これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙の話し (その2-1)

2019-08-17 11:27:09 | 工業技術
 私は、足掛け10年以上、紙関係の仕事をしました。今回は、最初に取り組んだ『水を使わないで紙を綿状にする機械』を開発した時の話しです。話が長くなってしまいましたので、二回に分けて投稿します。

【開発の経緯】
 1990年頃に古紙の価格が暴落して、一部の地域では古紙を回収してくれる業者がいなくなりました。「開発費を支援するから、古紙の新しい利用技術を提案して欲しい」と政府が大手企業に通達しました。これから述べる機械の開発は、その要望によって始められたのです。

【発明品の見学】
 昔、私が嫌いだった上司がいました。彼に追い出されて、私は別の部署に転勤していたのですが、突然、「某社が特許出願中の機械を見て、感想を聞かせてくれ」と電話が有りました。当時の上司から「行ってやれ」と言われたので、渋々東京まで出掛けました。

 少し胡散臭い会社で、①(日本を代表する)T大学のA教授の発明で、②超音波を発生させて紙を綿にする、③アメリカ製の特殊な送風機(ブロワ)をベースにしている、④電力消費量が極めて少ない、⑤特許使用契約を締結するまで機械の内部構造は開示しない、・・・と事前に説明されました。

 新聞紙を裁断して機械に投入すると、綿状になって排出されました。それまでの見学の時は、2~3分で停止させていた様ですが、私が手で機械の振動を見たり、金属の棒を機械に当てて振動音を聞いたり、種々質問したために、この時はあっという間に10分近く経ってしまいました。急に紙片を吸い込まなくなってしまったので、「内部で詰まってしまった様うですね!」と言うと、機械を分解してくれました。多分、もう十分金を巻き上げたので、これ以上騙すのは可愛そうだと考えたのだと思います。

 私は入社以来、音と振動についても勉強していましたので、超音波で紙を分解すると言うのは眉唾だと思いました。機械にはアメリカの会社の銘板が貼られていましたが、同じ構造の国産メーカを知っていました。モータをインバーターで制御していましたが、普通の電力計で計測していましたので、計測値が少なく表示される事を知っていました。(故意に嘘を言っていたのか?無知だたのか?とにかく、説明は出鱈目だったのです。)

【国立大学の特許】
 昔は、国立大学や国立の研究所が取得した特許は、使用願いを出すと、どの企業にも使用許可が出る事になっていました。一見公平な制度の様に見えますが、まったく馬鹿げた制度なのです。(現在は、改められています。)

 A大学からB社が使用権を得て、ある機械を苦労して開発したとします。その機械を上市すると好評でした。それを見ていたC社が、A大学に特許の使用願い出すと、必ず許可が得られるのです。それでは、可能性が有ると思われる特許でも、実用化して見ようと思う企業は殆ど無いのです。

 一方では、発明者の先生達に支払う特許料は微々たるものでした。先生達の発明を、自分の名前で出願して、企業に売る商売人が登場する事になります。素晴らしい発明は少ないので、骨董商の様に怪しげな(紛い物の)アイディアでも金を稼ぐ必要が有ります。

 この発明品の場合は、機械の運転を見たいと言うと数百万円、二回目の見学を希望すると2~3百万円の追加料金を支払う必要が有りました。私は、三回目の見学会に参加したので、総額は一千万円にもなっていました。

【嘘から出た実(まこと)!?】
 私は、機械の運転を見ながら「どんな原理で紙綿になるのか?」考えていました。「超音波で無いとしたら、・・・」。機械を分解して、内部構造がわかった時、ふと子供の頃に見た情景を思い出しました。

 私は子供の頃、洪水が起こると、木材が川岸の岩壁に衝突するのを見にいきました。(時々しか起こりませんでしたが、)丁度良い角度で激突すると、木材の先端が見事に砕けて、”ささくれ立つ”たり、裂けたりするのです。もし、そんな現象で紙が綿になっているのなら、目詰まり対策は出来そうだから、『噓から出た実』で、この機械は物になるかも知れないと思いました。

