部にはフランス軍が進駐しました。 1946年からフランスと北ベトナムが戦争を始めたのです。これを、『第一次インドシナ戦争』と呼びます。

 1949年、フランスは傀儡政権(ベトナム国)を設け、ベトナム人の軍隊を編成させて一緒に戦う体制を作りました。思うように事が進まなくなって、フランスは1954年に軍隊を引き揚げました。

 アメリカは1950年に軍事顧問団をサイゴンに派遣し、その後・ドンドン深みにはまって行きました。フランス撤退後は、アメリカが中心になって『南ベトナム(ベトナム共和国)』を支援しました。

南ベトナムで頻繁に発生した軍事クーデター :民主主義/自由主義の経験が無い国に、民主主義を伝える為の傀儡政権を作ったら、国民の多くが「民主主義/自由主義は素晴らしい」と感じる様になるまで、半世紀以上に渡って支援し続ける必要が有ると私は考えます。そして、傀儡政権の軍隊を完全に文民統制にする事が肝要です。

 南ベトナムでは、将官達が自分が掌握する部隊を使って軍事クーデターを起こし、国のトップになろうとしました。10回以上も軍事クーデターが発生しました。 傀儡政権は、首都サイゴンにクーデターを防止するために多数の兵を駐屯させました。 その部隊の中からクーデターを起こす輩が出たのです。傀儡政権のトップにとっては、ベトコンよりもクーデター対策の方が重要だったと想像します。

 1973年にアメリカ軍が撤退し、76年にベトナムは共産国家として再統一されました。私が機械を輸出した1998年頃のベトナムは、工業化が進まない貧しい国でした。21世紀になって西側諸国からの投資で、工業化が進んでいる様です。今のところは、中国よりも国民は自由に暮らしている様に見えます。

 ベトナムには選挙制度が有ります。政党は共産党しか認められていませんが、無所属でも立候補出来ます。但し、立候補者を共産党が審査しています。 

(余談 :私の懸念) 将来・豊かな国になると、共産党の幹部に賄賂を渡して便宜を図ってもらおうとする輩が必ず出てきます。一党独裁では自浄作用が期待出来ませんから、共産党が民心から離れて行って、「(中国の様に)軍隊や警察で国民を抑え込む国家になるのでは?」と私は危惧しています。

(余談 :共産主義) マルクスの共産主義の考え方は、「土地と生産設備を国有化して、労働者の為の国家に変える」でした。1919年に共産党がほぼ政権を掌握しようとしていたロシア(ソビエト)が中心になって、各国の共産党の闘争を助け合う『コミンテルン』が結成されました。然し、ホー・チ・ミンの考え方は、「他国の事より、ベトナムを独立させて、共産化する」でした。

★ フランスが侵攻開始 :1847年
★ フランスの植民地 :1889年~
★ ベトナム共産党 :1930年・・・ホー・チ・ミンが中国(香港)で設立。
★ 越南復国同盟会 :1939年・・・安南皇族のクォン・デらが中国(上海)で設立。
★ 日本軍の進駐 :40年~45年
★ ヴィシー政権の崩壊 :44年→→フランス共和国臨時政府(ドゴール首席)
★ 明号作戦 :45年3月9日
★ 日本の降伏 :45年8月
★ 八月革命 :45年8月・・・北ベトナム(ベトナム民主共和国)を建国。
★ フランス第四共和政 :46年~58年
★ 第一次インドシナ戦争 :46年~54年・・・フランスと北ベトナムの戦争
★ ベトナム国 :49年~55年・・・フランスの傀儡政権
★ アメリカの軍事顧問団 :50年・・・トルーマン大統領の時代でした。
★ フランスの撤退 :54年
★ 南ベトナム(ベトナム共和国) :55年~75年
★ ベトコンの結成 :60年・・・正式名は『南ベトナム解放民族戦線』です。
★ 第二次インドシナ戦争 :60年~75年・・・『ベトナム戦争』とも呼ばれる。
★ アメリカが介入 :61年・・・ケネディ大統領の時代でした。
★ アメリカ軍の撤退 :73年
★ 南北再統一 :76年

【現在の植民地】
 第二次世界大戦後に独立運動が激しくなって、欧米諸国は植民地を解放(放棄)しました。 民主主義や人道主義の考え方で解放した分けでは決して有りません。「大戦で国力が低下した欧米諸国が、激しくなる抵抗を抑えて、植民地を維持するのが難しくなったからだ」と私は思います。

 現在でも一部の植民地は解放していません。次で検索して見て下さい。(ビックリされる程、沢山残っています。)
 ウイキペディア 『海外領土・自治領の一覧』

 時々・問題になるのが、キューバに有る『グァンタナモ米軍基地』です。グァンタナモ米軍基地については、次回に書きます。

第7章 :イギリスの民主化
【イギリスの基礎データ】

 イギリスの正式な国名は、『グレートブリテン及び北アイルランド連合王国( United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)』です。

 昔のイギリスの人口は、ビックリされるほど少ないです。ウイキペディアのデーターを書いておきます。
1200年≒350万人、1300年≒500万人、1400年≒350万人、1500年≒500万人、1600年≒625万人、1700年≒925万人、1800年≒1,600万人、1900年≒4,200万人、1950年≒5,400万人、

★ 人口 :6,645万人(2018年)  (日本≒12,536万人・・・2021年)
★ 面積 :24.5km2 (日本37.8≒万km2)
★ 民族 :イングランド人83%、スコットランド人8%、ウエールズ人5%、アイルランド人3%
★ 一人当たりのGDP :39,229ドル(2020年) (日本≒42,928ドル・・・2021年) ・・・MER

【イギリスの年表】
 民主主義の進歩と言う視点で、イギリスの年表を作成しました。

 日本の鎌倉時代の1215年にイギリスでは上院(貴族院)が出来て、民主主義化の一歩を歩み始めました。 国内であまり血を流すことなく、少しずつ民主化が進みました。1574年には農奴解放を完了しました。 然し、海外では16世紀頃から、(習近平政権の様に)覇権主義政策で弱小国を植民地化して、沢山の血を流す事になりました。

 植民地から得た富がイギリスに蓄えられ、手工業と商業が発展しました。その結果、イギリスで第一次産業革命が起こり、イギリスは更に発展し、世界の強国になりました。第一次産業革命で得た工業技術が、日本を含めた多くの欧米諸国に広がり、世界は豊かになっていきました。

 イギリスは二度の大戦の戦勝国だったので、古い伝統が今でも沢山残っています。 その中には良い点も有りますが、悪い点も多々有ります。

★ 大憲章(マグナ・カルタ) :1215年・・・イングランド国王の権限を制限する憲章(基本的なおきて)・・・当時は貴族や聖職者の議会しか無かった。
★ シモン・ド・モンフォールの議会  :1265年 :貴族、聖職者、騎士(中小地主)及び都市代表者を集めた会議でした。
★ 模範議会 :1295年 ;貴族、聖職者と庶民の議会
★ 庶民院(下院) :下院は14世紀に長い時間を掛けて成立しました。
★ ワット・タイラーの乱 :1381年・・・農民の反乱
★ 宗教改革 :1534年~59年
★ イギリス東インド会社 :1600年~1858年→→インドの植民地化
★ 清教徒革命 :1642年~1549年 ; 絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服
★ 王政復古 :1660年
★ ハドソン湾会社 :1670年・・・北米大陸との貿易を目的に設立されました。(現在はカナダに本社が有ります。)
★ 王立アフリカ会社 :1672年~98年・・・奴隷貿易
★ 名誉革命 :1688年~89年 ;クーデターです。
★ グレートブリテン :1707年 ;イングランドとスコットランドが合併
★ 産業革命 :1760年代~1830年代→→ブルジョア階級の成長、都市の発展
★ 連合王国  :1800年、グレートブリテンとアイルランドが合併
★ 第一回選挙法改正 :1832年、下院の選挙権を産業資本家など中間層に拡大した。(男性のみ)
★ 第二回選挙法改正 :1867年、下院の選挙権を都市労働者上層に拡大した。(男性のみ)
★ 第三回選挙法改正 :1884年、下院の選挙権を農村働者に拡大した。(男性のみ)
★ 議会法 :1911年
★ 第四回選挙法改正 :1918年、下院選挙で21歳以上の男性と30歳以上の女性に選挙権を与えた。

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ アイルランド自由国 :1922年 ;独立
★ 第五回選挙法改正 :1928年、下院選挙で21歳以上の男女に選挙権を与えた。(普通選挙
★ 議会法 :1949年・・・上院の権限を縮小して、下院が上位で有る事を明確にした。
★ 一代貴族法 :1958年、一代限りの貴族を定期的に創設し、貴族院議員にする制度。
★ サッチャー首相  :1979年~90年・・・サッチャーは貴族院(上院)議員でした。
★ 貴族院法 :1999年、世襲貴族が貴族院議員を世襲する制度を廃止した。
★ 憲法改革法 :2005年、貴族院(上院)の司法権を廃止した。
★ 最高裁判所を設立 :2009年、(それまでは、最高裁判所の役割を貴族院がしていた。)

【議会制度】
 イギリスで近代的な議会制度が始まったのは、1215年の大憲章(マグナ・カルタ)の制定からですから、800年の歴史が有ります。。国王の権限を制限する方向になっていきました。上院(貴族院)/下院(庶民院)の二院制度は1330年からです。

 後で出来た下院は、初期には権限が殆ど有りませんでしたが、次第に力を付けて来ました。そして、下院が上院の権限を少しずつ剥奪する様になりました。

 上院には現在でも選挙は有りません。上院の議員は、貴族と英国国教会の聖職貴族で、議員になったら死ぬまで議員です。 上院は近年まで最高裁判所の役割をしていました。

 首相と大臣は、上院議員か下院議員の中から選ばれます。現在では、下院議員が多いいですが、サッチャー氏は上院議員でした。

(豆知識 :下院議員の辞職) 下院議員が辞職する事は出来ない事になっています。如何にもイギリス的な逃げ道を用意しています。 官職に就くと議員を辞職する制度が有るので、実態の無い官職に任命するのです。近年ではキャメロン首相は『ノースステッド荘園執事』に任命して貰って、議員を辞めました。