 然し、私の考えを言ったら、嫌な上司の下でまた働く事になるのが必定でしたから、黙っておくことにしました。

【結局、開発を担当する事になりました】
 暫くたって、上司から「来週から、○○工場に出勤して、例の機械を開発しろ!」と命令されました。人事異動は出ず、私は貸し出されたのです。私は、他部署に貸し出されて、その部署の開発を担当するのは、この時で4回目でした。(開発に全て成功しましたが、その部署には存在しない人間ですから、結局4回とも私の成果にはなりませんでした。)

 例の会社から、私が見た装置が一式送られて来ていました。私は、早速目詰まりを回避する大胆な改造を行いました。これで駄目なら、手を引こうと考えていましたが、上手くいったのです!

【綿になる現象を確認しました】
 開発を始めて直ぐに(1993年2月頃)、矢が刺さった鴨が話題になり、NHKでクロスボウで放たれた矢の超高速映像が放映されました。1秒間に何コマの映像か凡その計算をして見ると、1万コマ以上だと分かりました。(テレビは、1秒間に30コマです。)機械の内部を、この高速カメラで撮影したら、綿になっている状況が確認出来るだろうと思いました。

 早速、メーカーを調べたら、フォトロン社でした。価格は確か1,300万円ほどだったと思います。1,150万円が限界だと言われたのですが、私が用意出来たのは400万円ほどでした。映像機器をレンタルしている映像センター社に、「フォトロン製超高速ビデオカメラが如何に優れ物で有るか」売り込みました。「10日間400万円のレンタル料で、貴社の最初の顧客になるから、貴社で購入して欲しい」と説得して、成功しました。

 機械の一部を透明なアクリル製にして、光が内部に入る様に工夫しました。撮影は大成功で、私が予想していた様な原理で古紙が綿になっていました。大型化する為のポイントが分かり、機械の寿命を延ばす為に必要な改善点も把握出来ました。完成した機械は構造がシンプルで、製造原価を安く抑える事が出来、消費エネルギーが少ない優れ物でした。 嘘が、本当に実(まこと)になったのです!

【特許の修正】
 出願されていた特許は、超音波で綿にすると言う前提の内容でしたので、私が全面的に書き直し、私を発明者に追加して再出願しました。当時は、出願後1年以内であれば、明細書の修正が出来ました。例の胡散臭い会社経由で出願したのですが、私の名前を削除して提出していました。その為に、私は特許料を1円も頂けませんでした。 (この機械は、エコパルパーと命名して商標登録しました。)

(余談) 私が発明者の一人だと、特許庁に異議申し立てしたとします。特許庁が私の主張を認めたら、(読者は)私が発明者に追加されると思われるでしょう! 実際は、その特許が無効になってしまうだけなのです。

【大型機を開発しました】
 紙綿からコンクリートパネル(コンパネ)を製造するのが、開発の目的だったのです。従って、試作機の10倍程の処理能力が必要でした。直ぐに大型機の設計/試作に着手しました。大型機は何の手直しをする事無く、目標の性能を達成しました。コンパネ製造のレシピを研究していた開発チームに、必要な紙綿を供給するのを兼ねて、大型機の耐久試験に入りました。 (私は、珍しく暇になりました。)

【有機肥料を作る機械(植繊機)の開発】
 (当時、大手の)K製鉄会社の重役だった方(Y氏)が、早めに退職され、田圃を買って趣味で有機農業に取り組まれていました。Y氏がK社の某工場の技術陣に雑草から有機肥料を作る機械の開発を依頼しました。K社は、町の発明家(H氏)の協力を得て開発を続けてきましたが、暗礁に乗り上げてしまいました。H氏は、機械で処理した物を入れて、効率よく発酵させるビニールシート製の発酵槽を試作済みでした。 モンゴール人のテント(ゲル)状で、直径1.5m×高さ2mほどの大きさでした。

 耐久試験に入った頃、H氏が訪ねて来て、K社の機械を見てアドバイスして欲しいと言いました。K社に行くと、課長以下数人で機械を運転して、最後に機械を分解して見せてくれました。種々の分野で使用されている、極ありふれた原理の機械でした。問題の原因を理解出来ず、逆の方向に改良していたことが、直ぐに分かりました。 ”引く”相撲取りは大成しませんが、開発では『押して駄目なら、引いてみろ!』が重要です。K社は、押して、押して、押しまくっていたのです。

 アドバイスしようとしたら、「もう懲り懲りなので、貴方に任せたい。この機械を差し上げます!」と言われました。同行していたH氏が私と二人で開発したいと言うので、引き継ぎを了承しました。失敗の試作機を貰っても参考にならないので、機械の貸与は丁重にお断りしました。

 H氏と、二日間掛けて試作機の検討をしました。K社の機械はモータ駆動でしたが、H氏は田畑で運転出来る様に、トラクターの出力軸での駆動を強く要求しました。試作一号機はトラクター駆動とし、二号機は電動機駆動にする事にしました。(試作一号機は、四カ月程で完成しました。)

 二人の名前で特許を出願し、『植繊機』という商標登録もしました。殆どは私のアイディアだったのですが、彼は時間が経つと全てのアイディアを自分が出したと言い出し、最後には私が特許を盗んだとまで言い出しました。そして、「君とは絶交だ!」と言ったので、それ以来、彼とは会っていません。植繊機は、今でも販売されています。

【私に自由が与えられました】
 話が前後しますが、大型機の耐久試験に入り問題が発生していなかったので、「本来の職場に返して下さい」と申し入れました。「他の開発チームの開発が遅れているから、君の開発チームはそのままにして、開発費は今まで通り出すから、好きな研究をして待っていろ」と言われました。

 直属の部長から、「(他の課の若手社員)S君に特許を、I君に流体力学を、T君に設計ノーハウを、・・・を教えてくれ」と言われました。私の開発チームには国立大学の修士卒の新人が二人いましたので、若手数人の教育係になったのです。その上、仕事が全く出来ない私より年上の社員二人を、「人件費は別に出すから、君の部下にする」とまで言われました。(この二人には手を焼きました。)

 植繊機の引き合いが入り始めると、営業部隊を作る事になり、部長職の方と”ひら”営業マンを私の部下にする命令が出ました。部長職の方は人格者でしたが、アイディアが全く出ない方で、細かい所まで私が指示する必要が有りました。ひら営業マンは、「君は、僕の上司ではない!」と言い張りました。彼の考えは正論です。私は、(人事上)その部署には存在しない幽霊社員でしたから。

 会社の金で田圃を借りて、トラクターをリースし、草刈り機等々を買って、有機農業に詳しい方に指導をお願いして有機農業の実験をしました。有機農業関係の書籍を沢山購入して勉強しました。 私の会社人生の中で、この時期は一番気楽で楽しかったと今では思います。

紙の話し (その1)

2019-08-10 11:41:39 | 工業技術
 今まで、余り技術屋らしい記事は書いて来ませんでしたが、私は一応、端くれの技術屋です。今回から、皆さんに身近な紙について書きます。

【紙はプラスチックの代替品になる!?】
 近年、プラスチックゴミを減らす運動が世界的になって来ています。その象徴がプラスチック製のストローの廃止です。紙製のストローの目途がついたので、出来る所から始めようと言う運動です。

 ヨーロッパ諸国では30年以上前(1990年頃)から、プラスチック製品を減らす取り組みが始まっていました。日本では、少し大型の家庭電器製品を買うと、製品を固定するために成形した発泡スチロールが用いられ、それを段ボール箱に入れています。ヨーロッパでは、発泡スチロールを使用すると、メーカーが持ち帰る事になっている様でした。某大手企業から、私に「発泡スチロールで無い緩衝材を共同開発しませんか?」と言う話が来ました。

 「日本では何故発泡スチロールの緩衝材が許容されるのか?」疑問に思い調べてみました。中小企業の多いい、発泡スチロール製緩衝材のメーカーを潰せないと言う、政治的判断が主な理由の様でした。それ以来、プラスチック・ゴミについて情報を集めています。