【農奴解放】
 イギリスも昔は農奴制でしたが、1381年の『ワット・タイラーの乱』から農奴制度は衰退し、1500年頃にはほぼ廃止され、1574年には完全に廃止されました。 (ヨーロッパ諸国では、早い方でした。)

(余談 :奴隷貿易) 15世紀~19世紀の前半に、アフリカの王国が奴隷狩りで集めた人間を→→ヨーロッパ諸国の商社が購入して→→アメリカ大陸に運んで→→奴隷として売りました。 イギリスは16世紀には、自国の農奴は解放しましたが、1672年に、奴隷貿易をする『王立アフリカ会社』を設立しました。 イギリスで奴隷貿易が禁止されたのは1807年です。 (1,200万人ほどの奴隷がアメリカ大陸に運ばれた様です。)

 奴隷貿易が次第に下火になった理由は、❶奴隷狩りの対象民族の人口減(取り過ぎ)→奴隷の現地価格が上昇した、❷南米の農産物価格が低下して奴隷を購入するのが難しくなってきた、➌奴隷が生んだ子供(=奴隷)が増加して→自給自足状態になった。 ヨーロッパ諸国で人道主義が芽生えて、奴隷貿易を止めた分けでは決して有りません。 当時は日本の方が、人道主義的だったと思います。

【植民地政策】
 日本では『関ヶ原の戦い』が有った1600年に、イギリスではインドに進出する目的で『イギリス東インド会社』を設立しました。 その後は、アジア以外にも、南北アメリカ、アフリカ、オセアニアに進出しました。

 イギリスが植民地化して、貿易収支が何時も黒字になった分けでは有りません。イギリスはインドに毛織物を輸出しようと目論見ましたが、暑いインドでは殆ど売れませんでした。インド産の綿花は、イギリス内で需要が有りました。(貿易収支が赤字になったのです。) 輸入した綿花を手工業で布(更紗)にして、インドに輸出しました。 これで、イギリスの手工業が発展する事になりました。

アヘン戦争 :1840年~42年 ;1757年に清国は広東港でヨーロッパ諸国との貿易を始めました。 イギリスから中国に輸出出来る製品は殆ど無かったのですが、中国産の『茶』の需要がイギリスで爆発的に高まりました。 困ったイギリスは、英領インドで阿片(アヘン)を作って中国に持ち込みました。当時の中国はアヘンを禁止していたので、イギリスと戦争になったのです。(欧米諸国で麻薬が禁止される様になったのは第二次世界大戦後だったと思います。当時は薬の一種と考えられていました。)

 イギリス軍✙インド軍≒1.9万人に対して、清国軍≒20万人が戦いましたが、イギリス側の圧倒的な勝利に終わりました。清国が多額の賠償金を支払い、香港を割譲して和睦しました。

★ 英領インド :インド✙パキスタン✙バングラデシュ✙ミャンマー✙スリランカ
★ 北アメリカ :アメリカ✙カナダ
★ 南アメリカ :島国を沢山領有しました。
★ アフリカ :南アフリカ✙エジプト✙・・・非常に多くの国がイギリスの植民地になりました。
★ オセアニア :オーストラリア✙ニュージーランド✙・・・他多数

(豆知識 :王室属領) 日本では話題になりませんが、イギリスの王を元首とする『王室属領』が今でも存在します。 ❶チャンネル諸島(人口≒16.4万人)、❷マン島(8.6万人)

【第一次産業革命】
 産業革命が起こる前のヨーロッパ諸国の物作りは手工業でした。布の主原料は羊毛で、綿花では有りませんでした。手工業は農村部で行われていました。 イギリスは、手工業の時代には大陸の国より少し劣っていました。 裕福な商人達が増えて来ていました。

 何故?イギリスで最初に産業革命が起こったのか? 私の考えた答えは、❶農奴解放が一早く(16世紀)に行われ、農民が工場労働者に転職出来た、❷植民地(インド)から得られる利益が大きく、資本の蓄積が出来る様になっていた、➌奴隷貿易による莫大な利益、➍植民地から綿花が多量に入手出来た。

 産業革命の原動力になった発明/開発を下に列記しました。 (★印はイギリスで、△印は他国での発明/開発を示します。)

 機械化によって量産出来る様になっただけで無く、品質も大幅に向上しました。 工場の建設に多額の金が必要になりましたが、超豊かなブルジョアを誕生させる事にもなったのです。

★ ワットの蒸気機関 :1769年に開発しました。
★ 紡績機 :1779年に発明・・・糸にする機械
★ 力織機 :1785年に発明・・・布を織る機械
△ 蒸気船 :1783年、フランスで実用化されました。
★ 実用的蒸気機関車 :1825年に開発しました。
★ 直流モーター :1832年に発明・・・電源は電池でした。(発電機は実用化されていませんでした。)
△ 発電機 :1852年~54年頃にハンガリー人が試作機を完成しました。







ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その3)

2021-09-11 06:31:17 | 民主主義
【はじめに】
 今回は、アフガニスタンについて書きます。このシリーズは、「各国で民主主義化がドンナニして進んだか?」がテーマですが、有史以来アフガニスタンは戦争に明け暮れていて、女性蔑視のイスラム教国ですから、民主化は殆ど進んでいません。 今世紀中に民主化するとも思えません。アフガニスタンの民主主義化がドンナニ難しいか!と言う話になってしまいました。

 グーグルアースで日本を見ると「緑豊かな国だ!」と実感しますが、アフガニスタンは真逆の国です。国土は日本の2倍ほど有りますが、禿山が大半です。夏は暑く、冬は氷点下20度にもなり、降水量は非常に少ない厳しい自然環境の国です。

 現在は世界の最貧国の一つですが、手付かずの地下資源が豊富にあることが分かってきました。アフガニスタン人が内戦をやめて、神の恵みの地下資源を活用したら、豊かな国になれる可能性は十分有ります。然し、タリバンがイスラム原理主義を固守する限りは、内戦は収まりそうに有りません。

 中国が、非人道的な手段を駆使して反タリバン勢力を徹底的に弾圧したら、数年以内に内戦は収まる可能性が有ります。 アフガニスタンがテロの温床で無くなるのなら、(口先では非難すると思われますが、)欧米諸国はタリバンと中国軍による虐殺を容認すると予想します。

第5章 :アフガニスタン
【アフガニスタンの基礎データ】
 アフガニスタンには10を超える民族が住んでいて、一番多いいのはパシュトゥーン人(42%)です。 アフガニスタン人が大切にするのは、❶親族→❷一族→➌部族だと言われています。 無数の部族があり、部族集団が有ります。

 現在の主都『カブール』はタジク人の拠点でした。1776年に、パシュトゥーン人が主流だったカンダハールから遷都したのです。平野部に住むタジク人は、時の政権に協力的でしたが、山岳地帯に住むタジク人は反王朝の活動(戦闘)をするのが常でした。

 貿易収支が大幅な赤字の国です。(他国からの支援無しでは国民を食べさせることが出来ない国です。)

★ 人口 :3,750万人(2021年)
★ 面積 :65.2km2 (日本の約2倍)
★ 1人当たりのGDP :499ドル・・・世界の最貧国の一つです。
★ 多民族国家 :パシュトゥーン人(42%)、タジク人(27%)、ウズベク人、トルクメン人、ハザーラ人・・・
★ 宗教 :イスラム教;スンナ派(85%)、シーア派(14%)
★ 公用語 :パシュトー語、ダリー語(タジク人の言語)・・・ほぼ各民族が異なる言語を話す。
★ 輸出 : 8.75億ドル(2018年)・・・麻薬を輸出した金は含まれていません。
★ 輸入 :74.06億ドル(2018年)・・・31%が食品です。
★ タリバンの兵力≒6万人、支援してきた軍閥≒10万人

【アフガニスタンの歴史】
 大昔のアフガニスタンの歴史を勉強するのは難しいです。隣国と陸続きですから、国境は安定していません。昔のアフガニスタンの中心都市は『ヘラート』でした。その周辺がどの国に支配されていたか?ドンナ戦いが有ったのか?・・・を調べてから、アフガニスタン全体の歴史を勉強されると分かり易く/面白くなります。

 アフガニスタンには、近隣諸国が何回も侵入しました。 強大な軍隊を持ったアレキサンダー大王、モンゴル帝国、チムール大王、大英帝国、ソ連などが侵攻しましたが、長期間支配する事は出来ませんでした。 それで、アフガニスタンを『帝国の墓場』と呼びます。

 アフガニスタンは、外敵が侵攻すると戦い、外敵が撤退すると部族間で戦う事を繰り返して来た国です。

 大英帝国とソ連は19世紀にアフガニスタンの国境を、両国にとって都合の良い様に勝手に決めました。その国境は現在もほぼ引き継がれています。(この問題は後で書きます。)

 1978年に左派で一党独裁のアフガニスタン民主共和国が誕生しましたが、反政府運動は収まりませんでした。1979年に左派政権を支援する為に、近代兵器を装備したソ連軍が侵攻しました。民間人の犠牲を殆ど考慮しないソ連軍が、10年間も駐留しましたが、反政府運動を抑えられず1989年に撤退しました。

 反政府運動の有力な軍閥集団だったタリバンが1996年に国土の3/4を支配して、タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)を発足させました。 承認する国は少なかった様ですが、国連に大使を派遣していた様です。 『北部同盟』が反政府運動(戦闘)を続けました。

 2001年に9.11テロ事件が発生し、アメリカからの「アルカイダの指導者・オサマ・ビンラディンの引き渡し要求」を拒絶したために、アメリカが侵攻したのです。北部同盟を主体にした傀儡政権を設け、20年間も支援し続けましたが、タリバンなどの反政府活動を収める事が出来ませんでした。

 アメリカはCIAと特殊部隊を投入して、10年後の2011年にオサマ・ビンラディンがパキスタンに潜伏している事を突き止めて、殺害しました。 この時点で、当初の目的は達成したのですから、撤退すべきだったと私は考えます。 「アフガニスタンを民主主義国に変えたい」と言う目標に変更して、泥沼にはまってしまった様に見えました。 そして、アメリカも『帝国の墓場』に葬られたのです。