 緩衝材は、古紙を原料とするパルプモールドで作る事が出来ます。パルプモールド業界は、現在元気が無くなっている様に見えますが、プラゴミを減らす運動が盛んになると、活気を取り戻せると私は考えています。

【紙の分野では、日本はガラパゴスです】
 紙の分野では、日本はガラパゴス諸島の様な、貴重な存在です。紙はISO(国際標準化機構)とJIS(日本工業規格)の規格が有りますが、日本では規格に無い特殊な紙が種々市販されています。

 製紙会社から、製紙機械メーカーに「こんな紙を作りたい!」と言うと、外国のメーカーだと「開発費用は?、需要は?、価格は?、利潤は?」と考えてから始めます。日本では、「何とかして顧客の要望に応えたい」と考えて、取り敢えず開発を始めてみます。

(例 :新聞用紙) 薄くて強度の高い新聞用紙! 日本経済新聞は、他の大手全国紙よりページ数が多い様です。配達員の負担を軽減する為には、ページ数が増えても重くならない→紙を薄くしたい。 一方、日本の大手全国紙は発行部数が多いい→三菱重工が輪転印刷機の高速化を進めた→紙の強度を高める必要が有った。(大昔、私は2回、新聞社の輪転機を見学しましたが、現在の輪転機は全く別物だそうです。新聞社は見学会をやっていますから、是非とも参加して見て下さい。見られたらビックリされると思います!)

(余談) 新聞の印刷は配達時間厳守の為に、印刷中のトラブルを極力抑える必要が有ります。紙の強度不足で印刷中に紙が破断したら、輪転機を一旦止める必要が有ります。紙の破断原因として想定されるのは、紙の強度だけでは有りません。昔、私が出向していた製紙機械のメーカーは、独自の優れたアイディアの装置を、新聞紙を製造する製紙メーカの殆どに納入していました。

(例 :新聞用紙) 2000年頃に聞いた話ですが、元旦の一面(第1ページ)は白い特別な新聞用紙を使用するそうです。昔から、各社とも一面に天皇陛下の写真を掲載するからだそうです。

(例 :紙のサイズ) 紙のサイズには色々有りますが、私達の身近に有るのはA列とB列の2種類です。B列はISOにも規格が有りますが、日本のB列は少し(6%ほど)広いです。(昔は、何故か官庁に提出する書類はB列の用紙が要求されました。図面はA列でも許容されましたが、A列とB列の紙を製本する事になりましたから苦労しました。)

【製紙設備の見学をお勧めします!】
 製紙会社も工場見学会を開催しています。一般に製紙工場は暑くて綺麗な環境で無いので少し覚悟して参加する必要があります。苫小牧に行かれたら王子製紙の新聞用紙の製造ラインを、是非とも見学して下さい。幅8メートルの紙が、一分間に1.7キロメートルの速さ(時速100キロメートル)で流れています。(四直三交代で24時間操業していますから、)一台の機械で、一日に8m×2,400kmの紙を製造している事になります。

 私が知っている超大型の製紙機械(抄紙機)は、日本製紙の石巻工場とレンゴーの八潮工場にも有ります。最新鋭の抄紙機はいわき大王製紙に有ります。残念ながら、3工場とも公開していません。子供達に工場見学をさせるのは、良い思い出作りになると思いますよ! 「全国社会科見学施設一覧」で検索すると、種々の分野の工場見学会が紹介されています。

【洋紙の原料】
 洋紙の(元の)原料は木の幹です。現在市販されている紙の多くには、古紙が使用されていますから、古紙も原料と言えます。古紙が100%の紙も有ります。

 日本は雨が多いいので木が良く育ちます。国土の大半は山林ですから、紙の原料は自給出来そうに思いますが、現在は大半を輸入しています。木材チップかバージンパルプとして輸入しているのです。詳しく知りたい方は、「日本製紙連合会」のホームページを開いて見て下さい。

 木材から得た”繊維”をパルプと呼びます。細かい話を省略すると、パルプには、機械パルプ、化学パルプと漂白パルプの3種類があります。これらのパルプを乾燥して、板状かロール状に成形したものが”バージンパルプ”です。

機械パルプ(MP) :①木を伐採→②木材を破砕→③木材チップ→④水中で砕いて繊維にする→⑤機械パルプ

化学パルプ(CP) : ③木材チップ→④釜にチップと薬品を入れ高温/高圧で煮る(蒸解工程)→⑤化学パルプ

漂白パルプ :⑤蒸解工程のあと→⑥薬品で漂白する→⑦漂白パルプ

 元の木材が100%だったとすると、機械パルプの歩留まりは80%、化学パルプは50%になります。化学パルプは蒸解工程で、繊維のリグニンを除去しています。機械パルプで作った紙よりも格段に強い紙(クラフト紙)が得られます。クラフト紙は薄い茶褐色で、セメントの袋や、(身近では、)クラフトテープに使用されています。

 機械パルプは最初は白色ですが、リグニンが残っていますから、時間が経つと色が付いてきます。機械パルプは新聞用紙が代表例ですが、現在の新聞用紙は古紙が混入されていますから、純粋な機械パルプ紙では有りません。

【繊維の構造】
 植物の繊維は三層になっています。真中の円を大きく、三重丸を書いて見て下さい。一番外の層がリグニン、真中がヘミセルロース、一番内側をセルロースと呼びます。綿の繊維は、ほぼセルロースです。セルロースは水には溶けません。人が食べても無害で、体内の菌が分解するので少し吸収してエネルギー原になる様です。

 私が見た工業用セルロースは、真っ白い、サラサラした紛体でした。セルロースは種々の分野で使用されています。セルロースは、ニトロセルロースにして樟脳を添加して、熱を加えるとプラスチックの様に成形出来ます。(これが、セルロイドです。)昔は、映画のフィルムや、キューピー人形等にも使用されていましたが、非常に燃えやすいので現在は、身近な製品には殆ど使用されていません。(セルロースは入手可能ですが、自然発火する恐れが有りますから、素人には危険物です!)

【繊維が絡まって紙になります】
 1993年頃、キーエンス社から顕微鏡を借りて、種々の紙の表面を観察した事が有ります。残念ながら映像の記録は残せませんでした。普通の光学顕微鏡では無理ですが、キーエンス製では繊維の太さ、長さ、絡まり状態がはっきりと確認出来ました。繊維の太さも種々で、長さもマチマチな事が分かりました。

 紙は、接着剤で繊維をくっ付けている分けではありません。無数の繊維が複雑に絡まり合っているだけです。

【着色した紙】
 2000年頃の話ですが、大手製紙会社の某工場で数人の女性達が、1メートル四方程に裁断され、着色された紙を、高さ1メートル程に積んで、一枚一枚目視検査していました。気の遠くなる様な作業です。

 着色した和紙が市販されていますが、完成した紙を染めている様です。洋紙は漉く前に繊維を染めていました。色ムラが出易いいので、検査が必要とのことでした。

【塗工紙】
 紙の表面がツルツルで光沢が有る紙を見掛けますが、炭酸カルシウムやカオリンの粉を糊(や接着剤)に混ぜた塗料を紙に塗布してたもので、塗工紙と呼ばれます。塗工紙に印刷すると綺麗に仕上がりますが、古紙の再利用と言う点では、好ましく無い紙です。

 某大企業では、事務所で出るゴミの回収箱が、塗工紙用と他の紙用が別になっていました。然し、一般家庭で塗工紙を分けるのは難しいですから、なるべく塗工紙を使用しない社会になる事を期待しています。

【カレンダー(calender)】
 二本のロールを強く押し付けて、その間に紙を通すと紙の表面は平坦になり、光沢が出てきます。より平坦に、より光沢を出したかったら、何組ものロールの間を通します。この装置をカレンダーと呼びます。

 専門用語では、1回圧力を加える事を『1ニップ』と呼びます。印刷用の紙は、8ニップ~12ニップです。塗工紙ほどの光沢は出ませんが、私にとっては十分過ぎる光沢のある紙の様に思います。