★ アレキサンダー大王の侵攻 :紀元前4世紀
★ モンゴル帝国の侵攻 :13世紀
★ チムール大王の侵攻 :14世紀
★ 第一次アフガン戦争 :1839年~42年・・・イギリス東インド会社軍が侵攻したが、反乱軍に敗れて撤退した。
★ イランのカージャール朝の侵攻 :1856年
★ 第二次アフガン戦争 :1878年~80年・・・イギリス軍が侵攻し、イギリスの保護国になる事を条件に撤退した。
★ アフガニスタンとパキスタンの国境 :1893年・・・パシュトゥーン人の居住地域をイギリスが勝手に分割し、一部をパキスタンに含めた。
★ 第三次アフガン戦争 :1919年・・・イギリスに勝利して→→独立(アフガニスタン王国)
★ アフガニスタン王国 :1926年~73年
★ 第二次世界大戦 :  ・・・アフガニスタンは中立を貫いた。
★ 立憲君主国 :1964年
★ アフガニスタン共和国 :1973年~78年
★ アフガニスタン民主共和国 :1978年~92年
★ アフガニスタン紛争 :1979年にソ連軍が侵攻~89年にソ連軍が撤退した。
★ アフガニスタン紛争 :1989年~2001年・・・内戦
★ タリバン政権 :1996年~2001年;国土の3/4を支配した。
★ 9.11テロ事件 :2001年
★ アメリカと有志連合の侵攻 :2001年10月~2021年8月
★ 傀儡政権 :タリバン政権と戦っていた『北部同盟』が中心でした。
★ タリバン政権 :2021年~

【国境を接する国】
 日露戦争に敗れたロシア帝国は、中央アジアへの進出を図り、成功しました。(現在のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン)

 イギリスは、インドの一部を植民地化し、さらにパキスタンに侵攻し英領インドの一部にしました。 イギリスとロシア帝国は、アフガニスタンを緩衝地帯にして、互いの植民地が直接接し無い様にしたのです。この時、両国に取って好ましい国境線を引きました。

 パキスタンとタジキスタンの間に、アフガニスタンの細長い領土が有り、それが中国の新疆ウイグル自治区にまで続いています。これは、緩衝地帯として設けたのです。

 イギリスが、第二次アフガン戦争の後でパシュトゥーン人が住んでいた地域を分割して一部をパキスタン領にして→英領インドにしてしまいました。それまでのアフガニスタンはパシュトゥーン人が多いい国だったと思いますが、現在は42%程です。この分割が無かったら、パシュトゥーン人の割合が60%以上になっており、アフガニスタンはもう少し平和だったと思います。

 国境を接している国は①~⑥の六か国で、国境の総長さは『5,532km』も有ります。国境の殆どが山岳地帯で監視兵がおらず、ヘンスも鉄条網も設けられていません。 道路の無い国境線を超える事は大変ですが、いざという時はほぼ自由に超えられます。

(余談 :パキスタンのパシュトゥーン人) 上記の分割でパシュトゥーン人は、パキスタンにも沢山住んでいます。現代、パキスタンの人口の13%~16%程がパシュトゥーン人の様です。経済的に成功して、豊かな暮らしをしている人が多いい様です。

① 中国 :新疆ウイグル自治区・・・国境長さ=76km
② パキスタン :1858年から1947年まで、英領インド帝国・・・国境長さ=2,430km
③ イラン・・・国境長さ=936km
④ トルクメニスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=747km
⑤ ウズベキスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=137km
⑥ タジキスタン :ソビエト連邦の構成国だった。・・・国境長さ=1,206km

【アメリカの失敗】
 2001年から20年間、アメリカと有志連合国はアフガニスタンに侵攻/駐留して、傀儡政権を維持して来ました。アフガニスタンは世界の最貧国の一つで、初等教育さえ十分に行われていない国です。有史以来、外敵と戦うか!/内戦をするか!絶える事無く戦いが続いて来た国です。アメリカは民主主義で平和な国に変えようと考えていたと思われますが、金と力(軍隊)で目的を達成しようとしました。

 『民主主義とは何か?』根本に立ち返って、アメリカは統治方法を考えるべきだったと思います。 国民(民衆)の多くが「自分達が国家の主人だ」、「民主主義・自由主義は素晴らしい!」と思う様にならなければ、金を幾ら援助しても民主主義国家にはなりません。

 戦後、アメリカ(GHQ)は7年間ほど日本に駐留して、日本の民主主義化を進めました。 「何故?日本が短期間に覇権主義国家から脱却して、民主主義化を始めたのか?」・・・分析すべきだったと思います。 戦後、日本が平和で民主主義的な国に生まれ変わった要因は、以下の①~⑥だと私は考えます。

 給料がもらえる仕事が有る事は、社会不安を起こさない良薬です。戦後5年程して(1950年頃)、日本はベトナム特需等のお蔭で経済活動が再開して、仕事が増えました。私の故郷の男性達は出稼ぎを始めました。戦後の困窮状態が長く続いていたら、過激な思想を持つ人が増えて、社会は安定しなかったと思われます。

 ★★★ 戦後、日本が平和で民主主義思想が広がった要因 ★★★
① 治安の維持 :銃器保持を許可制にした。
② 初等中等教育の義務化 :戦前に尋常小学校までは義務教育であった。戦後直ぐに小学校と中学校が義務教育になった。
③ 仕事/就職先の確保 :特需で生産が再開して、その後・工業化が進み→仕事が増えた。
④ 人口爆発の防止 :1945年=7,200万人、67年=1億人、08年=1.28億人(ピーク)
⑤ 男女平等の考え方が少しずつ広がった。
⑥ 報道の自由

【日本人の殺害】
 アフガニスタンで日本人が二人殺害されています。 2008年に人道支援活動していた伊藤和也氏がタリバンに、2019年には住民の為に色々な活動をしていた中村哲医師が何者かに殺害されました。日本人の多くは、「貴国の為に働いていた人を何故殺すのか?」と憤(いきどお)ったと思われます。

 当時。アメリカの傀儡政権とタリバンなどの反政府軍が戦っていたのです。傀儡政権にとって都合の良い事は、反政府軍は潰す必要が有るのです。「支援活動だから何処でやっても素晴らしいことだ」と考えるの間違っています。民主主義的な行動を、他国で行う時は熟慮が必要です。

【地下資源と中国】
① アメリカは2010年に100兆円規模の地下資源が有ると公表しました。

② アフガニスタンを調査した中国が、2020年に「100兆円~300兆円ほどの地下資源が眠っている」と言う地図付きの報告書を発表しました。 「中国は地下資源の採掘事業に、既に450億円ほど投資している」と言う報道も有りました。

③ タリバン政権にとって緊急の課題は、政権を維持する為の『金』だと思われます。欧米諸国からの援助が期待出来ないので有れば、地下資源の採掘権を売る以外にはなさそうです。 買いそうな国は中国以外には有りません。タリバン政権は直ぐにでも金を入手したいはずですから、中国は買い叩いて先ずは採掘権を確保するでしょう。

④ 採掘現場はテロの絶好の対象ですから、投資を始める前に治安の維持が不可欠です。 然し、アフガニスタンには、アルカイダ、アメリカの傀儡政権(旧北部同盟)の残党、新疆ウイグルから入ってきている武装集団、反タリバン部族、イスラム国(IS)など、テロを起こす可能性が高い武装集団が多数存在します。

【中国が成功するためには】
 中国は、イランの協力を得てタリバン政権を支援する様です。 私は、習近平ならアフガニスタンを思いのままに操れる様に思います。 新疆ウイグル自治区、北朝鮮、香港で実績の有る手段を駆使すれば、百戦錬磨のアフガニスタン人でも抵抗は難しいでしょう!

 2014年にロシアがクリミヤ半島を併合しましたが、陸続きの中国がアフガニスタンを制圧する事は可能と予想しますが、反中国運動が続いて、結局は今回のアメリカの様に退却せざるを得なくなると思われます。

 習近平が、アフガニスタンを支配下に置く真っ黒いシナリオを考えて見ました。

❶ 地下資源の採掘権 :タリバン政権は、現在・『喉から手が出る』ほど外貨を必要としています。中国は足元を見て、安い値段で採掘権を買うでしょう。採掘で得た利益の一部を渡す契約にして、タリバン政権を(北朝鮮の様に)『生かさず殺さず』の状態にする。

❷ 賄賂をばら撒く :採掘権を中国以外に売らせない、中国の要求に従う様に、政府の高官に賄賂をばら撒き続ける。(賄賂漬けにする事は、多くの国で実施しており、ノウハウは十分蓄積しています。)

➌ 軍閥制のタリバン兵を文民統制の軍隊組織(国家の軍隊)に変える必要が有ります。軍閥の首領達が大反対すると想像されるので、中国は、先ず数万人規模の陸軍を投入して、反対派を徹底的に弾圧する。(何故?この改革が必要か?は巻末に書きます。)

➍ 徹底的な情報統制を敷く :新疆ウイグルでやっている様に、西側の記者やカメラマンを完全にシャットアウトする。

❺ 監視カメラ網を設け/広げ、情報技術(IT)を駆使して、国内の不穏な動きの有無をチェックする。 アフガニスタンの国土面積は新疆ウイグル自治区の40%程ですから、監視カメラ網を張り巡らす事は可能と思います。 中国は他国民の生命/財産/自由を尊重する国とは思えません。この点ではタリバンと意見が一致するでしょう! 中国の情報技術(IT)と非人道主義的な暴力(軍隊)を投入したら、アフガニスタンの治安は良くなると推察します。

❻ 武器の提出命令 :タリバン政権に、個人の武器所有を禁止する命令を出させる。(許可なく個人が武器を所有したら、処刑すると書き加える。)

❼ 平野部の武装解除 :平野部で徹底的な『刀狩り』を行う。徴収した武器は完全に住民の目の前で破壊する。反抗する人間がいたら、周辺に人がいても容赦無く射殺/爆殺する。女性や子供を誤って殺しても、兵士は処罰しない。(2019年に香港のデモ時に、活動家3名を警察官が射殺しましたが、実行した警察官は処罰しなかったと思います。)

❽ 山岳部の武装解除 :山岳部を10ブロック程度に分けて、ブロック毎に武器を提出する期限付きの命令を出す。 一番抵抗が激しそうなブロックから、『刀狩り』を始める。 武器の提出を拒む一族や部族には、ナパーム弾等を用いて、見せしめのために徹底的に全住民を殺害する。
 「中国は、協力する人間の生命・財産は保障するが、抵抗する人間は(北朝鮮がやっている様に)一族諸共抹殺する」とアフガニスタン人に認識させるのです。

(平野部と山岳部を区別する理由) 平野部では近代兵器が使用出来ますが、山岳部には道路網が殆ど無く歩兵や特殊部隊しか投入出来ません。中国軍の損害を抑える為には、軍事衛星やドローンを活用して、無慈悲な『モグラ叩き』作戦を行うだろうと予想します。

(中国の問題点) 中国が他国に投資を始めると、非常に短期間に多額の金を投入するのが問題です。 その国の経済が急激に変化して、不満を持つ人が多くなるのです。 この面では、中国の投資によって内戦が活発化する可能性が有ります。

(余談 :一帯一路計画) 中国は、治安の悪いアフガニスタンを避けて『一帯一路計画』を進めて来ましたが、治安が改善しそうになったら、アフガニスタンを『一帯』に含めると思います。 この点でも、中国にとってアフガニスタンの治安を改善する事は重要です。ソビエトとアメリカはアフガニスタンに駐留しても経済的なメリットは有りませんでしたが、中国には経済的利益を得る可能性が有ります。 アフガニスタンがテロの温床にならなければ、欧米諸国は中国の進出には反対しないと思われます。

【タリバンと女性の問題】
 タリバンはスンナ派の中のイスラム原理主義の集団です。パシュトゥーン人、タジク人など、複数の民族が参加しています。 タリバンが結成される前からイスラム原理主義の思想に近い考え方を持った部族が有った様ですが、女性の教育などを認めた(反イスラム原理主義的な)部族の方が多かったと私は見ています。

 傀儡政権が統治していた20年間、タリバンが支配していた地域では、(住民の支持を得る為に)イスラム原理主義を厳格には押し付け無かった様です。

 イスラム原理主義であるタリバンの最大の問題点は、「女性をどう扱うか?」だと思います。(イスラム教国の多くは、女性に対する差別を少しずつ無くして、女性を教育し、職に付く事を認めて来ました。) イスラム原理主義者は「女性の教育は不要だ!」と主張しています。更に、親族以外の男性が女性に触れることを禁じています。 女性は医者や看護婦になれなくなってしまいます。 女性が病気になっても、親族に医者がいなかったら診てもらえません。女性が入院出来る病院も無くなってしまいます。

 タリバン政権の課題の一つは、「イスラム原理主義を現実の世界に合う様に修正出来るか?」だと思います。彼らにとっては、苦渋の決断が必要なのです。

【麻薬ビジネス】
 アフガニスタンは農業国です。輸出出来る農産物は少なく、アヘンとヘロインの原料になるケシの栽培を続けてきました。(全世界の生産量の80%を、アフガニスタンで生産していると言われています。)

(余談 :貿易額) 2018年の輸出は8.8億ドル、輸入は74.1億ドルでした。大幅な赤字ですが、西側諸国の支援金で何とかやっていたのだと思われます。タリバンへの支援は無かった様ですから、タリバンは麻薬を密輸して活動資金にしていたと推測します。

【私から見たタリバン】
 日本が警察を廃止して、最大の暴力団の全組員に最新式の銃器を持たせたら『タリバン』になります。 弱小の暴力団は、銃器を隠し持って地下に潜らざるを得なくなります。

 ご承知の様に、暴力団には末端の『小組』が有り、複数の『小組』を配下に従える『中組』有ります。『中組』の連合体が全国に展開する大暴力団(『大組』)です。『中組』の中で金と構成員の多いいボスが『大組』のトップ(大ボス)になり、『我が世の春』を謳歌します。大ボスになれなかった中組のボス達は、隙あらば大ボスになろうと狙っています。

 暴力団には選挙制度は存在しません。話し合って、多数決で決める習慣も有りません。 警察が存在し無かったら、問題が発生したり、利害が衝突すると殺し合いで決着を付けようとするでしょう。 大組の内紛が激しくなったら、潜伏していた弱小の暴力団が活動を開始するでしょう!

 タリバンは、軍閥制を廃止して、文民統制の国軍に変える事が急務です。 この改革が進まなかった、中国による地下資源の開発には大きなリスクが有ります。 軍閥制のままで、地下資源の採掘を開始したら、中国は軍隊を多数投入して、採掘現場と搬送ルートの防衛を自ら行う必要が有ります。採算が合うでしょうか?

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その2)

2021-08-28 19:07:12 | 民主主義
【はじめに】
 今回は、日本の民主主義化の歴史について書きます。

 新型コロナが猛威を振るう様になって、「日本には今!、判断力/決断力/行動力/指導力の有る優秀な政治家が必要だ!」と思うようになりました。 民主主義国では議員を選挙で選びますが、選挙は「優秀な人間を選別する篩」の役割は出来ないのだと気付きました。

 もう直ぐ衆議院議員選挙が行われます。自民党は「選挙の前に総裁選挙をするか?」まだ決めていない様です。「息子に跡を継がせる為に早期引退を決意した!」、「コロナが蔓延している今、総裁選挙をやるべきでは無い!」、「菅氏では選挙に勝てない!」・・・自民党の政治家達は身勝手な事を言っています。

 ワクチンの輸入予約は、いくら何でも終わっていると推察するので、誰が総理大臣になっても接種は進むと思います。 自民党の議員諸君よ!、①経済の立て直し、②米中貿易貿易戦争への対応が、上手に出来る方を次の総理大臣に選んで頂きたい!

第4章 :日本の民主主義化
【刀狩り】

 鎌倉時代から『刀狩り(かたながり)』は行われてきました。戦国時代に戦になると、農民に槍を持たせて戦わせていましたが、それでは農繁期に戦(いくさ)が出来ません。秀吉は、槍を持たせる下級武士集団を作って『兵農分離』政策を採用しました。1588年に『刀狩令』を布告しました。 国民の大半は農林漁業者でしたから、彼らから武器を取り上げることで「農民一揆を防止する意味も有った」と私は思います。

 私が小学生の頃、隣の集落の家の納屋(物置小屋)から多量の刀と槍が出て来ました。母の実家には、鎌倉時代に作られた刀が一振り伝わっていました。農民達は、いざという時の為に武器を隠し持っていたのです。 日本では、何回も!何回も!一揆が起こりましたが、フランスの様に民主化を求める運動には発展しませんでした。

【幕末まで】
 近年の学説では4世紀~7世紀半ばを『大和政権』の時代と呼んでいます。日本はまだ統一国家では無く、近畿地方の王達の連合体だってのです。 645年の大化の改新以降から『天皇』と言う称号が使われ始めました。天皇親政から次第に、貴族達が政治を行う様になりました。

 源頼朝が幕府を開いた後、(色々・紆余曲折が有りましたが)武士が朝廷の権威を後ろ盾に国を統治する方向に進みました。 その仕上げが江戸幕府だったと思います。徳川家康は統一国家を諦めて、封建制の統治を選びました。

 徳川本家が1757年に支配した領地の石高は、預地を含めても500万石程しか有りませんでした。但し、江戸、大阪、京都、堺、長崎は直轄地でしたから、商工業からの税収は莫大だったのでは?と思います。

 江戸時代には商業が盛んになり、莫大な富を蓄えた商人が多くなりましたが、(ヨーロッパ諸国の様に)彼らが団結して参政権を要求する事は有りませんでした。 幕末に武士の一部が尊王攘夷運動を始めましたが、運動の中心にいた武士達が、「ヨーロッパ諸国の植民地にならない為には、ヨーロッパの工業技術を取り入れて→→国を豊かにして→→強力な軍隊を持つ必要が有る」と考え方を180度転換させたのだと思います。

【明治時代】
 近代化/工業化を進める為には莫大な金が必要でした。徳川本家の資産を没収するだけでは足りません。1871年に廃藩置県を強引に実行して、封建制国家を→統一国家にしました。年貢や税金が国家に入る様にしたのです。 藩が無くなったので、家臣は世襲の武士で無くなり、『禄(ろく)』を失いました。新政府の職に就いた武士以外は失業してしまったのです。

 明治政府は16歳にしかならない明治天皇が、直接統治する体制にしました。1869年(明治2年)に『参議』制度が復活し、薩長土肥の維新功労者が参議に就任しました。 明治になって『不要の長物』化していた武士の不満/抵抗を抑える為に、俗に『廃刀令』と呼ばれている命令を1876年に出しました。

 翌年(1877年)、不満武士達・30,000人が西郷隆盛のもとに集まって西南戦争を起こしました。この戦争で両軍合わせて13,000人程が命を落としました。 「武士の不満と言う火種をほゞ完全に消せた」と言う点で、西南戦争は有意義だったと私は思います。

 1889年に大日本帝国憲法を制定し、翌年に第1回衆議院選挙が行われ、日本は立憲君主国になりました。そして、日本は富国強兵を強力進めました。

【日清戦争】
 日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)です。明治になって日本軍の兵器は近代化されていましたが、清国は一昔も二昔も前の武器でした。私は、「戦争と言うより殺戮だった」と思います。日本軍は24万人、清国軍は63万人でしたが、戦死者は日本軍は1,100人ほど、清国軍は35,000人と言われています。

 清国から莫大な賠償金を得て、台湾、澎湖諸島、遼東半島も獲得しました。(遼東半島は外圧によって返しました。)

【覇権主義国への仲間入り】
 富国強兵に成功し/日清戦争に勝利した日本の政治家達は、「欧米の覇権主義国への仲間入りを果たせた」と判断したと想像します。 民主主義とは逆の方向に進んで、軍備を増強して→韓国併合→日中戦争→ノモンハン事件→第二次世界大戦へ。

 ノモンハン事件(1939年)は、兵員数、近代兵器、軍需物資量の点で勝ったソビエト軍に、日本軍は散々な目に遭わされました。ソビエト軍側の損害も甚大で、戦闘中にソビエトは独ソ不可侵条約を締結した事も有って、日本軍に壊滅的な打撃を与えないで停戦しました。 日本軍はこの戦いで反省すべきでしたが、事件を有耶無耶にしてしまいました。 (私の父は将校として、ノモンハン事件に参戦し、金鵄勲章を得ました。)

【天皇の神格化から象徴天皇へ】
 明治政府は16歳の青年を天皇に奉って、天皇の権威を借りて「我々は、正当な政治を行っている!」と主張しました。そして、次第に天皇を神格化する様になりました。 私の故郷では、全ての家に天皇と皇后の写真(御真影)を額縁に入れて飾っていました。1960年頃に、我が家も含めて・どの家からも御真影は無くなりました。