(余談) 製紙の分野の人でも、英文の資料を書く時、歴のカレンダー(calendar)のスペルを使用される方がいますが、製紙のカレンダーは”calender”です。

火薬と花火とエアバックの話し

2019-07-27 10:50:11 | 工業技術
 花火のシーズンが来ましたので、今回は火薬と花火とエアバックの話を書きます。少し専門用語が入っていますが、我慢して読んで下さい。

【子供の頃に発破(はっぱ)を見に行きました】
 私の育った山奥の村では、1950年代に県道の拡張工事をしていました。岩山にダイナマイトを仕掛けて、爆発させるのです。凄まじい音を発生させて、噴石の様に砕いた石が飛ぶのを見学しました。

 ダメもとで、私一人で工事現場に行って見たら、見学させてくれました。鉄鑿を重いハンマーで叩いて、ダイナマイトを挿入する穴を穿っていました。ダイナマイトの長さの何倍かの深さの穴が複数出来たら、それぞれの穴に導線を接続したダイナマイトを挿入して、安全な場所に置いた『ダイナマイト・プランジャー(一種の発電機)』に導線を接続しました。(自転車の空気入れの様に、)何回かT字型の棒を押した後、スイッチを入れるとダイナマイトが爆発しました。映画では、一回、T字型の棒を押すと爆発しますが、多分噓だと思います。

 父が、山の上で切った薪を下に降ろすために、鋼のワイヤロープを300m程張りました。雷が発生したら電気が流れるから、絶対にワイヤロープに触れてはいけないと言われていました。1990年頃に、火薬工場を見学した時にダイナマイトに接続する導線を製造していました。夏、雷の発生する時期でしたので、広場に製造ロット毎に切り出した導線を沢山張って、雷が発生した時の起電力を測定していました。基準に合格したロットだけを出荷していたのです。(世界には、普通の導線を使用したために雷で導線に電気が発生して、爆破スイッチを入れる前に爆発する事故が今でも発生している様です。)

(余談) 中学生の頃、菊池寛の『恩讐の彼方へ』を読みました。高校の修学旅行で耶馬渓に行った時、『青の洞窟』で、「鉄鑿とハンマーだけでは大変だっただろう」と感動しました。だいぶ後で、大半はフィクションだった事を知ってガッカリしました。

【田螺(タニシ)と花火】
 父の友人の一人(A氏)は田螺(タニシ)が大好物でした。田舎の田圃には田螺が”うようよ”いました。A氏は、特に大きな田螺を好まれたので、私は小学生になる前から、毎年田圃で大きな田螺を集めました。綺麗な水に数日間入れて、ドロを吐かせたあとに送りました。A氏は、お礼に高価な花火を多量に送ってくれました。(田舎の人達は、田螺を食べ無かったのですが、母に頼んで田螺を煮付けにしてもらったら、結構美味しかったのです。父母・姉達は食べませんでしたが。)

 8月のお盆の前後に、近所の子供達を集めて”花火大会”をしました。沢山有ったので、数日間楽しめたのです。落下傘花火も入っていたので、昼間も楽しめました。(姉に頼んで、絹の布で小さな落下傘を作ってもらった記憶が有ります。)

 当時は、源氏蛍も平家蛍も沢山飛んでいましたが、1965年頃に私の田舎でも強力な殺虫剤が使用される様になって、田螺は殆ど死んでしまい、蛍も激減してしまいました。小学3年生だったと思いますが、死んだ田螺の貝殻が田圃一面に累々と有るのを見て、父に「こんな強力な農薬はだめだ!」と言った記憶があります。それ以来、楽しい花火は終わってしまいました。

(余談) 当時、男達は出稼ぎに行くようになっていて、数軒分の農薬散布を請け負っていた、40歳程の男性が、3年程して亡くなりました。それまで村で自殺は有りませんでしたが、何人か自殺が続き、父が友人宅に行ったら納屋で首を吊っているのを見付けたそうです。私は、農薬のせいだと思いました。