 その頃(1960年頃)、国民の多くが、少しだけ「民主主義とは何か?」を理解出来る様になり、「天皇は現人神(あらひとがみ)では無く、国民の象徴だ!」と認識出来る様になったのでは?と思います。 思想教育は怖いです!民主主義の敵です。

【植民地の解放】
 日本は、第二次世界大戦で東南アジアに侵攻しました。当時の東南アジアの国はタイを除いて、下記の様に植民地でした。 日本が、「それらの国々が植民地から抜け出す切っ掛けを作った」とゆう点では、日本は世界の民主主義の進歩に貢献したと言えると思います。

 タイが植民地化されなかったのは、イギリスとフランスが、タイを緩衝地帯にして、両国の植民地が直接接しない様にする為でした。

① イギリスの植民地 :ビルマ(ミャンマー)、マラヤ(マレーシア)
 ★イギリスの保護領 :ブルネイ、サバ(マレーシアの一部)、サラワク(マレーシアの一部)
② フランスの植民地 :ベトナム、ラオス、カンボジア
③ アメリカの植民地 :フィリピン
④ オランダの植民地 :インドネシア

【敗戦と日本国憲法】
 私がブログを書こうと思い立ったのは、「何時か、憲法についての自分の意見を公表したい」と考えていたためです。 退職して文書を書くことから遠ざかっていたので、一年ほどトレーニングを兼ねて色々書いた後に、次の投稿をしました。

★ gooブログ :『日本国憲法 (その1)~(その10)』・・・投稿・2019年4月27日~7月13日

 日本の民主主義は民衆運動で得たものでは無く、GHQから押し付けられた『日本国憲法』がベースで、国民が『まちまち』に少しずつ獲得したのだと私は思います。 森喜朗氏(84歳)の年代の方の多くは時代遅れの民主主義者です。裕福な旧家に育った人の中には、結構若くても同じような方がおられます。

 「九条を改正させない為に、憲法の一字一句の改正も阻止しよう!」と声高に叫ぶ人達がいます。私は、「九条以外で、現在の世界の常識に反する規定は、改正すべきだ」と考えています。例えば、『第二十四条』を改正して同性結婚を認めるべきです。多くの国が同性結婚を認める様になっています。ウイキペディア『同性結婚』で検索して見て下さい。

【労働争議と労働組合】
 戦後、GHQは労働組合の結成を奨励し、1945年の末に『労働組合法』が成立しました。急激に労働組合が結成されました。共産党系と社会党系の労働組合が過激なストライキを打つ様になって、GHQは労働組合の運動を抑える様になりました。大手企業では次第に、御用組合が増えてきました。

 現在、日本には3つのナショナルセンターが有ります。①組合員700万人の連合(日本労働組合総連合会)、②共産党系の組合員55万人の全労連(全国労働組合総連合)、③新社会党系の組合員10万人の全労協(全国労働組合連絡協議会)。

 現在、従業員が100人未満の中小企業には殆ど労働組合は有りません。 戦後、中小企業にも労働組合が少し有った様ですが、1960年代に某野党の市会議員達が社長から金をもらって労働組合を潰したケースを何件か知っています。そして、中小企業の労働組合は無くなっていったのです。

 日本の民主主義化に今まで労働組合は貢献してきました。 正社員の労働条件の向上要求だけでなく、今後はもっと「民主主義と自由主義の推進」を主張をして欲しいと思います。

【学生運動】
 戦後の大学では個別に、学費値上げ反対運動や反戦運動が起こり、次第に活発にになり、1960年には『安保闘争』が広範囲で行われました。私が大学生だった1967年~70年頃は、学生運動家が教室を時々・占拠して、アジ演説をしていました。その内容は独断的で賛同出来るものでは有りませんでした。

 内ゲバで殺しあって、勢力が急激に低下してしまいましたが、現在でも細々と存続しています。彼らの主張は「暴力革命によって、日本を政府の無い国家(無政府主義国家)に変えよう」だったと思います。沢山の血を流しましたが、民主主主義化には全く貢献しませんでした。

【再軍備】
 朝鮮戦争が勃発した年(1950年)に、アメリカの要請によって警察予備隊を設けました。→安保隊(1952年)→自衛隊(1964年)へと軍備を増強して来ました。 アメリカが「この程度の軍隊にしろ」、日本政府は「このくらいで許して下さい」と言う様な交渉を毎年・続けて、今日に至っています。

【衆議院の選挙制度の変遷】
 1889年に衆議院議員選挙法を制定し、小選挙区制が採用され→大選挙区制(1900年~)→小選挙区制(1919年~)→中選挙区制(1925年~)・・・敗戦

 敗戦後の1945年には大選挙区制を採用し→中選挙区制(1947年~)→小選挙区(1956年~)→小選挙区・比例代表並立制(1991年~現在)

 100年間ほど色々な選挙制度を試しました。この30年間は『小選挙区・比例代表並立制』に落ち着いています。 民主主義と選挙制度には密接な関係が有るので、(選挙制度は国会の多数決で変更できますが、)与党の目先の損得で決めてはいけないと思います。 

【金権政治】
 戦後・長い間、国家と地方公共団体が発注する物品費と工事費の平均約3%が、『表の金』だけで無く『裏の金』として政治家に流れました。一般会計だけでは無く、特別会計の予算も含めるのですから、想像を絶する金額だったのです。それが表に出てきたのが、1976年の『ロッキード事件』、1979年の『ダグラス・グラマン事件』です。

 当時・私は官庁に機械を販売する部隊の設計担当者でした。 官庁と取引する企業は、業種毎に談合団体を作り、談合して十分な利益を出して政治家に渡す金を工面していました。 種々のルールが有って、私の様な設計担当者でもルールを熟知する必要が有りました。 金額をはじく時に、案件毎に何パーセント裏金が必要か?加味しました。 どういうルートで金が流れるのか?自然に分かってきました。 与党の政治家だけでは無く、地方によっては、野党、暴力団、解放同盟の支部のお偉方にも流れました。

 政治と金の問題は、私さえ知っていたので、検察や古手のジャーナリストが知らない分けが有りません。『ロッキード事件』と『ダグラス・グラマン事件』が表面化したのは、アメリカが言うことを聞かなくなった日本の政治家達に、「お前ら!叩けば埃が出る輩だ、勝手な事をすると証拠をリークするぞ!」と脅したのだと思いました。 結局、この二つの事件は有耶無耶になって、金権政治は無くなりませんでした。 (金権政治は民主主義の敵ですが、この敵は20世紀の末までは元気に生き続けた様に思います。)

 河井夫妻の買収事件が報道されて、「未だに金をばら撒いているのか!」と呆れてしまいました。2006年に始まった『政党交付金制度』で、この手の犯罪は無くなったと私は勘違いしていました。

【経済の再興と発展、そして失われた20年】
 第二次世界大戦で工業地域は爆撃され建物は破壊されましたが、結構・生産設備は残っていました。然し、原料や燃料を輸入する金が無く、工業製品を作っても内需が少なく、輸出も難しくなっていました。

 戦後、①朝鮮特需(1950年~55年)、②ベトナム特需(1954年~70年)と③賠償特需が有り、工業が発展し/成長しました。 サンフランシスコ平和条約で、日本は工業生産品(機械/装置など)と役務での賠償が認められました。 私が入社した時、賠償特需は終わっていましたが、会社は・建物を修復して、破壊を免れた工作機械で機械/装置を作り、東南アジア諸国に納入した様でした。 そんなわけで、英語と韓国語が話せるブルーカラーが沢山いました。

 日本の工業技術は進歩して、設備も増強され輸出大国になり、バブル景気(1986年~91年)を謳歌しました。バブルが弾けて→『失われた20年』が続きました。不景気/デフレの問題に有効な対策が出来る総理大臣が登場しませんでした。『失われた20年』の間の首相は、次に示すように『14人』もいました。「日本の政治が、まだまだ成長していない事を露呈した」のだと私は思います。

『失われた20年』の総理大臣 :海部俊樹(1989年~91年)→宮澤喜一(91年~93年)→細川護熙(93年~94年)→羽田孜(94年)→村山富市(94年~96年)→橋本龍太郎(96年~98年)→小渕恵三(98年~2000年)→森喜朗(00年~01年)→小泉純一郎(01年~06年)→安倍晋三(06年~07年)→福田康夫(07年~08年)→麻生太郎(08年~09年)→鳩山由紀夫(09年~10年)→菅直人(10年~11年)

 『アベノミクス』を旗印にして、安倍氏が再登場しましたが、掛け声だけで終わった様に思います。 民間企業が頑張ったので輸出は好調でした。 2005年頃から輸入が増加し、11年~15年は貿易収支は赤字になったので心配でしたが、その後の貿易収支は適当な値で推移しています。 (近年の国会は、スキャンダルや失言の追及に時間を割いており、経済政策なんか殆ど議論していません。経済が良くなったのは政策・政治が良かったからでは決して有りません。)

【家業としての政治】
 日本には「家柄を重んじる伝統」が現在でも残っています。 「家柄の良い人には悪人はいない! 私達の為に尽くしてくれる」と夢想する人が多いいのでしょう?! その為に日本には二世議員が多いいのだと思います。 自民党だけでなく野党にも沢山二世議員がいます。ウイキペディア『親族関係にある政治家一覧』で検索して見て下さい。

 判断力/決断力/行動力/指導力の有る人を国会議員に選べる様にする為には、選挙制度を変えても駄目だと思います。 『地盤・看板・鞄』を相続税を払わずに受け継げる事が問題です。国会議員の子供は、親の選挙区からは立候補出来ない様にすべきです。

 『家業としての政治家』を撲滅する運動を始めるべきです!

(余談 :吉田茂) 吉田茂も二世議員です。土佐藩出身の政治家だった竹内綱の五男です。裕福な吉田家に養子に入ったので吉田茂になりました。外交官でしたが、敗戦後貴族議員に登用され、総理大臣になりました。戦後に初めて行われた衆議院議員選挙に立候補して当選し、総理大臣を続けました。吉田茂は父親の地盤を引き継いではいません。


【日本の民主主義化の歴史】
★ 江戸幕府 :1603年~1867年(大政奉還)
★ 天皇親政復活? :1868年=明治維新・・・大日本帝国
★ 廃藩置県 :1871年
★ 廃刀令   :1876年
★ 西南戦争 :1877年
★ 大日本帝国憲法 :1889年
★ 第1回衆議院選挙 :1890年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で15円以上の直接国税(有権者は人口の1.1%)
★ 第1回帝国議会 :1890年 貴族院と衆議院
★ 日清戦争 :1894年~95年
★ 第7回衆議院選挙 :1902年 ・・・大選挙区制、25歳以上の男子で10円以上の直接国税(有権者は人口の2.2%)
★ 日露戦争 :1904年~05年
★ 韓国併合 :1910年~45年

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎

★ 第14回衆議院選挙 :1919年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で3円以上の直接国税(有権者は人口の5.5%)
★ 第16回衆議院選挙 :1928年 ・・・中選挙区制、25歳以上の男子の普通選挙(有権者は人口の20%以上)
★ 日中戦争 :1937年~45年
★ ノモンハン事件 :1939年・・・ソビエトとの国境紛争
★ 太平洋戦争 :1941年~45年
★ 敗戦 :1945年
★ GHQの駐留 :1945年~52年
★ 第22回衆議院議員総選挙 :1946年4月 大選挙区制、男女普通選挙制度、男女20歳以上、被選挙権は25歳以上
★ 日本国憲法 :1946年に公布→→象徴天皇
★ 貴族院の廃止 :1947年→→参議院
★ レッドパージ :1950年
★ 公職選挙法 :1950年
★ 朝鮮戦争 :1950年~53年・・・朝鮮特需
★ ロッキード事件 :1976年
★ ダグラス・グラマン事件 :1979年
★ バブル景気 :1986年~91年→→バブル崩壊→→失われた20年
★ 衆議院選挙改革 :1994年 小選挙区比例代表並立制
★ 政党交付金制度 :2006年~
★ 民主党政権 :2009年~11年

ヴェーバーが残してくれたヒントを基に (その1)

2021-08-22 16:06:33 | 民主主義
【はじめに】
 新型コロナが猛威を振るう様になって、「日本には今!、判断力/決断力/行動力/指導力の有る優秀な政治家が必要だ!」と思うようになりました。 民主主義国では議員を選挙で選びますが、「選挙は、優秀な人間を選別する篩の役割は出来ない」のだと気付きました。

 民主主義がドンナニして発展してきたのか? 現在の民主主義では問題/課題が解決出来ない事が多々有るから、ドンナニ変えて行けば良いのか?・・・色々考える様になりました。

 昔、読んだマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を、「民主主義の進歩と言う視点で読み返して見よう」と思い付きました。 ヴェーバーの与えてくれたヒントを基に、私の独断による「民主主義の進歩の歴史」を数回に分けて投稿します。次回は日本について書く予定です。

第1章 :ヴェーバーの『職業としての政治』を読み返して!
【職業としての政治】

 ドイツ人で、政治学/経済学/社会学の分野で活躍したマックス・ヴェーバーをご存知ですか? ヴェーバーは、1864年に生まれ、亡くなったのは1920年です。 沢山の著作を残し、その多くが翻訳されて、今でも日本で読まれています。 私は、大学の教養部で細谷昂(ほそや たかし)先生のマックス・ヴェーバーに関する講義を受けました。

 細谷先生の話は難解で、内容を殆ど覚えていませんが、先生が時々言及された『職業としての政治』の翻訳本が、1980年に岩波文庫として出版されたので、直ぐに買って読んでみました。 (今も出版していて、税込みで704円で、本文は120ページ程ですから、是非読んで見て下さい。)

 第一次世界大戦(1914年~18年)でドイツは敗戦国になりましたが、終戦の2カ月後(1919年)にミュンヘンで学生相手に行った講演の内容を纏め、『職業としての政治』と言うタイトルで出版しました。

 章(見出し)が無く、小説の様に書かれているので、一回読んだだけでは「分かった様で、分からない」本です。

【ヴェーバーが勉強出来た範囲は】
 ヨーロッパ諸国の一部では中世に議会が誕生しました。初期の頃の議員は貴族や聖職者などで、無給でした。庶民が議員になると、有給制度になりました。ヴェーバーの言う『職業としての政治家(職業政治家)』の誕生です。 ヴェーバーは、政治家には『情熱』、『責任感』、『判断力』の三つの資質が必要であると言っています。

 ヴェーバー後の100年で工業技術は目覚ましく進歩し、核兵器が誕生し『戦争抑止』と言う考え方が広がりました。一党独裁国家の中国が『世界の工場』と呼ばれるまでに発展し、近年は覇権主義政策をを露骨に進める様になっています。 現在の日本の政治家に必要な資質は、ヴェーバーの三つの資質では不足だと考えています。『工業/科学の知識』、『世界情勢についての見識』・・・などなど。 これから政治家を目指す若者達へ!『Boys be ambitious!』

 『職業としての政治』には、第一次世界大戦までの統治体制(王政 皇帝 封建制、共和制、立憲君主制などなど)、貴族→有給の官僚による政治、有給の国会議員の誕生、派閥→政党の誕生、政党の組織化/拡大→政党の役員や職員の台頭、既得権団体の誕生/ロビー活動・・・など、現在に通じる内容が書かれています。

 『職業としての政治』が出版された1年ほど前に、共産・ソビエトが誕生しました。初期の施策についてほんの少し触れていますが、「共産主義国家がドンナ統治をするのか?」ヴェーバーは知る事無く亡くなりました。 そして、イスラム教のアラビアの石油産出諸国が発展したのも、ヴェーバーが去った後です。

 ヴェーバー歿後・100年が経過しました。先進国では民主主義化は進みましたが、多くの国では独裁政治/専制政治/一党独裁政治が行われています。 そして、民主主義政治の問題点や限界も顕著になって来ました。一党独裁政治の中国と経済戦争する為に、自由主義/民主主義の後退が必要かも知れません。

★ 紀元前509年~紀元前27年 :共和制のローマ
★ 1775年~83年 :アメリカ独立戦争
★ 1789年 :アメリカ・初代大統領=ジョージ・ワシントン就任
★ 1789年~95年 :フランス革命
★ 1861年~65年 :アメリカ南北戦争
★ 1864年 :マックス・ヴェーバー誕生 (プロイセン王国)
★ 1868年=明治元年
★ 1914年 :第一次世界大戦勃発
★ 1917年 :ロシア革命
★ 1918年 :第一次世界大戦が終戦
★ 1918年 :ドイツはドイツ帝国→ドイツ革命→ヴァイマル共和国になる。
★ 1919年1月28日 :ヴェーバー『職業としての政治』講演
★ 1920年 :ヴェーバー没 (ドイツ)

第2章 :私の考え方
 ヴェーバーが生きていた時代に、国の主人は民衆で有るという『民主主義国家』はフランス、イギリスそしてアメリカだけだったと思います。ヴェーバー没後100年経ちます。 現在では、先進国の多くは民主主義国家になりました。然し、中国は未だに民主主義国家では無く、逆に・民主主義を否定している様に思えます。

 民主主義の進捗状況を表す尺度の一つが、身分、貧富の差、男女の区別で選挙権を制限しない『普通選挙』を採用しているか?どうかだと考えます。今でも、国会議員の国民投票を実施していない国があります。女性の選挙権を認めていない国もあります。

 選挙制度には小選挙区制、中選挙区制、大選挙区制、比例代表制と、それらを組み合わせた制度(例:小選挙区比例代表並立制)が有ります。 一方、民主主義国家とは、「国会で少数意見/思想の政党にも議席を与え、発言させる。最後には多数決で決める制度を採用している国」の事だと思います。 小選挙区制では少数派は議席を得るのが難しく、大選挙区制や比例代表制では政党が乱立して何も決められなくなってしまいます。 ヴェーバーは選挙制度については殆ど言及していませんが、(ヴァイマル共和国で採用されたと思われる)『比例選挙法』の問題点を予想しています。

 民主主義は進化して、現在は『自由』と『平等』が含まれます。『博愛』も含まれるかも知れません。然し、イスラム教の信者で、神の教えを最優先する人達にとっては、民主主義思想をそのままでは受け入れられません。マホメットの時代は、「女性は男性に仕える存在」だったのです。 男は5人まで妻を娶っても良いが、女性が複数の男性を愛する事は許されないのです。

 共産主義国家では選挙が出来ません。「共産党は民衆の政党で有るが、他の思想の政党は民衆の敵である。選挙をして民衆の敵(ブルジョア)に政権を渡す必要は無い」と主張している様です。レーニンは政権を取って直ぐに国会議員選挙を実施しましたが、ブルジョア政党に敗れてしまいました。レーニンは、直ちに国会を閉鎖して、以来・ソビエトでは選挙は行われませんでした。共産党員の為の国家になって行ったのです。

第3章 :ドイツの民主化
【中世のドイツ】

 ドイツ語を公用語としている国は、①ドイツ、②オーストリア、③リヒテンシュタイン、④スイス、⑤ルクセンブルグ、⑥ベルギーの6っか国です。④~⑥の国はフランス語なども公用語です。 (フランツ・カフカはチェコスロバキア出身の作家で、ドイツ語を使用していますが、チェコスロバキアはスロバキア語の国でした。)

 幕末までの日本の歴史に、外国の影響は少ないですが、陸続きのヨーロッパ諸国の場合は真逆です。『日本』と言う国号は701年に制定された大宝律令から採用されたと言われています。『ドイチェス・ライヒ』と言う国号は19世紀の後半からです。 中世のドイツは神聖ローマ帝国に含まれ、1701年からはプロイセン王国が統治しました。

 962年に、ドイツ王兼イタリア王のオツトー1世が皇帝になりました。 彼が統治し始めた国が、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる様になったのです。 名前に『ローマ』が入っていますが、ドイツ人が支配する帝国でした。 神聖ローマ帝国は領土を拡大し→縮小して、1806年に滅亡しました。 ウイキペディア『神聖ローマ帝国』で検索すると、962年~1806年の領土の変遷が動画(?)で見れます。