【映画・恐怖の報酬とニトログリセリン】
 1953年製作のフランス映画『恐怖の報酬』を高校生の時に見ました。イヴ・モンタンと相棒が、トラックでニトログリセリンを運ぶ話です。その後、ニトログリセリンに関する本を読んで見ました。

 江戸時代の末期にヨーロッパで、化学合成の研究が進み、イタリアでニトログリセリンの合成に成功しました。衝撃を与えると爆発するので、火薬として使えると気付いたと思いますが、取り扱い方法が未確立でしたから、商品化は少し遅れた様です。

 ある医者が、狭心症の患者にニトログリセリンを与えたら効果が有ったと言う論文を発票しました。別の医者達が追試をしましたが、効果は確認出来ませんでした。効果が有る患者と、無い患者がいる事に気付いた医者がいました。その差はなにか?どうも気の小さい患者には効果が有る様だ!そこで、ニトログリセリンを呑む状況を観察すると、気の小さい患者は口に含んだあと、暫くしてから飲み込んでいたのです。口の中にも吸収器官が有る事を見付けたのです。(昔読んだ本の記憶で書きました。真偽の程は保証しません。)

 ニトログリセリンは今でも狭心症治療薬として使用されていますが、最近医者に聞いたところでは、薬価点数が低いので医者としては赤字だそうです。医療用ニトログリセリン薬を手掛けている日本化薬の社員から聞いたのですが、現在は舌下錠だけでなく、軟膏、テープ剤、注射剤が有るそうです。

【ノーベルとダイナマイト】
 ニトログリセリンの合成に成功して、約20年後の1866年に、スウェーデンのアルフレッド・ノーベルが珪藻土にニトログリセリンを含侵させたダイナマイトと雷管を発明しました。彼は巨万の富を得たのです。(1866年は薩長同盟が成立した年です。) なお、ノーベル賞は1901年から始まりました。

(余談) ノーベルは、皮肉にも狭心症になり、ニトログリセリンのお世話になったそうです。なお、ノーベル賞の授与式は彼の命日(12月10日)に行っていいます。

【火薬とは!】
 鎌倉時代の蒙古襲来の時に、元軍が火薬を用いたと教科書で勉強しなしたね!火薬は唐の時代に中国で発明されました。現在は、種々の火薬が製造されていますが、最初に発明されたのは、硝石、硫黄、炭紛(木炭の粉)を混合した黒色火薬でした。

(余談) 日本では硝石は採れませんので、江戸時代に鎖国するまでは中国から輸入していました。鎖国後は、魚の”はらわたを”を枯草で焼いて製造していました。(信じてもらえますか?)

 紙に火を付けると、紙の主成分の炭素(C)が空気中の酸素(O2)と結合して二酸化炭素(CO2)になります。火薬は、燃える物質と酸素で出来ていて、熱を加えると分解して含有されていた酸素と燃える物質が結合するのです。火薬が燃焼する(燃える)時、空気中の酸素は必要ないのです。その為、水中でも爆発させる事が出来ます。(ニトログリセリンは炭素、水素(H)、窒素(N)と酸素の化合物です。)

【火薬の燃焼速度】
 火薬の燃える速さ(燃焼速度)は、圧力が高くなると速くなります。逆に、大気圧の状態で、火薬に火を付けても、チョロチョロとしか燃えません。火薬の研究者に立ち会ってもらって、コンクリートの床に、床が見え無くなる程度に火薬の粉を蒔いて、火を付けてみました。ユックリ燃え広がっただけでした。(絶対に、真似しないで下さい。)

 私が中学生の頃、近所の年下の男の子が、マッチを多量に買って来て、先端の火薬を削って集め、何かの容器に入れて火を付けました。大爆発して、彼は全治数か月の大怪我をしてしまい、一年留年しました。マッチの火薬でも、侮ってはいけません!