 一方、現在のスイスにドイツ系の貴族・ハプスブルク家が有りました。政略結婚を繰り返して領土を拡大していきました。神聖ローマ帝国の王は諸侯が相談して決める事になっていました。 1272年に、王が絶大な権力を握らない様に、当時はまだ弱小の諸侯だったハプスブルク家のルドルフ1世を選びました。ルドルフ1世はハプスブルク家を大諸侯の一つにしました。 然し、神聖ローマ帝国の皇帝の世襲は、当時は認めていませんでした。(1549年にハプスブルク家出身者が、神聖ローマ皇帝位を世襲する事になりました。)

 中世ヨーロッパは『封建制』でした。然し、徳川時代の封建制とは大きな違いが有ります。①女性でも王や貴族の相続権が有りました。A王国とB王国の相続権を有する男女が結婚して子供が出来ると、子供はA王国とB王国の王になるのです。 ②A王国の貴族(日本の藩主)がB王国の貴族の相続権を持つ女性と結婚すると、子供はA王国とB王国の貴族を兼務する事になります。③政略結婚を繰り返して領土を拡張し、王と同等か以上になった貴族が、王の相続権を持つ女性と結婚して、遂に『王』になる事が出来ました。 その典型例がハプスブルク家です。

 16世紀になって、ハプスブルク家の版図は拡大しました。1519年にハプスブルク家のスペイン王だったカルロス1世が、ドイツに出向いて神聖ローマ帝国の皇帝・カール5世になりました。ハプスブルク家は、フランスを挟んで広大な地域を統治する事になりましたが、カール5世は直ぐにスペインに帰ってしまいました。

【宗教改革】
 カトリック教会では昔から、犯した罪を神に許してもらうために、反省/善行をするだけで無く、教会にお金を寄進する習慣が有りました。教会は免罪符(贖宥状)を与えました。 私は、「仏教の戒名の制度に似ている」と思います。

 神聖ローマ帝国は、十字軍に参加しない信徒に、免罪符を売りつけました。その後、免罪符を販売して教会が金を集める様になりました。教皇レオ10世が(現在もバチカンに有る)サン・ピエトロ大聖堂の建設費を集める為に、大々的に免罪符を販売しました。それに反対して起こったのがルターの『宗教改革』です。 ドイツにプロテスタント(新教)が誕生し、信徒を増やしていきました。

 1618年~48年にカトリックとプロテスタント間で戦争(三十年戦争)が起こりました。多くの国が参戦し、覇権が目的になり、宗教の為の戦争では無くなりました。戦争中にペスト(黒死病)等の感染症が蔓延して、人口が激減して、ヨーロッパ諸国は大変革しました。カトリックとプロテスタントが共存する様になったのです。

【農奴解放】
 中世のヨーロッパ諸国は農奴制でした。農奴達が1524年に農奴解放を求めて立ち上がりましたが、直ぐに鎮圧されてしまいました。ドイツで農奴解放が行われたのは1807年の『十月革命』によってですが、不完全なものでした。1848年の『三月革命で』で完了しました。 1850年に、「最高56年の分割払い」を条件に、それまで耕していた農地を農民に与える事になりました。

【ナポレオン戦争後のドイツ】
 プロイセン王国は、1806年にナポレオンと戦争を始めましたが、敗れて領土の一部を割譲し、多額の賠償金を支払って1807年に和睦しました。 プロイセン王国は、そのまま存続して民主主義化は進みませんでした。

 1871年にプロイセン王が皇帝になり、ドイツ帝国になりました。工業化が進み、現在のドイツの工業の礎(いしづえ)が確立した時代です。農林漁業の国が工業/商業の国に急激に変貌したのです。(経済は発展しましたが、民主主義化は進みませんでした。)

【第一次世界大戦の賠償金】
 そして、ドイツ帝国は第一次世界大戦(1914年~18年)を始め、敗戦国になり→大統領制のヴァイマル共和国になりました。戦勝国から莫大な賠償金・1320億金マルク(=純金47,256トン)を30年間の分割払いをする様に要求されました。 (現在の日本円では200兆円ほどになるそうです。)

 ドイツは共和国になりましたが、民主主義の経験が皆無に近い状態で、「戦争で荒廃した国家の再建と莫大な賠償金の支払いの為に、国民は希望が持てなかったのでは?」と想像します。 戦後15年でヒトラー政権が誕生して、覇権主義国家に戻ってしまいました。

【ヒトラー】
 1933年にヒトラーがヴァイマル共和国の首相に任命され、彼は直ぐに大統領と議会の権限を停止させたので、ヴァイマル共和国は実質的に消滅しました。

 1939年にドイツはポーランドに侵攻し、その後・直ぐにソビエトもポーランドに侵攻しました。 イギリスとフランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まりました。(何故か?、ソビエトに対しては宣戦布告しませんでした。)

【敗戦後のドイツ】
 若い頃に読んだ本には、「第一次世界大戦の反省から、第二次世界大戦後の補償額は少なかった」と書かれていましたが、実際は莫大な補償が要求された様です。但し、東西ドイツに分割したので、どちらの国に要求するか?と言う問題が有りました。1990年の再統一後に要求されたケースも有る様です。

 占領下の西ドイツで1949年に、ドイツ連邦共和国基本法(憲法)が制定され、一部は改正されましたが、東西ドイツの再統一後も存続しています。 日本国憲法の第9条の様な、戦争を放棄すると言う条項は有りません。

【ホロコーストの反省】
 ナチスがユダヤ人を多量に虐殺した『ホロコースト』の惨状を知らない人は、殆どいないと思われます。 ユダヤ人の犠牲者の数は正確には把握されていませんが、500万人~600万人と言われています。

 敗戦後に覇権主義を否定して、民主主義思想が広がったのは「ホロコーストに対して国民が強く反省したからではないか」と思います。(日本は民主主義的な憲法をGHQに押し付けられたからです。)

【再軍備】
 第二次世界大戦後、東西ドイツは国境警備隊や沿岸警備隊などを除いて、軍隊は廃止させられました。 米ソ対立(冷戦)の為に、西ドイツは1955年に再軍備が認められて、NATOに加盟しています。

 冷戦時代にアメリカは、ヨーロッパ諸国に多量の核爆弾を持ち込んだと言われています。その後、多くは持ち帰りましたが、ドイツ国内に10発~20発を残し、両国の共有(核シェアリング)となっています。 歴代のドイツ政府は、アメリカと核爆弾の撤去について粘り強く交渉して来ました。まだ、実現していません。

【メルケル首相】
 2005年にアンゲラ・メルケル(51歳)が首相に選ばれました。 わたくしは、「戦後の民主化の象徴的な出来事だ!」と思いました。 彼女が生まれて直ぐに、牧師だった両親が西ドイツから東ドイツに移住したので、東ドイツで育ちました。彼女は頭脳明晰で、大学では理論物理学を専攻しました。

 ベルリンの壁が崩壊した1989年、メルケルは35歳でした。そして直ぐに政治家になろうと決心した様です。そして16年後にドイツの最初の女性首相になったのです。

 彼女は二回結婚しています。23歳・学生時代に『メルケル』氏と結婚し、離婚しました。1998年に現在の夫と再婚しましたが、『夫婦別姓』を選択したので、今でも最初の夫の姓『メルケル』を名のっているのです。(日本には女性首相は誕生していないし、夫婦別姓は許されていません!)

★ 神聖ローマ帝国 : 962年~1806年・・・十字軍遠征
★ ハプスブルク家 :現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。
★ 宗教改革 :マルティン・ルター
★ ドイツ農民戦争 :1524年・・・農奴制の廃止を要求
★ 三十年戦争 :1618年~48年プロテスタントとカトリックとの対立
★ プロイセン王国 :1701年~1871年→→ドイツ帝国
★ ナポレオン戦争 :1803年~15年
★ 十月革命 :1807年→→農奴解放
★ ドイツ連邦(ドイツ同盟) :1815年~66年・・・連邦議会・・・オーストリアを中心にした国
★ ドイツ帝国 :1871年~1918年
★ 第一次世界大戦 :1914年~18年

◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演された ◎◎◎

★ ヴェーバー :1919年・・・ドイツ革命(1918年)によってドイツ帝国が廃止された。
★ ヴァイマル共和国 :1919年~33年・・・憲法
★ 普通選挙 :1919年・・・世界初
★ 大統領制 :1919年
★ ヒトラー首相 :1933年 ・・・ヒンデンブルク大統領が任命した。
★ 全権委任法 :1933年・・・議会と大統領の権限は完全に形骸化した。
★ ヴァイマル共和国の廃止 :1934年
★ ポーランド侵攻 :1939年→→第二次世界大戦
★ ヒトラー自殺 :1945年→→ドイツ敗戦
★ ドイツ連邦共和国(西ドイツ) :1949年~
★ 西ドイツの憲法 :1949年
★ ドイツ再統一 :1990年

夫婦別姓についての考察

2021-07-17 07:18:32 | 民主主義
【はじめに】
 読売テレビが毎週日曜日に『そこまで言って委員会NP』と言う、半分お笑いの番組を放送しています。7月4日に夫婦別姓を取り上げていました。女性の権利を主張されている島田陽子先生が参加されていなかったのは、残念でした。 (読売テレビですから、東京では見えない様です。)

 私は、若い頃から朝鮮半島の歴史に興味が有りました。朝鮮半島では夫婦別姓制度でした。 それで、「世界はどうなのか?」時々調べて来ました。 女性の権利をより広く認める様になって、その運動に関連して選択的夫婦別姓制度を多くの国が採用する様になって来ています。

そこまで言って委員会で笑えたこと】
 7月4日に参加したコメンテータと司会者は、日ごろ夫婦別姓について考えて無かった様に見えました。 世界の多くの国が、夫婦同姓を強制しなくなっており、国連が日本に、夫婦同姓制度の見直しを求めている事は話題になりませんでした。

 「夫婦別姓にしたら、円満な家庭を築いて/維持するのが難しくなる」などと主張する人がいました。 トンデモナイ意見です。家庭が崩壊する原因は、家庭内暴力(DV)が酷かったり、収入が激減したり、何方かが浮気したりするためです。夫婦別姓にしたら、日本人は浮気を平気でする様になるのでしょうか? DVは、夫婦別姓にしたら増加するのでしょうか? そんなにも、日本人は特殊な民族なんでしょうか?!

【世耕弘成参議院議員】
 経済産業大臣だった世耕弘成参議院議員は、2013年に野党の参議院議員だった林 久美子氏と結婚されました。 お二人は法律婚をされましたので、世耕久美子になられましたが、林 久美子で活躍されています。 政治家は姓を変えて選挙するのは難しいですよね!

【平民と苗字の歴史】
 江戸時代まで平民が苗字を名乗ることは禁じられていました。 明治になって(1870年に)平民も苗字を名乗っても良い事になりましたが、苗字無しで支障なく暮らしていた平民の多くは、一向に苗字を持ちませんでした。 1875年(明治8年)に、明治政府は「平民も苗字を名乗れ!」と言う命令を出しました。

 この時から、平民も武士と同じように結婚したら夫婦同姓になったのです。 それまでは、苗字が無い分けですから、夫婦別姓も夫婦同姓も無かったのです。

 私の故郷では、この時・一族は同じ苗字にした様です。

 政府が国を統治する為に、国民に『苗字と名前』を持たせて個人を特定する必要が有ったのです。人口が増加して社会が複雑化し、同姓同名も問題になり、『氏名と生年月日』で個人を特定する様になりました。

 社会は益々複雑になり、国民を把握する為には『マイナンバー制度』が必要になりました。マイナンバー制度が普及したら、『姓名』はどうでも良くなります。 夫婦の姓をどうするのか?二人で自由に決めさせても問題が無い時代になっていると私は思います。

(注記) 脱税の防止/取り締まり、公平な住民サービスを行う為に、国や地方公共団体は国民を把握する手段が必要です。 これだけ複雑な社会になると、マンナンバー制度が不可欠なのです。

屋号】
 私の故郷・和歌山県龍神村では、同じ苗字の家が多く、1970年頃まで屋号で呼び合っていました。 我が家の屋号は『うら』でしたから、父は『うらのおじさん』と呼ばれていました。 子供は、「○○ちゃん」と名前で呼んでいました。

 私が育った20軒程の集落に山本家が4軒あり、隣の集落は半分以上が小川でした。『山本のおじさん』では、誰の事か区別出来なかったのです。

【本家の墓碑】
 父方の本家の墓には墓碑が有ります。 高祖父から名前が刻まれています。 1875年以前に亡くなったので、高祖父には姓が有りませんでした。 曾祖父から姓が『寒川(そうがわ)』になり、祖父は日露戦争の戦役を逃れるために名目だけの養子に入り、苗字が『松本』に変わりました。

 そんな分けで、私は松本にも寒川にも全く拘りが有りません。江戸時代に苗字帯刀を許されていた家系の方は別にして、多くの国民の姓は四代か五代前の祖先が適当に付けたに過ぎません。

【日本での特殊例】
 戦中/戦後に朝鮮半島から来た人達には、朝鮮の姓と日本の姓で戸籍と住民票が作成されています。 従って、両方の姓が正式なものです。 韓国では今でも夫婦別姓ですが、日本在住の韓国籍の男女が、日本で結婚したら夫婦同姓を強制するのでしょうか?

 私が管理している大阪の賃貸マンションには朝鮮籍と思われる女性が住んでいます。 彼女の朝鮮姓は『K』で、日本姓は『T』です。 賃貸借契約書は『K』となっていますが、日常は『T』と名乗っています。 周りでは『K』と言う姓を知っている人はいません。 年金の支給、医療、介護の申請などで何の支障もない様です。 要するに、夫婦同姓でも夫婦別姓でも行政は対応出来る時代になっているのです。

【夫婦別姓の国】
 朝鮮半島の様に、結婚しても女性の姓が変わらない『夫婦別姓の国』が存在しました。 韓国はいまでも夫婦別姓です。 民主主義が進んだからでは有りません。

【世界では多くの国が夫婦別姓を認めています】
 夫婦同姓制度に拘っているのは、世界では日本だけになって来ています。 (日本のガラパゴス文化の一つです。) 2016年3月に国連は日本に、夫婦同姓制度の見直しを求めてきました。 それでも最近、最高裁は「夫婦同姓制度は合憲で有る」との判決を出しました。

 世界の多くの国は、「夫婦同姓制度」に拘らなくなっています。 国によって・まちまちですが、次の❶❷❸の全てを認めている国や、その内の二つを認めている国が有ります。

❶ 同氏  :夫婦同姓と同じ
❷ 別氏  :夫婦別姓と同じ
❸ 結合氏 :夫の姓と妻の姓を併記

【日本の現状】
 日本ではまだ法律婚(同性婚)で無いと相続税等で不利です。 然し、少しずつですが、地方自治体が条例で事実婚や同性パートナーに対して福利厚生制度を適用する等の処置が設けられる様になって来ています。

 国も、以下に示すように旧姓の併記を認める様になっています。

★ マイナンバーカード :旧姓の併記が可能
★ 銀行口座 :旧姓を併記したマイナンバーカードが有れば、旧姓のままの口座が使える(?)
★ パスポート :旧姓の併記が可能
★ 住民票 :旧姓の併記が可能
★ 商業登記 :旧姓の併記が可能(重役・氏名の登記)

【日本の将来予想】
 日本の与野党の政治家達は、選択的夫婦別姓制度に関して保守的なのか?勉強不足なのか?票にならないと考えている為か?真面目に議論しようとはしていません。従って、最高裁が「選択的夫婦別姓制度にすべきである!」と判決を出すまでは、現状のままだと私は予想します。

 最高裁判事達も世界の情勢を無視し続ける事は出来ないでしょうから、2030年頃には日本も選択的夫婦別姓制度になると思います。

★★★★★★★★
【民主主義について考え始めました!】
 戦地から生きて帰って来た人達は、自分の家族を養うだけでも大変だったと思いますが、跡継ぎが戦死した家や、子供のいる未亡人の家の田植え/収穫を手伝ったりしていました。

 私の故郷には、戦前、尋常小学校しか無かったのですが、戦後、日陰で畑にもならない谷の脇の狭い土地に、小さな仮設の中学校を建てました。(勿論、運動場も講堂も有りませんでした。) 父は中学校のPTAの会長だったのだと思います。 商売で忙しかったと想像しますが、本格的な中学校を建設する為に走り回っていました。 1951年頃で、私はまだ5歳でした。 ある日、父は警察署に呼ばれて、留置場に入れられて・数日間帰ってきませんでした。 私も含めた家族全員、非常にショックな出来事だったので、今でも記憶しています。

 1947年~52年の間・公職追放令が存在し、父は職業軍人でしたから、公職追放者に該当し、PTAの会長にはなれなかったのです。 後で聞いた話では、村の誰かが警察に通報したため、警察は形ばかりに留置場に入れたそうです。 帰宅した父に、母は「PTA会長を辞めて欲しい」と懇願しましたが、「何も悪いことはしていないから、続ける!」と言う様な会話をしていた様に記憶しています。 そして、結構立派な運動場付きの中学校が完成しました。 (私は、その中学校を卒業しました。)

 「良い事をしても、警察に捕まるんだ!」、「法律って何なのか?」・・・「民主主義って何なのか?」・・・考える様になりました。

【私は早熟の方だったと思います!】
 三歳頃から父が、私を色々な所に連れていったので、大人との接触が多かったのです。 私が五歳頃、二人で店に買い物に行くと、父は50円札か100円札を渡して「何々と、自分の欲しいお菓子を買え」と言うのです。 お釣りを貰うと、何時も少し少ないのです。暗算で計算して、「12円足りない」と言うと、主人は笑いながら・12円渡してくれました。 どの店でも同様でした。 褒美のお菓子をゲットした事も有りました。

 小学校に入る前に、カトリック教会の日曜学校に通って文語体の聖書を教えて貰っていました。少しずつ漢字が分かる様になって、小学3年生の頃には朝日新聞を読んでいました。

 父は早川崇衆議院議員と世耕弘一衆議院議員の選挙運動を熱心にやっていたので、お二人は年に一回は我が家に来られました。 私は小さい頃から両先生に遊んで頂きました。気心の知れた友と子供と三人で楽しく雑談して、「先生たちは骨休みされていたのでは?」と思います。 それで、政治にも興味が湧いて来ましたが、政治家になりたいと考えた事は有りません。

 時々、父と政治の話をしました。 小学校と中学校に日教組に入った先生が複数おられましたが、「僕より息子さんの方が左寄りだ!」と言われたと、父は嘆いていました。

【私の考え方】
 「国家の主人は民衆(国民)である!」と言う考え方が民主主義の原点です。 『民主主義』は、フランスなどで、民衆が血を流して王や貴族から獲得した貴重な権利です。 『民主主義』の考え方は変質/拡大して来ました。 「男女は平等である!」も、現在では民主主義思想の重要な項目の一つになっています。

 2008年に長男が彼女を連れて帰省しました。 少し話をしたら、「天真爛漫・臆する事もない素晴らしい女性だ!」と感服しました。 彼女は東大の修士卒で民間企業の研究所に勤務していました。 「結婚しても、仕事を続けたい」と言いました。

 その後、暫くして彼女の御両親と六人で食事をしました。 研究者にとって論文は大切です。 氏名が変わると、それ迄の論文との繋がりが切れてしまいそうに思いました。 食事の席で、私が「夫婦別姓にしますか?」と聞いたら、「松本にします」と言いました。 2009年に結婚して、娘を一人生んで、今でも研究者を続けています。

 日本では少子化がドンドン進んでいます。一人息子と一人娘が結婚するケースが増えて来ると想像します。 「内孫とか外孫だ」と言っている場合では無いのです。結合氏(夫の姓と妻の姓を併記)を希望する親達が増えてくるのでは?と予想しています。

 女性が活躍出来る世の中にしようと言う運動が続いていますが、選択的夫婦別姓制度に変える事は無関係では有りません。 この点からも、夫婦同姓を国が強制するのは出来るだけ早く止めるべきだと考えています。

★★★★★★★★
【関連記事】
 広義の民主主義について、過去に投稿した記事を御参考までに列記しておきます。

★ 森・川渕ドタバタ喜劇 :2021年2月14日投稿
★ 企業の民主化 (その1~9) :2019年10月26日~12月21日投稿
★ 民主主義とは!? (その1~3) :2019年10月5日~18日投稿
★ 昔の田舎の集会と現在の町内会 :2019年8月3日投稿
★ 皆で声を挙げましょう! :2018年7月7日投稿
★ 韓国GMとJR東日本の労働組合 :2021年4月12日投稿
★ ブラック企業 (その1~4) :2018年3月10日~5月8日投稿