【打ち上げ花火】
 打ち上げ花火の構造は、インターネット上に、絵入りの分かりやすい説明記事が沢山公表されています。丈夫な紙(クラフト紙)製の球形の容器(玉皮)の中に、”星”と粉末の”割薬”が整然と入れられています。割薬が燃焼(爆発)して、星を四方八方に飛ばします。

 ”玉皮”の役割は、打ち上げ時の衝撃に耐える事だと一般には説明されていますが、私は、”割薬”が燃え始めても直ぐには”玉皮”は破裂せずに耐えて、”星”を勢い良く飛ばせる圧力を得る事も、重要な役目だと考えています。

(余談) まだ子供が小さかった頃、防波堤から打ち上げる花火大会を見に行きました。迫力の有る所で見せたくて、早く行って砂浜に場所を確保しました。迫力満点でしたが、暫くすると海風が吹き始め、頭上で炸裂する様になりました。あっちこっちで、「キャー」とか「アッチチ」とか叫び始めました。熱い熱い火薬の燃えカス(火薬滓)が降って来たのです。

【エアバック】
 現在、市販されている車には、ほぼ全てエアバックが付いていますが、私は1990年頃にエアバックの開発に参加しました。当時はボンベに入れたガスでエアバックを膨らませるタイプも有りましたが、火薬を燃焼させてガスを発生させるタイプが主流になって来ていました。私は火薬を収納する容器(インフレーター)の開発を担当しました。

 貴方が車を運転されていて、何かに衝突したとします。衝突した瞬間から『0.3秒』後に貴方の身体は、ハンドルに激突します。従って、バックは、衝突から『0.3秒』後には全開になって貴方の身体を待ち受けなければならないのです。

 車が衝突すると、その車特有の衝撃波が発生し→センサーがキャッチ→予めインプットされていた波形と比較/照合→(雷管の様な)点火薬に電気を送る→点火薬が着火→メインの火薬が着火→ガスが発生→折り畳まれていたバックが開く。

 瞬間的に多量のガスを発生させるためには、メインの火薬を30MPa(300kg/cm2)もの高圧下で燃焼させる必要が有ります。火薬を収納する容器(インフレーター)には、バックにガスを噴き出す穴が設けられていますが、その穴の面積を適当な値にして、目標圧力(30MPa)を達成するのです。

 火薬が燃えて出来たガスは、非常に高温のため、バックに送る前に冷却する必要があります。また、火薬が燃焼すると高温の燃えカス(火薬滓)が発生します。インフレーターの中に、ガスを冷却し、火薬滓を除去する部品(クーラント)が入っています。

(余談 :1) 開発していた頃に、北欧で発行していた英文の車の安全に関する雑誌を読んでいました。気になった記事を2点書いて置きます。
① 窓を開けて運転していて、エアバックが開いたら鼓膜が破れたそうです。バックには、(風船とは違って)ガスの一部を逃がす穴が設けられています。エアバックが開くと、室内の圧力が急激に高くなり、窓が開いていると室内の空気は外部に放出されます。ガスの温度が急激に下がるために、室内が正圧→負圧になったためだと書いていました。
② 少し気の弱い高齢の女性ドライバーが、エアバックは正常に作動したのに、心臓麻痺で亡くなられた事例が報告されていました。

(余談 :2) 量産製造方法と体制を確立するのも私の仕事でした。エアバックは車の装備品ですから、製造予定数量が多く、部品加工を外部委託するとしても業者は新たな設備投資が必要でした。ある会社の社長さんが、「数日、考えさせて欲しい」と言われ、再度訪問すると、「あの後、衝突事故を起こし、エアバックのお蔭で助かった」と、積極的に相談に乗ってくれる様になりました。社長さんはベンツに乗っていたのですが、既にベンツにはエアバックが付いていました。

(余談 :3;歴史) エアバックに関する最初の特許は、1953年にアメリカで出願されました。現在のエアバックに関する特許は、1963年に日本人の堀保三郎氏が出願しましたが、余りにも画期的だったために日本では相手にして貰えませんでした。その後、彼の発想は欧米の企業で研究/開発されました。1970年頃から日本の火薬会社でも、エアバックの開発を始めましたが、成功しませんでした。私が開発に参加した、1990年には日本では製造しているメーカはまだ有りませんでした。